元公爵の後悔 1
残酷な描写があります。
苦手な方は、離脱してください。
いつも通される応接室と比べるまでもない質素な控室で、固い椅子に浅く腰を下ろしたモーリス・ラウレンツ公爵はさっきからこめかみをぐりぐりと揉んでいた。
昨夜は一睡もできなかったせいか、体がだるくて気分が悪い。
鈍く重い頭でどうしてこんなことになってしまったのかと考えるが、いくら考えても答えは出なかった。
ただモーリスの脳裏に浮かぶのは、赤茶色の髪の男だ。やせ細った体に青白い顔、全体に幽鬼か何かのような薄い印象なのにその髪の色だけが今でもくっきりと目の端に残っている。
デインズ・ファラー。
ファラー伯爵家の嫡男で、モーリスの二歳年上の実兄だ。
そうだ、全ての元凶はあの男じゃないかと思い至ると同時に、モーリスの両のこめかみに痛みが走った。ううっと、思わず呻きが漏れてしまうほどの激痛を息を止めてやり過ごす。
ここ数年のことだが、モーリスは頭痛に悩まされていた。頭全体が痛むのではなく、一部分だけに釘か何かを打ち込まれたかのような激痛に襲われる。それは頭頂部に近いあたりだったり、今日のようにこめかみだったり、首に近い低い位置だったりと、その時によりまちまちであるのだけれど、痛み方は同じだ。
ズキっと一瞬だけ強く痛んで、余韻を残してやがて消える。そしてまたズキっと痛むのが、延々と繰り返される。
医者に薬をもらっているが、あまり効果はない。外国から高価な薬茶を取り寄せてみたけれど、それも効いているのかどうかもわからなくて、苦いのもあってそのうち飲むのをやめてしまった。
こめかみを揉んでいた手を膝の上におろして、モーリスは大きく息を吐いた。本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。
モーリスの兄、デインズは生まれつき虚弱で、子供の頃はずっと自室で寝てばかりいた。
そんな兄に母はかかりきりであったし、王宮で監査官という要職についていた父も気にかけるのはちょっとした風邪でもすぐに死にかける兄のことばかりで、健康に生まれた弟のモーリスのことなど見向きもされなかった。
モーリスを育ててくれたのは乳母を始めとする使用人たちであり、子供の頃のモーリスの記憶には親と過ごした時間というものがほとんど見当たらない。
それでもモーリスが不満を言わなかったのは、兄はいずれ儚くなる可哀想な人だと思っていたせいだった。
兄が亡くなれば、この家の子供はモーリス一人だけだ。そうなればファラー伯爵家を継ぐのはモーリスということになるのだから、両親だってさすがにモーリスのことを思い出すだろう。
モーリスは、おとなしく兄の命が尽きる日を待っていた。
だけど、ずっと寝台に横たわってばかりいた兄は成長するに従って少しずつ体力をつけていき、十五歳になると、とても通うのは無理だろうと医者に言われていたのにも関わらず王立学園に入学したのだった。
注文していた王立学園の制服が届いて、両親の前で試着して見せていた兄の姿を今でもはっきりと覚えている。母は泣いていた、父の目にも涙が滲んでいた。お似合いです、素敵ですと使用人たちからも口々に褒められた兄の誇らしげな顔と、その赤茶色の髪。
ファラー伯爵家では時々、兄のような赤茶色の髪の子供が生まれるのだそうだ。家を興した初代の髪が赤茶色だったそうで、ファーニヴァル王国では決して美しいとはされないその髪色をファラー伯爵家だけは貴ぶのだ。
モーリスのくすんだ金色の髪は父と同じ色だったのに、誰の目にも映っていないかのようだった。
実際には、両親はきちんとモーリスを気にかけていたし、使用人たちもしっかりと次男に仕えていたのだけれど、虚弱な長男を最優先にすることはファラー伯爵家の不文律であったために、どうしたって健康に問題のないモーリスは後回しにされがちだった。
いずれ兄は死ぬのだからそれまでの辛抱だと思っていたモーリスにとって、人並みに学園に通う兄の姿は忌々しいものでしかなかった。しかも、兄の看病から解放されて余裕が出来たのか、兄が学園の二年生になった年に母が懐妊して男の子を産んだ。
ファラー伯爵家の三男はブライアンと名付けられ、久しぶりの子育てに屋敷中が沸いた。
モーリスの王立学園への入学はブライアンが生まれたばかりの頃だったため誰にも見向きされなかったことも、モーリスの心を曇らせた一因となった。しかし、それでもモーリスは何も言わずにただ淡々と学園に通った。
モーリスが王立学園に入学して一番驚いたことは、三年生になった兄の隣に一人の美しい令嬢が寄り添っていたことだった。アッシュブロンドの長い髪に神秘的な紫色の瞳。女性にしては背の高いその令嬢の名前は、フローレンス・ラウレンツ。なんと、ラウレンツ公爵家の一人娘だった。
ほどなくして兄はフローレンスを両親に紹介して、ラウレンツ公爵家への婿入りを望まれていることを打ち明けた。
両親は、願ってもない良縁だと言って喜んだ。
この国では女性が爵位を継ぐことは認められていないので、次期ラウレンツ公爵は入り婿になる兄ということになる。ファラー伯爵家なら次男のモーリスが継げばいいのだから、お前は何も気にせず好きな人と結婚すればいいと言って祝福する両親の姿は、モーリスにはひどく苛立つものだった。
子供の頃からモーリスは、兄はそう遠くなく死ぬだろうからファラー伯爵家を継ぐのは自分だと思ってきたけれど、同じ爵位を継ぐにしてもこれは違う。あんな死にぞこないの兄が公爵になるのに、どうして自分は伯爵なのか。
そんなモーリスの鬱憤などお構いなしに、ブライアンの誕生に続いてデインズの婚約で屋敷のお祭りムードはさらに盛り上がった。
しかしそんな幸運ばかりが続くわけもなく、学園を卒業して公爵家の領地管理を学びながら結婚の準備を進めていた兄が倒れた。思えばそんなに休むこともなく学園に通えていたこの三年間は兄にとって、ろうそくが消える間近になると炎を強くするようなものだったのかもしれない、
十八歳で倒れた兄は、続く十九歳を寝台の上で過ごし、二十歳になることなく天に召された。
兄を溺愛していた母は泣き崩れ、そんな母に父は仕事を休んで寄り添った。やんちゃで使用人たちを振り回していたブライアンはいつの間にか妙におとなしい子供になっていて、モーリスだけが以前と変わらない日々を過ごした。
そして、兄の死からひと月ほど経った頃にラウレンツ公爵家から、話があるから伯爵夫妻に当家までご足労願いたいとの書状が届けられ、父と母が揃って出向いたところフローレンスの腹に兄の子供が宿っている事実が知らされたのだった。
それまでどうやって隠していたのか、産み月は三か月後だと言われて悲しみにくれていた両親は真っ青になった。
要は、未婚の公爵令嬢の妊娠なわけだ。その外聞の悪さは、計り知れない。
デインズとフローレンスはきちんと婚約はしていたものの、デインズの病で結婚は延期されたままほとんど白紙に戻ったような状態だった。そんな中での妊娠、おまけに責任を取るべき父親はすでに他界している。
もっとも、そのことを両親から聞かされてもモーリスには他人事で、産み月から逆算して、寝台から立ち上がるのも辛そうだったあの頃の兄に子供を作る体力があったのだなと変なところに感心しただけだったのだが、そのモーリスに両親は白羽の矢を立てたのだ。
公爵令嬢に父のない子を産ませるわけにはいかない。ここは弟のお前が兄に代わって責任を取って結婚しろと言われてモーリスは、両親の正気を疑った。
王立学園を卒業して、その頃のモーリスはファラー伯爵になるべく経験を積んでいた。それなのに、兄の代わりに婿入りしろと言う。ファラー家はブライアンに継がせる、お前はラウレンツ公爵になれるのだから文句はないだろうと言われてモーリスはとうとう切れた。
ふざけるな、俺は兄上の代用品じゃない!
モーリスが両親に向かって怒鳴ったのは、それが初めてのことだった。
これまでずっと無口で温厚だと思っていた次男がいきなり牙を剥いたのだから、父と母は滑稽なほど驚いた。しかし、だからと言って簡単に諦めるわけにいかないのはラウレンツ公爵、つまりフローレンスの父だった。
未婚の貴族令嬢が父のない子供なんて産んだら、行く先は修道院と決まっている。
それを回避するには、一日でも早く結婚させるしかない。
フローレンスを産んだ時の産褥熱で公爵夫人は亡くなっていたために、妻の命と引き換えにこの世に生まれて来た娘を父の公爵はそれはもう目に入れても痛くないくらいに可愛がっていた。
その娘を修道院に行かせなければならない瀬戸際にラウレンツ公爵は、たかだか伯爵家の次男でしかないモーリスに必死に頭を下げたのだ。
もしも娘と結婚してくれたら爵位を譲り、自分は領地の片隅に隠居して公爵家のことには一切口を出さない。娘を妻と思わなくてもいい、外で好きな女と暮らしてくれてもかまわない。ただ君は、書類上だけでも娘の子の父親になってくれるだけでいい。
元はと言えば、自分の命が残り少ないことを知りながらフローレンスを抱いた兄が悪いのに、ラウレンツ公爵はこれほどの条件を提示し、さらには両親にも懇願されてモーリスも最後には折れた。
モーリスが承諾するとすぐに必要な書類がラウレンツ公爵の手から王に提出された、もちろん結婚式はなしだ。
国によっては一定の婚約期間を設けなければ貴族の結婚は認められないが、ファーニヴァルはその点においてはぬるい。もっともこんな風に結婚すると婚前交渉の上で身籠ったなと噂されてしまうのだが、実際にフローレンスは婚姻が成立して三か月も経たずに出産したのだから何と言われても仕方のないことだった。
フローレンスが娘を産み落としてすぐ、モーリスは約束通り爵位を継いでラウレンツ公爵となった。
モーリスは一度だけ、マーガレットと名付けられた赤ん坊を見に行ったことがある。だけどふわふわと薄く生えた髪の色を見た途端に踵を返し、そのまま公爵家の屋敷に居つくことはなかった。
有り余る公爵家の金でもって街中に大きな屋敷を買い、使用人を雇ってモーリスは暮らし始めた。公爵家の領地管理は管財人に丸投げして、王都の広大な屋敷は執事に任せっきりで仕事は一切しなかった。それでもたいそうな額の金が勝手に転がり込んで来るのだから、必死で走り回って管理しなくてはすぐに傾いてしまう伯爵家とは雲泥の差だ。
イザベラは、モーリスの屋敷で雇っていたメイドの一人だった。
男の使用人は適当に、女の使用人はモーリスの好みで選んだのだが、元は男爵家の娘だったけれど没落して平民になったというイザベラは特にモーリスの好みの見た目と体で、モーリスが夜な夜なイザベラを自分の寝室に連れ込むようになるまでたいした時間はかからなかった。
健康な男女が睦合えば子が出来るのは道理で、やがてイザベラは女の子を産んだ。
輝かんばかりの金色の髪と宝石のような青い瞳のモーリスの娘は、マーガレットなんかより何倍も美しかった。
リリアナという名前は、モーリスがつけた。天使のような娘にふさわしい名前を考えに考えてつけたのだが、その美しさにふさわしい美しい名前だと思った。
本当にリリアナは、可愛かった。
赤ん坊の頃は、仕事をしないモーリスは日がな一日その腕にリリアナを抱いて過ごしたし、よちよちと歩くようになれば転ばないようにとそのあとをついて歩いた。膝の上で絵本を読み聞かせ、手を繋いで散歩する。夜はもちろんリリアナに添い寝して、イザベラを寝所に呼ぶことはほとんどなくなった。
リリアナは、モーリスの全てだった。
リリアナを産んでくれたイザベラも内縁の妻として何不自由ない暮らしをさせたが、モーリスの宝物は何といってもリリアナだ。
リリアナ以外にモーリスの関心を引くものは、何もなかった。
領地で隠居生活をしていた元ラウレンツ公爵が風邪をこじらせてあっけなく亡くなったという知らせにもそうかと頷いただけであったし、取引に失敗して多額の借金を抱えたファラーの両親が援助して欲しいと来た時も執事に追い返させて会うこともしなかった。
モーリスが見捨てたファラー伯爵家は何年か踏ん張っていたが結局どうにもならなかったようで、領地を売り払い、王都のタウンハウスも引き払って両親と弟のブライアンは行方知れずとなったらしいが、そんなことはリリアナの成長を見守ることに比べたらモーリスにとっては些事でさえなかったのだ。
少しずつ、少しずつ成長していく愛しいリリアナ。
リリアナが笑えばモーリスの心は何かあたたかなもので満たされたし、我儘を言って泣く声でさえ天使の歌声に聞こえた。
自分が幼少期に親から顧みられなかった反動もあったのだろう、モーリスはありったけの愛をリリアナに注ぎ続けた。
しかし、そんなモーリスの愛が溢れる毎日に陰りが見えたのは、リリアナが五歳になったばかりの頃だった。その日のモーリスは庭でリリアナを遊ばせていたのだが、庭の木に作られていた小鳥の巣から雛が一羽落ちていたのをリリアナが見つけたのだ。
まだ羽の生えていないグロテスクな見た目のその雛は、落ちた拍子に体を強く打ちつけたようでもう見るからに虫の息だった。可哀想にこれは助からないとモーリスが呟いた瞬間だった、リリアナが靴の底で何のためらいもなく雛を踏み潰したのだ。
リリアナと、叫んだ声が引きつった。リリアナは目をぱっちりと開けて大きな声を出したモーリスを見上げ、だって助からないのでしょうと不思議そうに首を傾げた。
リリアナにしてみれば、助からないから楽にしてやっただけなのだろう。その理屈は理解できないこともないが、リリアナの小さな白い靴が血の色に染まっているのがあまりに生々しくてモーリスは言葉を失った。
子供は時に残酷なものだと、何かの本で読んだことがあった。死という概念がまだ曖昧であったり、動物にも命があるということをきちんと理解できていないことがあるらしい。
モーリスは、動物の親子が出て来る話であるとか、仲のいい友達同士の話であるとか、とにかく優しい話の絵本を毎日リリアナに読み聞かせた。そして、ことあるごとに命の大切さを教え諭した。
リリアナは、大きな青い目をきょとんと見開いてモーリスの話をおとなしく聞いていたので、あの小鳥の雛を踏み潰した時の強烈な印象はモーリスの中で段々と薄れて行った。
リリアナが六歳になって、ますますその愛らしさが際立って来た頃に王の名前でラウレンツ公爵宛てに書状が届いた。お召に従いモーリスが王宮に赴くと、王から直接にラウレンツ公爵家の長女マーガレットを王太子の婚約者としたいが如何かと問われた。
一応は、こちらの意向を確認しているようでいて、それは明らかに命令だった。よりによってあんなみすぼらしい娘が王太子の婚約者になるなど馬鹿げていると思ったが、そんな内心は見せずにありがたくお受けいたしますと答えた。
モーリスは、公爵家の仕事を管財人や執事に丸投げしていたが、それでもどうしても公爵本人の署名が必要な書類というものはあるもので、時々ではあるが公爵家に呼ばれることがあった。書斎で執事に言われるままに署名して、終わればすぐに帰るのだが、そんな短い滞在であってもたまにマーガレットの姿を垣間見ることがある。
美しいリリアナの足元にも及ばない地味な娘、モーリスの目に映ったマーガレットの印象はそんなところだ。何といってもあの髪が醜い。母のフローレンスは、そこそこ見栄えがいい女なのに、その娘のみすぼらしさはどうしたことか。やはり父親が悪いんだなとモーリスは、マーガレットを見るたびに心の中で嘲笑っていた。
そのマーガレットが王太子の婚約者になるという。
これがリリアナならば王妃にふさわしいだろうが、あんな赤茶色の髪の娘ではティアラが似合う筈がない。もっともモーリスはリリアナを嫁に出す気などさらさらないので、マーガレットの方でよかったわけだが。
それからひと月の後にあった顔合わせの場でマーガレットは醜いなりに着飾っていたけれど、やはりと言うか当然というか、王太子はマーガレットを気に入らなかったようだ。もっともそんなことはモーリスには関係がないので、顔合わせが済むとすぐにリリアナが待つ屋敷へと帰ったのだった。
ゆっくりと大きくなっていくリリアナ。
モーリスの中で幼く可愛らしい姿を永遠にとどめておきたい気持ちと、どんどんと美しさを増していくのが楽しみな気持ちがせめぎ合う。
リリアナは七歳を過ぎると、使用人に手をあげるようになった。誰にでもではない、気に入っている何人かの侍女にはとても優しくて、自分のお菓子やきれいな小物などをあげたりする。だけど気に入らない使用人には辛辣で、可愛い声で口汚く罵り、小さな手でパチっとその頬や腕などを叩くのだ。
もっとも七歳の女の子なので、叩かれたとしてもたいして痛くもなく問題にはなっていなかったのだが、それでもリリアナが庭師の老人の足を後ろから蹴るのを目撃したモーリスは、何年か前のあの小鳥の雛を踏み潰したリリアナの姿を思い出した。
子供は時に残酷なものだ。
七歳などまだまだ子供だ、人を理由もなく叩いたり蹴ったりしたらいけないのだとまだ理解していないだけなのだ。
そう思おうとしたけれど、何か薄暗いものがモーリスの胸に忍び込んで来る。
そんな頃だった、庭に入り込んでいた猫が死んでいたという報告がちょくちょくと耳に入るようになったのは。
この辺りは繁華街が近いせいか野良猫が多く、屋敷の勝手口に置いたゴミ箱を漁りに来るらしい。使用人の中に猫好きがいて残飯をやったりするので、なおさら来るのだとか。
野良猫が来る、それはいい。
使用人が餌をやっている、そんな些細なことを怒るほど狭量な主人ではない。
だけど、その野良猫が死ぬ。
例えばカラスに襲われて死んだとか、悪い物を食べて死んだとか、そんな自然の死ならば、可哀想だがそれも仕方のないことだ。
だけど報告に来た執事によれば、ナイフで首を刺されていたとか、手足が踏みつけられたようにつぶれていたとか、あきらかに自然死ではない状態で発見されるらしい。
それが何匹も、何匹も。
そしてとうとう、その時はやって来た。
執事に付き添われてモーリスの書斎に入って来た下働きのハウスメイドの手に握られていたのは、先日モーリスが買ってやったばかりのリリアナのドレスだったのだ。