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東京シャム猫物語Ⅲ

*12*


 オーディションから、契約までトントン拍子に進んだ。健康状態、適性診断ともに問題はなく、ルイはペットタレント専門の事務所に所属することになった。2週間程度の訓練も無事に終えた。社長と事業本部長に気に入られ、キャットフードのテレビCMや雑誌のモデルなど、すでにいくつかの仕事が決まっていた。


 みるみるうちにルイはお茶の間の人気者になった。人間の求めていることをすぐに理解し、それに答える賢さは類い稀なるものだった。出演料も跳ね上がっていった。事務所の価格設定は、業界では異常なほど高額だったが、依頼は減らなかった。


 ルイのマネージメントや、スケジュール管理は茂口が担当していた。事務所との契約時には、社員の担当マネージャーがついていたのだが、ルイの人気が出てきたのを見て茂口は自らルイの管理をすると言い出した。事務所は反対し、引き続き社員マネージャーに託すよう説得したが、茂口は聞く耳を持たなかった。茂口が仕事の調整をしないので、ルイはハードなスケジュールを強いられた。


 カオリからの電話に茂口が出ることはなかった。ルイを連れ去ったのは茂口以外に考えられない。しかし茂口とルイがどこにいるかはわからなかった。ルイがいなくなってから数ヶ月が経ったある日、テレビに映るルイの姿を見て、安心したと同時に不安も覚えた。次から次へと様々なメディアに出ているルイのことが心配でならなかった。きっと茂口が働かせているのだろう。所属していると思われる事務所を訪ねたが、ルイの居場所については、はぐらかされ知ることはできなかった。



*13*


 『血液検査の結果、腎機能の低下とかなりの疲労が見られます』

獣医師の言葉を聞いた茂口は頭を抱えた。明日も仕事が控えている。今朝の収録中、ルイは2回嘔吐し、粗相をした。また、普段からは考えられないほど攻撃的な態度を取った。その後も状態は良くならないので、収録は中止となった。事務所の社員に動物病院で診察してもらうよう勧められた。獣医師の言うとおり入院してしまえば、決まっているスケジュールはキャンセルしなければならない。あと2、3日乗り切ってくれれば休ませよう。茂口はそう決めると、ルイを抱きかかえ獣医師の説明も聞かずに診察室を出て行った。待合室で会計を待っていると獣医師が追いかけてきた。茂口は受付に1万円札2枚を置いて逃げるように病院を出た。

 マンションに戻ると奈津美が出迎えた。ルイは帰りの車内から、ずっとケージの中で眠ったままだった。奈津美にコーヒーを飲むかと聞かれたが、茂口は疲れていたのでそのままソファで眠ってしまった。



*14*


 気がつくと茂口は畦道に立っていた。雄大な立山連峰をバックに、蛙の鳴き声が響き渡っている。自分の身体が小さくなっていた。目の前には父の姿があった。

 『博明、お前は何もわかっていない。無念だ』

 父はそれだけ言うと、背を向けて歩き出し消えていった。


 茂口博明の父、元光は生源寺の住職であった。曹洞宗の教えを厳格に守り、禅や修行に励んでいた。自分を律し、煩悩や雑念と常に闘っていた。茂口は、そんな父が嫌いだった。どうして自分に素直に生きないのだろうか。不思議でならなかった。ひたすら坐禅に明け暮れ、NHKのニュースで中東の国々の衝突が報道されるたびに、争ってはいけない、暴力はいけないというのが口癖だった。その通りだと思う。正しい戦争など、ない。そうわかっていながら、人類は争いの歴史を繰り返している。なぜだろうか?感情がそうさせるのだ。目の前で自分の家族や大切な人が傷つけられ、殺されたとしたら同じようなことが言えるだろうか。殺した相手に言葉だけで『やめてください。話して解決しましょう。暴力はいけません』などと優々閑々と言っていられるだろうか。自分には、そう振る舞える自信がない。きっと報復するだろうと思う。身内がどれだけ怖い思いをし、痛みを感じながら死んでいったか、同じようにしてやろうと思うかもしれない。それが人間の感情であり、人間本来の姿ではないだろうか。茂口は、父の戦争の話を聞かされるたびに、そう思っていた。その考えは今でも変わらない。

 父の言うとおり、人間は愚かだ。それならば、愚かな生き方を謳歌するべきではないか、極端な生き方をする父を見てそう思うようになった。結局のところ、人間は自分のことしか考えていない。自分(あるいは、自分と自分のまわりの人間)さえ良ければ他人のことなどどうでもいいのだ。嫌われたって金を稼げばいいし、好きなだけ女と遊べばいい。我慢なんかしなくていいし、嫌なことは他人に押しつければ楽だ。いつしか茂口はそのような生き方になっていた。離れていく人たちもたくさんいたが、自分と似たような人たちが寄ってくるようになった。



*15*


目を覚ますと汗で全身がぐっしょり濡れていた。茂口はシャワーを浴び冷蔵庫からビールを取り出した。夢にうなされたようだった。久しぶりに父に電話をかけようと、携帯電話を探していると、奈津美の声が聞こえてきた。

『ひろちゃん、猫が・・・・・・』

茂口が駆けつけると、食器棚と壁の隙間にうずくまるルイの姿があった。抱き上げると、本来、液体のような猫の身体が硬く固まっていた。

『大丈夫か、ルイ』

そう声をかけると、ルイは目に涙を浮かべた。

慌てて、ルイを毛布で包み、車の助手席に乗せて動物病院に向かった。ケージに入れる余裕はなかった。隣に横たわるルイは、みるみるうちに冷たくなっていった。普段なら何でもないような車内の揺れが、ルイの体力を奪い取っていくように思えた。動物病院までは車で20分ほどの距離だったが、一時停止や信号を無視し、10分ほどで到着した。途中、交差点でラングラーとぶつかりそうになった。他に7台の車に急ブレーキを踏ませ、クラクションは4回鳴らされた。しかしその無茶な運転もむなしく、ルイの身体は完全に硬直し呼吸は止まっていた。手遅れだった。目は開いたまま、涙のようなものが光っていた。


 急性腎不全。それが獣医師の診断だった。茂口は心の底から後悔した。獣医師のすすめたように入院し療養していれば、こんなことにはならなかったのだろうか。カオリに電話をしようと思ったが、気が動転していたのだろう、携帯電話を家に忘れてきたようだった。胃のあたりがキリキリ疼いた。その痛みがあまりにも続くので、茂口はその場にうずくまった。次第に痛みは腰を伝い背中の方まで移っていき、脂汗が出てきた。視界がだんだん狭くなって、やがてホワイトアウトした。



*16*


『もう会えなくなるわ』

ルイはそう言った。理由を訊いても答えてくれなかった。その夜を最後にルイは姿を消した。ビルの事務所から什器が撤去され、内装工事の業者の電動工具や脚立や資材が乱雑に散らばっていた。ルイがベランダに出入りできるように設けられた扉にはガムテープが貼られていた。

 美しい雌猫に会えなくなったからか、ゴンは小汚くなってしまった。野良猫ではあるが、もう少し身なりを綺麗にしようと思う。が、腰が重い。

 白銀公園には小綺麗な女の人と、犬を連れた老人と、親子がいた。

娘であろう女の子は、だんだんと口が達者になってくる年頃だろうか、しゃべり続けている。『犬好きの人に悪い人はいないね』

そんなことを言っていた。父親はその意見を肯定しながら、老人と話していた。

それは嘘だろうとゴンは思う。

犬好きに悪い人がいないとすれば、何故、道路に犬の糞が始末されずに放置されているのだろう。何故、他人の家の塀に小便をさせて、500mlほどの少量の水で、犬の小便を薄めながら、わざわざその範囲を広げるようなことをするのだろう。本当に掃除をする気があるのならば、近所の家々に挨拶をした上で、犬が用を足したところを封鎖し、高圧洗浄機を持参し、最寄りの排水溝まで徹底的に洗い流し、消毒もしなければならない。場合によっては警備員を雇い配置したり、道路使用許可を取らなければならないだろう。

猫好きに悪い人はいないというのも嘘だ。それが本当ならば捨て猫などいないはずである。 二週間ほど前から、その小綺麗な女の人は白銀公園にやってくるようになった。はじめはこちらを見ているだけだったが、徐々に距離を詰めてきて、今はエサを貰うような間柄になっている。ルイが飯田橋のビルからいなくなってしばらく経った。今頃、どこでどうしているのだろう。いつの間にか”帰宅”したホームレスがエチョーを吸いながら横目でこちらを見ていた。



*17*


目を覚ますと、天井の不規則な模様が虫のように見えて飛び起きた。動物病院で倒れた茂口は、そのまま救急で搬送され、緊急入院した。日頃の不摂生が祟り、茂口の身体は悲鳴を上げていた。検査の結果、慢性腎臓病であることが判明した。状態はかなり悪く、回復する見込みはほぼないと医者に告げられた。この先、一生、人工透析が必要になる。

命は取り留めたものの、皮肉にもルイと同じ臓器を患うことになった。

ルイの遺体は、連絡を受けたカオリが引き取り、ペットの葬儀専門業者に火葬してもらった。遺骨は瓶でできた筒に納められ、名前と写真が添えられていた。

ルイは、幸せだっただろうか。カオリは思った。賢く、大人しい、言ってしまえば猫らしくない一面もあった。もう一度、やり直せるなら、と思った。どこからやり直せばいいだろう。どこまでが取り返しのつくことで、どこからが取り返しのつかないことだっただろうか。

病に倒れた夫が横たわる病室の窓から、桜の花びらが散りゆく光景を眺めながら、カオリはそんなことを考えていた。



*18*


 遺骨を抱いて、カオリは神楽坂の街を歩いていた。白銀公園は、神楽坂から住宅街に入った場所に佇んでいる。そこに縄張りを持つ小汚い雄の三毛猫に会いに来るようになって、数週間が経った。飯田橋でルイと密会していた、あの三毛猫だ。公園に住み着いているホームレスに目配せをしながら、三毛猫に近づき、餌付けをし、ルイの匂いが染みついたねずみのおもちゃを与えた。三毛猫は丹念に匂いを嗅いだあと、カオリの足元に身体を擦り付けた。ルイを思い出したのだろう。カオリが抱き上げると、三毛猫は嫌な素振りも見せず、カオリの目を見つめた。

『ルイは死んでしまったの。あなたはルイの分まで生きるのよ』

そう言って、三毛猫を優しく地面に下ろした。ルイに代わって三毛猫に別れを告げると、車に向かって歩き出した。後ろを振り返ると、三毛猫はついてきていた。

『ルイに会いに行くかい?』

運転席のドアを開けると、三毛猫は丁寧に匂いを嗅ぎ、車内に入った。続いてカオリが運転席に座ろうとすると、三毛猫は助手席に移動した。相変わらず匂いを嗅ぎ回っている。

三毛猫は降りようともしないので、カオリは車を走らせた。

ホンダのN360は、祖師谷に到着するまで、信号待ちをしているタイミングで、2回エンストした。

『また修理しないといけないわね』

そう呟きながら、甲州街道を左折して環八に入った。



*19*


 ゴンは、ルイを思い出していた。知らない女の人がルイの匂いを持っている。ついて行けばルイに会えるかもしれない。知らない人間について行くというのはリスクもある。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。このまま死んでしまうことになってもいいような気がした。乗り心地の悪い、古い車に乗って、どこかに向かっていた。

 1時間ほど走ると車は止まった。再び抱き上げられ、家の中に入った。


 部屋には、やはりルイの匂いがほのかに残っていた。しかしルイの姿はなかった。鳴き声を2回上げてみたが期待した返事はなかった。女の人にさらに奥の部屋へと招かれた。女の人は鞄を下ろし、その中から瓶の筒を取り出した。写真が添えられたルイの遺骨だった。

 ゴンは、ルイが死んでしまったことを悟った。この女の人が飼い主で、ルイと一緒に暮らしていたのだろう。何か説明しているようだが、何を言っているのか、ゴンにはわからなかった。ただ、頬に涙が伝うのを見て、胸が苦しくなった。

 ルイは死んでしまったのだ。もう彼女の姿を見ることはできない。幸せだっただろうか。人間界に住む猫は、嫌でも人間社会に溶け込むことになる。人間の愛に触れ、ときには翻弄されながら生きていく宿命なのだ。それは、飼い猫も野良猫も同じである。

 

 さようなら。ルイ。天国というところがあるならば、そこでまた会いたいと思う。数少ない仲間たちが皆そうであったように、野良猫の寿命は短い。事故や病気のリスクが極めて高いからだ。僕もきっと、長生きはできないと思う。君と出会えて良かった。死んでしまった君の心の中に、新しいことが入り込むことも過去のことを忘れてしまうこともない君の心の中に、僕が、少しでも存在できたらうれしいと思う。



*20*


 謙一郎は、公園のベンチに座り、スーツについた埃を払った。缶コーヒーを飲みながら、公園の隅にいる野良猫を眺めていた。40代ぐらいの女性が野良猫に話しかけている。


 緑に振られて1ヶ月が経った。別れ際、彼女はあまり喋らなかったが、振られた原因はなんとなくわかっていた。仕事を失ったからではない。彼女からの借金でもない。いつまでも前を向かないからだ。心が広く、聡明な女性だった。こんな自分によくここまで付き合ってくれたなと思う。会社が倒産してからもうすぐ半年になる。次の仕事を見つけるため、ようやく動き出した。今日の面接も手応えはあった。倒産した茂口食品の隣町、東西線の神楽坂駅に本社を構える出版系の中小企業だ。その他にもすでに2社から内定をもらっているが、もう会社選びで失敗はできないので慎重になっている。


 野良猫は心を許したのか、女性に近づいて行った。女性が鞄からネズミのおもちゃを取り出し一緒に遊んでいた。


 携帯電話が鳴った。緑からだった。

 『ちゃんと反省した?まさか新しい彼女とか作ってないでしょうね?』

電話から聞こえてくる彼女の声に胸が締めつけられた。もう見限られたと思っていた。涙があふれて言葉が出てこなかった。今すぐ彼女に会って約束しよう。何があっても前を向いて生きていくことを。


 『もしもし?聞いてるの?』

緑の少し怒った声が聞こえる。


 『ごめんね、緑。これからは、ちゃんとするから』

謙一郎は涙声を押し殺しながら言った。


五月の青々と茂った葉桜が、音を立てて揺れていた。




Fin.

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