六、わくわくどきどき陽月の節
その日は続いていた長雨が嘘のようにぴたりと止み、からりと晴れたいい天気だった。兄様や崇人様といった陰陽寮の方々が寝る間も惜しんで陽や月、空を読み日夜陽乞いをした結果であろう。
祭用に仕立てた真新しい撫子に重ねた衣を纏い、私は朝からどきどきそわそわしては奥様に「落ち着きなさい」と何度も嗜められていた。それは家を出てからもどうにも止まらず、薄荷の涼やかな香りが薄く漂う車の中でも気持ちは落ち着くことはなく。
「これ寧子。そうきょろきょろとしているのははしたないからお止め」
「ごめんなさい奥様。でも、お屋敷の外に出るのもお祭りの見物もはじめてで、つい……」
「まあまあ奥様。いいじゃありませんか。まだ車の中なんですから、言い咎められることもありませんよ」
月波良のお家に養女として迎えられてからもう数年が経っていたが、基礎の基礎もない私が外に出るのは家の為にも私本人の為にもならないということで私はこれまでお屋敷の外に出た事がなかった。
陽月の節も去年までは奥様が一人で行き私はお留守番だったので(奥様は毎年行きたくなさそうにしていたが、元典侍であるためにいろいろと挨拶をしないといけない人がいるとかなんとか……)、はじめてのお出かけに私はもう車の御簾越しに見えてくるすべてに興味津々これからの事に胸がどきどき、とても落ち着いてなどいられなかったのだ。
「……車を降りたら許されませんからね」
はあとひとつ溜息を吐いて、奥様はとりあえずは諦めたらしい。私としても奥様に呆れられるような行動は慎みたいところだが、気持ちひとつで好奇心を捨てられたら苦労はしないのだ。
「姫様の装いですが、やはりもっと鮮やかなものの方がよかったかしら……」
「そうね……少しおとなしすぎる気が……」
そのまま窓の外を覗いていると、奥様と淡浪様が私の装いについて今更のような話をしはじめた。ちなみに私の今日の装いについてのこの話は朝から何度も行われている。
確かに、私くらいの娘が祭の日に着るにはやや地味かもしれないが、私にはどうしてもこれがいい理由があるのだ。
「もう!これがいいと何度も言ってます!」
「でも……」
納得いかないような奥様の声ももう何度目だろう。
これ以上蒸し返されて着替えさせられでもしたらたまらないので、朝からずっと隠していた本心を小さく小さく口にしてしまう。
「だって、奥様とおそろい、みたいじゃないですか」
今日の奥様の装いは藤の襲だ。折角の奥様とのお出かけ記念日、同じはおこがましいので同じではないけれど似たような色合いでお揃いになりたかったのだ。
恥ずかしくて奥様たちのお顔が見れず御簾の外を睨んでいると、奥様の方から珍しく大きな衣擦れの音と淡浪様の笑いを含んだ声が聞こえた。
「寧子……あなたって子は……」
「奥様、気を確かに!」
……恥ずかしくてたまらないけれど、これで今日はもうこのことには突っ込まれないだろう。
「ねえ寧子。無理にとは言いませんが、そろそろ“奥様”は止めませんか?」
「え?ええと……怜子様?」
「そうではなく、……母と、呼んでくれたら嬉しいと」
「そ、そんな!とても、畏れ多いことです……!」
私のようなものが奥様を母と呼ぶなどとんでもないと慌てて首を横に振るも、奥様はその返答に珍しく不満をあらわにした。
「あなたの出自がどうであれ、養女として迎え入れましたし私は本当の娘のように思っていますよ。まあ、でも、そうね、儚くおなりになられた母君のみを母と思いたいのであれば仕方のないことです」
「奥様……!……あの、私を産んでくれた母のところには、私の名が行きました。だから、あの、いいんです。でも、奥様を母と慕うなんておこがましくはないでしょうか」
「私自身がそう呼んでほしいと願っているのです。おこがましいなど、ありません。それに、章家のことは兄様と呼んでいると聞きましたよ」
「そう、ですか……。でしたら、……母様」
そっとそう呼んでみれば、奥様は一瞬息を飲み
「なにかしら、寧子」
と、優しい声色と瞳で返してくださったのだった。
そんなやり取りを経ながらかたことと規則正しい音を立てて進む車は、もう祭の舞台である宮廷へ到着する。
「月波良様、お待ち申し上げておりました。本日は章家様に代わりまして、逆由良家の子、崇人がご案内をさせていただきます。何かありましたらご遠慮なくお申し付けくださいませ」
車を降りた私達を迎えたのは、いつもと違う黒い衣に白袴を合わせ陰陽寮の紋が真ん中に描かれた薄布を顔に垂らした崇人様だった。
衣装も違えば髪型もいつもよりきっちり撫でられているし、声色もいつものような軽く砕けたようなものではなかったので最初は誰かわからなかったのは秘密である。
母様がそっと頷くように頭を下げ、私も見様見真似でそれに続く。それを受けた崇人様は深くお辞儀をしてから「こちらへ」といつものような真っすぐとした足取りで宮廷の奥へと進んでいった。
初めて訪れた宮廷は月波良のお屋敷の何倍も広く豪奢であった。眩い朱に塗られた柱と真白の壁、そこに飾られた金銀細工と花々、どこまでも続くつるりと磨かれた床に私は目を丸くするばかりだった。口をぽかんと開けなかっただけ褒められたいものである。
案内されたのは渡り廊下……というにはずいぶんと広々としたところに畳を敷き、几帳で区切られた小部屋のような場所だった。御簾の向こうには広い庭があり、中心に舞台が置かれ、周りを楽隊や男性用の席がぐるりと取り囲むように置かれている。
「こちらが月波良様のお席となります。ご用の際はこちらの鈴を鳴らしてくださいませ」
小部屋のひとつまで私達を案内した崇人様は母様に白い緒のついた鈴を渡して深くお辞儀をすると、さっとどこかへ行ってしまった。
淡浪様にすすめられるまま小部屋へと進めば、イ草のにおいと蓮の花のようなにおいがする。涼やかで甘くてでもそれだけではない緻密に編み込まれたその香りは宮廷独自の配合なのだろう。せっかくなのでこっそり胸いっぱいに吸っておくことにした。
座って休憩を取っていると、ふと母様の傍らに置かれた呼び出し用の鈴が目に入る。
「……こんな小さな鈴で聞こえるのでしょうか」
「ああ……、寧子は見た事がありませんでしたね。これには特別な術がかかっていて、術者がどこにいても聞こえるようになっているんですよ」
「はぁ……便利なものがあるんですね……」
小さく疑問を口にすれば、母様が鈴を見せながらそう教えてくださる。詳しくはわからないが、式神のようなものをつけてあるらしい。
ひと鳴らしでどこにいようと術者に聞こえるということは、つまり崇人様がこの鈴に術をかけたということだろうか。人のことを調伏すべきか悩んだりお使いばかりさせられてる下っ端と自称していたりの彼も、実はすごい人なのかもしれない。
「月波良様、春日居でございます」
鈴を音が鳴らないよう少しつついてみたりしていると、几帳の向こうから声がかけられた。私はその声と名前を存じ上げないけれど、母様や淡浪様には馴染みの声らしかった。ためらうことなく淡浪様がそっと几帳をずらすと、母様と同じくらいの年頃の女性が微笑みを浮かべていた。
「お久しぶりでございます月波良様、お会いできて嬉しゅうございますわ」
「こちらこそ。春日居様もお元気そうで何よりでございます」
目元に笑い皺をつけた優し気な瞳は、母様と一通り挨拶を交わした後、後ろに控えていた私へと移った。
「ああ、その子が?」
「ええ。寧子と言います。寧子、こちらは私の昔馴染みの春日居様です」
「ね、寧子と、申します……」
母様のお知り合い、きちんとご挨拶しなければと思ったけれど私の体は言う事を聞いてくれない。緊張でか細くなってしまった声を恨めしく思っていたが、春日居様はとくに気を害された様子もなくにこやかなままうんうんと頷かれている。
「寧子さんね。ふふ、お名前の通り借りてきた猫ちゃんみたい。お話は少しですが聞いていますよ、いろいろと大変でしょうが月波良様…怜子さんをどうかよろしくね」
「は、はい!」
そのまま二言三言、しどろもどろになりつつ春日居様と言葉を交わしていると、庭の方からどおんという大きな太鼓の音が三度聞こえてきた。その音にハッとしたように春日居様が立ち上がる。
「あらまあもうそんな時間?もっとお話したかったけれど戻らなくてはね。儀式の後はすぐ帰られるの?」
「いえ、今回は寧子もいますから、いつもよりはいるつもりです」
「あら、じゃあ後で一緒にお茶を頂きましょうよ。あなたと話したい方も、寧子さんが気になっている方も大勢いますしね。私達ももういつ儚くなるかわからないのだから機会は大切にしなくちゃ」
ではまた後で、と母様の返事を待たず春日居様はさらさらという衣擦れの音とともに立ち去って行ってしまう。
「まあ、あなたの顔見せもいずれしたいと思っていましたからね……。寧子、いいかしら?」
「はい、私は別に……、でも上手くお話しできなくて母様の顔に泥を塗らないか心配です」
「気にすることはないとは思いますが……、まあ頑張りなさい」
そう言って母様は私の髪をそっと梳いて、移動ですこし乱れていたらしい衣を直してくださる。その瞳の優しさが本当に本当の母様の娘になれたような気がして嬉しくて、すこしくすぐったかった。
また一つ、はじまりを知らせる太鼓の音がした。
なけなしのファンタジー要素が突然出てきました。
お読みいただきありがとうございます!愛!
評価・感想くださると嬉しいです!