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東京シャム猫物語Ⅱ

*7*


 ゴンの左耳は半分が欠けていていびつな台形の様な形をしている。発情期に、ルイを襲ったことがあった。ルイは激しく抵抗し、ゴンの左耳を噛みちぎったのだ。もうずいぶん前の話になる。


『ねぇ、ゴン。私たち猫はどちらが幸せなのかしら。飼い猫と野良猫』

ルイは訊ねた。

『幸せの定義がまず曖昧だから、それぞれだと思うよ』

ゴンは答えた。

『例えば、ルイは飼い猫として"生きていくこと"に関しては、今のところ何の不安もないだろう。安全な場所にいるし、食事もきちんと用意される。でも、僕みたいに自由に外をうろうろできないように制限されている。少なくとも僕の知るところでは。

逆に、僕は自由だ。行こうと思えば、どこにでも行けるし、縛りはない。ただ、毎日の"きちんとした食事"はないよ。ホームレスがたまに贅沢なキャットフードを用意してくれるけれど、それだけじゃ生きていけない。虫や草で空腹を満たすことが多い。汚い水を飲んでしまってお腹を壊すこともある。運良く、小鳥を捕まえられることもある。魚屋で盗みをしたこともあるよ』

ルイは表情ひとつ変えず、ゴンの意見を聴いている。ルイはクールだ。

『ずっと外で過ごさなければならない。夏は暑いし、冬は寒い。雨が降れば退屈だし、食べる物を探しに行く気もなくなる。カラスに集られたり、犬に襲われそうになったりもする。意地悪な飼い主もいて、わざと自分の大型犬を僕に近づけてくるんだ。喧嘩をけしかけるように』

『野良猫も大変なのね』

 しばらく沈黙が続いた。その静まった空白を埋めるように、少し感情的な風が吹く。冷たい風が冬毛になった猫の身体をかすめていく。ここは4階だ。

 ルイが沈黙を破った。

『じゃあ、視点を変えてみましょうよ』

ゴンは黙ったままルイを見た。

『もし、生き物の存在する意義が子孫を残すことだとしたら、また結論も変わってくるのじゃないかしら?』

ゴンは黙って聴いている。

『あなたは、去勢手術をしていてもう遺伝子を残すことは出来ない。私は避妊手術をしていないから、身籠ることはできる。その気になれば、子孫を残すことが出来るということよ。だけど今のところ、外に出ることはまずないし、子どもが出来ることもないわ』

 料亭の看板猫ということもあり、ゴンは去勢手術をされている。仮に、もし、仮にだが、ルイと"そういうこと"になったとしても、二匹の間に新たな生命が生まれることはないのだ、とゴンは思った。



*8*


『もうすぐこの場所ともお別れね』

カオリは、昼寝をしているルイの狭い額を撫でながら、呟くように言った。

ルイは黙っている。

 会社が倒産してからも、雑務に追われっぱなしだったが、ようやく一段落ついた。もう飯田橋の4階のこの事務所も引き払う準備をした。これで飯田橋に来ることはなくなるだろう

『ねぇ、ルイ。あの三毛猫のボーイフレンドとはどうするつもりなの』

ルイは虚を突かれたように目を開けた。どうしてゴンのことを知っているのだろう。どうして密会のことをを知っているのだろう。毎週火曜日の夜の私たちの密会を。

カオリは続けた。

『この事務所に来ることはなくなるのよ。きっと、もう会えなくなるわ』

カオリは、ルイの反応を見るように、横腹を人差し指でやさしくつついた。

『一緒に祖師谷で暮らしてもいいのよ。三毛猫のボーイフレンドが嫌でなければ』



*9*


 パチンコ屋を出た茂口はタバコに火をつけ、買っておいた週刊誌を手に取り目を通した。

”社員は無給で無休”

”取引先への仕入れ代踏み倒し”

”アルバイトには自腹で売れ残り商品買い取らせ”

センセーショナルないくつもの見出しとそれらの記事は、どれもほとんど事実だった。

 茂口は富山の由緒ある寺に生まれた。幼少期から何不自由なく暮らしてきた。会社の倒産劇は、そのぼんぼん息子が勢いだけで事業を拡大し、資金繰りが立ち行かなるという素人経営の典型だった。

 倒産による膨大な量の事務処理はその大半をカオリがこなし、やる気のない茂口は暇を持て余していた。倒産直前に愛人の奈津美に預けた現金でパチンコに興じ、祖師谷には帰らず奈津美のマンションに入り浸った。

『ひろちゃん、祖師谷に猫ちゃんいるのよね?これ見て』

”ペットタレント募集!かわいいワンちゃん猫ちゃん集まれ!”

奈津美は週刊誌の広告欄を指さした。

『お前は本当に頭がキレるなあ』

茂口は奈津美の髪を撫でながらそう言い、パーラメントに火をつけた。



*10*


 ゴンと一緒には暮らせない。ルイはそう思った。カオリの提案に一瞬舞い上がったが、茂口がこの家に出入りする限り、ゴンをこの家で生活させるわけにはいかない。

 茂口は会社が傾き始めた頃からルイに対する当たりが強くなった。夏に毛玉を嘔吐して床を汚してしまうと必ず怒鳴られた。また茂口は機嫌が悪いとき、わざと大きな物音を立てる癖があり、そのたびに怖い思いをした。時々、カオリさんのいないところで蹴られたりもした。もともと猫が嫌いなのだろう。それでもルイは茂口に対し、嫌う素振りを見せないようにした。自分の身を守るためには、そうしている方が良いと思ったからだ。

 会社が倒産してから、茂口は家にあまり帰ってこなくなった。カオリとふたりだけの時間が増え、ルイは落ち着いた生活を送ることが出来た。しかし、油断は出来なかった。茂口はふとしたときに急に帰ってくることがあるし、酒に酔っていることも多かった。



*11*


 茂口は車の中から、自宅の様子を窺っていた。カオリが出かけたのを確認すると、車を玄関前につけた。ペット用のケージを持ち、鍵を開け自宅へ入るとルイが階段を降りてきた。ルイは茂口を見ると耳を倒して固まってしまった。

『ルイ。こっちへおいで』

茂口はそう言うとルイに近づいた。ルイは緊張して身体が動かなかった。そのまま抱き上げられて見たこともないケージに入れられた。下手に抵抗すると自分の首を絞めることになる。そう思った。車に乗せられ、知らないところに連れて行かれた。

 カオリは会社が倒産してから、近所のスーパーでパートとして働くようになった。目の前の生活を維持することに必死だった。茂口との離婚も考えたが、そうしたところで何も良くならないことはわかっていたので後回しにしていた。

 仕事は現実を忘れさせてくれた。忙しい職場だが、人間関係も良好だった。閉店後、売れ残りの食材や惣菜を持って帰れるのもありがたかった。建前上は禁止されていたが、衛生面は自己責任ということで持ち帰ることは黙認されていた。

 廃棄になった惣菜とキャットフードを抱えて帰宅した。ルイはいなかった。買い物袋を玄関に置いたまま、カオリは家の中を隅々まで探した。しかしルイはいない。何かの拍子に外に出てしまったのだろうか。いや、出かけるときに見送ってくれたからそれはない。窓や玄関の鍵もかかっていたので、ルイが自ら外に出られることはないはずだ。どこに行ったのだろう。胸騒ぎがした。


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