06:扉越しの約束
聞こえてきた低い声はステファンのものだ。『怪物』とまで呼ばれる容貌の彼が扉一枚挟んだ先にいると分かり、マリエラの体が強張る。
この扉の向こう側に、人とも狼とも言えない、『怪物辺境伯』とまで呼ばれるステファンが居る……。
だが今この状態で返事をしないわけにはいかず、マリエラは声が震えそうになるのを堪えながらゆっくりと口を開いた。
「……わ、私の方こそ申し訳ありません。ステファン様に失礼な態度を」
「気にしないでくれ。怖がらせる見た目なのは自覚している。むしろ僕が気遣うべきだった。時を見て姿を現すつもりだったんだが、あの時はきみの姿が見えなくて、なにも考えずに窓辺に立ってしまった。すまない、怖かっただろう」
「そんな……」
「恐ろしいと感じているだろう。逃げ出したいとも……。だがシエナにも伝えた通り、僕は今から部屋に戻って今夜はもう外に出ない。だからきみも屋敷から逃げないでくれ」
「ステファン様……」
切望するように告げてくる低い声。
発しているのはステファンだと。あの人とも狼とも言えぬ姿をした彼だと分かっていても、マリエラの胸が締め付けられる。
「この森は深い。夜ともなれば道も分からなくなるし、下手に森の奥に進んでしまえば野生の獣に出くわす危険もある。きみが望むなら明日の朝いちに馬車を呼ぶから、それまでどうか待っていてくれ」
マリエラを怯えさせまいと、危険な目に遇わせるまいと考えているのだろう。……そして、マリエラが己を恐れて逃げ出しかねないとも考えているのだ。
彼の話から気遣いと切なげな色を感じ取り、マリエラはそっと扉に手を添えてみた。
屋敷の一室だけあり扉の造りはしっかりしている。だが、かといって強固な扉かと言われればそうでもない。そもそも鍵を掛けていないので入ろうと思えば今すぐにでも押し入る事が出来る。
だがステファンはそれをせず、扉の前に立つだけに止め、そしてマリエラがこれ以上怯えないようにと訴えているのだ。
「……私のことを考えてくれているのね」
マリエラの口から吐息交じりの小さな声が漏れた。
とうてい扉を超えた先には届かぬ囁き声。それでも恐怖の色が薄れているのが己の声ながらに分かる。
噂では怪物辺境伯ことステファン・ロンストーンは恐ろしい人物だと聞いていた。狂暴で、悍ましく、見た者が竦み上がるような人物……。
まさに『怪物』だ、と。
だが扉越しに話しかけてくる彼の口調は落ち着いており、それどころかマリエラの様子を窺う弱々しげな色さえある。
そんな彼の気遣いを感じ、マリエラは己を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「私……、逃げたりなんてしません。馬車の用意もして頂かなくて平気です」
「だが……」
「ステファン様、どうか三日待って頂けませんか? 三日経ったら、私、この部屋から出て貴方と向き合います」
だからどうか、そうマリエラが乞うように告げれば、扉越しに「三日……」と呟く声が聞こえてきた。
ステファンが考えているのだろう。少しして「分かった」と了承の声が返ってきた。それと無理をしないようにという気遣いの言葉も。
「ありがとうございます」
「いや、感謝されるような事じゃないから気にしないでくれ。それと……、出来れば、僕のことはステファンと呼び捨てにしてほしい。敬語もいらない」
「でも、そんな」
「シエナも敬語は使っていないし、僕もそうして貰えた方が助かる。もちろん、出来ればで良いんだが」
無理強いはしたくないのだろう、恐る恐るとさえ言えるステファンの話に、マリエラは扉をそっと扉を撫でるようにして「分かったわ」と返した。
「三日後に会いましょう、ステファン」
「あぁ、それじゃあ三日後に」
心なしか、彼の声に安堵の色が宿った気がする。
マリエラもまた胸中にあった緊張が和らぐのを感じながら、「おやすみなさい」と就寝の言葉を彼に告げた。
そうしてステファンとシエナが去っていくのを扉越しに感じ取り、マリエラはゆっくりと深く息を吐いた。
思い出されるのは日中に見たステファンの姿と、先程まで聞いていた彼の声。姿は恐ろしいものだったが、声は落ち着きがあり優しいものだった。
それになにより感じられたのが、ステファンからの気遣いだ。
彼はマリエラが怯えないよう、夜中に逃げ出さないよう、自分が無害でいることを訴えてくれた。簡単に開けられる扉の前に立ちながらも『どうか』と乞うように告げてきたのだ。
「見た目は怖いけど優しいひとなんだわ」
誰にというわけでもなく呟けば、言葉がストンと胸に落ちてくる。
「大丈夫。私きっと彼とうまくやれるわ。まずは三日で気持ちを落ち着かせて彼と向き合わないと!」
怯える必要はないと分かれば次第に気分は晴れ晴れとし、マリエラは己を鼓舞するように今後を宣言した。
それから二日後マリエラは屋敷の庭で晴れ渡る空を見上げていた。
「一日持てあましたわ」
次話は18:20更新予定です。