五、第一印象は最悪か否か
季節は廻り、春が訪れた。
温かな陽気、芽吹く緑や花々、歌う鳥に気持ちも明るくなり、寧子は今日も庭の桜に登って空を見ていた。
ここに来て奥様の養女として暮らすようになりもう随分と経ったし楽しいと思う事も増えたけれど、やはりここで一人空を見上げるのは私にとって大切な時間だ。
(今日は奥様が用事でお出かけされているし、兄様も忙しくなるから当分はまた陰陽寮に泊まられるそう。つまりはひとり!なにをしてても許される日!素敵!)
風に揺れてはなびらを舞い散らせる桜を眺めながら、今日は何をしようか考える。このままお昼寝でもしようか、それとも読みかけだった物語でも紐解くか、そういえばこの間奥様から少し早いけれど夏向きの衣にと綺麗な反物をいただいたし縫い始めてもいいかもしれない。
そう考えたところで、すっかり貴族の子女のような発想になってしまった自分がなんだかおかしく思えて思わず笑ってしまった。思えば身に着けている何枚重ねにもなる衣の裾ももう踏みつけないし、所作や言葉遣いだって厳しいご指導を受けてだいぶそれらしくなった。……と思う。
不意に、視線を感じた。
この中庭に面した廊下は基本的に人が通らない。やってくるのはここにいる私を探しに来た女房か、奥の倉庫に用のあるものだけ。なんにせよ見知った女房の誰かだろうとそちらを振り向いて、危うく木から落ちるところだった。
そこにいたのは、こちらを無遠慮に見つめる白い束帯に身を包んだ若い男だった。
(え!誰!?男の人!?なんでここに)
目が合ってなお一言も発さない男と思わず睨み合う。
よくよく見て見れば男の衣は胸元に丸が唐草に囲まれた文様が刺繍されていた。かの文様は陰陽寮のものだ。陰陽寮といえば章家の勤め先で、その取っ掛かりを得た寧子は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
「あの……、陰陽寮の方とお見受けしますが、なにか……?」
動かずこちらをじっと見続ける男に意を決してそっと声をかけてみれば、彼は大げさなくらい飛び上がる。男は幾度か口をぱくぱくさせてからがばりと頭を下げた。
「お……私は逆由良 崇人と申します!陰陽寮より章家様の命で妹の寧子様に文をお持ちした次第でございます!」
「兄様から、私に?」
「え、あなたが……?」
「え?ええ、私が寧子ですけれど……」
「さ、桜の精ではなかったのですね……」
頬を薄く染めながら言われたものだから、つい「今私口説かれた!?」と驚きと少しの興奮と恥ずかしさに胸が高鳴る。こういうの、物語で読んだことある!というやつである。
「そ、そんな……」
「だから、調伏しないとって」
「…………は!?」
どうやら、私は口説かれてなどいなかったらしい。化け物呼ばわりされたことに貴族の子女らしからぬ声を上げてしまった。なんということだ。私のときめきを返してほしい。
「あんまり可憐だったので、なにかこう、人を惑わすモノなのかと……」
……いやいや待て、やはり口説かれているのでは?
悶々とする私をよそに、彼はいささか乱暴に懐から文を取り出し、こちらに見せるように掲げる。
「失礼いたしました。こちらが文でございます!」
口説かれたのかけなされたのかはさておき、私宛の文とはなんだろうかと興味を引かれた私は女房の誰かを呼んで受け取ってもらうことを忘れ、するりと桜の木から降り男に近寄った。もう手遅れである気はするが、袖で顔を隠しながら手紙を受取ろうと手を差し出してみれば、彼は少し悩んだ後膝をつき手すりの隙間から文を渡してきた。
「わざわざありがとうございます。でも誰か女房に渡してくださればよかったのに……恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「あ、ええと、最初はそのつもりで……。しかし案内してくださった女房様が途中急用だとかでどこかへ行かれそのまま迷っていたらこちらへ……」
「まあ……それは失礼いたしました」
お客様を途中で放り投げてそのままだなんて、誰がそんなことをしたのだろうと眉を顰めれば、彼は慌てて首を横に振った。
「いえ!悪いのは人のお宅を勝手に歩き回った私で!あなたが謝ることではございません!ふ、文はお渡ししましたので私はこれで失礼いたします!」
「あ、はい……。あの、帰り道はわかりますか?」
「…………あ」
そのぽかんとした顔に思わず吹き出してしまってから、近くにいた女房を捕まえて玄関まで案内させた。ただ、なんとなく知らない男性と顔を合わせてしまった事が言いにくくて、遠目で見たのだけれどお客様が困っていらっしゃるようだから案内してあげてと嘘をついてしまったのは秘密である。
陰陽寮の方とはいえ、彼と会うことはきっともうないだろうと思っていたけれど、それが間違いであると知るのはそう遠いことではなかった。
「あら崇人様、今日はなんのお使いですか?」
「こんにちは寧子さん。今日は着替えを持ってくるように命じられました」
「兄様ったら、ご自分でやったらよろしいのに!」
「いや、章家様は私を気遣ってくれているんですよ。息抜きをして来いって。章家様だって寧子さんと会いたいと思っているのに」
崇人は、週に一度はなにかしらの用を命じられて屋敷にやってきていた。だいたいは女房か奥様が対応していたけれど、奥様が留守だったりなにか用事をしている時なんかは私が話を聞いていたのですっかり顔見知り(まあ御簾越しなので顔はほとんど見えないが)だ。
「陰陽寮、お忙しいの?」
「ええ、まあ。私は下っ端なのでほとんどやる事がなくてこういう使いばかりですが。月読みの章家様は休憩もあまり取れないようです。もうじき陽月の節なのでどうにも……」
陽月の節は、毎年夏至と冬至の頃にやる祭である。
国生みの神が姿を変えたものと信じられているために陽と月の巡りを重要視しているこの国において、この年二回の祭はとても大事だ。我らを見守り続ける神々にこれまでの実りを感謝し、溜まった厄を祓い清め、これからの変わらぬ幸いを願う祭。
陰陽寮は日頃は陽や月、星を読んで暦を作ったりしていると聞く。そういった日常業務の他、必要であれば妖避けをしたり地鎮をしたり、今のように祭の前には日取りや方角の良し悪しを視たり無事に執り行えるよう詳しくは知らないが各種儀式をしているようだ。
崇人様も下っ端だと言っているが陰陽寮の所属に変わりはなく、やはり忙しいのだろう。その目の下には御簾越しでもわかるほど疲労が見えていた。
「そうですか……。じゃあ着替えと一緒にお菓子も少し包もうかしら。甘いものは疲れにいいと聞きますし」
「きっと喜びます。私も寧子さんが心配してらっしゃいましたよってお伝えしないと。そうしたら少しは休んでくださるはずですしね」
その少し大げさな溜息に思わず笑ってしまいながら控えていた女房様にお願いすれば、彼女は「よいお考えです」と微笑んで奥に取りに行ってくれる。
女房様が席を外したので二人きりの空間にさやさやと風が入ってきた。
「そうだ、崇人様!」
私は傍らに出してもらっていた菓子盆からちいさな干菓子を一つ取って御簾に寄った。お行儀がよくないしはしたないことだとわかってはいるが、今はそれを咎める女房様もいないので目をつぶってほしい。それらしくなったとはいえ、私の真ん中にはまだ気ままでお転婆な少女が残っているのだ。
「ね、寧子さん!?」
「はいどうぞ!崇人様もお疲れのご様子。私のおやつのおすそ分けで申し訳ないですけど」
「そんな!いただけません!というかいけませんよ寧子さん、女性が自ら御簾を上げるなんて――」
「はやくはやく!女房様が戻ってきちゃう!」
御簾を押し上げ、隙間から手を出す私に崇人様は目を白黒させた。そんな崇人様の手をひっつかんで干菓子を握らせれば、手に取ってしまったものをどうすることもできず彼は難しい顔をしながらそれをぽいと口に入れる。
「美味しいでしょう?」
「……、美味しい、です、が。あなたは月波良家の姫様なんですから、こんなこともうなさってはいけませんよ!」
「はあい」
ぷりぷりと怒る崇人様から逃げるように元の位置へ戻ったあたりで兄様への荷物を持った女房様が帰ってきた。セーフ、というやつである。
女房様から荷物を受け取った崇人様は「では」と立ち上がり帰ろうとしたが、一歩二歩進んだところで足を止めた。
「あ、そうだ」
「崇人様?」
「陽月の節、寧子さんも奥様とご一緒に見物にいらっしゃるのですよね?」
「ええ、そのつもりですが」
「私、お二人の案内を章家様に仰せつかっているので、当日はお任せください」
それだけ言うと頭を下げ、彼は足早に立ち去って行った。
ふむ、見知った人に案内してもらえるとは幸運である。私は安心感に頬を緩ませながら、先程崇人様にあげたのと同じ菓子を私もぽいと口にいれるのであった。
やっとほんのり恋愛小説っぽくなってきました。
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