32:元婚約者との逢瀬
ロンストーン家の屋敷は森の中にある。
生い茂る木々の隙間から微かに月の光が差し込みはするものの、ほぼ暗闇と言えるだろう。聞こえるのは葉擦れの音と、低く静かに響く梟の鳴き声だけ……。
それが妙な緊張感を抱かせ、柵を背に立っていても、まるで森の奥深くに迷い込んでしまったような不安感を抱かせる。
そして不安を抱くと同時に思い出されるのは、屋敷に来た最初の日の夜のこと。
ステファンの姿に驚き自室に籠るマリエラに対して、彼は怒るでもなく部屋に押し入るでもなく、扉越しに「僕は部屋から出ないから、どうか夜の内には逃げないでくれ」と伝えてきたのだ。
夜の森は危ない、奥深くに迷うかもしれない、明日の朝には馬車を用意する。だから夜の内には逃げないでくれ、と……。
なるほど確かに、こんな真っ暗闇の中を歩けるわけがない。
「あの時からステファンはずっと私に優しかったわ。そんな彼に、いえ、ステファンだけじゃない、ティティや子供達に何かしようとしてたら許さないんだから!」
闘志を胸に、マリエラは拳を強く握りしめた。
次いではたと他所へと顔を向けたのは、微かな異音を聞いたからだ。
ステファンに嫁いでからは滅多に聞いていない、だけどそれ以前の生活では毎日のように聞いていた音。
「馬車の音。……来たわね」
音のする方を睨みつける。
だがはたと気付いて軽く己の頬を叩いた。
リベリオの思惑を探り出すのだから最初から敵意を剥き出しにしてはいけない。彼に警戒されたら駄目だ。今の自分は『元婚約者からの秘密の逢瀬の誘いに応じた夫人』を演じなければならないのだから。……だいぶ嫌な役どころだが。
そう己を律していると、小型の馬車が森の闇からぬぅと溶けだすように現れた。
「マリエラ……」
馬車の客車から降りてきたのはリベリオ。
金色の髪に整った顔立ち、憂いを帯びた表情でマリエラを見つめてくるがその顔もまた麗しい。高い背とスラリのした四肢。幼いビアンカ王女は彼を『王子様』と呼んでいたらしいが、確かに見目は――見目だけは――物語に出てくる王子そのものだ。
「久しぶりだな、マリエラ……。元気にしていたか?」
「えぇ、おかげさまで元気にしているわ」
引っ叩きたい気持ちを押さえ、マリエラは落ち着いた声で返した。
……若干言葉に棘が出てしまったのは仕方あるまい。手が出なかっただけマシだ。
幸いリベリオも嫌味を言われる非はあると考えているようで、マリエラの返しに嫌悪している様子はない。困ったように眉尻を下げるだけだ。
その顔もまた麗しいのだが、今のマリエラには不服なだけである。
「あの件はすまなかった。父上に命じられて応じるしかなかったんだ」
「ふぅん、それで?」
「俺もきみのことを案じていたし、どうにかしなければと思っていたんだ。だけどまさか怪物辺境伯と結婚するなんて……。きっとそれしか縁談が無かったんだろう」
話すリベリオの口調には同情の色が強い。そのうえ伏し目がちに視線を逸らして謝罪の言葉を口にし、今度は悲壮感を漂わせてくる。
マリエラの現状を哀れみつつ、そうせざるを得なかった自分を憂いてもいるのだ。むしろマリエラを踏み台にして己の悲劇を演出しているようにさえ見える。
「別に気にしないで。というか本当に気にしないで。むしろ無関係だから私の事は今後一切考えないで。それで、いったいどうして手紙なんてよこしたの?」
このままでは話が進まないと考えて先を促せばーー我ながら言葉の棘が増している気がするがーー、リベリオも話を進める気になったのか伏し目がちに口を開いた。
「もしかしたらマリエラも知っているかもしれないが、結婚したんだ」
「知ってるわ。ビアンカ王女とでしょう?」
「彼女は俺のことを慕ってくれていて、光栄なことだよ。ただ、彼女はその……、まだ幼いだろう?」
話を進める気はありそうだが、リベリオの話はどうにもまどろっこしい。
あえて明確な言葉を避けているような、マリエラが察するのを誘導しているような喋り方だ。伏し目がちに話しつつもチラチラとマリエラに視線を向けており、その際の彼の瞳には期待の色が窺える。
その気持ち悪さを感じつつ、マリエラは促されるように考えを巡らせた。
「ビアンカ王女は今年七歳よね」
「あぁ、そうなんだ。幼くて可愛らしい方だ。ただ少し幼過ぎるところもあるけど。純粋無垢とでも言うのかな」
ビアンカについて語ってはいるものの、リベリオの口調には異性に対する愛は薄く感じられた。
妻についてではなく年の離れた妹を愛でるような口調だ。もっとも、彼等の年齢差を考えればそんな口調になるのも当然だろう。
「それで、いったい何が言いたいの?」
「……幼過ぎるんだ。なんというか、ほら……、まだ彼女は子供だろう? だから手を繋いで公園を散歩するだけで彼女は真っ赤になってしまう。結婚したとはいえおままごとのような生活なんだ」
次第に具体的になってきたとはいえ、それでもまだリベリオの口調は歯切れが悪い。
挙げ句には「きみも大人なら分かるだろう?」と結論をマリエラに投げてよこしてきた。
もっとも、ここまで言われればマリエラも彼が何を言いたいか察しはつく。……察しがつくと同時に腹立たしさが増していくのだが。
つまり、リベリオはビアンカ王女が幼過ぎて男としては手が出せず、それを不満に思っているのだ。
そんな彼が、わざわざ元婚約者であるマリエラに連絡を取った。
その理由は……。
「なぁマリエラ、確かにあんな事があったが、俺達元々は良い関係だったじゃないか。さすがに正式な第二夫人には出来ないが愛人ぐらいの生活なら保障する」
「信じられない、本気で言ってるの?」
「そんなに邪険にしなくても良いだろう。きみの両親に関しても王都に戻って来れるようにしてやるし、悪い話じゃない」
お互いの得になる。そう考えているのだろうリベリオの話に、マリエラはいよいよを持って嫌悪を隠し切れずに眉根を寄せた。
ビアンカ王女との結婚のために一方的に婚約を破棄し、マリエラとミゼラ家の名に泥を塗り王都から追い出した。そのくせビアンカ王女が幼く男として不満があるからとマリエラに擦り寄ってきたのだ。
そこまでの悪行をしておいてなお言葉の端々には己が優位だと誇示している色があり、なんて気持ち悪いのだろうか。
「たしかに貴方の言う通り、婚約者だった時はそれなりに良い関係だったわ」
「そうだろう? だからさ、昔の通りとは言わないがお互い得になる関係を」
「過去に戻れるのなら自分に教えてやりたいわ。『こんな腐った性根の男との婚約なんて、一刻も早く破談にした方が良いわよ』ってね。もちろん今更貴方とそれなりに良い関係になるなんてご免よ。もう二度と、私の前で馬鹿で軽薄な考えを口にしないで。貴方の戯言は聞いてるだけで耳が痛くなりそう」
ここまで溜めに溜めた嫌悪をこれでもかと込めて拒絶の言葉を口にする。
リベリオがぽかんと間の抜けた表情をしたのは、拒絶されることは想定外だったのか、あるいは言われた言葉が理解出来なかったのか。
だが次第にマリエラの言葉を理解したようで、彼の顔がゆっくりと歪んでいく。麗しく『王子様』とまで呼ばれた顔に怒りが宿り、眼光が鋭くマリエラを睨みつけてくる。「ひとが下手に出てやれば調子に乗りやがって」と唸るように告げてくるが、今の今までどこで下手に出ていたのだろうか。
「怪物辺境伯に嫁がされたのを哀れに思って手を差し伸べてやったのに……。俺に逆らったらもう二度と社交界に戻れなくなるぞ!」
「貴方がふんぞり返ってる社交界になんて頼まれたって戻りたくないわ。用件が済んだならさっさと帰って」
きっぱりとリベリオを拒絶し、最後に「さよなら」と告げて屋敷へと戻ろうとする。
だが彼のもとを去ろうとした瞬間、右腕を強く掴んで引き留められた。あまりの力の強さに痛みが走り小さく悲鳴をあげる。
「なによ……、離して!」
「お前だけは助けてやろうと思ってるんだ。あんな怪物と暮らすより、俺の愛人になった方が良い思いが出来るんだぞ」
「ふざけないで、怪物染みてるのはあんたのその思考よ!」
「このっ、俺が情けをかけてやったのに調子に乗りやがって!」
リベリオが怒声をあげ、腕を掴む手に更に力を入れてきた。
ギリギリと音がしそうな程の強さ。掴まれた箇所が痺れに似た痛みを覚え、そのまま無理に引き寄せられた。
哀れマリエラの体はバランスを崩し、リベリオの腕の中……、
にはいかず、不意に伸びてきた手に肩を掴まれて強引に逆の方へと引き寄せられた。
体が何かにぶつかる。
硬くて大きくて逞しい何かがマリエラの体を受け止める。……そして支えるように抱きしめてきた。




