元公爵令嬢の回顧 2
ロブがいつからラウレンツ公爵家に勤めていたのかは知らないが、サラがやって来た時のことは覚えている。それはメグ……いや、マーガレットが七歳の時で、八歳年上のサラは十五歳だった。
これはマーガレットが随分と後になってから知ったことだが、一代男爵家の娘だったサラは、両親を馬車の事故で一度に亡くして身寄りがなくなったところを遠い親戚の伝手を頼って、侍女見習いとしてラウレンツ公爵家に来たのだそうだ。
使用人の中で一番年が近かったせいか、それともその優しい雰囲気ゆえだったのか覚えていないけれど、マーガレットはすぐにサラになついた。それでマーガレットの母のフローレンスが、まだ若すぎるけれど一緒に育っていくのもいい事でしょうと、サラをマーガレットの専属にしたのだ。
それからは、サラはずっとマーガレットのそばにいてくれた。
身の回りの世話をするのはもちろんのこと、マーガレットが家庭教師について勉強している時も後ろで控えていたし、外出する時も常に一緒だった。
使用人に子育てを任せてしまう貴族女性が多い中でマーガレットの母はその手でマーガレットを育ててくれたけれど、その母と過ごした時間よりサラと過ごした時間の方がずっと長い。
あの時もそうだった。
マーガレットがレイナルドと初めて会ったその瞬間も、サラは部屋の隅に控えて見守ってくれていたのだ。
あれは、八歳になったばかりの頃だった。涼しくなり始めた秋口に引いた風邪をこじらせて、マーガレットが高熱を出してしまったことがあった。
喉が痛くて、頭が痛くて苦しくて、もうこのまま死んでしまうのかしらと不安になっていたマーガレットの前に現れた、一人の少年。濃く淹れたミルクティーのような薄茶色の髪は、同じ茶系なのにマーガレットの赤茶色の髪とは全然違っていて、明るい若葉色の瞳と相まってとても優しげに見えた。
ベッドから動けず、熱と痛みのせいではっきりしない頭でマーガレットは誰だろうかと考えた。小さい頃から何度も診てもらっているから、エドモンズ博士は知っている。そのエドモンズ博士と一緒に来てお手伝いをしているようだから、お弟子さんだろうか。
本当は、お名前を教えてくださいと言いたかった。でも喉が痛くて声が上手く出せなかったし、頭を枕から上げるのも辛い状態では無理だったのだ。
だから、目が合った時に笑ってみた。すると少年はちょっと驚いたような顔をして、それからふわりと笑い返してくれた。
マーガレットより随分と年上だろうにその笑顔はどこか無邪気に見えて、やっぱり優しそうな方と、マーガレットは嬉しくなった。
そんなマーガレットの様子を少し離れた場所で見ていた優秀な侍女のサラは、診察の後でしっかりと名前を訊いておいてくれたのだ。
エドモンズ博士のお孫さんで、レイナルド様とおっしゃるそうですよとサラに教えてもらったマーガレットは、レイナルド様と小さく呟いて、それがなんだかどうしようもなく恥ずかしくてブランケットの下に潜り込んだ。
八歳の少女の、小さな胸に灯された淡い想い。
恋になるにはまだまだ時間がかかる、ともすればいつのまにか消えてしまっているような、憧れの種のようなもの。
胸がドキドキするのはどうしてだろう、顔が熱いのはまた熱が上がっているのだろうか。
マーガレットがブランケットに包まって一人でジタバタしていた、そんな時だった。ほとんど屋敷に寄り付かないラウレンツ公爵、つまりマーガレットの父親が珍しく帰って来て、まだ熱が下がらずにベッドの住人だった娘の部屋にいきなり入って来たかと思うと前置きも何もなく、婚約が決まったと言い放ったのだった。
貴族、それも公爵家のような高位の貴族なら幼い頃から婚約者が決まっているのは珍しいことではない。
マーガレットは、八歳。
公爵家の長女であれば遅いくらいなのだが、それでも全く予想していなかったことにマーガレットは呆然とするばかりで何も言えなかった。
そんな主人に代わり、口を開いたのはやはりサラだった。
「旦那様、お相手をお伺いしても?」
「王太子殿下だ」
「お、王太子殿下ですか?」
「顔合わせは、ひと月後だ。それまでに準備を整えろ」
「は、はい……かしこまりました」
「そうだな、派手な髪飾りでも用意してあのみすぼらしい髪が目立たないようにしておけ」
実の娘に対するあまりに酷い言い様にさすがのサラも言葉を失っている間に、公爵はさっさと部屋を出て行き、そのまま屋敷からも出て行った。
主従が揃って呆然としていると、執事のマーカスを伴った母が慌てた様子で部屋に入って来た。そして、ベッドに覆いかぶさるようにしてまだ熱のある娘を抱きしめた。
「ロードリック殿下は、銀の髪と青い瞳のとても美しい御方だそうですよ。大丈夫、マーガレットならきっと仲良くしていただけるわ」
その母の言葉でマーガレットは、本当に自分の婚約が決まったのだと知った。
「可愛いドレスを作りましょうね、何色がいいかしら」
未来の国王の婚約者になるということをまだ八歳だったマーガレットが本当の意味で理解できたわけではなかったけれど、父の判断ひとつで自分の未来が決められてしまったことだけはわかった。
傍らを見れば、サラが大きな目を見開いたままで青ざめている。
王太子との婚約なんて貴族令嬢にとってこの上ない幸運であるのに、マーガレットの一番そばにいて、マーガレットの心を大切にしてくれるサラだからこそ、少女の中に灯ったばかりのほのかな想いが大人の都合で吹き消されるのが痛ましかったのだろう。
だけど、マーガレットが見ているのに気づくとすぐにサラは笑顔を作って、おめでとうございますと言ってマーガレットの手を握った。
「奥様、お嬢様なら淡い色がお似合いだと思います」
「そうね……ピンク、水色、クリーム色もいいかしら」
ピンクと聞いて、マーガレットの肩がびくっと揺れた。この赤茶色の髪にピンクは似合わない。
「お母様、私……」
ピンクは嫌ですと言いたいのに、言葉が続かない。みずぼらしいと吐き捨てるように言った、父の声が耳にこびりついている。
「奥様、淡いグリーンも素敵ですわ」
「そうね、いいかもしれないわね」
「淡いグリーンのドレスに花の髪飾りをつければ、きっと可愛いです」
「あら、いいわね」
母とサラの会話を聞きながら、マーガレットはブランケットを顔の上まで引っ張り上げた。まだ熱が下がらないのね、そうなんですと聞こえたけれど、そのまま目を閉じる。
銀色の髪と青い瞳の王子様を思い浮かべようとしてみたけれど、上手くいかなかった。