元公爵令嬢の回顧 9
マーガレットが自分に許した我儘のその一番目は、一度でいいからレイナルドと一緒にお茶を飲むことだった。
それは、割と簡単に叶えられた。
マーガレットが自室で午後のお茶を頂いている時に、急に強烈な眠気を感じてテーブルに突っ伏してしまったことがあった。学園と王妃教育、その上にロードリックの執務の手伝いをして、さらに夜には図書室から借りて来た本を遅くまで読んだりしていたために、温かいお茶を飲んでふっと気が緩んだのだ。
マーガレットにしてみれば、これはさすがに寝不足だな、で済ませる程度のことだったのだけれど、そばに控えていた侍女にとっては大問題だ。その時はたまたま、マーガレットに新しくついたばかりの若い侍女がひとりで給仕していたのも間が悪かった。
真っ青な顔で医務室まで走り、外から戻ったばかりで扉の一番近くにいたレイナルドにお願いします来てください、早く早くとせかして連れて来たはいいけれど、マーガレットの部屋の扉を開ければ、そこではとっくに眠気を振り払ったマーガレットが美味しい焼き菓子を摘まんでいたりした。
「レイナルド様、一緒にお茶はいかが?」
どうして突然レイナルドが自分の部屋に現れたのかは、ゼイゼイと肩で息をしている侍女を見れば簡単にわかる。だからわざとにっこり笑って見せてマーガレットは、レイナルドをお茶に誘った。
これで侍女の早とちりな行動もなかったことにできないまでも、まあ誤魔化せるだろうし、何よりマーガレットはこのチャンスを逃さずレイナルドとお茶を飲みたかったのだ。
「セーラ、息が整ってからでいいからエドモンズ先生にお茶をお出しして」
先ほどとは違う理由で真っ青になっている侍女に指示を出してからレイナルドに椅子を勧めると、レイナルドは苦笑いしながらも座ってくれた。
「お倒れになったとお聞きしたのですが」
「ちょっと眠かっただけですの」
「夜は、きちんと眠れていますか?」
「まあ、それなりに」
「睡眠は、ちゃんと取ってください」
「はい、わかりました」
レイナルドがそう言うなら、マーガレットは今夜からしっかり眠る。マーガレットが倒れたらまたレイナルドが駆けつけてくれるかも、などと悪魔の囁きが聞こえるような気がしないでもないけれど、それでもレイナルドの言うことはマーガレットにとって絶対なのだ。
「頑張り過ぎていませんか」
「頑張るのが私の務めですの」
「休むのも仕事の内ですよ」
「はい、頑張って休みます」
「だから、頑張らないように」
「はい、頑張らないように頑張って休みます」
「まったく、あなたときたら」
レイナルドが笑ってくれるので、胸のあたりがポカポカと温かくなる。いつものことながら、なんて優しい声なんだろう。お茶を飲む時の、伏せた睫毛が長い。カップを持つ指先がきれい、お医者様の器用な手だ。
あー、やっぱり大好き。
十人いたら十人が、レイナルドよりロードリックの方が美しいと言うだろう。だけどマーガレットは、生憎と十一人目なのだ。マーガレットには、レイナルドより格好いい人はいない。
「お菓子もいかが、美味しいですわよ」
「いえ、そうゆっくりもしていられませんので」
たった一杯のお茶を飲む間だけの、僅かな時間。
その宝物の時間をマーガレットは、一生覚えていられますようにと記憶に刻みつけた。
マーガレットが自分に許した我儘の二つ目は、レイナルドと一緒に散歩をすることだった。
これは、マーガレットが王宮で暮らし始めて一年と少し経った頃に叶えられた。
奥庭の薔薇が見頃だと侍女に聞いたマーガレットは、それなら見に行きましょうと腰を上げた。廊下を歩いていると、前方にミルクティー色の髪を見つけて自然と口角があがる。
いつものように足を速めてレイナルドの前まで行くと、いつものようにごきげんようと挨拶をする。するとレイナルドは、いつものように優しく笑ってくれた。
「今日は、良いお天気ですわね」
「本当に暖かくて気持ちのいい日です」
いつものように他愛ない言葉を交わしながら、マーガレットはレイナルドがいつもならきっちりと着ている上着を脱いでいて、その手に黒い診察鞄ではなくどこかの店の黄色い紙袋を握っていることに気づいた。
「レイナルド様、今日はお休みですの?」
「そうなんです、じい様……じゃなくて、師匠が私用で出かけている関係で珍しく休みになりました」
「あら、レイナルド様はアラン先生を普段はじい様なんてお呼びになりますのね」
「内緒にしてください、師匠って呼ばないと怒られるんです」
いたずらが見つかった子供みたいな顔で肩をすくめるレイナルドにマーガレットはクスクスと笑いながら、もしかしてこれはチャンスなのではないかと思った。何のチャンスかと言うと、それはもちろん散歩に誘うチャンスだ。
レイナルドとこんな風に廊下で出くわすのはそれほど珍しいことではないのだけれど、いつだってレイナルドは診察に使う道具がつまった黒い鞄を片手に歩いていて、あきらかに仕事中だとわかるのに散歩に誘うことなんて出来なかったのだ。
だけど今日は、休みだと言う。多分、もう二度とこんな機会には恵まれないだろう。
「レイナルド様、散歩におつきあいくださいませんこと?」
そう言ってマーガレットは、にっこりと微笑んだ。自分が美人ではないことは知っているけれど、レイナルドの目に少しでも可愛く映っていたらいいなと思った。
「これからお散歩ですか」
「ええ、薔薇が見頃なんですって」
行きましょうと先に歩き出す。レイナルドが来てくれるかどうかドキドキしたけれど、何でもないことのようにレイナルドはマーガレットの横に並んだ。
「薔薇、お好きなんですか」
「そうですわね、大好きです」
本当は、マーガレットは花なら何でも好きなのであって、特別に薔薇が好きということはなかったのだけれど、今日この瞬間から薔薇を大好きになることに決めた。
「何色の薔薇が好きですか?」
「そうですわね……黄色かしら」
訂正、今日この瞬間からマーガレットは黄色い薔薇が大好きになった。
本当は、赤薔薇も白薔薇もピンクの薔薇もそれぞれにきれいだと思っているけれど、レイナルドが持っていた紙袋の色をつい答えてしまったのだ。
裏庭に着き、カップ咲きの淡い黄色の薔薇を指差してマーガレットは、この薔薇が好きなんですと言ってみた。するとレイナルドは薔薇を指差すマーガレットを見て、きれいですねと眩しそうに目を細めた。
「そういえばレイナルド様、医師免許をお取りになったとお聞きしました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ファーニヴァル王国にはアドラム王国のような専門教育をする大学はないので、何の職業に就くにしてもそれぞれの師匠に弟子入りして仕事を教わるしかないのだ。
それは医師になるにも同じで、レイナルドは王立学園を卒業してすぐに祖父であるアラン・エドモンズ博士に正式に弟子入りし、五年目にして医師免許試験に挑んで一回で合格を決めたらしい。
数ある資格試験の中でも医師免許試験はかなり難しく、十年修行しても合格できない者がたくさんいる中での二十三歳での合格は快挙であるらしく、格好いいわよねなどと噂していた城のメイドたちにマーガレットは口の端をピクピクさせていたのだけれど。
「これで一人前のお医者様ですわね」
「まさか、一人前なんて程遠いです。まだまだ師匠の使い走りですよ」
「そうなんですの?」
「そうなんですよ」
マーガレットにとっては奇跡に近い幸運に恵まれて得た散歩の時間だったけれど、それもごく短い間のことだった。レイナルドは王宮の数ある庭の中では狭い方である奥庭をぐるっと一回りする間だけつき合ってくれて、それではと頭をさげて帰ってしまった。
上着を着ていない白いシャツの背中を見送りながらマーガレットは、涙が滲みそうになるのを堪えなければならなかった。
……大丈夫、私は幸運だわ。
一緒にお茶が飲めた、一緒に散歩も出来た。
お茶の時も散歩の時も侍女や護衛がいるので二人きりではなかったけれど、それでもマーガレットの我儘は叶えられている。
それで十分だと思った。
侍女に淡い黄色の薔薇を部屋に飾るように言って、マーガレットも自分の部屋に戻った。今日は、日記を書こうと思った。