11:怪物辺境伯のおそろしくておぞましい噂
マリエラがステファンのもとに嫁いで、半月が過ぎようとしていた。
『怪物』と呼ばれるステファンの姿にはもうすっかりと慣れ、時折彼が低く唸っていても恐怖心を抱くことはない。
先日など、本を読んでいたステファンが小さく唸っていることに気付いて、「難しい本なの?」と彼に近付いて一緒に本を覗き込もうとしたぐらいだ。もっとも、急にマリエラが近付いたことに驚いたステファンが本を落としてしまい、どんな本だったかは分からず終いだが。
そんな平穏な生活。マリエラは時にステファンと共に森を散歩し、時にシエナを手伝い屋敷の掃除をし、時には庭の手入れをするダヴィトやティティを眺めながら過ごしていた。
ステファンが外部との交流を一切断って森に籠っているため、自然とマリエラもパーティーや茶会に呼ばれることはない。領地経営に関してもステファン曰く「知人に丸投げしている」とのことらしい。
「一応、辺境伯の仕事として国境の森を護っている事になっているが、そもそもこの森を抜けて入国するようなひとは今まで一人として居ないから、護るといっても何をやるというわけでもないんだ」
とはステファンの話。己の仕事について話しているもののどこか他人事のような口調と声色である。
いま一つピンときていないのだろう。事実、『辺境伯』として国境の森に住んではいるものの、そもそもこの国境を護る必要があるかも微妙なところなのだ。
元より国家間の関係は良好で、よっぽどの問題が無ければ正規ルートで国を行き来できる。対して非正規ルートであるこの森は深く抜けるのが難しく、下手をすれば遭難や負傷をしかねない。時期が悪ければ狂暴な獣に遭遇してしまう恐れもある。
どう考えても森を通るのは愚策だ。
更にステファン自ら「そのうえこの森には恐ろしい怪物辺境伯がいる」とまで言ってのけた。
「そういうわけで辺境伯とは名ばかり。というよりも、僕がこの屋敷に住み始めたら周囲が勝手に『怪物辺境伯』なんて呼び始めただけだ。そもそもロンストーン家はただの伯爵家だし」
「そうだったのね……」
『強く狂暴ゆえに辺境の地に追いやられた』だの『森の中に根城を構えて獣たちを従わせている』だのと聞いていたが、あれらはステファンのことを全く知らない者達が面白半分に流したデマだったのだ。
何も知らないのに過剰に恐れ、想像を膨らませ、その結果更に恐れる。……なんて馬鹿々々しいのだろうか。
「私、ステファンの噂を興味本位で聞いていたわ。……ごめんなさい」
当人を前に、そして当人を知ってみれば、好奇心で噂話をしていた自分のなんと浅慮なことか。自分も馬鹿々々しい話に乗った一人だ。
そう謝罪の言葉を口にすれば、ステファンが「気にする事は無い」と宥めてくれた。
「知らないものに興味を抱くのは当然だ。それが外ではあまり口に出し難いものや恐ろしいものならなおさら、ひとの好奇心は押さえられなくなる」
「でも……」
「こんななりだし、貴族としては有り得ない行動をしているのも理解している。何も言わず噂にもせず放っておいてくれるなんて思ってないさ」
噂されることには慣れてしまったのか、ステファンが肩を竦める。見た目こそ人間らしいところの無い彼だが、その仕草は人間臭い。
それを含めて、噂されることを諦めてしまう彼が切なく、マリエラはそっとステファンへと手を伸ばした。
銀色の毛で覆われた、大きな手と節の太い指。作りこそ人間の手ではあるものの動物のようでもあり、指先には硬く大きな紺青色の爪。この爪もまた人間の爪とは言い難い。
だけど彼の爪は宝石のように綺麗だ。
そして手は触れると温かい。
「私、ステファンの噂を聞いて、貴方に対して失礼な想像をしていたわ。でも今はそんなのただの噂だって分かってるし、貴方の姿を見ても怖くなんかない」
「……マリエラ」
「ステファンの事を知れて良かった」
真っすぐに彼を見つめて告げれば、ステファンの瞳もまた真っすぐにマリエラを見つめ返してきた。
黄金色の瞳の中央には縦長の瞳孔。狼のような外観だが瞳は猫科の動物に似ている。
ステファンはその瞳でじっとマリエラを見つめた後、ゆっくりと目を細めた。愛おしむような表情、彼の纏う空気が一層穏やかさを増していく。
瞬間、彼の姿が、マリエラの視界の中で瞬いた。……気がした。
「嬉しいな……」
呟くような声量の言葉。
マリエラに告げたというよりは、ステファンの胸の内から感情が溢れ出して言葉になったかのようだ。小さな声だが彼の感情がこもっているのが分かる。
本人もそれを察したのか、自分の発言にはっと息を呑み、慌てて口を押えた。
「あ、す、すまない。変な事を言ってしまった。その……、ありがとう」
「いえ、いいの……。大丈夫よ、私も、喜んでもらえて嬉しい」
たどたどしく話すステファンに、どういうわけかマリエラもつられてたどたどしくなってしまう。
触れていた彼の手からそっと己の手を離し、それだけでは落ち着かないと勢いよく立ち上がった。
「わ、私、そろそろシエナがお茶の準備をする頃だから、手伝ってくるわ!」
我ながら上擦っていると分かる声で告げて、マリエラはそそくさと部屋から出て行った。
ステファンを残して部屋を出て、マリエラは厨房へと……、向かわなかった。
ひとまず部屋から少し離れて、通路の壁にトンと背を預けた。自分の胸の内を落ち着かせるように手を添えて深く息を吐く。
だが鼓動は落ち着かず、添えた手にさえも鼓動が伝わってきた。普段よりも大きく、荒く、心臓が跳ねている。
ステファンが微笑んだ瞬間、彼が輝いて見えた。
温かく、柔らかく、眩しく、誰より魅力的に思え、そして心臓が高鳴ったのだ。
自分の頬が熱くなっているのが分かる。
この気持ちの正体を自覚すると同時に、マリエラは胸元を押さえていた手に力を入れた。
「確かめないといけないことがあるわ……!」