元公爵令嬢の回顧 8
公爵家を辞すサラを無事に見送ることが出来た翌日、いくつかの大切な物と身の回りの品、あとは父が勝手に作ればいいだろうと言ったのをいいことに勝手に作った、王立学園の制服と春夏秋冬それぞれの季節用に仕立てた普段着のドレスの中で春用の五着と、それに衣裳部屋にまだ無事に残っていた母の若い頃のドレスも全部、王宮からの迎えの馬車に積んでもらってマーガレットは、たった一人で家を出た。
夏、秋、冬用の普段着もそれぞれ五着ずつと、お茶会や晩餐で着るドレスを数着、あとは冬用のコートなども注文したのだけれど、それらはまだ仕上がっておらず、出来次第王宮に届けてもらうことになっている。
注文したドレスの大多数がまだ届いてないとはいえ、マーガレットとしてはそれなりの量の荷物を持ち込んたつもりだったのだけれど、マーガレットの荷物を片づけた侍女たちはそのあまりの質素さに戸惑った。
身の回りの物は愛用品なのかもしれないが使い古された物ばかりであったし、普段着のドレスは仕立てたばかりだとわかる品ではあったけれど数も少なく、グレーや紺、濃い茶色などの地味な色で、形も古臭くはないけれど最新流行とはいえないオーソドックスな物ばかりだったのだ。華やかなドレスもあるにはあったが、そちらは上等な品ではあったけれどデザインが古く、明らかに新品ではない。
マーガレットにしてみれば、母のドレスは置いて来るのが嫌だったから持って来ただけで、新しく作った普段着の方は、次にいつ新しいドレスが手に入るかわからないから長く着れるように流行に左右されないデザインの、少しぐらい汚れてもわからないだろう地味な色を選んで仕立てたのだけれど、まさか王太子の婚約者である公爵令嬢がそんな基準でドレスを選ぶなんて想像もつかない侍女たちは不思議に思いながらも、マーガレット様は地味な服装を好まれるのだという風に納得した。
だけど、荷物の質素さはそれで納得できたとしても、公爵令嬢がどうして侍女の一人も連れていないのか。
王宮に勤める優秀な侍女の中でも特に優れた三人が未来の王太子妃のためにあらかじめ選ばれていたのだが、マーガレットが公爵家から侍女を一人も連れて来なかったので、急遽追加であと二人選ばれることになった。専属侍女が五人もいることにマーガレットは驚いたのだけれど、そんなことで驚く公爵令嬢に侍女たちの方が驚いた。もっとも五人とも本当に優秀であったため、そんな心の内などきれいに隠して眉ひとつ動かさなかったけれど。
それから始まった城での生活は、本来なら緊張するものであったのだろうけれど、公爵家での毎日に比べれば心安い日々で、マーガレットはようやく肩の力を抜くことが出来た。五人の専属侍女たちはサラのように心から打ち解けるまでには至らなかったけれど、みんなしっかりとマーガレットに仕えてくれた。
王妃教育は通いで受けていた頃よりも厳しくなった。だけど、ずっと自分を磨き続けていたマーガレットにとってはそれほど辛いものではない。行儀作法やダンスは、子供の頃から家庭教師に厳しく叩き込まれてきたのでもう教わることがないくらいであったし、国の歴史や周辺諸国との関わりなどは、マーガレットの頭の中にすでにあった。
王妃教育に携わる教師たちはみんな胸を張って、マーガレット・ラウレンツ公爵令嬢は非常に優秀であると王に報告した。
やがて入学した王立学園でも、マーガレットは問題なく過ごすことが出来た。もっとも、学園に入学したら親しい友人が出来るかしらとマーガレットはこっそり期待していたけれど、それは残念ながら叶わなかった。王太子の婚約者である公爵令嬢に誰もが丁寧な態度で接してくれたけれど、特別親しくはなれなかったのだ。
マーガレットが王立学園の生徒となってから二か月が過ぎた頃に、サラの結婚式があった。王都の外れにある小さな教会へ出かけたいのだと、だめで元々な覚悟で恐る恐るロードリックに相談してみたら、ロードリックはあっさりと王太子の名前で外出許可を出してくれて、近衛騎士団にマーガレットの外出の警護をする騎士を選ぶよう命じた。
四人の完全武装の騎士を引き連れ参加した結婚式は、新郎新婦ともにすでに両親を亡くしていて、親類縁者もほとんどいないとのことで参列者も少なくこじんまりとしたものだったけれど、その分とても温かく優しい式だった、
ウエディングドレスをまとったサラはとてもきれいだったし、サラの夫となったバート・メラーズは赤い髪に榛色の目のとても優しそうな人だった。マーガレットが祝福の言葉を贈るとバートは顔をくしゃくしゃにして、サラを大切にしますと約束してくれた。
この結婚式では、もうひとつ嬉しいことがあった。ラウレンツ公爵家でリリアナに暴力を振るわれて去った、メイドのマリーと再会できたのだ。
マリーは今、王都で誰でも知っているような大きな商会に勤めているそうで、頑張っていつかは仕入れを任されるようになりたいのだと、大きな目をキラキラさせながらマーガレットに夢を語った。
ファーニヴァル王国で女性の地位はまだまだ低く、女は嫁に行って子供を産めばいいという風潮は根強い。女性でも男性と同じように働ける国にしたい、また一つマーガレットの目標が出来た。
マリーが遠くの街に嫁いだキャロルと今でも手紙のやり取りをしていると言うので、マーガレットが幸せを祈っていますと伝えてと頼んだら、そのキャロルから王宮のマーガレットに宛てて手紙が届いた。
無骨だけど優しい夫と生まれたばかりの長男との暮らしはとても幸せですと書かれた手紙には、ささやかですが贈り物ですと白いリボンが同封されていた。光沢のあるサテンの滑らかな手触りにマーガレットは、なんだか胸が熱くなって少し泣いてしまった。
母が亡くなった時に散々泣いたからだろうか、公爵家での辛い日々でさえマーガレットが涙を流すことはなかったのに、懐かしい人々の温かな思いやりはマーガレットを簡単に泣き虫にしてしまうようだった。
懐かしい人との再会は、もうひとつあった。
ラウレンツ公爵家で執事を勤めていたマーカスが、王立学園にマーガレットを訪ねて来てくれたのだ。
応接室を借りて向かい合ったマーカスは、マーガレットの記憶の中より年を重ねていたけれど、それでもピンっと伸びた背中は健在で、その老紳士っぷりはマーガレットにとってとても嬉しいものだった。
「元気そうね」
「はい、おかげ様で楽隠居させていただいてます」
「息子さんのお宅に身を寄せているのだったわね」
「毎日、孫たちに振り回されておりますよ」
昼の休憩を利用したそう長い時間ではなかった再会のあと、息子夫婦と孫たちが待つ家へとマーカスは帰って行った。このたった数十分のためにマーカスは、息子の家がある街から五日も馬車に揺られて会いに来てくれたのだ。
マーカスの年齢を考えると、会えるのはこれが最後かもしれないとマーガレットは思った。
そしてマーガレットは一人、自分の足で進み続けた。
良き王妃になるため、ファーニヴァル王国を少しでも良い国にするためにもっと力をつけたかったマーガレットは、ロードリックの執務の手伝いを自ら申し出た。実際に国を運営している現場には、本や授業では学べないことがたくさんあった。
「マーガレットは、やはり真面目だな」
秘書官たちについて執務を熱心に学ぶマーガレットに、ロードリックはそう言って感心していた。
マーガレットと同じく十五歳になったロードリックは、見た目こそは身長が伸び、輝くばかりの美丈夫に成長していたけれど、中身は初めて顔を合わせた子供の頃と同じく素直で正義感の強い王子のままだった。
このまま行けば、王立学園を卒業する三年後……いや準備期間があるからもう少し先になるが、遅くとも四年後にはロードリックと結婚することになる。
マーガレットは、それでいいと思っていた。
マーガレットの中にロードリックに恋する気持ちはないけれど、だからと言ってロードリックを嫌いなわけでもなかったからだ。
嫌いでないならば、きっとやっていけると思った。
ロードリックの真っすぐで正しい性質は、王に向いているだろう。表面ばかりを見て、物事の裏側を疑うことをしないのは欠点であるだろうけれど、そのあたりはマーガレットや側近たちが補えばいいのだ。
だからマーガレットは、ロードリックと結婚し、王太子妃として、ゆくゆくは王妃としてロードリックを支えて生きて行くつもりでいた。
愛のない結婚だけど、ロードリックだってマーガレットを愛していないのだからそこはお互い様だ。それにロードリックは、もし他に好きな女性が出来た時は側妃として、または愛妾としていくらでも迎えることができるのだ。
レイナルドとは、マーガレットが王宮に住むようになってからは顔を合わせることが更に増えた。視界の隅にあのミルクティー色の髪を見つけると途端にマーガレットの心臓は騒ぎだし、口角は勝手に上がり、足は早まった。
レイナルド様、おはようございます。
レイナルド様、ごきげんよう。
レイナルドがやわらかい声でおはようございます、ごきげんようと答えてくれるだけでマーガレットの中に何か力のようなものが補充されたし、笑ってくれたりしたらもう世界の色が一瞬で塗り替えられたように明るくなった。
マーガレットは、レイナルドが好きだった。
それは明確に、恋と呼ばれる感情なのだと自覚していた。
マーガレットは、ロードリックと結婚する。そのこと自体に揺らぎはない。
他の人に恋したままで結婚することが不実だと言うのなら、マーガレットは喜んで罪人の烙印を受け入れる。
母だって言っていた、心の中に憧れの人がいるくらいは神様も見逃してくださると。
レイナルドが好き、それはマーガレットにはどうしようもないことなのだ。八歳で初めて会った時から少しずつ、少しずつ積み重ねて来た想いは今更消えることはない。
そして、マーガレットの婚約者がロードリックであることもまた、マーガレットにはどうしようもないことで、どうしようもないのならこのまま進むしかないではないか。
どんなに恋しくてもレイナルドと結ばれることはない。
側妃でも愛妾でも好きなだけ迎えられるロードリックとは違い、マーガレットはロードリックただ一人のものになる。
もちろん悲しかったし、切なかった。だけど、もうとっくに諦めた。
だからマーガレットは、レイナルドを諦める代わりに三つだけ自分に我儘を許そうと決めた。