東京シャム猫物語Ⅰ
一年が終わろうとしていた。人が密集する年末の街は、嘔吐物が点在している。久しぶりに酔っ払って、気分の良い帰り道も、常に足元に目配せをしながら歩かなければならない。関越自動車道の入り口へと続くこの街には、松本や新潟行きの夜行バスが走り抜けていく。
謙一郎は、帰宅するとソファーに倒れ込んだ。髪の毛やシャツに煙草のにおいが染みついている。気分が悪くなり、シャワーを浴びようと思ったが、その気力はなく、そのまま眠ってしまった。
会社は倒産した。謙一郎は、食品会社に勤める会社員である。入社したときから経営は傾いていたのだが、社長の理念に感銘を受け、ここまで必死についてきたのだ。給料未払いが半年間続いた末の倒産だった。
『すごく叩かれてるね』
緑は、アイスティーを飲みながら言った。
『だいたい本当のことだよ』
謙一郎は、答えた。
いくつかの週刊誌に茂口食品の倒産の記事が掲載されていた。自分の給料をもらうだけなのに、どうして小難しい書類や資料を、裁判所や弁護士に何度も送らなければならないのか。そう考えているとだんだん腹が立ってきた。会社が給料を払わないせいで、彼女にも金銭的に迷惑をかけている。
失業手当をもらいながら、だらだらと過ごしていた。次の就職先を探すわけでもなく、倒産の記事で盛り上がる各週刊誌を読んでいた。それらの批判的な記事は痛快だったし、社員への同情もあり心が満たされた。佐久間にそそのかされて、週刊誌の取材をいくつか受けた。当時の状況や資料、社内情報など出せるものはすべて売り渡した。思ったほどの金にはならなかったが小遣い稼ぎにはなった。そして何より自分が情報提供した内容が記事になり、世間を賑わせていることの高揚感がたまらなかった。
*1*
東京 神楽坂。
昔ながらの佇まいとモダンな雰囲気が融合した情緒あるこの街には、多くの人が訪れる。
ゴンは、そんな人混みの中をいつものように巡回していた。かつて、洗練されたこの街の一角に楽茶屋という懐石料理店があった。ゴンは、その楽茶屋の看板猫であり、雄猫であり、三毛猫であった。今は野良猫である。
楽茶屋は1年前になくなってしまった。大将は若くして亡くなり、ミチコという女将が店を切り盛りしていた。料理人やアルバイトがいるとはいえ、女性がひとりで店を回すということは並大抵のことではなかった。大将が亡くなってからも、しばらくは、お客も入っていたのだが、月日が経つごとに客足も減っていった。しかし、それは店の忙しさにうんざりしていたミチコにとって好都合でもあった。なぜお客が減っていったのかは謎のままである。ミチコは、いろいろなことを考えた。お店の空気や接客が悪かったのだろうか。
料理の味が落ちたのだろうか。(実のところ、食材の仕入先を大幅に変えたことがあった)
変な風評が立ったのではないか。そんなことを頭の中でぐるぐる回しているうちに、とうとう嫌になってしまった。店を閉めた。
老舗楽茶屋閉店。
あまりに急な通達に常連客や商店街も驚きを隠せなかった。たくさんの人に思いとどまるよう説得されたが、ミチコの気持ちは変わらなかった。店の料理人やアルバイトには、失業手当て相応の心付けを渡し解雇した。
亡くなった大将は、ゴンを溺愛していた。もともと猫が好きで、子どもの頃から猫と暮らしてきたという。一方、ミチコはゴンに対しあまり好意的ではなかった。第一、料亭に猫がいること自体けしからんという考えを持ち、ゴンには冷たく接した。ゴンは店を閉めると聞いたとき、不安もあったが、むしろ自由になれるのではないかと期待した。大将が亡くなってからのミチコとの生活は退屈そのものだった。ミチコは、よくゴンに言った。
『猫はいいわねぇ。何も気にせず自由気ままに生きていられるんだから』
そんな嫌味を言われるたびにゴンは心の中で反論した。猫は自由奔放、勝手気ままとよく言われるものだが、そんなことばかりではない。猫だって、人間が思っている以上に我慢していることもあるし、不自由を感じるときもある。ルイも、きっと同じ意見だと思うよ。
ゴンは、楽茶屋閉店の翌日に野良猫になった。
*2*
茂口食品株式会社、社長の茂口博明は計画倒産の準備を進めていた。今年で9年目になるこの会社も、特にここ3、4年は経営が著しく悪化し負債は、みるみるうちに膨らんでいった。会社が傾くことになった原因は、飲食店を始めたことだった。食品卸業ということもあり、流通網には不便しなかった。様々な業者との取引もあったし、コネもあった。店のコンセプトは、厳選した、質の良い食材のみを使用する小料理店。値段は張るが、一級品の食材ばかりを扱っているということもあり、連日大盛況であった。その波に乗り、関東圏に店舗を増やしていった。しかし、店の数と反比例するように利益は下降した。支店を増やすあまり、資金繰りができなくなっていった。そして、ついには赤字に転落した。それが4年前のことである。
それでも茂口は店舗を増やし事業を拡大させ続けた。
『茂口食品』というブランドを広めたかったのだろう、まわりの言うことには、耳を貸さず、経営もワンマンだった。社員の給料、取引先や店舗の賃料などの未払いも、かなりの額になっていた。
そんな状況を見かねたカオリは知り合いの弁護士、前川に相談した。カオリは茂口の妻で、経理など会社の仕事もこなした。無知で傲慢な茂口に比べ、カオリは聡明でいつも冷静だった。茂口もそのことは十分わかっていたし、カオリには一目置いていた。だから、カオリが弁護士の前川を連れてきたときには驚いた。茂口も、いよいよ自分の非を認めざるを得なくなった。自己破産を決意したのだ。
*3*
茂口は会社を興したとき、一匹のシャム猫に出会った。
名前はルイ。クールな性格で、決して人懐っこくはなかったが、その人間に対する絶妙な距離感が魅力的だった。そして何より上品だった。ルイは、カオリが知り合いのところから引き取ってきた雌猫である。一時的に預かるだけの予定だったのだが、知り合いはそのまま行方不明となり、連絡がつかなくなってしまった。警察にも捜索願が出されたが今も見つかっていない。会社を設立したばかりでこれから忙しくなるというのに、猫の世話なんかしている暇はあるのかと茂口はルイをあまり歓迎しなかった。
茂口食品の本社は飯田橋のビルにあった。4階にある事務所で、ルイは、外の世界と接することなく暮らしていた(実は外の世界と接していた)。茂口夫妻と一緒に出勤する。ペット用の籠に入れられて。毎日、決まった時間になると、カオリが御飯を持ってくる。昼の2時50分から3時まで、カオリがネズミのおもちゃで遊んでくれる。夕方になると、茂口夫妻と帰る。毎週火曜日の夜を除いてはそんな生活だ。
毎日同じことの繰り返し。祖師ヶ谷にある茂口家を出て、飯田橋の本社で一日過ごす。夕方には、また茂口家に帰って寝る。退屈な気もしたけれど、何不自由ないことに満足していたし、その中にささやかな楽しみを見つけることも得意だった。
犬じゃないんだから、家に置いて仕事に行けばいいのに、心配性のカオリは会社にルイを連れていった。飼い猫なので、飼い主の方針には従うしかない。
*4*
夜になるとゴンはよく出かけた。縄張りの公園にはホームレスがいる。彼はベンチでラジオを聞いているか、たばこを吸っているかのどちらかだ。たばこは橙色のパッケージで、エチョーという銘柄だった。寝ている姿は一度も見たことがない。
ホームレスは、よく御飯をくれた。ゴンが来るのを知っているので、わざわざ猫用のペットフードを買って待っているのだ。それも上等なやつ。ゴンは、ホームレスに適切な距離を保ち、ちょこんと座る。しばらくして、ホームレスがそれに気付き、ゴンのところまで持ってきてくれるシステムだ。
ゴンはホームレスにいろいろな話を聞かされた。その中で、1500回聞かされた話がある。
『俺は昔、会社を経営していた。社長だったんだよ。だけど不祥事なんかが立て続けに起こって潰れてしまったんだ』
ゴンの頭の中には、BOB DYLANのLIKE A ROLLING STONEが流れている。
ホームレスは続けた。
『いろんな人に迷惑をかけた。ひとつの会社が倒産するというのは大変なことなんだ。死んでも謝りきれないよ。俺は、きっと生きる時代を間違えたんだよ。あと何十年か早く生まれてたら、エルビス・プレスリーやチャック・ベリーと肩を並べていたのに』
*5*
ゴンは、ホームレスの長話が一段落してから飯田橋へ向かった。今日は火曜日だ。夜とはいえ、野良猫が外堀通りを横切るというのは、神経をすり減らさなければならない。飯田橋の駅を越えてしばらく歩くと、大きなビルがある。正門には四六時中、警備員がいるので、ゴンは裏口の柵の隙間から侵入する。人こそいないが、監視カメラのレンズがこちらを向いている。きっと毎週バッチリ映っているんだろうな、とゴンは思う。非常階段で4階まで登る。エレベーターの仕組みや乗り方はわかるけれど、4階のボタンが押せないのだ。だから非常階段で登る。打ちっぱなしのコンクリートからは、季節を問わず冷たさを感じた。ベランダからつたってルイに会いに行く。
ルイは可愛い。ゴンは毎週火曜日を楽しみにしている。
火曜日の夜は、茂口とカオリの都合でルイは飯田橋のビルで一晩過ごさなければならなかった。二人が何をしているのかはわからない。きっと仕事の関係だろう。
二匹の猫は鼻をくっつけて挨拶をした。真南にある月がベランダを明るく照らす。少し風も入ってくる。ずっとこんな時間が続けばいいのに、あるいは、今このまま世界が終わってしまってもいいのに、とゴンは思った。
*6*
謙一郎は、新宿西口の喫煙所でラッキーストライクに火をつけた。
『ついに倒産か』
思わず発した声は大きく、周囲の喫煙者数人がこちらを見る。今朝、会議で茂口から倒産の旨が社員に通達された。事業停止は明日付け、従業員説明会は3日後に行われる。
思い返せば、ひどい半年間だった。給料も出ず、休みも月に1度あるかないかだったが、だいたいはなかった。緑とデートする時間もなかった。緑とは付き合って4年になる。彼女は、謙一郎の状況をよく理解していたし、寛容で協力的だった。無給の謙一郎の貯金が底をついたときも金を貸してくれた。果たして返せるのはいつになるのだろうか。
従業員説明会は虎ノ門の貸会議室で行われた。300人程入る空間は、いっぱいになった。従業員同士が話をしてザワザワしている。謙一郎は、前列の席を陣取った。同僚の佐久間が隣に座っている。佐久間は同期で歳も同じだ。ただし、謙一郎は辰年で佐久間は巳年である。開始予定時刻を5分過ぎたところで、茂口と前川ら弁護士3人が出てきた。
『社長!土下座しろ!』
怒号が飛び交う中、説明会は始まった。ボイスレコーダーで録音する者も数人いる。茂口からのお詫びと挨拶が終わり、弁護士が主導権を握った。
弁護士の話を要約するとこうだ。
これから破産管財人が決定する。その後、会社が破産手続きをし、裁判所から各債権者へ破産手続開始決定の通知書及び債権届出書などが送られる。債権者は、そこで未払い分の給料を請求する。そして最終的な債権者集会は半年後になる。
質疑応答が始まった。従業員と弁護士がやり取りをしている間、茂口は険しい表情でうつむき、申し訳なさそうにしている。あるいは、そのふりをしている。
『なんだか難しいけど、わかったのか?佐久間』
謙一郎は聞いた。
『大まかな流れはね。ただ管財人が選ばれないことには、僕らは何も請求出来ないし、長い闘いになりそうだな』
佐久間は答えた。
説明会の最後、二人は解雇通知書に判を押した。茂口に暴言を吐き捨てて出ていく人もいた。謙一郎は茂口と話す気にはなれなかった。佐久間はもともと茂口と話す気はなかった。
会場を出たあと、謙一郎と佐久間は新橋まで歩き居酒屋に入った。
『いろいろ大変な思いしたけど、これで良かったんだよ。乾杯』
佐久間が言った。
二人の話は盛り上がった。入社試験や面接の話、営業中にした悪事や、社内の裏話など話題は尽きなかった。
『ところでさ。うちの会社の話を週刊誌にリークしてやろうと思うんだ』
生ビールをテーブルに置き佐久間は言った。
『どういうことだよ』
『茂口食品株式会社は、世の中の人から見れば優良な企業なんだろう。だから、今回倒産の話を聞いて驚いた人も多いと思うよ。だけど、本当は違うだろう、謙一郎。それはお前もよく知っているはずだ。みんな知らない部分、それを面白おかしく記事にしてもらうんだよ』
佐久間は捲し立てるように言った。