三、大変なところに来てしまった
「姫、姫様!屋敷に着きましたよ!」
肩を揺さぶられて目を開ける。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
「ご、ごめんなさい!」
「いいんですよ。車ははじめてでしょう?疲れたのね」
飛び起きると女房様は優しく手を引いて私を車から降ろしてくださる。ぐらつかないよう車を支えてくださっていた従者の方に会釈をして、先を行く女房様を追いかけた。従者の方は私をなにやら渋い顔で見ていたが、しかたのないことだろう。身分もなにもない薄汚い娘に優しくする義理など彼にはないのだから。
私は女房様を追いかけて、追いかけようとして、足を止めた。
「どうしました?」
私がついてこない事に気付いて女房様が振り返る。
「あのう、そんな気はしていたのですけど、奥様って、とてもとても高貴なお方ですか…?」
なぜ足を止めたかって?女房様が入って行こうとしていた玄関が、とても、とても立派だったからだ。寺の玄関よりずっと広くてそれなのに隅に埃ひとつないほどぴかぴかで、柱の一部には飾り彫が施され、壁の漆喰は一部の隙もなく真っ白だったのだ。いや、おかしいなとは思っていたのだ。養女迎えに、高級品らしい牛車に、女房様による姫呼びに。しかしそれらはどこか他人事まるで夢のようだったので、現実感がなかった。どこかで、そんなことあるわけないと思っていた。そこでこのどう見ても豪邸が私に現実を突きつけ、足をがっちりと掴んだのである。
「高貴……そうですね。奥様は数年前まで典侍を御勤めになっていましたし、亡くなった大奥様は辿れば宮家に連なる家系のお生まれでしたし大旦那様は陰陽寮の長をされておりましたから、高貴と言って差し支えないでしょうね」
どこか誇らしげにそういう女房様の言う役職?はわからなかったけれど、高貴なことに間違いはなさそうで。
「ああ、お屋敷にびっくりしたの?大丈夫ですよ、じきに慣れます」
固まったままでいると女房様はにこやかにそう言って私の手を取った。一人で歩けますとその手を解く力もなく、私はただ背中に冷や汗を感じながらついて行くしかできなかったのだった。
(私、ここで本当にうまくやっていけるのかな……)
たまに何人かの女房様とすれ違い頭を下げられ慌てて下げ返しながら廊下を進み、そこでふと、“お客様”がいらっしゃらないことに気付く。
「あの、女房様。ええと、奥様は……?」
「ああ、あなたの部屋を整えさせるからとお先に行かれましたよ。あなたが肩に寄りかかっているものだから、随分とお名残り惜しそうでしたけどね」
「あ、これは内緒ですよ」と悪戯っぽく言った女房様にどう返していいかわからないまま廊下を進む。寺のぎしぎしとうるさいいつ抜けるかわからない廊下とは違って、丁寧に磨き上げられた廊下はいっそ踏むのが申し訳なかった。
(あああ!やっぱり足の裏洗っておくんだった!私の馬鹿!)
「奥様、姫様をお連れいたしました」
どうやら目的地についたらしい。ある部屋の前で女房様が言うと、「どうぞ」と返答が帰ってくる。そして戸が開けられると、そこに飛び込んできたのは物語のお姫様の部屋のような空間だった。
「わ、あ……」
「あらまあいい感じじゃないですか」
“お客様”――奥様とはじめてお会いした寺の広間くらいある広々とした部屋に、きらきらした細工が施された濡れた様に黒く光る調度品が置かれ、開け放たれた障子の先には優雅に枝を伸ばす大木がまるで一枚の絵のようで、私はただ口をぽかんと開けて立ち尽くすしかできない。
「猫さん、どうかしら?調度品はとりあえず私のお古でごめんなさいね、今度あなたの趣味に合うものをお願いしましょう」
「い、いえ!とんでもないです!あの、こんなすてきな、わたし、もったいないです……!というか、あの奥様がお使いになってたのなら、私、これがいいです……!」
「あら、そう?」
当然のように奥様が買い替えを提案してくるものだから、慌ててそう言えば奥様は少し残念そうにしていた。お、お金持ちって恐ろしい……!寺で質素倹約ひとかけらも無駄にせぬようにと叩き込まれてきた私には刺激が強すぎる……。お古だというこの飾り棚ひとつできっと寺の半年分の生活が賄えるわ……。
「それで、あれがお話しした木です。……登ったことはないけれど、毎年きちんと花を咲かせるしっかりした木ですし、きっと登っても大丈夫でしょう。」
奥様が大木を仰ぎ見る。そして、なにか思いついたように私に向き直った。
「ためしに、登ってごらん」
「え」
突然の話に唖然とする。
「登れる木か確かめないといけませんから」
「いえ、でも……」
さすがに躊躇する私の手を引いて奥様は縁側まで歩く。近くで見た木はりっぱな桜の木だった。もう葉も落ちてしまっているが、春になればきっとそれはそれは美しい姿を見せてくれるだろう。
「今なら私と奥様しかおりませんから。確かめないとならないのは本当ですしね」
そう女房様に背を押されてしまえば私には登る以外の選択肢などなく。そっと庭に降り立ち、恐る恐る木に手をかけた。
桜は案外脆いので太い枝を慎重に選びながらいつもの倍以上の時間をかけて登れば、下からは奥様と女房様の歓声が上がる。その声に気恥ずかしさを感じながら見回してみれば、そもそもそれほど背の高い木ではないので周囲こそ見えないが下にいた時よりもずっと解放感に溢れ、空が近く、緊張に張り詰めていた気持ちがすっと解れるような気持ちがした。
深呼吸をひとつして、もういいだろうかと木から降りれば再び歓声が私を出迎える。
「すごいわあ!姫様のような小さな女の子が、あんなにするする登って降りられるなんて!」
「本当に。猫の名は確かでした」
目を輝かせてそう言う二人に戸惑っていると、奥様がそっと私の頭を撫でる。
「この木は今日から私と、あなたの木にしましょう。この庭に面した廊下はできるだけ人が通らないようにしますから、自由にするといいわ」
優しく紡がれたその言葉が、なぜだかとても嬉しくて鼻の奥がツンと痛んだ。そして、なんにもない私だけれどこれからはたくさん頑張ってこの方のお役に立とうと胸に誓ったのだった。いただいたものは、きちんと返さなくては。
「奥様、淡浪様、湯殿の支度ができました」
誓いを立てたところで、部屋の外から声がした。
「ありがとう。さあ姫様、お風呂に入りましょうね」
「お、おふろ……?」
「馴染みがないかしら?大丈夫ですよ、私共がお手伝いしますからね」
「では私は部屋に戻ります。淡浪、笹平、この子をよろしくね」
そう言って奥様が控えめな衣擦れの音とともに立ち去ってしまえば、淡浪様と笹平と呼ばれた女房様が目を爛々と輝かせながら私の手をぎゅっと握ってどこかへと連れていく。
「やはり寺では満足に洗えないわよね。この日の為に色々用意しましたから、あなたもあっという間に高貴な姫様のようになれますよ。いいえ、この淡浪がしてみせますとも!」
いっそ恐ろしさすら感じさせるその気迫にどうしようもなく逃げ出したくなったが、手をしっかり握られていて逃げる事は叶わなかった。(そして逃げる場所もない)
「淡浪様、笹平もお手伝いいたします。姫様、大丈夫ですよ。怖いことも痛いこともありません、綺麗になるだけですからね!」
淡浪様より随分年若そうに見える笹平様は優しくそう言うが、その目は獲物を見つけた獣のようで私はなにひとつ安心などできなかったのだった。
「ひ、ひどいめにあった……」
やっと解放された私は疲れ果てていた。寺にはお風呂などないのでせいぜいが川での水浴びか沸かした湯で体を拭き清めるだけだったので、はじめて見た贅沢な作りの湯殿に気疲れしたせいもあるが、あれこれ塗りたくられこすられ流されまた塗られ流されの連続に私の気力と体力はすっかりなくなってしまったのだ。湯舟というお湯を張ったものに浸かるのは気持ちがよかったが、それでもあんな疲れるのならしばらくは遠慮したい。
「お疲れ様です姫様。……うん、随分と姫様らしくなられたじゃありませんか。どうです?苦しいとかございませんか?」
「重くて苦しくて汚しそうで怖くて転びそうで怖いです……」
さらに言うなれば湯上りに着せられたこの衣である。
これまで服と言えば擦り切れつぎはぎの薄い単衣が定番だったけれど、今私が着せられているのはシミひとつない真っ白な単衣に濃い色の袴を合わせ少しずつ色味の違う紅色の衣を何枚も重ねられたなんとも美しく可愛らしくかつとんでもなく動き難いものなのだ。
着せられた瞬間こそ「お姫様みたい!」とはしゃぐ心があったが、この支度をされた衣裳部屋から廊下へ出たあたりでもうその心は霧散してしまった。なにしろ重くて動き難い。なんなら一歩進もうとしたところで袴の裾を踏んで無様にも床板に接吻しかけた。
「あらあらまあまあ大丈夫時期に慣れますよ。木に登る方が難しいですから」
しかし、私の切実な訴えは軽い一言で片付けられてしまうのだった。無情である。
その後も何度か袴を踏み何枚も重なりずるりと長く垂れる衣を足に絡ませながらなんとか広間に辿り着く。さらにその一角に立てられた几帳の奥へと足を進めると、そこには奥様が静かに座って文かなにかを読んでおられた。
奥様は私に気が付くと静かに文を畳んで傍らの文箱へ片付けてから、私の姿をゆっくりと下から上へと見ていく。その静かさときりりとした瞳に品定めされるような居心地の悪さを感じた。
「……見違えましたね」
「あ、ありがとう、ございます?」
「もっと明るい色も良さそうですね。淡浪、なにかいい反物はある?なければいつもの所に注文しておいてちょうだいな」
「かしこまりました、そのように」
淡々と進んでいく会話に今再びの(お金持ちってこわい!)の気持ちを抱いていると、あれよあれよという間に几帳の中にいくつかのお膳が運び込まれてくる。白くふかりとしたご飯に湯気を立てる汁物、野菜の煮物や焼き物が美しい椀に美しく盛り付けられており、その天国のような光景と香りに私のお腹はなすすべなく鳴き声を上げた。
「ふふ……あなたはとても正直者のようですね。作法は追々学んでもらうとして、とりあえず今日はあなたの歓迎ですから遠慮なくたくさんおあがり」
なんとなく寒気のようなものを感じたが、美味しそうなご飯の前ではすべて無力。嫌な予感は今後の私に任せて、本能に突き動かされるまま箸を手に取るのだった。
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