46:負け犬の遠吠え
ステファンの言葉により、ジェシカは決意を改めたようだった。
リベリオが縋るように話しかけてもビアンカの名前を出しても揺らぐことなく、ただ静かに返事をするだけだ。
そのしつこさを見兼ねてステファンがリベリオの名を呼んだ。リベリオが大きく肩を震わせて分かりやすいほどに狼狽え、もはや怯えとさえ言える表情でステファンを見る。
怪物辺境伯だから恐れているのではない。
己の悪行を暴く者としてステファンを恐れているのだ。
マリエラはそんなステファンの隣に立ち、冷ややかにリベリオを見据えた。
「あの時、もう二度と関わらないでって言ったでしょう? 私の忠告を聞いておけば良かったのよ。罪を重ねて、無様な姿を晒して、他者を陥れるどころか自分自身を貶めて馬鹿みたい」
「マリエラ……。それは……、ま、まさかこんな事になるとは思ってなかったんだ」
もはや縋る相手は誰でも良いのか、リベリオが情けない声と共に手を伸ばしてくる。まるで救いを求めるかのように。
だがその手はマリエラに触れることはなかった。それよりも先に、リベリオの手より大きな手がマリエラの腰を掴んで引き寄せたのだ。
大きく銀色の毛で覆われた手、言わずもがなステファンの手だ。指先にある紺青色の鉱石のような爪がマリエラの腰に添えられている。
マリエラはその手に促されるように彼に寄り添い、腰に添えられた手に己の手を重ねた。
「リベリオ、僕の妻に勝手に触れないでくれ」
「……妻だと」
「マリエラは僕の妻だ。あぁ、この点においてだけは貴殿に感謝しないとな」
『感謝』というわりには依然としてステファンの口調は冷ややかだ。リベリオを見据える金色の瞳も鋭く冷たい。
だがマリエラへと顔を向けると、途端の金色の瞳が穏やかなものに変わった。「愛しい」と、そんな彼の言葉が聞こえてきそうな柔らかさだ。言葉にせずとも愛が伝わってくる。
そうして再びステファンはリベリオへと向き直ると表情を厳しいものに変え、淡々と告げた。
「貴殿がマリエラとの婚約を破棄してくれたおかげで、僕は彼女と結婚することが出来た。これほど愛しい人と出会えたのだから、その切っ掛けには感謝をしないとな」
ステファンの言葉には感謝の気持ちは一切感じられないが、これは皮肉でしかないのだから当然と言えば当然。
それに当てられたのか、リベリオがはっきりと顔を歪ませた。もはや彼の顔に王子様然とした麗しさは無い。
挙げ句、
「い、いくらジェシカ様が話したところで、お前みたいな怪物の話を世間が信じると思ってるのか!? それに、そ、そうだ、俺にはその話を覆せる……! 怪物どころか、お前を悍ましく暴力的な化け物にだって仕立て上げられるんだからな!」
声高に告げ、リベリオは立ち上がるや取り巻き達に「行くぞ」と告げて広間の出口へと向かっていった。
その足取りは軽いとは言い難いものだが、随分と足早である。あっという間に広間を出て行き、すぐさま窓越しに屋敷の門へと向かう一行の後ろ姿が見えた。きっとどこかに馬車を停めているのだろう、彼等の姿が森の中に消えていく。
あっという間の撤退劇ではないか。
もちろん見送りなどする気もなかったのだが、こうもあっさりと去られてしまうとマリエラもどうして良いのか分からなくなってしまう。
そうして残されたのは、マリエラとステファンを始めとするこの敷地で暮らしていた者達。それとジェシカ王妃。
「なんだ、家に火をつけるなんて大それたことしておいて、去り際は随分と情けねぇな」
とは、去っていったリベリオ達を見届けるように窓の外を見るダヴィト。
肩透かしとでも言いたげな口調である。
「しかし見事な捨て台詞だったな。聞いたかちびっこども、あれが『負け犬の遠吠え』って言うんだぞ」
「やだ、ダヴィトってば変なことを子供達に教えないでよ。真似したらどうするの」
教育に悪い、とマリエラが咎める。
だが子供とは覚えてほしくない言葉ほど早く吸収してしまうものだ。現にレオとジャックが「負け犬の遠吠え!」と連呼しだしてしまった。苦笑交じりにシエナが宥めるが彼等の興奮が覚める様子はない。
そんなやりとりにマリエラは参ったと小さく息を吐き、次いで広間の一角に立つ女性に視線を留めた。
ジェシカ王妃。
決意をしたとはいえ思うところや不安はあるのだろう、彼女は広間の隅に立ち物思いに耽っている。
麗しい顔には影が掛かり儚げな印象さえ与える。罪を受け入れる王妃の正義感と、娘を苦難に晒す母の罪悪感が鬩ぎ合っているのだろう。
そんなジェシカに一人の子供が近付いていった。
ゆらりと揺れる薄水色の軟体。リンジーだ。
彼女はゆらゆらと体を揺らしながらジェシカへと近付いていき、「大丈夫?」と彼女に声をかけた。
「あ、貴女は……」
リンジーへと視線を落とし、ジェシカが震える声で問う。
「疲れちゃったの? お水飲む? 椅子に座る?」
「い、いえ、良いの……。大丈夫よ。それより、あ、あなたは……」
「わたしリンジーっていうの。王妃様、ごきげんよう」
リンジーがゆらりと頭部を垂らし、軟体の手でスカートの端を摘まんだ。拙いながらも優雅な挨拶だ。
そんなリンジーを見るジェシカの表情は妙に切なげで、返事をしようとし……、だが口を噤んだ。ゆっくりとしゃがみ込みリンジーの顔を覗き込む。薄水色の半透明な彼女の顔には目も口もないが。
そんなリンジーを見るジェシカには怪物返りを恐れる様子はない。……ないのだが、なぜだか眉尻を下げ、今にも泣きそうな顔をしている。
「ごきげんよう、リンジー。素敵な挨拶ね」
「ありがとう。ママ先生とマリエラといつも練習してるの」
「……ママ先生?」
疑問を抱いたジェシカが顔を上げた。
彼女の視線の先に居るのはシエナだ。子供達に囲まれ「ママ先生」と呼ばれており、一目で『ママ先生』が彼女の事だと分かる。
その光景にしばしジェシカは言葉を失い、次いで再びリンジーへと向き直った。
「リンジーはママ先生とずっと一緒に居たの?」
「うん、ずっと一緒。このお家に来たのもママ先生と一緒だし、その前からママ先生はずっとわたしのそばに居てくれたの」
「一緒だったのね……。ずっと、……そうだったのね」
はきはきと喋るリンジーの返事に対して、ジェシカの返答は弱々しく声も震えて詰まっている。
次いで彼女はゆっくりと立ち上がると、リンジーに手を伸ばした。
「ママ先生を紹介してくれる?」
「うん!」
リンジーが嬉しそうにジェシカの手を掴む。
リンジーは全身が軟体で当然だが手も同じように薄水色の軟体だ。ゆえに手を繋ぐというよりは相手の手を絡めるに近い。
初対面の、それも怪物返りに対して良い印象を抱いていなかった者にとっては奇妙とも言える感覚だろう。だがジェシカはリンジーの手を恐れることなく、むしろ目を細めて愛おしむような表情を彼女に向けている。




