やさしいうそ
ルアフィル・デ・アイリン王国に義務教育制度はない。
いくつか理由はあるが、その最大のものは子供も重要な労働力だということがあげられる。
たとえば貧しい農民など、子供を学校に行かせてはその時間帯の労働力の減少になるのだ。
加えて、学費という名の金銭も捻出しなくてはならない。
働き手が減る上に出費も強いられる。
これでは学校制度が定着しないのも無理はなかろう。
アイリン王国の識字率は四八パーセントでしかない。
全国民の半分しか字が読めないのである。
それでも、バール帝国やフレグ帝国に比べればまだしもであった。
フレグで三一パーセント。
バールにいたっては二七パーセントなのだ。
それが平民たちを政治にさせない理由にもされている。
このあたり、卵か先か鶏が先か微妙なところであろう。
とはいうものの、学問への欲望が存在しないわけではない。
貧しい平民であっても、勉強をしたいと願うものも多いのだ。
そのため、アイリン王国では私塾に援助をおこなったり、比較的学費の安い公設学校を作ったり、奨学金を出したりしている。
もちろん全体的な解決には遠く及ばないが。
「ミウくん。
ちょっといいかね」
先生が声をかける。
「あ、はい」
少年が応え、ひとりだけ教室に残った。
王都アイリーンの南ブロック。
さして大きくもない私塾である。
子供たちに、読み書きと簡単な算術を教えている。
ミウという少年も、この私塾の生徒だった。
「なんでしょうか?」
黒い大きな瞳を輝かせる少年。
言いづらそうに、教師が首を振る。
「先生?」
「その‥‥言いにくいのだが‥‥君の学費が先々月から滞っているのだ」
「え‥‥?」
「このままでは辞めてもらわなくてはならない」
「‥‥‥‥」
「ご両親とよく相談しなさい」
教師の顔にも苦渋がある。
ミウは熱心な生徒だったし、自分にも懐いてくれる。
だが、私塾はボランティアではないのだ。
他の学校と比較してここの学費は格安ではあるが、それでも無料にすることはできない。
もしもミウの月謝を免除すれば、他の生徒たちの学費ももらうわけにはいかなくなる。
そんなことになったら、今度は教師が飢えてしまうだろう。
「はい‥‥わかりました‥‥」
意気消沈して去ってゆく少年の後ろ姿を見て、教師は重い溜息を漏らした。
ミウの家は、けっして裕福ではない。
鉱山労働者の父、魚の加工場で働く母。
どこにでもありそうな、普通の家庭である。
しかし、その「普通の家庭」にとって、学費というのは非常に高額だった。
年間で金貨一二〇枚。
これは、母の年収を軽く越える。
それでも両親はミウを私塾にやってくれた。
「読み書きができれば、良い職にありつける」
父の言葉だ。
危険と隣り合わせの鉱山でなど、息子に働いて欲しくなかったのだ。
だが‥‥。
「ただいま‥‥」
沈んだ声でミウが帰宅を告げる。
返答はなかった。
共働きの家庭である。
一〇歳の少年にとって誰もいない家に帰ることなど珍しくもない。
ごく小さな家。
とぼとぼと居間に入った少年がテーブルに着き、教材を広げた。
宿題でもやろうと思ったのだ。
‥‥溜息。
筆が進まない。
考えてみれば、私塾を辞めてしまったらもう宿題に意味がなくなる。
ミウは知っていた。
両親が金銭的にかなりの無理をしていることを。
とてもではないが告げることなどできない。
学費が滞っていること。
おそらく、告げるまでもなく気づいているだろうし。
もういちど溜息をついた少年が、椅子を壁際に引っ張っていった。
棚の近くに置き、それにのって手を伸ばす。
この棚の上に、母は財布を置いているのだ。
あった。
紐を解いて覗きこむ。
「‥‥‥‥」
そして無言のまま、少年は財布を元の位置に戻した。
中には、数枚の銀貨と銅貨が入っているだけだったから。
「やっぱり‥‥やめるしかないのかな‥‥」
呟き。
先生や友達の顔が浮かぶ。
涙が零れそうになった。
ぐっと堪え、また椅子をテーブルのところまで引きずってゆく。
雑踏。
行き交う人々。
幸せそうに、忙しそうに。
夕暮れの街。
いつもの情景。
それが、つらかった。
勉強も手につかず家を出たミウが、ふらふらと大通りを歩く。
と、道行く人の会話が耳に飛び込む。
「良いのが手に入って良かったな」
「ええ。
でも本当に良かったんですか?
こんなに高価な剣」
「それが手に馴染んだんだろ。
だったら値段は関係ないさ」
男女二人組、恋人同士だろうか。
金色の髪の男と黒髪の女。
女が抱えている包みが、剣なのだろう。
ものはなんでもかまわない。
ミウが反応したのは、高価という一言だった。
売れば学費が作れる。
そう思った時、身体が勝手に動いてしまっていた。
倒れ込むように体当たりし、女が驚いた隙に荷物を奪い、逃げる。
走る。
走る。
走る。
後ろからなにか声が聞こえたが、ひたすらにに逃げた。
泥棒だ。
ついに他人様のものに手を出してしまった。
少年の目から溢れた涙が、夕暮れの風に千切れていった。
夜。
暁の女神亭に客があった。
衛兵と少年である。
店長のキースとウェイトレスのルシアに用があるという。
「というわけで、この子が剣を売ろうとした武器屋の店主から通報がありまして。
たしかにこんな子供が魔力剣を持っているのはおかしいですからな。
それで問いつめたところ、お二人から盗んだということを白状した次第です」
口髭を生やした中年の衛兵が事情を説明してくれる。
少年の境遇を含めて。
「それにしても、良くここがわかったな」
キースが言った。
「まあ、いろいろな意味で有名ですからな。
暁の女神亭は」
にやりと笑う衛兵と、苦虫を噛みつぶす店長。
「それで、ですな」
衛兵がやや表情を改めた。
「この通りこの子も反省しているようですし、ちゃんと剣も返すということで、
今回だけは大目に見るというのは?」
「ああ、俺はかまわな‥‥」
「いいえ」
キースの言葉を遮って、ルシアが前に出た。
「衛兵さん。
その剣は、わたしが落としたものです。
盗まれたなど、とんでもありません」
周囲が唖然とするのも気にかけず、
「ミウくんだったわね。
どうもありがとう。
なにかお礼をしないとね」
少年に笑いかける。
聖母の微笑で。
衛兵とキースも微笑した。
「謝礼は品物の一割だろ。
でも剣を分けることはできないから、
金銭で済ませても良いかな?
衛兵さん」
「ええ。
もちろん」
「そうか。
じゃあ金貨一二〇枚だな」
笑いながら店の金庫へと向かうキース。
いくらなんでも、この剣が金貨一二〇枚もするはずもない。
だが、衛兵は何も言わなかった。
それは、店長が提示した金額が、少年の一年分の学費と同額だったから。
多少押しつけがましくはあるが、これは厚意のあらわれなのだろう。
口髭を撫でる衛兵。
常勝将軍の秘蔵っ子は、やはり金銭の正しい使い方を知っている人物だ。
そう思ったのかもしれない。
「‥‥ありがとう‥‥ございます‥‥」
ぽろぽろと。
ミウの瞳から涙が溢れる。
繊手が、優しく少年の髪を撫でた。
「がんばってね。
必ず幸せはくるから。
ありふれた、誰でも言う言葉だけど。
でもきっとみんなそうだったから経験上いうのよ」
どこまでもやわらかな、ルシアの言葉。
「そうだな。
俺もそうだったから」
戻ってきたキースが、不器用にウインクした。
ホールの一角。
暖炉が暖かな空気を送っている。
少年の胸郭まであたためるように。
アイリーンの夜が、優しくふけてゆく。