元公爵令嬢の回顧 4
顔合わせの時にはあまりいい態度ではなかったロードリックだったが、その後はマーガレットに失礼な態度を取ることはなく、月に一度程度の頻度で開催される二人きりのお茶会にマーガレットが出向くといつも笑顔で迎えてくれた。
最近はどんな本を読んだとか、家庭教師にどんなことを習ったとか。お互いに話す内容は他愛のないことばかりだけれど、最初の最悪だったお茶会に比べると随分と楽しい時間を過ごせるようになっていった。
「冒険小説?面白いの?」
「はい、とても」
「庶民の間ではやっている小説か、そういう本をマーガレットが読むとは意外だな」
若い医者と新人冒険者の女の子の話は、サラがはやっているそうですよと教えてくれた本だ。さっそくマーカスに頼んですでに十冊ほど出ていた全巻を取り寄せてもらい、読みだすと止まらなくなるほど面白かった。若い医者というのが宮廷侍医の助手をしている少年のことを思い起こさせるので、マーガレットにはさらに面白く思えたのだ。
「市井で人気の小説は、民の生活を知るのに役立ちます。国民の多くは平民なのですから、その平民の間で流行っている小説を読めば、貴族の目には見えない平民のことが知れるのではないかと」
「なるほど、そういうことか」
「はい、殿下もお読みになられては?」
「そうだな」
婚約をして二年も経つ頃には、マーガレットが最初にロードリックに感じた苦手意識のようなものは薄れていた。何度もお茶会を重ね、話をするうちに、王国唯一の王子として大切に育てられた彼は、ただ素直なだけなのだとわかってきたせいだ。
あの顔合わせの日、マーガレットを見てがっかりした顔をしたのは、ロードリックが思い描いていたような婚約者ではなかったためにただ正直にがっかりしたのだろう。王太子の婚約者なのだから、金や銀の髪の美少女が来ると期待していたのだろうに、実際には赤茶色の髪のマーガレットだったのだから、まだ八歳だった王太子がほんのわずかな間だけ表情を取り繕うのを失敗したくらいは、責めるべきことではない。
それに、マーガレットの容姿が気に入らなかったロードリックがマーガレットに辛く当たったことは一度もなく、最近では大切にされているかなと思えることさえあった。
たまには外に出ようと誘われてお忍びで訪れた街の小さな雑貨屋で、マーガレットが背面に描かれた可愛らしい絵が気に入った手鏡をロードリックは何も言わずに贈ってくれたのだ。
あの時のくすぐったいような気持ちを、どう表現したらいいのだろうか。例えば可愛がっている弟がいたとして、その弟が思いがけずプレゼントをくれたらこんな気持ちになるのかもしれない。
その日はマーガレットの十歳の誕生日まで、残り半月というところだった。去年の九歳の誕生日がそうであったように、誕生日の当日にはロードリックの名前で高そうな装飾品が届くのだろうけれど、マーガレットにしてみれば高価な宝石よりロードリックが自分の手で買ってくれたこの手鏡の方がよっぽど嬉しかった。
大切にしよう、そう心に誓って受け取った。
そして半月後に迎えた誕生日には、予想通りに届いたロードリックからの贈り物に、サラやマーカスたち使用人から花やお菓子、そして母からは革張りの重厚な日記帳をもらった。
「これは毎日書く日記ではなくて、嬉しいことや悲しいこと、何か心に残るようなことがあった時だけ書くのよ。そうしたらこれは、マーガレットの歴史書になるわ」
そう言われて、ずっしりと重い日記帳を両手で受け取ったマーガレットは、そのまま母のきれいな紫の瞳を見つめた。
「悲しいことも書かなくてはだめですか?私は、嬉しいことだけ書きたいです」
「悲しいことも書かなくてだめです。悲しいこともマーガレットを形作る一部だから、省いてはだめなのよ」
母の言葉に素直にうなずき、マーガレットはその日から日記を書き始めた。とは言っても毎日書く日記ではないので、その次に書いたのは二か月も後のことだった。
母と街に買い物に出ていたマーガレットは、チョコレートを買ってもらったパティスリーを出たところでふと、大通りの雑踏の中にミルクティー色の髪を見つけたのだ。あの顔合わせの日の、王宮の廊下でばったり会ってからほぼ二年ぶりに見る彼は、随分と背が伸びてもう少年とは呼べなくなっていた。
「レイナルド様!」
つい令嬢らしからぬ大きな声を出してしまい、これは叱られると隣に立っている母の顔色をマーガレットが横目で伺っている間にレイナルドは軽い足取りで近づいて来て、お久しぶりですと頭を下げた。
「あなたは確か、エドモンズ博士の……」
「はい、アラン・エドモンズの助手を務めております、レイナルド・エドモンズです」
「お孫さんなのよね」
「はい、そうです」
母と挨拶を交わすレイナルドをマーガレットは、母の後ろに半ば隠れるようにして見ていた。大きな声を出してしまったことがまだ恥ずかしかったのと、二年ぶりのレイナルドがひどく大人に見えて、それもまた恥ずかしかったのだ。
「これからどこかに行くところだったのかしら」
「母に贈り物を探しているのですが、女性の物は全くわからなくて、当てなくうろついていたところです」
「それは親孝行な息子さんを持って、お母様はお幸せね」
「どうでしょうか、家にはほとんど帰りませんから放蕩息子だと思われてるのではないでしょうか」
「あら、帰っておられませんの?」
「平日は学園の寮ですし、休日は祖父にこき使われています」
「それは、放蕩息子とは言わないわ。随分と頑張っておられますのね」
そろそろ会話が終わってしまいそうで、マーガレットはドキドキしていた。では失礼しますとレイモンドが頭を下げそうな雰囲気に、気づけばマーガレットはレイモンドの上着の袖を捕まえていた。
「私、良いお店を存じております。ご案内いたしますわ」
一息にそう言い切って、そのまま様子を伺うようにレイナルドを見上げた。母の方は、恐くて見れなかった。
レイナルドは少しだけ迷ったようだけれど、すぐに腰を折ってマーガレットと目線の高さを合わせると、ではお願いできますかと笑った。その優しい笑顔にマーガレットは、コクコクと頷いた。
マーガレットがレイナルドを案内したのは、前にロードリックと来たことがある雑貨屋だった。庶民向けの店のため、手頃な値段できれいな物がたくさんあったのでちょうどいいと思ったのだ。
よかったら選んでくださいとレイナルドに頼まれてマーガレットは、あれでもない、これでもないと迷いに迷って、最後にベージュの布に花の刺繍が入った肩掛けを選んだ。
ありがとうと言われてそれだけで嬉しかったのに、レイナルドはお礼ですと可愛いペンダントをくれた。トップの飾りは琥珀色のガラスの小鳥で、マーガレットの瞳の色に合わせてくれたのだとすぐにわかる。
赤茶色の髪ほどではないけれど、マーガレットは自分の瞳の色も嫌いだった。もし母のような紫の瞳なら、少しは美しく見えたかもしれないのにといつも思っていた。
だけど現金なことに、レイナルドから琥珀色のガラスの小鳥をもらった途端、マーガレットは琥珀色もそれほど悪くないのではないかと思った。華やかさはないけれど、落ち着いていい色なのではないかと。
レイナルドと別れて帰りの馬車の中で、マーガレットが琥珀色の小鳥を飽きることなく見つめていると、母が大きなため息をついた。
「まあ、あんなに素敵な方では無理もないけれど」
続く言葉が予想でき過ぎて、マーガレットは慌てて小鳥を手の平に握り込んだ。母が取り上げるとは思わないけれど、それでも取られないように拳に力を込める。
「マーガレットの婚約者は、ロードリック殿下です。それを忘れては、絶対にだめよ。もし忘れたら、困るのはマーガレットだけではありませんからね」
困るのはマーガレットだけではなく、王太子の婚約者に想いを寄せられたレイナルドも困った立場に立たされることになる。たとえマーガレットの一方的な想いであっても、必ずそうなる。
「忘れません、絶対に」
「だったらいいわ。心の中に憧れの方がいるくらいは、きっと神様も見逃してくださるから」
「本当に?」
「ええ、そうよ。だけど心の中だけよ、他の人に知られてはいけないわ」
ガラスの小鳥をぎゅっと握って、マーガレットはしっかりと頷いた。そして、その夜に書いた日記には、レイナルドのことを『あの方』と記した。
マーガレットがレイナルドと街で偶然会った日から三か月ほど経つと、王立学園を卒業したレイナルドが正式に祖父のアラン・エドモンズ博士に弟子入りし、師匠の助手兼世話係として王宮に住むようになった。そのおかげでマーガレットは、月に一度のお茶会の行き帰りにレイナルドの姿を遠くに見つけたり、運が良ければ一言二言の挨拶を交わすことが出来るようになったのだ。
それは、マーガレットにとって心躍る出来事であったけれど、そんな心の内は綺麗に隠して、あくまでも主治医の助手に対する礼儀正しさを崩さなかったので、二人が話をしている姿を見た誰もが、さすがに公爵令嬢は幼くともよく躾られていると思うだけだった。
思えば、この頃が少女時代のマーガレットの最後の幸せな日々だったのかもしれない。
父は疎遠であったけれど、頼れる母がいて、大好きな侍女がいて、他の使用人たちも優しくて。親に決められた婚約者にさえ、恋ではなかったけれどほのかな情のようなものは感じはじめていて、そして憧れの人がいる。
マーガレットのレイナルドに対する想いもまた、その頃はまだ恋ではなかったのだろう。恋に恋する年頃にありがちな、優しい夢のようなもの。
だけど皮肉なことにその優しい夢が育ってしまったのは、母の病が切っ掛けだった。