暁闇-after-
アイリーン神殿の一角
ジレル・バーグの居室は、そこにある。
アイリーンの神官戦士としての部屋だ。
その日の礼拝を終えて自室に戻ったジレルは、テーブルの上に何通かの手紙が置かれているのを見つけた。
下働きのものが置いていってくれたのだろう。
「今日は少し多いですね‥‥」
呟きながら選別してゆく。
彼女に届く書簡は、一日におよそ一〇通。
ほとんどがダイレクトメールだ。
「紙だって貴重な資源だというのに」
溜息が漏れる。
神官戦士というのは、販売業者が考えているほど富裕ではないのだ。
むしろ教会への寄進とバザーなどによる収益くらいしか収入がないのである。
寝床があるので住居費がかからないことくらいだろうか、利点は。
だいたい、清貧を旨とした教会に、たいした財産があるわけがないだろう。
業者というものは、その程度の理屈すらわからないのだろうか。
ぶつぶつと呟きながら、次々にダイレクトメールを箱に入れてゆく。
捨てるのではない。
暖炉の焚き付けなどに利用するのだ。
これからの季節は、紙類はいくらあっても良いのだから。
このあたりにアイリーン教会の清貧がしっかりと出ている。
貧乏くさい話ではあるが。
と、その手が止まる。
上等な便箋に印された文字。
「軍からの呼び出し‥‥?」
小首をかしげる。
金色の髪が、動きにあわせて踊った。
軍に関与した出来事といえば、
二年半ほど前のデスバレー要塞攻防戦が脳裏に浮かぶ。
良い記憶ではない。
死んでゆく兵士たち。
血に汚れた床。
そして、仲の良かった少年兵の死に顔。
夢に彼らの声を聞き、はね起きたことも一切ではない。
以来、軍とは積極的な関わりを持たないようにしてきた。
それが、急な呼び出しである。
彼女ならずとも不審に思うだろう。
「久しぶりだな。
ジレル」
目前に立った男が微笑みかける。
二〇歳ほど年長の士官だ。
「一別以来です。
中将閣下もご壮健そうで」
社交辞令の衣で表情を覆い、ジレルが応える。
短く苦笑した士官が、身振りで椅子をすすめた。
ルアフィル・デ・アイリン王国軍大本営にある赤の軍司令官執務室。
訪れたジレルは、ここに案内された。
すなわち、ガドミール・カイトス中将の部屋にである。
「どのようなご用件でしょう?」
やや性急に問う。
「デスバレー要塞を知っているな?」
「はい」
カイトスの言葉に、やはり、と、ジレルは思った。
手紙を受け取ったときから、予感はあったのだ。
「かの地に赴け、ということでしょうか?」
「いいや。
そうじゃない」
言いづらそうにしていた将軍だったが、やがてゆっくりと口を開く。
呼び出しておいて語らぬわけにもいかない、といったところだろうか。
「先日、デスバレーが失陥した」
「‥‥初耳です」
「だろうな。
報じられていないからな」
「‥‥重要情報ではないのですか?」
「陥ちただけなら重要情報だ。
だが、占領から半日で取り戻しているのでね」
「‥‥そうですか」
「もちろん、奪還したからといって損害が出なかったわけじゃない」
「‥‥‥‥」
ジレルの表情が沈む。
年長の友人の口調から、察してしまった。
「占領されたとき、基地司令オズワルド大佐以下、全員が玉砕したよ」
「‥‥そうですか‥‥」
呟き、短く祈りの言葉を捧げるジレル。
「再占領がはやくて良かった」
「‥‥良かったですか?」
押し殺した声。
端正な顔は、白蝋のように色を失っている。
良かった。
奪還できたから良かった。
命を何だと思っているのだ!?
何百という人命を犠牲にしてまで‥‥国境の要塞が大事か!!
神官戦士の握りしめた拳が震える。
ちらりと見遣ったカイトスが、
「怒るな。
俺の意見ではなく大臣どものタワゴトだ」
「‥‥はい」
「それに、本当に良かった点も、あるにはあるんだ」
懐から便箋を取り出す。
「それは‥‥?」
「遺書だ。
回収が間に合った」
「‥‥ 良かった、と、いえるのでしょうか‥‥」
「回収されないよりは、な」
「はい‥‥」
「リカース軍医大尉からジレルに充てたものだ。
受け取ってくれ」
「はい‥‥慎んでお預かりします‥‥」
『親愛なるジレル殿。
どうやら、デスバレーの失陥は時間の問題のようです。
貴女がこの手紙を読まれている頃、私はすでにこの世にはいないでしょう。
オズワルド大佐は、われわれ医療チームにデスバレーから退去するよう命じました。
ですが、私は最後まで足掻いてみるつもりです。
医療チームがいなくなれば、負傷者を手当てするものがいなくなります。
救える命を見捨てるなど、医学者に堪えられることではありませんから。
あのときの話、まだ憶えているでしょうか。
貴女は、滅びこそがアイリーンの意思かもしれないとおっしゃいました。
いまでも、そうお思いですか?
もうすぐこの地も、雪に覆われます。
皆で話していたのですよ。
今年のクリスマスには、ジレル殿も呼んでパーティーでも催そう、と。
しばらく国境も落ち着いておりましたから。
まったく、未来とはわからないものですね。
パーティーは無理そうですが、せめて、ジレル殿の上にアイリーンの恩寵があることを祈っております。
それでは、ご壮健で。』
エピローグ
長くもない文面を読み終え、ジレルは目頭を押さえた。
茶色い口髭の軍医の顔が思い出される。
立派な男だった。
立派に生き、立派に死んだ。
彼の生涯が無意味なものだとは、絶対に思いたくなかった。
だが‥‥。
デスバレー要塞が失陥したとき、誰も生き残れなかったという。
負傷者たちも殺されてしまったのだ。
「‥‥それが‥‥戦争‥‥」
しかも、そのことすら王都アイリーンの市民たちは知らない。
政治的配慮というものだろう。
遺族たち以外には、報されなかった。
「デスバレー要塞異常なし‥‥ですか」
呟き。
大きな音。
拳が、壁に打ち付けられたのだ。
ぽたりと、赤い滴がしたたり、私室の床を汚した。
「ぅ‥‥ぐ‥‥」
音に驚いて飛んできた下働きたちの耳に低い嗚咽が届く。
部屋から漏れた音。
ノックの形で伸ばされた手が、ゆっくりと降ろされた。
美貌の神官の慟哭が続く。
まるで鎮魂の鐘のように