元公爵令嬢の回顧 13
ガシャン、ドン、バキッと、何かが壊れたりぶつかったりする音に、何をするんだ、気が狂ったかなどの罵声が混じる。これにはさすがに無視してはおれずに、様子を伺おうとマーガレットが少しだけ頭を寝台から浮かせた時にガシャンっと大きな音を立てて牢の扉が開け放たれて、誰か背の高い男が入って来た。
「ラウレンツ公爵令嬢、ご無事ですか」
知っている声だった、知っている顔だった。背の高い黒髪の騎士はロードリックの護衛をしていることが多いけれど、マーガレットの護衛についてくれることもある。以前、サラの結婚式にマーガレットが出席した時にも護衛をしてくれた彼は、確か……。
「ギ、ブス様?」
「はい、近衛騎士団所属、マティアス・ギブスです」
掠れた声を何とか絞り出したマーガレットがパチパチと目を瞬かせていると、ギブスはその長身を二つに折ってマーガレットに対して深々と頭を下げた。
「公爵令嬢をこんな地下牢なんかに入れてしまい、お詫びの申し上げようもございません。すぐに貴族牢の方へお移り頂きたいのですが、立てますでしょうか」
ほんの数分前までは起き上がることなどとてもできそうになかったのに、ギブスに立てるかと訊かれてマーガレットは寝台の上で慌てて身を起こした。
「お怪我は、ありませんか?」
「は、はい、大丈夫です」
「立てそうですか?」
返事をする代わりに、足を寝台からおろして力を入れてみる。途端にぐらりと体が傾いだが、ギブスがすかさず支えてくれた。
「もしよろしければ、自分がお運びいたしますが」
「いえ、歩けます!」
一瞬、ギブスに抱き上げられている自分の姿が頭をかすめて、マーガレットは慌てて立ち上がった。やはり少しふらついてしまったが、またギブスが支えてくれる。
「ゆっくりでかまいません」
「はい」
なんとか一歩、また一歩と足を動かして牢から出ると、何故かマーガレットを尋問していた数人の騎士たちが廊下に一列に並んでいる。そのほとんどが口の端を血で汚していたり、頬を赤く腫らしいたりして、さっき聞こえた音からすれば殴られたのであろうと推測できる。
「すみません、女性騎士を連れて来るべきでした」
「いえ、本当に自分で歩けますから」
角を曲がって、一列に並ばされていた騎士たちが見えなくなったあたりまで行くと頼りなかったマーガレットの足取りが幾分しっかりしてきた。もしマーガレットが落ちても受け止められるようにだろう、階段ではギブスがすぐ後ろを歩いてくれて、手すりに縋りながらたっぷりと時間がかかったものの何とか登り切ったマーガレットは、地下とはまるで違う明るい部屋へと案内された。
「本当ならラウレンツ公爵令嬢のお部屋の方へお戻りいただきたいのですが、こちらの部屋でご辛抱願います。自分が休暇など取っていなければ最初からこちらにご案内できましたものを、本当に申し訳ありません」
質素ではあるけれど清潔そうな寝具が用意されている寝台にマーガレットが腰かけてから、ギブスがまた頭を下げた。訳がわからないままここまで来たけれど、貴族であるマーガレットは本来、この貴族牢の方に入れられるべきであったらしい。
「あの、ギブス様」
「ギブスと、呼び捨てにしてください」
「いえ、あの、ギブス……様、呼びにくいのでギブス様と呼ばせてくださいませ」
「はい、ご随意に」
「あの、頭をあげて頂けますでしょうか。その、話しづらいので」
マーガレットがそう言うと、ギブスがようやく顔を上げた。短く切った黒髪にブルーグレーの瞳の、男らしく凛々しい顔立ちの青年だ。
「ギブス様、私……状況が把握できておりませんの。私は、妹を毒殺しようとした罪で捕らえられたということでよろしいのでしょうか」
「そういうことを訊かれてるということは、冤罪なのですね」
「身に覚えのないことですわ」
「成程」
ギブスは腕を組んで、しばらく考え込むように天井のあたりを睨んでいた。そのしばしの間がひどく長く感じられて、マーガレットは我慢できずに再び口を開いた。
「あの、ギブス様」
「はい」
「冤罪だと信じていただけるのですか?」
「自分は単なる護衛でしかありませんが、それでもラウレンツ公爵令嬢の人となりならそこそこ知っているつもりです」
「あ……ありがとうございます」
「当たり前のことです、感謝していただけるようなことではありません」
「それでも嬉しいのです」
そこでようやくマーガレットは、笑顔を浮かべることができた。いつもの花が咲くような笑顔に比べれば随分と弱々しい笑みではあったが、その無駄な物を全てそぎ落としてしまったような力の抜けた表情は清らかな美しさでギブスの視線をくぎ付けにしたのだが、マーガレット本人は見つめられていることに気づいていない。
「ラウレンツ公爵令嬢なら当然、我が国の毒薬に関する法律をご存知ですね」
「はい」
「処刑は、免れないかもしれません」
「……はい」
「ですが、我が主は非常に頭の切れる方です。そして、温情もお持ちです」
「あるじ……ですか?あの、それはどういう意味でしょうか」
ギブスは護衛騎士であるのだから、その主ということはロードリックだろうか。だけどマーガレットの知るロードリックは残念ながら、非常に頭が切れるとは言い難いと思う。学園での成績はいいが、頭の良さというものは学業の成績とはまた別の物だ。それに、リリアナと出会う前のロードリックであれば温情を持っていると言われてもマーガレットは素直に頷けたのだけれど、顔を合わせるたびに怒鳴りつけて来る最近のロードリックにその言葉はあまりにそぐわない。
「まあ、今は体力を取り戻すことが先決だと思いますよ。いざと言う時に動けなくては、困るでしょうし」
「え?」
「食事を運ばせましょう、あとは風呂の準備と着換えも必要ですね」
「え、あ、はい」
「すぐにメイドを呼んでまいりますので、それでは」
そう言うとギブスは、なんだかいい笑顔で部屋を出て行ってしまった。結局、肝心なことは何も答えてもらえなかったマーガレットは、寝台に腰かけたままで呆然と閉まってしまった扉を見つめた。
それからの数日は、拘束されていることが信じられないほどの穏やかさだった。この貴族牢は、扉には鍵が掛かっているのと窓に脱出防止の鉄格子がはまっている以外はごく普通の部屋で、食事はいつも食べているのと遜色ない物がきちんと運ばれて来るし、入浴の時には手伝いのメイドが二人来て世話をしてくれて、あまり華美ではないけれど清潔なドレスさえ貸してもらえる。おまけに、退屈でしょうからとギブスが本まで差し入れてくれた。
公爵家での暮らしよりよほど満たされた生活にマーガレットは、窓の鉄格子を度々確認しなければ自分の置かれている状況を忘れてしまいそうだった。そんな風に過ごして三日目に、マーガレットが会いたくてたまらない人がギブスに先導されて黒い鞄を片手に部屋に入って来た。
「ご令嬢の診察ですので、席を外していただけますか」
「いいでしょう」
何故かレイナルドの顔を真正面から見て、次に寝台に座っているマーガレットを見てからギブスは、やはりいい笑顔で部屋を出て行く。その笑顔が全部わかっているよと言われているみたいで、なんとも言えない気分でマーガレットはギブスの後ろ姿を見送った。
「マーガレット」
扉が閉まったのを確認してから、レイナルドがマーガレットを抱きしめた。その腕の中の温もりにホッと息を吐くと、マーガレットもレイナルドの背中に腕を回してぎゅっとしがみつく。
「マーガレット、このまま聞いて。君の処刑の立会人がじい様に決まった。じい様は、毒だと言って眠り薬を君に飲ませる。飲むとすぐに眠ってしまうけれど、ちゃんと目覚めるから恐がらなくてもいいよ。そして、君の体を解剖すると言ってじい様が引き取るからね」
危険だからそんなことは止めてと、いつものマーガレットなら言っていただろう。だけど先日来のギブスの思わせぶりな言動や態度から、もしかしたら大丈夫なのではないかという思いがあった。それに、アランが高名な医者であるおかげで可能になったその計画は、単純であるだけに失敗する確率は低いように思える。
マーガレットだって死にたいわけではないのだ。レイナルドやアランに危険がないのなら生きたい、この目の前の愛する人と共に人生を歩きたい。
「だからね、もし献体の話がでたら承諾するんだよ」
この人と生きられるのかもしれない、そう思うだけでマーガレットは自然と微笑んでいた。至近距離で見つめ合い、レイナルドが顔を動かすのと同時に目を閉じる。
初めての口づけが、マーガレットの中にまだ僅かに残っていた迷いを消した。自分が告白したせいで巻きこんでしまったという苦い後悔も、いつの間にか霧散している。
「必ず助ける、僕を信じて」
マーガレットの大好きな声が、耳元で囁く。外に聞こえないようにそうしているのだとわかっていても、嬉しくて幸せで涙が滲んだ。
「なにも心配しておりません」
こうしてレイナルドに抱きしめられていると、温かく柔らかな水の中をゆったりと漂っているような心地がする。婚約者に裏切られ、妹に嵌められて処刑を待つ身なのにこんなに幸せなんてどういうことなのだろう。
本当は、もっとキスしてとお願いしたかったけど言わなかった。これから先はいくらでも甘えられるのだから、その時までとっておけばいいと思った。