元公爵令嬢の回顧 5
マーガレットの母、フローレンス・ラウレンツ公爵夫人が倒れたのは、マーガレットが十一歳の冬のことだった。数日前から体のだるさを訴えていたフローレンスだったが、ある冷え込みの厳しい日の朝、屋敷の廊下を歩いているところ突然その場でしゃがみ込み、そのまま倒れて意識を失った。
すぐに王宮侍医アラン・エドモンズが呼ばれ、助手のレイナルドを伴って来てくれたのだが、母を喪うかもしれない恐怖は憧れの人に会えた喜びを押しつぶしてしまい、マーガレットは母の部屋の前で呆然と立ち尽くした。
大丈夫です、大丈夫ですと何度も言ってくれるサラの声に何とか支えられて、だけどいつもマーガレットに会うと朗らかに笑ってくれるエドモンズ博士が母の部屋から出て来た時の厳しい顔は見間違いなどではなくて。
この時、生まれて初めてマーガレットは父を求めた。きっと帰って来ると日記に書いて、その願いが叶うことはないと心のどこかで知りながら、それでも求めずにはいられなかったのだ。
父は、もう母を愛していないのだろうか。
だったら結婚とは、何なのだろうか。
貴族の結婚に必ずしも愛があるわけではないことぐらいは、十一歳のマーガレットにもわかっていた。政略結婚という言葉を当たり前に耳にするくらいだ。もちろん愛し合って結ばれる夫婦もいるのだろうけれど、そうでない夫婦だってたくさんいるのだろう。
現にマーガレットと婚約者のロードリックの間に愛、もしくは恋と呼ばれるような感情は存在していない。だけど、今はまだ子供だから愛はなくても、恋ではなくても、一緒に過ごすうちにいつか何かが芽生えるのではないだろうか。
八歳で婚約してからずっと、マーガレットはそんな風に思っていた。今はまだ違うけれど、いつかはと。
けれどロードリックは、いつまでもマーガレットにとって近くて遠い人であり続けた。月に一度、手を伸ばせば届く距離でお茶を飲むけれど、その時以外のロードリックはマーガレットにとってお城に住んでいる王子様なのだった。
ゆっくりと、でも確実に進んでいく母の病状と、マーカスが何度連絡しても顔を見せることさえない父。
もしもこの頃にロードリックがマーガレットに寄り添い、その手を握って力づけていたならば、マーガレットはロードリックを愛していたかもしれない。だけど実際にはロードリックは、母のそばについていてあげればいいと言って月に一度のお茶会を中止してしまい、そろそろ始まる予定だった王妃教育も先延ばしにするよう手配した。
それがあの純粋で真っ直ぐな王子の思いやりなのだと理解しながらも、こちらのことは気にしなくていいという内容の手紙が一通きたきりで、顔を合わせることがなくなったことがマーガレットはやはり寂しかったのだ。
病の床に横たわる母を見守り続けた一年と四か月。
マーガレットのそばにいてくれたのはサラであり、マーカスであり、他の優しい使用人たちであり。そして週に一度の往診を決して欠かさなかったアラン・エドモンズであり、その助手のレイナルドであった。
往診の際、アランは必ずレイナルドを伴って来てくれた。助手として来ているレイナルドがマーガレットの相手をしてくれることはなかったけれど、それでも帰り際に「眠れていますか」とか、「たまには気晴らしに出かけたらいいですよ」とか、マーガレットを気遣う言葉を必ずかけてくれた。
そんな一言一言が、すっかり弱くなってしまっていたマーガレットの心にゆっくりと染み込んで行く。
フローレンスの主治医はアランであったが、マーガレットの心の主治医はレイナルドであった。
マーガレットを生まれた時から見て来た執事のマーカスは、マーガレットの心の中心に婚約者ではない男が住み着きつつあることに気づき、心配していたが、だからといって今にも折れてしまいそうなマーガレットからほのかな想いを取り上げることはとても出来なかった。
「お母様、今朝は少し暖かいですわ。もうすぐ春ですわね」
もうマーガレットの言葉に返事さえ返してくれなくなった母の枕元で、本を読んだり、刺繍をしたりしながらマーガレットは静かな時間を過ごした。この頃には、屋敷には諦めの空気が満ちていて、皆が息を殺してその時が訪れるのを何もできずにただ待っているようだった。
王国暦六百十八年の春、フローレンス・ラウレンツ公爵夫人は最愛の一人娘に見守られながら、その決して長くはなかった生涯を閉じた。
葬儀は、春らしい薄青の空が広がる気持ちのいい日に執り行われ、母が好きだった白百合を棺の中にそっと置いてマーガレットは、死してもなお美しい母に最期の別れを告げた。
「殿下に見送っていただけて、妻はなんと果報者でしょう。ありがとうございます、本当にありがとうございます」
何度連絡しても帰って来なかった父が葬儀には当たり前のように顔を出し、公爵夫人の葬儀に王の名代として列席した王太子ロードリックに滑稽なほど大袈裟に礼を述べている声が耳障りで仕方なかった。
母を喪った悲しみと父への怒りが心の中でせめぎ合って、いい加減にしてと叫びそうになるのを何とか静めようと、周りに気づかれないようそっと深呼吸を繰り返していたマーガレットは、長い弔問客の列の中にミルクティー色の髪を見つけた。
祖父のアラン・エドモンズと共に列に並んでいたレイナルドの若草色の目はマーガレットに向けられていて、心配そうなその眼差しに母親を喪ったマーガレットへの思いやりが滲んでいるようで。
私は大丈夫ですと、マーガレットは声は出さずに口を動かした。距離があったことだし、読唇術ができるわけでもないレイナルドに伝わったとは思わないが、それでマーガレットの心は静まった。
そうしてマーガレットは、母に守られていた優しい少女時代の終焉を受け入れた。
黒いドレスをまとって俯ていたその時のマーガレットは、まだ十二歳だった。