元公爵令嬢の回顧 14
一息に飲み干したワインは、甘くて美味しかった。入っているのが毒ではなく睡眠薬だと知っているから恐れずに飲めたというのも勿論あるが、だけどマーガレットはその時、ほんの少しも不安がなかったのだ。
もしこのまま本当に死ぬのだとしてもかまわない、それほどの幸せを感じていた。
ぐらりと視界が揺れて、自分の体が倒れて行くのがわかる。しっかりと受け止めてくれたのは、レイナルドの腕だろう。意識を失う直前に、少し離れた位置に他の騎士たちと並んで立っているギブスが見えた。マーガレットの視線に気づいたのか、一瞬だけいい笑顔を見せる。
そこでもう何もわからなくなった。
そして、次に目を開けた時には大好きな人がボロボロと涙を流しながらマーガレットを見つめていて、やはりここは幸せの国なのだと思った。
「……サラ」
弱々しく小さな声しか出なかったけれど、サラの耳にはきちんと届いたらしい。サラは涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらに歪ませて、子供みたいな泣き声をあげた。
「お嬢様ぁー」
酷いです、こんなに心配させて酷いですとサラに泣きながら叱られた。ごめんなさいと何度も言ったら、もっと泣かれてしまった。
散々泣かれて、散々怒られて、最後には笑って。
ああ、やはりここは幸せの国だった。マーガレットは、やっと辿り着けたのだ。
「こちらは、エドモンズ博士の隠れ家だそうですよ。老後の住処として購入されて、今はまだ使用人も置いていないのでたまに一人でお過ごしになりたい時にいらっしゃるのだそうです」
水を一杯もらって、それでもまだ喉が渇いていて、久しぶりにサラが淹れたお茶が飲みたいと我儘を言えばすぐに用意してくれた。サラの美味しい紅茶を飲めば条件反射のようにお菓子が欲しくなったけれど、起きてすぐは吐いてしまう可能性があるからお食事はまだ駄目だそうですよと言われ、優秀なお医者様の指示なら仕方ないとここは我慢することにする。
ちなみにマーガレットを助けてくれた二人のお医者様たちは今、手分けして事後処理とこれから先の手配に奔走してくれているのだとか。
「それでサラは、どうしてここにいるの?」
お代わりの紅茶を注いでもらいながらマーガレットが首を傾げると、サラはティーポットをトンっとテーブルに置いてからマーガレットの向かいに座った。
いつものサラならティーポットを置く時に音なんて立てないし、マーガレットと同じテーブルに着くこともない。真正面からサラに見つめられてマーガレットは、ティーカップを置いて姿勢を正した。
「主人からお嬢様が牢に入れられたと聞いて、居ても立ってもいられずにラウレンツ公爵邸の方に行ってみたのですけれど門前払いされてしまって、それで今度は王宮の方へ行ってみたのですけどやっぱり入れてもらえなくて」
「サラ、さすがにそれは無茶よ」
「はい、主人の名前を出せば入れてもらえるかと思ったのですが、下級文官程度では駄目でした」
「サラったら」
サラの夫が王宮で働いていることは勿論知っていたが、王太子の婚約者と下級文官ではこれまで顔を合わせることすらなかった。その顔を合わせることのない文官の耳にまでマーガレットが投獄されたという噂が入ったわけだ。ずっと牢にいて外の様子がわからなかったマーガレットとしては、これはいささか複雑な気分だった。
「それでも諦められなくて、もしかしてと思ってエドモンズ博士を呼んで欲しいと頼んでみたんです。対応してくださった門番の方が、お嬢様と一緒に王宮に通っていた頃の私を覚えてくださっていて、本当は駄目なんだけど特別だよとエドモンズ博士に連絡してくださったんです」
「そうだったの」
もちろんアランもレイナルドもサラをよく知っているから、それで今回の計画にサラも手を貸すことになったらしい。
「そういえばサラ、双子ちゃんは?連れて来ているわけではないわよね」
サラは去年、双子の女の子を出産した。そのことをサラからの手紙で知ったマーガレットは、侍女に頼んで綺麗なハンカチを二枚用意してもらって、琥珀色の鳥と黄色い薔薇、それに双子の名前をそれぞれ刺繍した物を贈ったのだった。
モニカとマリナと名付けられたその双子は、今はもう一歳を過ぎているだろうけれど、二人で留守番するには当たり前だが幼過ぎる。
「主人が休みを取って見てくれています」
「あら、それではメナーズ氏にも迷惑をかけてしまったのね」
「迷惑じゃないです。うちの人は娘たちにメロメロですから、堂々と仕事を休めた上に娘と遊べて、かえって嬉しそうでした」
「素敵な旦那様ね、羨ましいわ」
「羨ましいのは私の方ですよ。お嬢様、レイナルド様を見事に射落とされましたね」
ここまでずっと真剣な顔ばかり見せていたサラがようやく表情を緩めた。からかうようなサラの言葉にマーガレットは、恥ずかしいより嬉しい気持ちの方が勝つ。私だってなかなかやるものでしょうといった顔をして見せると、サラの表情がもっと柔らかくなった。
「私、今日は朝からこちらのお屋敷で待機していたのですけれど、レイナルド様がお嬢様を抱いて運んでいらして、それはもう颯爽としていて恰好良かったのです」
抱いて運んだというのは、もちろん馬車から屋敷の中まで運んだということだろうけれど、それでもレイナルドに抱えられたというのは、マーガレットにしてみればこれもまた複雑な気分だ。嬉しいけれど恥ずかしいし、重くなかっただろうかと思えば不安にもなるし。
「夜までには帰るから待っていてと、未来の旦那様からの伝言ですよ」
「もう、サラったらからかわないで」
お互いに喋ることがいくらでもあるサラとの時間はあっと言う間に過ぎて、予告通りレイナルドは辺りが暗くなる前に帰って来た。ちゃんと自分の足で立って出迎えたマーガレットを両手に抱えていた荷物を床に下ろしてから、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「そばを離れてごめん、不安じゃなかった?」
「サラがいてくれたもの。驚きましたけれど、不安なんてなかったですわ」
レイナルドが持って来た鞄には、少年が着るような服が何枚か入っていた。レイナルドには小さいだろうそれらはレイナルドの古着だそうで、実家から持って来たんだと言ってマーガレットに渡した。
「君はこれを着て男のふりをして、明日の朝に僕と一緒に王都を出るんだ」
「どこに行きますの?」
「まだ決めていないけれど、西を目指そうと思う」
ファーニヴァル王国の周辺は、同じような小さな国がいくつもあるのだが、それらの国々を通り抜けると、西の大国アドラムがある。もし東に進めば軍事国家として名高いグラッサム帝国に行き着くことになるので、外国人に厳しいグラッサムより大らかな農耕国家であるアドラムの方がいいのは、誰が考えてもわかることだった。
「メレディス」
「何?」
「アドラム王国のメレディスに、昔ラウレンツでシェフをしていたロブという人がいます。ロブの家は商家だそうで、何かあったら力になると言われているのです」
「学術都市メレディスか」
「ご存知ですの?」
「そりゃあね、僕たちみたいな研究者にとっては憧れの都だよ」
「まあ、そうですのね」
メレディスについて調べた時のことを思い出してみると、確かに医科大学というものが存在していた。それに疫病研究所や薬学研究所など、医学に関する研究所がいくつもあった筈だ。
「しかし、遠いな。街道を使っても三か月はかかる。関所を避けようと思ったら、どれだけかかるか」
「そんなにかかりますの、では無理ですね」
「いや、遠くても行く価値はあるよ。アドラムはファーニヴァルと国交がないからね、メレディスまで行ければ、君を知っている人なんてまずいないよ」
「それは、そうかもしれませんが」
「それに、いかにも僕が行きそうな街だ。誰に知られても納得すると思うよ」
これも実家から持って来たらしい地図を広げて、レイナルドが道を検討しはじめた。とりあえずは辺境の村々を巡る旅に出たということにして、ファーニヴァル国内では街道を使わずに人が少ない山沿いを進む方がいいだろうと、レイナルドの指先が地図の上をなぞる。
「レイナルド様、申し訳ございません」
「どうしたの?」
「私のせいでレイナルド様は故郷を……」
「気にしなくていい、両親はわかってくれた」
「でも」
気にしなくていいわけがない。街道を使っても三か月もかかるアドラム王国に行くとなると、もしかしたらもう一生会えない可能性だってあるのだ。
「それより僕は、メレディスに行けると思うとワクワクしているんだ。絶対にじい様が羨ましがる、賭けてもいいよ」
「レイナルド様ったら」
マーガレットの心を軽くするためだろう、楽しそうに笑うレイナルドにマーガレットも笑顔を見せた。今頃、末息子の突然の旅立ちに涙を流しているかもしれないレイナルドの両親のことを思うと胸が詰まるけれど、それでもマーガレットはどうしてもレイナルドと離れることはできなかった。
やはり私は、ひどい女なのかもしれない。
レイナルドには、誰よりも幸せになって欲しいと思う。本当の、本心からそう思っているのに、だけどこんな面倒ごとに巻き込んでしまっている。もしマーガレットと出会わなければレイナルドは、誰か他の人を愛して結ばれて、両親や二人の兄、それに祖父のアランと一緒にこの国で穏やかに暮らしていけただろう。
「そのロブという人、ラウレンツ家でシェフをしていたんだよね?だったら、僕がよくいただいていたサンドイッチはその人が作っていたのかな」
母が病に伏していた頃、週に一度の往診を決して欠かすことのなかったアランとその助手のレイナルドに、よくお土産にサンドイッチなどの軽食や菓子などを持って帰ってもらっていたのだ。
もう随分と前のことなのに言われてみると鮮やかに思い出せて、懐かしさからマーガレットは笑みを零した。
「私、ロブが作ったチーズガレットが大好きなのですわ」
「それなら僕も覚えているよ、あれは甘すぎなくて美味しかった」
「また食べられるかしら」
「きっと食べられるよ。だから行こう、僕と一緒に」
この人の妻となって、一生一緒に生きて行く。
もうあれこれ思い迷うことは止めようと、マーガレットは思った。差し出される手を取って、ただレイナルドを信じてこの先を歩いて行けばいい。
真っ直ぐにマーガレットを見つめてくれるレイナルドに今度こそしっかりと頷いてから、マーガレットはサラを呼んだ。はさみを探して欲しいと言えば、すぐに持って来てくれる。荷造りをするなら必要かと思ってサラが家から持って来た物だそうだけれど、それを借りてマーガレットは腰に届くほど伸ばしていた赤茶色の髪を首の後ろで迷うことなくザクっと切った。
「お嬢様っ」
「マーガレット!」
サラとレイナルドが揃って真っ青になったけれど、急に体が軽くなった気がしてマーガレットは嬉しくなった。
「だって、男の子に変装するなら髪が短くなくてはおかしいわ」
「それはそうかもしれないけれど」
「髪なんてまた伸びるもの、いくら切っても平気よ」
「君は、思いきりが良すぎるよ」
脱力したように座り込んだレイナルドよりもずっと早く立ち直ったサラが、ガタガタじゃないですかと切り揃えてくれる。試着と称してレイナルドの古着に着換えて、帽子を目深にかぶってみたけれど、男の子に見えるかどうかは微妙なところだった。
「これは、逆に目立ってしまうかもしれませんね」
「サラ、どうしたらいいと思う?」
「ある程度、王都から離れたら女の子の服に着替えた方がいいと思います。男の子のふりをしている女の子より、女の子の服を着ている女の子の方が絶対に目立ちません」
「確かに」
サラともこれで本当にお別れなのだということは、わざと考えないようにした。ラウレンツ公爵邸のマーガレットの部屋でいつも喋っていたのと同じ調子で、軽く言葉を交わしながら旅の準備をする。
絶対に泣かないと決めていた。両親に別れを告げて来たレイナルドが笑っているのに、マーガレットが泣くなんて許されないと思った。
だけど、目前に迫った別れのことを考えまいと必死になっていたマーガレットの健気な努力などお構いなしに、暗くなってから人目を避けてやって来たアランが目的地がメレディスと知ってレイナルドの予想通りに羨ましがり、自分も行くと言い出したのだった。
「行く」
「いや、無理だって」
「今すぐには無理でも、絶対に行く」
「じい様……」
「レイナルド、メレディスで生活の基盤が整ったら手紙を出せ。それまでに王宮侍医は辞めておく、なあにこの年なら引退すると言えば通るだろうよ」
「それは、通るだろうけど」
「アドラムは気候が穏やかだからな、ひ孫の世話をしながら余生を過ごすのにちょうどいいだろう」
「じい様の目的は、ひ孫じゃなくて大学でしょう」
「いや、ひ孫も楽しみにしとるぞ」
「はいはい」
アランのひ孫というのはつまり、レイナルドとマーガレットの子供のことだ。当たり前に生まれる前提な話にマーガレットがぽっと頬を赤らめたけれど、そんなことには誰も気づかず次に声を上げたのはサラだった。
「だったら、私も行きます」
「サラったら、さすがにそれは無理よ」
「ええ、モニカとマリナが小さいですから今すぐに長旅は無理ですけれど、エドモンズ博士が行かれる頃ならきっと大丈夫だと思います」
「ご主人の仕事はどうするの」
「エドモンズ博士、旅の間だけでも主人を従者にしてくださいませんか」
「いいぞ」
「まあ、年寄りの一人旅は不安だから僕もそうしてもらえるとありがたいけど」
「ちょっと待って、そんな簡単に決めることではないでしょう?」
「ええ、もちろん主人に相談します。と言うか、説得します。絶対に行きます、待っててくださいお嬢様」
「サラぁ?」
これで最後だ、もう会えないと思い込んでいたマーガレットが滑稽になるほど、サラはあっさりと移住を決めてしまった。アランによろしくお願いしますと頭をさげて、レイナルドも交えて三人でこれからのことを話し合っている。
「そういうことはもっと慎重に、旦那さんともよく話し合って」
「お嬢様、明日の朝は早いのですからもうお休みになられた方がいいですよ」
「サラ……」
子供の頃、本を読んでいてなかなか寝ようとしなかったらサラに寝台に放り込まれたのと同じように横にされて、こんなの眠れるはずがないと思ったのに、眠るまでおそばにおりますよと手を握ってくれたサラのぬくもりにあっさりと眠ってしまっていた。
そして翌朝、必ずあとから行くと言うアランとサラとは屋敷で別れ、まだ薄っすらと闇が居座っているような時間にレイナルドとマーガレットは、王都の大門が開くと同時に旅立った。
愛馬の手綱を引くレイナルドと寄り添ってマーガレットは、もう二度と戻ることがないだろう故郷を振り返ることはしなかった。