22:星空と愛の言葉
日中は子供達と賑やかに過ごし、気付けばあっという間に夜。
子供達が寝てしまうと途端に屋敷内は静かになる。それまでは子供達の声に掻き消されていた風の音や木の葉が擦れる音、鳥の鳴き声、それらがまるで目覚めたかのように耳に届いてくるのだ。
だがその静けさは寂しいものではない。明日また賑やかになるための休息、大人達が各々の時間を過ごし、静かに語らう時間。そう思えば静けさもまた心地良い。
「マリエラ、ここに居たんだな」
そうステファンに声を掛けられ、庭を眺めていたマリエラはパッとそちらへと向いた。
夜の暗がりの中、こちらに歩いてくるのは銀色の毛をたなびかせた狼とも人ともいえぬ存在。紺青色のツノは月の光を反射させ、彼の歩みに合わせて輝いているように見える。
『怪物』、否、『怪物返り』。だがその姿を見ても勿論マリエラの胸には恐怖は湧かず、むしろ幻想的な光景に胸を高鳴らせた。
「何を見ていたんだ?」
「子供達が育てているトマトよ。明日みんなで収穫してお昼ご飯のサラダにするの」
「そうか、楽しみ。……もし良ければ、トマトを上から見てみないか?」
「上から?」
「屋根から。見えるかは分からないけど。……駄目だな、トマトじゃいま一つ誘い文句としては格好がつかない」
自分で言っておきながらステファンが「今のは無しにしてくれ」と返答も聞かずに撤回してしまう。
トマトを口実にしてみたがいま一つだと思ったのだろう。大きな手と紺青色の爪で頭を掻く様は豪快でいて、照れ隠しなのが丸わかりだ。
そんなステファンの不器用な誘い文句が愛おしく、マリエラはそっと彼に近付くと手を取った。
「トマトの誘い文句なんて素敵じゃない。きっとどの令嬢も夫人も言われたことが無いわ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。それじゃぁ、トマトを眺める最高の席に案内するから行こうか」
「えぇ、案内して!」
◆◆◆
屋敷の屋根に登るとサァと冷たい風が頬を撫でた。
今日は風はあまり無く、この程度ならばバランスを崩すことも無い。むしろ気持ち良いぐらいだ。
だがステファンはそんな微弱な風でも心配が募るようで、せいぜい髪の先を揺らす程度の風でも「大丈夫かい? 気を付けて」と声を掛けてくる。もちろん手はずっと繋いだままだ。痛めないように力は弱く、それでも放すまいとしっかりと、銀色の毛で覆われた大きな手がマリエラの手を包んでいる。
そんなステファンの隣で、マリエラは目の前に広がる景色の光景に感嘆の声を漏らした。
「素敵……」
頭上には遮るもの一つ無く星空が広がっている。
真夜中だというのに眩しいと感じるほどの無数の星。どれもがはっきりと輝いており、幾百幾千の宝石をちりばめてもこの美しさには適うまい。
木々も日中とは違う姿を見せており、あれほど色濃い緑だったものが今は一つの大きな影になっている。煌々とする星空と漆黒の木々のシルエットは双方の色味をより深く感じさせる。
「こんなに綺麗な景色、見た事ないわ……。吸い込まれそう」
「喜んでくれるのは嬉しいけど、吸い込まれるのは困るな。だから僕の隣に座っていてくれないか?」
ステファンが苦笑交じりに話し、屋根の一角に腰を下ろした。
彼の隣にスカーフが敷かれている。マリエラの服が汚れないようにと用意してくれたのだろう、その気遣いが嬉しく、マリエラは彼の隣に腰を下ろし、……そして寄りかかった。
ステファンの体が一瞬強張ったのが伝わってくる。だが拒否はせず、受け入れるように深く息を吐いたのが体の動きから分かった。
「星空ってこんなに綺麗だったのね」
ミゼラ家に居た頃も星空を見上げる事はあった。
眠る前に窓から外を眺めたり、夜会の最中に庭園に出て友人達と空を見たことも有った。……あまり思い出したくないが、夜会でリベリオと夜空を眺めたことも。――もっとも、派手なものや興行を好むリベリオは興味が無いとさっさと屋内に戻ってしまったが――
だがどれほど過去の記憶を引っ繰り返しても、今目の前にしている綺麗な星空に適うものはない。
「少し風があるが寒くないかい?」
「大丈夫よ。ステファンの隣、とっても暖かい」
「そうか……。でも屋根の上は風があって体が冷えるから、もしよければ使ってくれ」
話しつつ、ステファンが上着を脱いでそっとマリエラの肩に掛けてくれた。
紺色の質の良い上着。ステファンの衣類はどれも彼の体躯に合わせて大きく作られており、マリエラの上半身をすっぽりと覆ってしまう。
まるで抱きしめられているかのような感覚にマリエラは己の胸が高鳴るのを感じた。
「ありがとう。凄く暖かい」
「上着と言えば、マリエラが屋敷に来てすぐの時にも上着を貸したな。……きみが僕の匂いを確認したいって言ってきて驚いたよ」
あれは屋敷に来て間もなく、ステファンの姿に慣れた直後のことだ。
恐怖心は既に無く、それどころか優しさに触れて彼に惹かれかけていた。……だから匂いを確認せねばならないと考えたのだ。怪物返りであるステファンの姿を受け入れたからこその問題である。
もっとも、今となっては――否、今どころか問題解決した直ぐ後から――突拍子もない提案をしてしまったと自覚しているのだが。
「あれは……、私なりに色々と考えていたのよ。もう、せっかく綺麗な星空を眺めているのに変なこと思い出さないで。あれはもう忘れて」
「さすがにあれを忘れるのは難しいよ」
ステファンの笑みが強まる。
だがマリエラを馬鹿にしている笑い方ではない。かつてのやりとりを懐かしみ、そのやりとりが今に繋がっていることを嬉しく思っている笑みだ。
それを見ているとマリエラの胸にあった不満も薄れていく。ポスンとステファンの肩に頭を置けば、機嫌が直ったと察したのかステファンが笑ったのが微かな揺れで分かった。
しばらくは星空を見上げながら他愛もない会話を楽しむ。
ステファンは博識で、あちらの地方には何がある、こちらの地方には、あの星は、この星座は……、と景色を眺めながら教えてくれた。どれもマリエラにとっては初めて聞くことばかりだ。そのうえ教え方もうまく、マリエラは次から次へと話を強請ってしまった。
そうして話を続けて少し経った頃、二人の間に僅かな沈黙が流れた。
話が尽きたわけではない。ただなんとなく会話が減っていき、静かに星空を見上げる時間になったのだ。
沈黙に対しての気まずさは無い。むしろこの沈黙を共有していることが心地良い。
「……すまない」
沈黙を破ったのはステファン。
彼の言葉に、頭を預けて寄りかかっていたマリエラは僅かに身を離して「どうしたの?」と彼を見上げた。
満天の星空を背景に、ステファンはじっと正面を見つめている。彼の体を覆う銀色の毛は星の光を受けて輝き、彼もまた景色の美しさの一端を担っている。
だがその横顔はどこか切なげに見えて、マリエラは彼の名を呼ぶと共にそっと肩に触れた。
「どうして謝るの?」
「本当ならすべて話すべきなんだ。シエナとダヴィトがここに来た理由。ティティや、他の怪物返りの子供達についても……。それなのに、マリエラに話をせずきみに疑問ばかり抱かせてしまった」
日中、マリエラがダヴィトの正体について聞き、彼とシエナの今までを聞こうとしたことを言っているのだろう。
結局あのあとすぐに子供達が駆け付けてきて話は終いになってしまった。そうして今に至るのだ。
その事かと問えば、彼は静かに一度頷き、本来ならば全て自分が話すべきなのだと言ってきた。
だけど……。
「シエナもティティも、子供達も、それぞれ抱えているものがある。それを僕の一存で話してしまって良いのかどうかが分からないんだ」
「ステファン……」
「不誠実だと分かっている。でも僕は」
「貴方を不誠実だなんて思ってないわ」
己を否定しようとするステファンの話を遮り、マリエラは彼の手を両手で握った。
温かな手だ。その手をぎゅっと強く握り彼の金色の瞳を見つめれば、ステファンもまたマリエラを見つめ返してきた。
金色の瞳に躊躇いの色が見える。それを察し、マリエラは堪らず彼の頭を抱えるようにして抱きしめた。
「まだ知らないことが多いけど、でもはっきりと分かっていることもあるわ。シエナやティティ、ダヴィトが良い人ということ、子供達が良い子だということ。それと、ステファンが誠実で素敵な人だっていうこと」
「マリエラ、ありがとう……」
「それと……、私が、貴方のことが好きってことも、私は分かってるの」
自分の気持ちを「分かっている」と言うのはおかしな言い回しだ。
だが心からの言葉である。それが伝わったのだろう、マリエラの腕の中から彼の声が聞こえてきた。優しく穏やかで少し上擦った声が、マリエラの名前を呼ぶ……。
そっと両腕を離せば彼が改めるように見つめてくる。先程の迷いを宿した金色の瞳が、今は星空よりも輝いて見えた。
「マリエラ、僕もきみのことが好きだ。愛してる」
はっきりとしたステファンの言葉。
シエナ達のことについては一存で話すことを躊躇い、それを打ち明けることすらも弱々しげに話していたというのに、マリエラへと告げる言葉には力強さがある。
力強くまっすぐに……、マリエラの胸に突き刺さる。
「嬉しい……。私もステファンを愛してる」
愛の言葉を返せば、ステファンの手がそっとマリエラの肩を掴んできた。大きな手が優しく包むように肩を覆う。
彼が顔を寄せてきていることに気付き、マリエラはそれに応じて目を瞑った。真暗になった視界の中、ステファンの顔が眼前に迫るのが分かる。
そうして次の瞬間……、
ムニと不思議な感触が唇に触れた。
柔らかい。だが唇と比べると少し硬い気もする。といっても、マリエラは婚約者こそいたものの実はキスもまだで、比較しようにも経験が無いのだが。
そんな不思議な感触が離れていく。
マリエラがゆっくりと目を開ければ、間近にステファンの顔があった。
黄金のような金色の瞳。その中央にある黒い瞳孔は真っすぐにマリエラへと向けられている。マリエラを、否、マリエラだけを見つめているのだ。
これほど美しい景色が広がっていても、見上げれば星々が輝いていても、ステファンはマリエラの事だけを見つめてくれている。
そしてマリエラも同様に、あれほど見惚れていた景色も今は視界に映らず、ただステファンだけを見つめていた。
「私、キスしたの初めて……」
余韻を胸にうっとりとした声色でマリエラが告げれば、ステファンが金色の瞳を細めて嬉しそうに「僕もだよ」と返してくれた。




