39:真夜中の異変
「見て、ステファン。鏡にシエナが映ってる」
マリエラが声を掛けたのは夜遅く、眠る前にドレッサーに座り髪を梳かしていた時だ。
つい先程まで鏡にはマリエラ自身が映っていたというのに、それがぼやけ、かと思えばシエナの顔を映し出した。これではまるで鏡ではなく単なる木枠で向こう側にシエナが居るかのようだ。
だがドレッサーが置いてあるのは寝室の壁際。たとえ木枠であっても向こう側に立つことは不可能だし、そもそもシエナは今は屋敷ではなく隣接する子供達の家に居るはずである。
ならばこれは手品か魔法か?
否、怪物返りの赤ん坊モニカの不思議な力だ。
だが鏡にはモニカの姿は映っていない。満天の星を全身に宿した彼女は、己が今見ている視界を鏡や水面を通じて他者に見せるのだ。
「今日はずっと寝ていたから起きてしまったのかもしれないな」
「寝起きはいつも力を使うものね。あ、シエナの顔が近付いた。きっと抱き上げたのね」
鏡に映るシエナは我が子を見るかのように愛おし気に目を細め、『目を瞑って、もう少し寝ましょうね』と囁きかけてくる。
シエナの周囲が暗く、尚且つ声が随分と小さいのはきっと家の二階にある寝室に居るからだろう。彼女の周囲には他の子供達が穏やかに眠っているはずだ。
そうしてシエナがモニカを揺すりだせば、それに合わせて鏡に映る光景が揺れる。シエナの顔、薄暗い部屋、それらが交互に移されて左右にゆらゆらと動く。
「……見ていると酔いそうだな」
とは、低い声で呟いたステファン。
見れば彼は金色の目を細めており、狼のような三角形の耳も伏せてしまっている。挙げ句に、しばらく鏡を見ていたがふいと顔を背けてしまった。ふるふると頭を振る仕草は人間臭くもあり、それでいて水に濡れた時の犬を彷彿とさせて少し面白い。
マリエラは小さく笑みを零し、彼の腕を撫でた。
「鏡が靄がかってるからモニカもきっとすぐに寝るわ。私達も寝ましょう」
「あぁ、そうしよう。おやすみモニカ」
声が届かないと分かっていてもステファンが就寝の言葉を告げる。穏やかな声色で、もしも目の前にモニカがいたら頬を優しく撫でてやっただろう。
マリエラも続くように鏡越しにモニカに就寝の言葉を贈った。「また明日ね」と最後に告げて、ドレッサーの鏡の戸を閉じる。
「明日は朝一にモニカに会いに行かなくちゃ。おやすみのキスをしてあげられなかったから、おはようのキスをしてあげるの」
「あぁ、そうだな。……ところで、マリエラ」
「なぁに?」
「その……、鏡に映る揺れる光景を見ていたら酔ってしまったみたいなんだ。少し気分が悪くて……」
「気分が悪いの!? 大変! 今お水を持ってくるわね! それとも薬が必要!?」
「ま、待ってくれ!」
慌ててマリエラが部屋を出て行こうとするも、ステファンが引き留めた。彼もまた随分と慌てている。
「違うんだ、そんなに酷いわけじゃない。……ただ、その、きみに抱きしめられながらだったらよく眠れそうだと思って」
それで、と説明するステファンは随分としどろもどろだ。
相変わらず銀色の毛で覆われた狼のような顔ではあるが、彼が羞恥心でいっぱいになっているのは分かる。もしもマリエラと同じような肌をしていたら真っ赤になっていたことだろう。
そんな分かりやすさも含めて愛しくて堪らない。マリエラは彼の腕を取り、それだけでは足りないと両腕を伸ばして彼の頭を抱え込むように抱きしめた。
「子守歌を歌ってあげる。それとも、よく眠れるように揺すった方が良い?」
「抱きしめるだけで十分だよ」
冗談めかして告げれば、マリエラの腕の中から小さな笑みと答えが返ってきた。
それもまた愛おしく、マリエラは「さぁ寝ましょう、愛しいステファン」とまるで母親のように囁くと、照れ臭そうに笑う彼の額にキスをした。
◆◆◆
夜、マリエラはふと目を覚ました。
ぐっすりと眠って起きた時とも違う、悪夢を見て飛び起きた時とも違う。まだ眠っていたかったのに偶然意識が夢から現に切り替わってしまったような感覚。もう一度眠ろうと睡魔がすぐさま戻ってくる。
その微睡みに促されるまま、再び夢の中に戻ろうとし……、
バチンッ!!
と部屋に響いた音にビクリと体を震わせた。
「な、なに、いまの……!? 窓?」
音がしたのは窓のある方からだった。
だが見たところ物が落ちた様子はない。何かが窓にぶつかったのだろうか。今夜は風が強いので木の枝や葉が飛んできたのかもしれない。あるいは風が強くて窓が軋んだのか……。
だがそうは考えつつも、心のどこかで『違う』と訴えがあがる。何かがおかしい、だが、その何かは分からない。
焦燥感と不安を胸に窓の方を凝視していると、バンッ! と再び異音があがった。やはり窓だ。
「おばけ……、じゃないわ。そうよ、この屋敷におばけなんて居ない」
大丈夫、とマリエラは己に言い聞かせ、ベッドか降りると窓へと近付いた。
恐る遅るカーテンへと手を伸ばす。出来るだけ距離を取り、顔を背けて横目で視線をやり、カーテンも布の端を指先で摘まみながら。
そうしてそっとカーテンを捲った瞬間、一羽の鳥が窓へとぶつかってきた。バンッ!! と再び音がして、マリエラがビクリと肩を震わせ……、
だが次の瞬間、窓が赤く染まっていることに気付いて悲鳴をあげた。
「ス、ステファン! ステファン、起きて!!」
眼前の真っ赤な窓は異様としか言いようがなく、マリエラは体を硬直させたままそれでもと悲鳴のような声でステファンを呼んだ。
その声でステファンが起きたようで、背後からマリエラを呼ぶ彼の声が聞こえ、次いでマリエラの体がぐいと引き寄せられた。ステファンが背後から庇うように抱きしめてくれたのだ。ようやくマリエラの体が硬直から解放される。
もっとも、恐怖心はいまだ体を支配しており、自分を抱きしめるステファンの体にしがみついてようやく立っていられる状態なのだが。
「ステファン、見て、窓が! 音がして、鳥がぶつかってて、それでこんな、どうして、これはなに!?」
「落ち着いてくれマリエラ。これは……」
「これは炎? でもどうして窓に」
「モニカだ!」
ステファンが声をあげるやすぐさま部屋を出ていき、マリエラもまた事態を察して彼の後を追いかけた。
この窓に映った光景、炎に覆われた景色はモニカが見せている。つまり今のモニカの視界なのだ。
それはどういうことか……。考えると身体が凍てつくような恐怖を覚えるが、かといって足を止めるわけにはいかない。
「ステファン! 私はティティとダヴィトを呼びに行くわ! 貴方は子供達の家に行って!」
元より走る速さには差があり、ステファンの背は次第に遠くなっていく。
マリエラは彼の背に声を掛け「分かった!」という返事の声を聞くと道を分かれて屋敷の通路を走った。




