元公爵令嬢の回顧 3
ひと月後、薄い布が幾重にも重なった淡いグリーンのドレスをまとったマーガレットは、初めて王宮に足を踏み入れた。みすぼらしいとまで言われた赤茶色の髪は、サラの手によって両サイドが編み込まれ、白い百合の花をかたどった大きな髪飾りがつけられた。
本当は、謁見の間までサラについて来て欲しかった。だけどそれは許されず、サラとは馬車を降りたところで別れなければならなかった。
心細さと、婚約者となる王子様と初めて会えるほのかな期待を胸にマーガレットは、正装した両親の後についてうつむいたままで謁見の間を進んだ。父に娘のマーガレットですと紹介され、よろしくお願いいたしますと家庭教師に叩き込まれたカーテシーを披露する。
「そんなに畏まらなくともよい、顔を上げよ」
王の声が聞こえ、ゆっくりとマーガレットは顔を上げた。そして、初めて婚約者となった王子の顔を見たのだった。
父から一方的に婚約を知らされてから、その日までは一か月の猶予があった。
公爵家御用達の仕立て屋を呼び、ドレスのデザインを決めて布を選んで。ドレスに合わせた靴と髪飾りも注文して、アクセサリーは母が祖母から譲り受けたという素晴らしい真珠のネックレスとイヤリングを頂いた。
顔合わせの日のための準備をするその間ずっと、会う人会う人みんなが口々に、おめでとうございます、素晴らしい、王太子殿下はとても美しい方だとか、お似合いですね、羨ましいですと、同じような台詞を笑顔で言った。
何度も何度もおめでとうございますと言われ、注文した可愛いドレスが届き、靴と髪飾りが届き、試着してみれば屋敷中の使用人が集まって可愛い可愛いと褒められて。
そんな日々を過ごすうちに、最初は戸惑いしかなかったマーガレットの中にも少しずつ期待のようなものが育って行った。
銀色の髪と澄んだ青い瞳の、ロードリック王太子殿下。
どんな方だろう、お優しい方ならいいのだけれど。
そうして緊張と共に小さな胸を膨らませていた顔合わせの日、王の声に促されて顔を上げたマーガレットの目に映ったのは、わかりやすくがっかりした顔の王太子だった。
光を弾くプラチナブロンドの髪に、美しい湖面を思わせるアイスブルーの瞳。その色合いのせいで少し冷たく見えるだけだと思いたかった。だけど、八歳でも好意を持ってもらえたかどうかくらいはわかるのだ。
……ああ、私は気に入られなかった。
短い挨拶だけで婚約は正式に決まり、誓約の書類にサインをしたあとは婚約者同士で親睦を深めるようにと、二人きりのお茶会となった。
秋の花々に彩られた庭園にある東屋までロードリックは礼儀正しくマーガレットをエスコートしてくれたけれど、カーテシーから顔をあげた瞬間のがっかりした顔が頭にこびりついてしまったマーガレットは上手く笑えなかった。
席に着いても顔色は悪く、華奢な体を小刻みに震わせていたマーガレットに王宮の使用人たちが気を利かせて、馬車の中で待っていたサラを呼んでくれた。サラの顔を見た途端に強張っていた体から力が抜けて、それでようやくマーガレットは少しだけ表情を緩めることができた。でなければ、暇な時は何をして過ごしますかとか、お好きな食べ物は何ですかなどの、ロードリックの質問に答えることさえ出来なかっただろう。
本を読むのが好きです、フルーツが好きですと、か細い声で答えながら飲んだお茶は、高級なお茶だろうと思うのに味がしなかった。お菓子も勧められたが、とても喉を通りそうになかったので縋るようにサラを見れば、サラが代わりに丁寧な言葉で断ってくれた。
マーガレットにとっては幸いなことに息が詰まるばかりでちっとも楽しくなかったお茶会は、お茶を一杯飲み終わるとすぐにお開きになった。案内の者が来ますからと言って、ロードリックはマーガレットを東屋に置いて去ってしまう。お茶のお代わりはいかがですかと勧めてもらったけれど、マーガレットは首を横に振った。
お茶を飲むでもなく、美しく整えられた庭園を眺めるでもなくしばしの時を過ごすと、侍従らしき若い男性がやって来て、ご両親の所にご案内しますと慇懃に頭を下げた。
侍従の男性と、後からついて来るサラの間で自分の足元ばかりを見ながら廊下を歩いていたら、サラの「あ」という小さな声が聞こえた。
お嬢様と耳元で囁かれて顔をあげれば、長い廊下の先に分厚い本を何冊も抱えたミルクティー色の髪の少年がこちらに向かって歩いて来るところだった。
「……レイナルド様」
小さく呟いてしまってから、ハッと口を押えた。前を行く侍従に聞こえてしまっただろうかと思ったけれど、侍従の歩調に変化はない。
やがてレイナルドが近くまで来ると、マーガレットはスカートをつまんで腰を落とした。
「ごきげんよう、エドモンズ様。先日は、ありがとうございました。エドモンズ博士にも、往診していただいてマーガレット・ラウレンツが感謝していたとお伝えいただけますでしょうか」
そう挨拶して顔を上げれば、マーガレットを見る若草色の目が優しく細められていた。アイスブルーの瞳に冷たく見られたばかりなだけに、それだけでマーガレットの胸がきゅっと締め付けられる。
「グリーンのドレスに大きな花が見えたから、どこの妖精が迷い込んだのかと思えばラウレンツ公爵令嬢でしたか。ご丁寧にありがとうございます。感謝だなんて言っていただけたら祖父が喜びますよ」
やわらかな声でそんなことを言われたものだから、それまで真っ白だったマーガレットの頬にほのかな赤味が差す。貴族男性が女性の容姿や装いを褒めるのは挨拶みたいなものだとわかっていても、それでも妖精みたいだなんて言われて嬉しくない女の子はいない。
一気に浮上しかけた気持ちだが、だけどあることに気づいてすうっと沈んだ。
彼は、グリーンのドレスと花の髪飾りを妖精のようだと言っただけで、そこにマーガレット自身を褒める要素はない。つまり貴族の礼儀として装いを褒めたのであって、マーガレットの容姿は褒められていないのだ。
やはり私は、美しくないのだわ。
母や、屋敷の使用人たちはマーガレットを可愛いと言ってくれるけれど、それは身内の贔屓目か、もしくはお世辞だったのだろう。このファーニヴァル王国では、金や銀の髪に鮮やかな色の瞳が美しいとされている。マーガレットはそのどちらも持っていないのだから、美しいわけがない。
遠く王家の血を引く母は、目が覚めるようなアッシュブロンドの髪に珍しい紫の瞳を持っている。父だってくすんだ色ではあるが金髪なのに、どうしてその娘の髪が赤茶色なのか。
いっそ赤毛なら情熱的な美しさだと言われるし、黒髪なら神秘的だと褒められる。
それなのに、赤茶色。
同じ茶系でもサラのような焦げ茶や、アラン・エドモンズ博士のような柔らかなキャメルブラウン、そして今、目の前に立っている彼のような優しい色だったらよかったのに。
「あまり似合いませんでしょう、こんな大きな髪飾り」
左耳の上につけた髪飾りに手をやりながら恥じるようにマーガレットがそう言うと、レイナルドはきょとんと目を丸くした。若草色の瞳は、そんな風に大きく見開くとその鮮やかさを増すようだった。
「とてもお似合いだと思いますけど……マーガレット様の髪は温かい色ですから、白い花はよく映えますね」
きょとんと目を丸くするのは、今度はマーガレットの番だった。温かい色というのは、もしかしたら褒めてもらえたのだろうか。父にみすぼらしいと言われた、赤茶色なのに。
「マーガレット様はその名の通り、マーガレットの花の妖精のように可愛らしいです。いや、髪飾りが百合だから、百合の妖精かな……とにかく、お似合いです」
侍従が待っていることに気づいたのかレイナルドは、軽く一礼して去って行った。真っ赤になってしまった顔を隠すためにマーガレットは、先ほどよりもっとずっとうつむかなければならなかった。
案内された控室にすでに父の姿はなく、一人で待っていた母はマーガレットの顔が赤いことに気づいたようだけれど何も言わずにいてくれた。
そんな風にして、マーガレットは王太子の婚約者になった。