おまけ どうでもいいはなし
「ふぅ……」
肩まで湯船につかり、ラヴィリオンは大きく息を吐き出した。
ごく小さな胸がゆらゆらと映る。
ひなびた旅館。
名物の温泉露天風呂。
風情といい湯質といい、客の九割九分は満足するだろう。
ただ、ラヴィリオンが吐きだしたのは、残念ながら感歎の吐息ではなかった。
ただの溜息である。
心の狭い彼女は温泉に感心などしない、というわけでは、もちろんない。
「……一緒にきたかったな……」
呟きながら沈んでゆく。
言葉の後半は音波にはならず、小さな泡を紡いだだけだった。
乳白色の湯が、優しく裸身を包み込む。
立ちのぼる湯気が夜の冷気を和らげ、穏やかな安息をもたらす。
満月期に入った月。
「……ファルさんのばか……ばか……」
せっかくの温泉も、ひとりぼっちでは哀しいだけだ。
浴槽の中から月を見上げた。
どこまでも優しく、クリーム色の光を地上に投げている。
「一緒にきたかったよぅ……」
瞳にたまる涙。
自分から飛び出したということをすっかりわすれているようだ。
いつの頃からだろう。
ファーランドの存在が心の中の大きな部分を占めるようになったのは。
もう離れられない。
まだ幼く、光といえば陽の光、風といえば草原をそよぐ風しか知らなかったあの頃には、もう戻れない。
それなのに喧嘩してしまった。
後悔は無限。
恋人は遊びで忙しかったわけではないのに。
我慢すべきだったのに。
「ばか……私のばか……」
呟き。
誰も聞くもののいない。
「いやぁ。
俺だってラヴィリオンが寂しがってることに気が付かなかったからね。
お互いさまじゃないかな」
それなのに、返答があった。
はっとして顔を上げるラヴィリオン。
ガラス戸に映る人影。
視界がにじむ。
たった半日あわなかっただけなのに、どうしてこんなにも懐かしく感じるのだろう。
からからと音を立てて戸が開けられる。
男の裸身がゆがんだのは、たぶんラヴィリオンの側に理由があった。
「ファルさん……」
「温泉街まではわかったんだけどな。
宿を特定するのに手間取ってしまった。
遅くなってごめん」
「バカ……」
「そればっかりだね。
ラヴィリオンは」
言いながら、少女の身体を抱きしめるファーランド。
湯船に浮かぶ、ふたりの身体。
「きれいだな」
「ほめても、何にもでないんですよ?」
頬が染まる。
空には、たおやかな夜の姫と付き従う無数の眷属たち。
穏やかな夜。
都会の喧噪を離れ、ゆったりとした時間が流れてゆく。
「……ねえ、ファルさん……」
無言の時間が過ぎ、ラヴィリオンがぽつりと言った。
「なんだい?」
ファルさんが恋人の瞳をのぞき込む。
互いの瞳に映る、自分の顔。
それは恋人同士にだけ許される会話。
ややためらった後、少女の唇が動く。
「おきざりに……しないでほしいの」
唐突な言葉。
もしいつか、いつの日か、ファーランドが夢を追ってアイリーンを飛び出すとき、自分もついていけるだろうか。
それだけが不安だった。
一緒なら、どんな困難も運命も乗り越えていける。
でも一人残されてしまったら。
きっと立っていられない。
「俺は」
「ん……」
「俺は、ラヴィリオンと一緒なら空だって飛べるような気がする。
だから、いつも一緒にいて欲しいんだ」
「……くさい台詞ですね」
でも。
さしのべられた手。
握ってしまったから。
この人と歩きたいと願ってしまったから。
「いやだった?」
「……ばか」
重なりあう影。
重なりあう唇。
重なりあう、運命。
ぱしゃん、と、水音が跳ねる。
月が、そっと雲間に隠れた。