04:怪物辺境伯
馬車が見えなくなった直後……、
「挨拶もせず、ごめんなさいね」
と、背後から声を掛けられ、マリエラは悲鳴を上げると共に体を跳ねさせた。
慌てて振り返れば一人の女性が立っている。年齢は四十代半ば程度、マリエラの母親よりも幾分年上か。落ち着いた雰囲気のある女性だ。
どうやら門の影に隠れていたようで、マリエラの驚きようを見て驚かせてしまったことを詫びてきた。
「この屋敷に仕えているシエナよ。貴女を迎えにきたの」
「シ、シエナ……。いつから、どうしてそこに?」
「馬車が来る少し前から貴女を待っていたの。でも、あまり人に見られたくないから」
だから馬車が去るのを待っていたのだという。
そんなシエナの話を、マリエラは胸元を押さえながら聞いた。驚きすぎてまだ心臓がドクドクと大きく跳ねている。
「そうだったのね……。ごめんなさい、私ってば悲鳴をあげちゃって」
「驚かせた私が悪いわ。まずは屋敷に入りましょう。荷物を部屋に運んで、少し休んだ方が良いかしら。その後は屋敷を案内するわ。必要なものがあるなら用意するから言ってちょうだい」
あれこれと話しつつシエナがマリエラの足元にあったトランクを持ち、「さぁ行きましょう」と屋敷へと歩き出す。
急いでいるというわけでもなく、そして強引というわけでもない。気風の良い性格なのだろう。接しているマリエラも次第に落ち着きを取り戻し、シエナの後を追った。
敷地は広く、正門から広大な庭が続き、その奥に屋敷を構えている。敷地は柵で囲われてはいるものの、周囲の木々はそれよりも優に高く、一部の柵はツルに絡めとられている。あれでは中に忍び込むのは容易だろう。あまり警備としては機能していなさそうだ。
森の中にある怪物辺境伯の屋敷……と聞くと廃屋敷のような恐ろしいものを想像しそうだが、建物自体は造りもしっかりとしており手入れがされているのが分かる。華美過ぎず厳かさを感じさせ、装飾が少ないからこそ景観を壊さず自然に溶け込んでいる。
「庭はいつでも出て良いんだけれど、敷地の奥には行かないで欲しいの」
「敷地の奥?」
屋敷は背が高く、その裏に何があるのか、敷地全体がどれほど広いのかは正面からでは分からない。
「奥に何かあるの?」
「建物がもう一棟あるのよ。屋敷からも繋がっているんだけど、古い建物だから寂れていて危ないの。この屋敷で働いているのは私とあと二人しかいないから手が回らなくて」
「こんなに大きい屋敷なのに、三人しか働いていないの?」
驚いてマリエラが建物を見上げた。
立派な建物だ。これを維持するには十人近くの手は必要となるだろう。それに主人の身の回りの世話や、仕事の補佐、と使用人は必要はなず。だというのにシエナを含めてたった三人しかいないという。
それで回るのかとマリエラが問えば、シエナが苦笑しながら「必要なところだけ手入れをして回してるのよ」と答えた。ついでに「意外となんとかなるものよ」という気風の良い一言付。
「だから奥の建物は中もだけど周りも手入れ出来てなくて、虫や動物が出るかもしれないわ」
「森の中にあってこれだけ広いんだもの、手入れしきれないのも仕方ないわね。分かった、奥には行かないわ」
マリエラが約束すれば、シエナが安堵するように微笑んだ。
そうして今度は屋敷についての話を……、とシエナが話し出そうとした瞬間、強い風が吹き抜けていった。
マリエラの濃紺色の髪が大きく揺らぎ、手にしていたスカーフが風に煽られて飛ばされていく。
「……あっ!」
咄嗟にマリエラが手を伸ばすも、指先はスカーフの端を掠めただけで掴むことはできなかった。
スカーフは大きく煽られてまるで風船のように舞い上がっていく。かと思えば大きく弧を描き、スイと波に乗るように庭の一角、窓辺に設けられた花壇の上へと落ちていった。
「私、取ってくるわ。シエナはそこで待っていて」
シエナに声を掛け、マリエラはスカーフを追うように小走り目に窓辺へと向かった。
スカーフは花壇の奥の方に落ちており、マリエラは縁石にしゃがむと花に触れないよう気を着けながら手を伸ばした。端を掴んで引き寄せ、汚れは無いかを確認する。
幸い花の上に落ちたので土は着いていないようだ。そう判断し、マリエラが立ち上がろうとした瞬間……。
「シエナ、一人でどうしたんだ。彼女はまだか?」
と、頭上から男性の声が聞こえてきた。
マリエラが立ち上がったのはその声の主が言い終えた直後だ。
「えっ……?」
立ち上ったマリエラがスカーフから顔を上げる。
その瞬間視界に飛び込んできたのは、一人の青年の姿……。
ではなく、銀色の毛で覆われた狼の顔だ。
だが完全に狼というわけではなく、その狼はまるで人のように質の良いローブを纏っている。それも、真っすぐに立っているのだ。四足歩行の動物が後ろ足で立ち上がるような姿勢とは違う。背筋を正した立ち姿。
だが顔はやはり銀色の毛の狼で、そのうえ狼の顔の頭部には紺青色の角が生えているではないか。これでは人でも狼でもない。
まるで……、
怪物のようだ。
そうマリエラが考えた瞬間、目の前に立つ狼の金色の瞳が見開かれた。
金色の瞳の中にある黒い瞳孔が真っすぐにマリエラを捉える。次の瞬間、マリエラの視界に大きな獣の手が映り込んだ。
銀色の毛で覆われた手、指先には紺青色の硬そうな爪が生えている。その手が隠すように狼の顔を覆うも異質さは隠しきれていない。
「……っ!」
目の前の異質な存在が動いたことにより、マリエラの体も硬直から解けた。もっとも硬直が解けた後に襲いくるのは恐怖心で、今度は恐怖により体が強張ってしまう。逃げなくてはと分かっているのに足が動いてくれない。心臓が凍てついてしまったかのようで、悲鳴をあげることすら出来ない。
それでも辛うじて足が動き、僅かに後退った。靴底がザリと土を掻く。
「すまない、驚かせた」
眼前の狼が人語を話し、すぐさま踵を返して屋敷の奥へと去って行ってしまった。
丈の長いローブの裾が軽く揺れる。去り際にローブのフードを被ったのだろうか、狼のような頭部が隠れてしまえば、立ち去る後ろ姿は体躯の良い男性のものだ。
だけどあの顔は、狼のような顔の作りと頭部のツノは、銀色の毛で覆われ紺青色の爪を持つ手は、けして人間のものではなかった。
「……い、今の、が、ステファン様?」
「マリエラ、大丈夫?」
「シエナ、いま、わたし……、そこに、あの……」
「混乱するのも分かるわ。でもどうか落ち着いて。部屋に案内するから少し休みましょう、温かい飲み物を用意するわね」
促してくるシエナの口調も声色も穏やかで優しい。まるで泣きじゃくる幼い子供を宥める母親のようではないか。
だがそれを受けてもマリエラの胸中は落ち着かず、シエナに腕を引かれてようやく歩き出した。
先程見た光景が、狼とも人とも言えぬ姿が忘れられない。目に焼き付くどころか脳にまで刻まれて、いまだ目の前に立たれているかのようだ。
理解が追い付かず、自分がどこを歩いているのかすら分からなくなりそうで、マリエラは夢の中に――それもあまりよくない夢の中に――いるかのような感覚のまま足を進めた。
明日も12:20/15:20/18:20/21:20更新予定です。