09:辺境伯邸の番人
朝食の後にステファンの顔を見て、昼食と夕食は共に食事を摂った。
マリエラが彼を受け入れたことが嬉しかったのだろう、シエナは随分と喜んでおり、腕によりをかけて作ったという夕食の豪華さと言ったらない。食後には立派なケーキまで用意してくれた。
そうして翌日の昼、マリエラはステファンと共に屋敷の中を歩いていた。
彼が屋敷の案内と従業員を紹介してくれるというのだ。
今日のステファンは当然だが布を被っていないし、もちろん本で顔を隠すこともしていない。
「まずは使用人を……、といっても、シエナを含めて三人しか居ないんだが」
「本当に三人だけで回してるのね」
屋敷の規模に対して使用人が三人は少なすぎる。これだけを聞けば劣悪な労働環境を想像しかねない。
だがここ数日シエナを見ていたが無理をしている様子は無さそうだ。彼女曰く、ステファンは自分の事は自分でこなすので手伝いは不要、それに屋敷は広いが実際に使っている部屋は僅かで、無理なく仕事が出来ているらしい。実際に日に何度か彼女のお茶休憩に誘われているので、取り繕っている様子も無さそうだった。
「私も自分のことは自分で出来るようになるわ。それに掃除でも洗濯でも手伝うわ!」
「あまり無理をしないで、何かあれば僕に言ってくれ。人手を増やすとは言えないが……、何かあれば僕がやる。それにシエナの手伝いはティティもいるし」
「ティティ?」
ステファンが口にした名前をマリエラがオウム返しで尋ねたのは、ちょうど庭に出たタイミングだ。
ステファンからの返事はなく、代わりに彼は頭上を見上げた。
つられてマリエラも見上げれば、生い茂る木々とその隙間から晴れ渡った空が覗いている。それを背後に聳え立つ立派な屋敷……。
そして、屋敷の屋根に人の影。
あれは、とマリエラが呟くのとほぼ同時に、屋根を見上げていたステファンが片手を上げて「ティティ!」と声をあげた。
「ティティは屋敷の警備をしてくれているんだ。ティティ、降りてきてくれ。マリエラにきみを紹介したい!」
声をあげてステファンが呼べば、屋根の上の人物がこちらに歩いてきた。
傾斜の強い屋根をものともせず進み、そのうえひょいと飛びおりてしまうではないか。
「……きゃっ!!」
咄嗟にマリエラが小さく悲鳴をあげて目を瞑る。
耳に届いたトスンという音はティティが地面に落ちた音だ。……だがそれにしては軽く、そのうえ「紹介って?」と平然とした女性の声が聞こえてきた。
恐る恐るマリエラが目を開ければ、目の前には一人の女性……。
「……ティティ?」
「うん、私がティティ。ステファンの奥さんということは敬語を使った方が良いんだろうけど、申し訳ない、敬語はどうにも苦手なんだ」
屋敷の屋根から飛び降りた直後とは思えないほど淡々とティティが話す。痛がる様子は無く、まるで平地を歩いてきたかのような態度だ。
年齢はマリエラより幾分年下、十六か十七歳ぐらいだろうか。赤褐色の髪に同色の瞳、すらりとした四肢。その見た目と淡々とした口調や言葉遣いが合わさり、年下ながらに凛とした強さを感じさせる。
「『奥様』とでも呼べばいいのかな」
「いえ、その……、マリエラで大丈夫よ。それよりあんなに高いところから飛び降りて大丈夫だったの? 怪我は?」
「いつも降りてるから別に……。ステファンも屋根の修理をする時はよく飛び降りてるし」
「ステファンも!?」
驚いてマリエラが隣に立つステファンを見れば、彼は狼の顔ながらにばつの悪そうな表情をしている。
狼めいた耳も心なしか他所を向いており、「屋敷の中に戻って階段で降りるのが面倒で……」という声は悪戯が見つかった子供のようではないか。
「怪我が無いなら良かった。でもしばらくはビックリしちゃうだろうから、飛び降りる前に一言声を掛けてくれないかしら」
「分かった」
マリエラが頼めばティティが素直に頷いた。
……マリエラの隣でこっそりとステファンも頷いていたのだが、生憎とマリエラは気付かなかった。
そうしてティティと二、三言葉を交わし、地面に降りたついでに敷地内を見て回るという彼女と別れて再び屋敷に戻る。
屋敷で働いているのは計三人、シエナと先程会ったティティ。今から会いに行くのは残りの一人だ。
「彼には屋敷内の食事を任せてる」
「彼? 料理長は男なのね」
「料理長といっても、料理をしているのは彼と手伝いのシエナだけなんだけど」
屋敷で生活しているのはステファンと彼等三人の計四人。
そのうえ、ステファンは貴族とはいえ食事にはあまり拘らないらしく、豪華な食事を希望することもないという。極一般的な家庭料理で十分だと話すのだから、料理担当は一人でも事足りていたのだろう。
なるほど確かに、思い返してみれば今日まで出された料理はあまり貴族の食事らしい豪華さは無かった。だがどの料理も美味しかったし、不満なんて一つも無い。
そうマリエラが話せば、ステファンが目を細めて笑った。
「本人にもそう伝えてくれ。『貴族のお嬢さんってのは普段はどんなものを食べるんだ?』ってずっと悩んでいたから、きっと安心するよ」
穏やかな声色でステファンが話す。
マリエラの話を聞いた料理番のことを想像しているのか、瞳をゆっくりと細める表情は楽しそうにさえ見える。
見た目は人間とはまったく違う。だが不思議と彼の今の気持ちが伝わってくる気がして、マリエラもまた表情を和らげた。