13:パンケーキ公爵令嬢の詫びパンケーキ
改めて考えると、とんでもないどころではない頼み事ではないか。そうマリエラ自室で自己嫌悪に陥っていた。
あの後、シエナに呼ばれて行ったステファンを見届け、上着を預かったまま自室に戻り……、そして嗅いでみた。
といっても、ほんの少し、僅かに顔に近付けて、スンと一度嗅いだだけなのだが。
「……お日様みたいな香りだった」
小さく呟き、壁に掛けた上着にちらりと視線をやる。
心が落ち着くような、優しさすら感じられる温かな匂い。……そして優しさを感じると同時に、いずれステファンに抱きしめられてこの香りに包まれる自分を想像してしまい、途端に恥ずかしくなって上着から顔から離したのだ。
それ以降は触れている事すらも恥ずかしくて慌てて壁に掛け、今となってはまともに直視も出来なくなってしまった。
そうして羞恥心が頂点に達した後に申し訳なさが募り、自己嫌悪に陥って今に至る。
正確に言えば、申し訳なさから自己嫌悪に陥り、上着に視線をやって思い出し、恥ずかしくなり、再び申し訳なさと自己嫌悪……の繰り返しの最中である。
負の堂々巡りだ。だがこのまま堂々巡りをしていては駄目だと己を律し、マリエラは決意を宿して立ち上がった。
「それで、僕にパンケーキを?」
不思議そうに尋ねてくるステファンに、マリエラは頷いて返した。
屋敷の庭。テーブルセットには紅茶とパンケーキが用意されている。パンケーキは形が些か歪で、乗っているクリームも泡立てが足りなかったのかドロリと垂れてしまっている。見目はあまりよろしくなく、貴族のティータイムに出せる品物ではない。
だが不格好なのも仕方あるまい。これはマリエラがステファンへのお詫びとして焼いたのだ。今まで貴族の令嬢として生きてきたため料理はもちろんパンケーキを焼いたことも無く、ダヴィトに教えてもらい、シエナに応援されながらようやく焼いたのだ。
「何がお詫びになるか分からないから、せめて美味しい物をと思ったの。でもいざ焼いてみたら凄く難しくて、美味しく焼けたかは分からないわ……」
「そんな、落ち込まないでくれ。僕には美味しそうに見えるよ」
「本当? でも私、焦がさないことばっかり考えちゃって……。そんな私の隣ではダヴィトが綺麗なパンケーキを次から次へと焼いていったのよ」
粗暴な見た目からは想像出来ない、まさに料理人と言える手際の良さ。一枚一枚しっかりと焼かれており、そのうえ僅かな時間を利用してクリームを泡立てる効率の良さ。それもパンケーキを何枚も、マリエラが一枚焼くのに悪戦苦闘している横で焼いていったのだ。
さながら格の違いを見せつけられているかのような感覚だった。思い返せば、ダヴィトとシエナとティティの分だけだというのに、彼はその倍以上の枚数を焼いていたではないか。もしかしたら『見せつけられているかのよう』ではなく、実際に見せつけられていたのかもしれない……。
そうマリエラが話せばステファンが楽しそうに笑った。
パンケーキに苦戦し、そしてうまく焼けるダヴィトを妬むマリエラが面白かったのだろう。
「僕にはじゅうぶんに美味しそうに見えるよ」
微笑みながら告げ、ステファンがナイフとフォークを器用に操ってパンケーキを口に運ぶ。
狼のような顔立ちゆえ、彼の口は人間と違い大きい。だが大口を開けて食べることはせず、一口のサイズは人並み。銀食器を操る所作にも優雅さが感じられる。
そうして彼はマリエラが焼いた些か歪なパンケーキを食べ「うん、美味しいよ」と穏やかに告げてきた。
「本当?」
「あぁ、本当だ。しっかりと焼かれているし、クリームも程よい硬さでよく合ってる。これほど美味しいパンケーキは初めて食べた」
「そんなに? もしかして私、パンケーキを焼く才能があるのかしら!?」
自分には『歪なパンケーキ』にしか思えなかったが、ステファンに褒められると途端に自信がついてくる。
そのうえ彼はあっという間に二枚重ねのパンケーキを食べ終えてしまったのだ。更には「また作ってくれるかな」と頼んでくるのだ。
すっかりとマリエラは気分を良くし、まさかこんなところで才能が開花するなんて……、とパンケーキを焼いた己の手をじっと見つめた。
「そんなに美味しかったなんて、私、世が世ならパンケーキで社交界を上り詰めていたのかもしれないわ」
「パンケーキで?」
「そう。パンケーキで公爵家まで成り上がるのよ。ミゼラ子爵家改めパンケーキ公爵家ね。パンケーキ公爵令嬢のパンケーキに誰もがひれ伏すの。私のパンケーキを食べるために近隣諸国からひとが殺到するわ」
マリエラの得意げな話に、ステファンは理解出来ていないのか目を丸くさせている。
だが冗談だと分かったのだろう、次第に黄金色の目を細めて微笑み、穏やかな声色で「そうだな」と続いた。
「怪物辺境伯とパンケーキ公爵令嬢か。僕の恐ろしさが半減しそうだな」
「素敵な響きじゃない」
ねぇ、とマリエラが同意を求めればステファンもまた楽し気に笑って頷いた。
パンケーキとお茶を楽しみ、そのあとは屋敷の周辺を二人で歩いた。
森の奥に進むと獣がいるものの、屋敷の敷地周りにはそういった危険な動物達は立ち寄らないという。だがリスや兎といった小動物は生息しており、二人で歩いてしばらくすると木の枝を伝うリスを見つけられた。
「見て! また一匹通っていったわ!」
「今の時期のリスは活発だから、時々屋敷の窓辺にも来るよ。去年はティティがよくリスの親子が屋根を伝っていくって話していたから、マリエラの部屋の窓からも見えるかもしれない」
「窓辺に餌を置いたら通ってくれるかしら。でも綺麗な鳥にも来てほしいし……、あ、見て、兎! 野生の兎なんて初めて見たわ!」
「何も無い森だと思っていたけど、まさかこんなに喜んで貰えるなんて思わなかったよ」
興奮しながら話すマリエラに、ステファンが苦笑を浮かべて隣を歩く。
子爵家令嬢として王都で生きてきたマリエラにとって、草木は屋敷の庭に植わっている庭師が手入れをしたものでしかなく、自然の景色もせいぜい王都にある広い公園の一角。よくて避暑地の草原だが、それだって貴族の令嬢が立ち寄る場所なので整備されている。
もちろん獣も居なければリスや兎も居ない。せいぜい野良猫が住み着いている程度である。
そんなマリエラからしたら、見渡す限り草木で覆われたこの森は何もかもが新鮮なのだ。
自然と興奮してしまう。……そして、太い幹や足場の悪い場所を通る時に手を差し伸べてくれるステファンの真摯さに、都度こっそりと胸を高鳴らせていた。
そうして散歩を終えて屋敷に戻る。
その間も他愛もない話で盛り上がり、このままもう一度お茶をしようかというステファンの誘いにマリエラも喜んで応じようとし……。
ズル、と足を滑らせて体勢を大きく崩した。
「きゃっ!!」
「マリエラ!」
まるで振り回されたかのように視界が一気に揺らぎ、耐えようと片足に力を入れるも咄嗟のことにカクンと膝が曲がってしまった。
転ぶ……! と頭の中で分かれども体は着いてきてくれず、マリエラの体が重力に抗えず地面に引っ張られる。
だが次の瞬間、あてもなく伸ばした腕が掴まれ、力強く引き寄せられた。地面に吸い込まれるように倒れかけていた体が今度は反対側に引き寄せられ、妙な浮遊感が体を包む。
次いでマリエラの体が何かに締め付けられた。地面に衝突する衝撃や痛みは無い。
「マリエラ、大丈夫か!?」
ステファンの声が頭上から耳に飛び込んできた。今まで聞いた事の無い鬼気迫る声だ。
彼に抱きしめられたまま、マリエラは数度ぱちぱちと瞬きをし、辛うじて絞り出した声で「だいじょうぶ……」とだけ返した。我ながら間の抜けた声なのだが、転びかけたばかりなのだから仕方あるまい。
だが転ばずに済んだ。ステファンが助けてくれた。
良かった……、とマリエラの胸に安堵が湧く。もっとも、その安堵もすぐさま羞恥心に変わってしまうのだが。
「ス、ステファン、もう大丈夫よ……」
押し付けられるように触れている彼の胸元に手を添えてそっと押せば、一寸遅れて事態を察したのか、ステファンの体がビクリと跳ね上がった。
次の瞬間にはマリエラの体を抱きしめていたステファンの腕が離れ、そのうえ彼がズザと音がしそうなほどに後退った。動揺の表れか、彼の狼めいた耳が後方を向いている。
「す、すまない! 咄嗟にきみを助けようと思って……。痛くなかったか? 爪が引っ掛かったり、強く掴み過ぎたりは……!」
「大丈夫よステファン、落ち着いて。どこも痛めていないわ。むしろ私のことを助けてくれたのよね、ありがとう」
「そうか……、きみが無事なら良かった」
マリエラに怪我が無いと分かり、ステファンが安堵の息を吐いた。
そんな彼を宥めつつ助けてくれた事に感謝を示し、次いでマリエラはふと足元に視線をやった。
あの瞬間、何かを踏んで足を滑らせてしまった。いったい何を……、と見れば足元に一枚の紙が落ちている。土汚れと足跡らしきものもついているあたり、これを踏んで足を滑らせて転びかけてしまったのだろう。
「どこかの部屋から飛んできちゃったのかしら。……あら?」
拾い上げた紙を見て、マリエラは小さく疑問の声をあげた。
紙の裏面には絵が、それも子どもがクレヨンで描いたであろう絵が描かれている。ひとが四人と周囲に花や蝶々が飛び、空には虹が掛かる、つたなくも愛らしい絵だ。
本来であれば微笑ましく感じるものだが、絵を手にしたマリエラは眉根を寄せて周囲を見回した。
この屋敷は深い森の中にある。
そのうえここいら一帯は『怪物辺境伯』の敷地なのだから、子供はもちろんだが大人でも滅多なことでは立ち寄らないはずだ。それこそ、マリエラのような嫁入りというよっぽどの理由でもない限り。
そんな場所にどうして子どもの絵が落ちているのか。それも……、
「ねぇ、ここに描かれてるのってステファンよね?」
描かれている四人のうち、一人は頭部や四肢を灰色のクレヨンで描かれている。それに頭部には他の人間の絵と違う動物のような耳と、青のクレヨンで描かれたツノまであるではないか。
子どもの絵ながらに特徴をしっかりと捉えた絵だ。
「そ、そうかもしれないな……」
「これがステファンだとしたら、こっちの女性はシエナかしら。あとはティティとダヴィト?」
よく見れば他にも思い当たる人物の特徴が描かれている。
つまりこれはこの屋敷にいる者達を描いた絵だ。
だがそれが分かっても疑問は増すばかりだ。この屋敷に子どもがいるのなんて見たことがないし、尋ねてくるとも思えない。そもそもこの絵はどこから飛んできたのか……。
だがマリエラが疑問を口にするより前に、手からすっと絵が引き抜かれた。
ステファンだ。彼は絵をしばらく見つめた後、泥を軽く落とすと綺麗に折り畳んで上着の胸ポケットにしまってしまった。
「どこかの子どもが描いた絵が飛んできたんだろう」
「飛んできたって、こんなところに? それにその絵、貴方のことをよく見て描いてるように見えるけど……」
「それは……、きっと、『怪物辺境伯』の噂を聞いて描いたんじゃないか? これは僕が持ち主を調べて返しておくよ。それより、風が出てきたからそろそろ屋敷に戻ろうか。中でお茶にしよう」
ステファンが誘導するように歩き出す。
そんな彼をじっと見つめ、マリエラはポツリと小さく呟いた。
「嘘が下手なのね」