二、牛車と私とお願い事
かたことと車輪が地面を踏む音となにやらとてつもなくいい匂いに包まれながら、私は凍ってしまったように固まって座っていた。
(ど、どう考えても場違い!なんで!どうして!?)
あのあと、とんとん拍子で話が進み、個人で持つ荷物のひとつもない私は身支度の暇すらなく着の身着のまま憐れむような子供たちの視線を浴びつつ“お客様”に連れられ寺の門前に停められていた牛車に乗せられ今に至る。
貧民街生まれ尼寺育ちの私には物の価値のことはさっぱりわからないけど、つるりと濡れた様に光る木やすこしのささくれもない滑らかな畳を見るにきっとこの車は高級品であろう。こんなことなら足の裏もきっちり洗っておくんだったと小一時間前の自分を責めたのだった。
そもそもそんな境遇に生まれ育った子供に車なんて高級品乗る機会もなく、怒涛の展開とはじめての経験に私は緊張でいっぱいいっぱいだった。
そんな私の気持ちなど無視して、私を乗せた車は山道をその悪路をものともせぬように規則正しく進んでいく。
(私、どうして選ばれたんだろう……)
私を望まれた時からもう幾度も考えた事を思う。
養女を迎えるのならば、生まれもよくわからない教育などもとから受けていない私ではなく、もっと相応しい子がいたはずだ。いや、あの寺にいた子供たちはやはり私と同じような身の上の子ばかりだったので教育を受けていないのはみんな同じだけれど、それにしても、もっとおしとやかな真面目な子はいっぱいいた。私が選ばれる理由が私にはさっぱりわからなかった。
そんなことを考えながら空間の美しさと裏腹の、薄汚れた自身を見る。何人もの子に着倒されつぎはぎだらけの自分の衣が随分粗末な(いや、粗末なことは確かなのだけれど)とっても恥ずかしいものに見えて、思えば髪の毛だってぱさぱさのぼさぼさだし手も足も傷だらけで、なにもかも不釣り合いな私は居たたまれない気持ちで俯いた。
(何回かんがえても、わかんないや……)
「ねえ、お菓子、食べるかしら?」
手をぎゅうと握り締め俯いていた私に、涼やかな声が降る。顔を上げれば、“お客様”はどこか恐る恐るといった風で私をじっと見つめていた。
その提案はとてつもなく魅力的であったが、すぐに首を縦に振るのもなにやら意地汚いような気がして、でもきっぱりと断れるほど我慢強くもない私は「ええと…」と小さく答えにならない声をあげるのが精いっぱいだった。
「お腹を鳴らしていたでしょう。淡浪、あれを出してあげて」
「はい、奥様」
しかし、それを知ってか知らずか“お客様”は私の返事を待たずに隣に座るお付きの女房様に小さく言う。女房様も一つ頷いて傍らの風呂敷から小さな紙の包みを取り出し私の前に差し出してきた。
「どうぞおあがり。これ、とっても美味しいのよ」
柔らかな笑みをたたえた女房様が包みを開くと、そこにはいくつかの唐果物が乗っていた。おやつといえば芋のふかしたやつかその辺で採った木の実がやっとの生活だった私ははじめてみたそれに恐る恐る手を伸ばし、端の方を少し齧る。
「……っ!おいしっ」
思わず大きな声を出しそうになって慌てて手で口を押さえる。
高貴な方の振る舞いなんて知らないけれど、女が大きな声を出すのは恥ずかしいことと尼僧に言い聞かされてきている。(寺にいた時はなにそれと思っていた。尼僧たちだって私を叱る時なんかは山に響き渡るような声を出していたし)失敗してしまったと顔を青くする私に、“お客様”と女房様は優しく微笑んでくださった。
「美味しいものを美味しいと言えるのは素敵な事です。気にせずお食べ」
「奥様の言う通りですよお。ここには奥様と私だけだから作法なんかも気にしなくてよろしいのよ」
さあもっとおあがりと勧めてくださる声に、目を丸くする。
……もしかして、私今日が命日なのかな?優しくて美しい方に選ばれて、おいしいお菓子を食べられて、こんな都合のいいことなにか罠があるに違いない…!
はっ!もしや夢?夢なの?次の瞬間目が覚めて私を抱くのは薄っぺらい布団なのね?
「あれまあどうしたの頬なんてつねって」
「いえ、夢なのかもと……」
「ふふふ、おかしなことをする子だこと!奥様も楽しい子を選ばれましたね」
ぎゅっとつねった頬はばっちり痛かったのでどうやらこれは現実らしい。
「……あなた、名は?」
やはりこれは何かの罠でこの先私はとんでもなく酷い目に合うのではと青くなりつつお菓子をさくさく食べていると、“お客様”はそう問うてきた。
そんな想像しながらよくお菓子を食べれるなって?そりゃあ食べるでしょうよ。最初で最後かもしれないんだから!
しかし、名、名ねぇ……。
「えと、名……は、ありません」
「まあ……不躾な質問でした、ごめんなさいね。寺で呼ばれていた名もないの?」
「それでしたら、猫、と」
ない、というのは厳密には違うと思う。寺に拾われる前は確かに名前があったはずだ。だけれど、小さかった私は母を亡くし行き場を失い寒空の下死の淵に立ったショックにぽかんと自身の名前だけを忘れてしまったのだ。
拾われてしばらくは口を利かず、便宜上で「猫」と呼んでいたらそのまま定着してしまい話すようになった時には忘れてしまっていたので尼僧たちも私の本当の名は知らない。着ていたぼろにも名前など書いてなかった。だから、名など今となってはもうわからないのだ。ちなみに猫の由来は拾われた当時の私は拾われた野良猫の様子と私がそっくりだったからとかなんとか。
きっと、本当の名の私はあの時死んでしまってお空の母のところにいってしまったのだろうと、そう思っている。
「ねこ……ですか?」
「あの、お寺に救われたときのようすが猫のようだったのと、恥ずかしいことですが、その……木とか、高い所に登るのが好きで。だから、尼僧様が猫のようねと。それで……」
「まあ……」
「あ!でも、あの、もうしませんので!」
木に登って遠くを見るのが好きだったが、きっともうできないし、するつもりもなかった。
目を見合わせる“お客様”と女房様に言い訳をするようにそう言えば、“お客様”は少し考えるように黙りこくってから、小さく話し始めた。
「うちの屋敷にはね、私が生まれた時に植えていただいた木があるのよ。丈夫な大きな木です。裏手にあるから仮に登ったところで誰も気付かないでしょうね」
「まあまあ、じゃあ姫のお部屋はその木がよく見える所にしましょうか。奥様の木を姫に見て頂けたら亡き大奥様や旦那様もさぞお喜びになりましょう」
くすくす笑いながらそう言う二人に、私はただ目を丸くするばかりで。
「あの、姫って…?」
「あら、あなたのことですよ。奥様の養女となられるのだから、つまりは姫様でしょう?」
私の問いに女房様は何でもない風に答える。姫?私が?こんな薄汚れたやせっぽちの子供が?姫!?
「養女として家に入ってもらう以上、これから色々覚えてもらわないといけないこともあります。ですが、だからといってあなたのこれまでを全て捨てさせるつもりはないのです。ひとつ、お願いを守ってくださったらそれ以外は自由にしてくれて構いません」
呆然とする私に“お客様”が静かにそう言う。
「お願い……?」
「あなたにはね、私の死に水を取ってもらいたいのよ」
しに、みず……?
まだ十も生きてはいない私には言われた言葉の意味はわからなかった。母を亡くし寺に育てば死は身近なものであったが、それと無縁のような尊いお方の口からでたそれが繋がらなかったのだ。それでも、にこやかなまま言われたその言葉が怖いものだと本能からわかって、背筋が凍るような気持がした。
「わかるかしら?……そうね、私が死んでいく時に一緒にいてほしいのよ」
“お客様”は私がわかっていない事を察したようでそう続ける。そっと紡がれる言葉に意味を理解してしまった私はどうしていいかわからず、何も言えない。目を見開き固まる私に“お客様”は「少し、風をいれましょうか」と微笑む。その言葉を受けた女房様が静かに車の窓に掛かる簾を半分ほど上げると、冷たい風が吹き込んできた。まだ車は山を下り切っていないようで、慣れ親しんだ山のにおいに強張っていた体から少し力が抜ける。
「私は、息子を一人しか授からなかったわ。やはり息子ひとりだと色々と不安があって。あなたに言う事ではないかもしれませんが、私の家系はどうも子が出来にくいようでね。だから親戚に頼もうにも都合の良い子がいなくて。別の家から打診もあったのだけれど、ちょっと……なんというか、信用ができなくてね。だからいっそ何も知らない子を、と思ったの」
開いた簾から外を眺めながら“お客様”はぽつりぽつりと言う。それは私に説明するようでいて、独り言を呟くような懺悔するようだった。
「ごめんなさいね、最初に言うべきでしたね」
不意に私に向き直ると“お客様”は深く頭を下げた。大人に、それもこんな高貴な方に頭を下げられた衝撃で私の頭は真っ白だった。
「あ、頭を上げてください!」
とにかくこの状態は良くないと叫ぶように言えば、“お客様”はゆるゆると頭を上げる。流れる黒髪から覗く瞳は寂し気に揺れ、四十にもなろうかというほどの彼女が、頼りない、まるで少女のように見えた。そのまましばし、沈黙が流れる。傍らに控えている女房様もなんとも言い難いように押し黙っていた。
巣に帰る山鳥の鳴く声が遠くから聞こえ、思い切って口を開く。
「私……、私は奥様にもらわれた身なので、お好きなように使ったらいいと思うんです。けど、ひとつ、お聞きしてもいいですか?」
「……なにかしら」
「どうして、私なんでしょう。そういうお役目なら、もっとしっかりした子の方がよかったんじゃないですか?」
“お客様”の願いは、本当に切実なもののようだった。どんな重いものなのかは子供の私にはあまりわからないけれど、“お客様”の瞳も声色もとても真剣だったし、その思いは薄汚い子供に頭を下げてまで願いたいものなのだ。
そうわかったからこそ、私はわからなかったのだ。なぜ、自分が選ばれたのか。
その問いに、“お客様”は目を閉じて答えた。
「あなたは、私を見ても恐れを抱くどころか目を輝かせたのだもの。私、長く生きてきたけれど初対面の方にあんな目で見られたのははじめてでした」
「本当に、うれしかったのです」と嚙みしめるように言う様はそれが本心であることを感じさせる。思っていなかったその答えに、私はどこか恥ずかしいような、はたまた嬉しいような、なんだかどうしようもないむず痒さを覚えた。
「それだけではありません。あの寺は亡くなった母が懇意にしていたところで尼僧様にも信頼がありました。それに、長くそういうお役目についておりましたので人を見る目はあると自負しております。一目見て、あなたならと感じたのです」
少し皺の寄った、それでも白魚のような指が私の手を取り、ぎゅっと握りしめる。その手は冷たく、すこし震えていた。
「……身勝手な願いだとわかっています。でも、どうかお願い」
正直に言えば、怖かった。
もうほとんど覚えていないけれど、母を亡くした悲しみが染みついているのか、一度は死の淵に立った記憶のせいか、私は“死”が恐ろしかった。育った寺でも、寺という以上死はやはり近かったが、ずっと見ないように逃げ回って生きてきた。
誰かの死に水を取るだなんて、考えただけでも足がすくむようだったが、それでも私には“お客様”の、彼女の願いをはねのけることができなかった。
「人を見る目がある」と言ったのはきっと本当だ。私は一目見た時からこのお方に魅了されていたのだから、どんなことを言われても首を横に振るなんてできない。
「わかり、ました」
私がそう言うと、“お客様”はもう一度「ごめんなさいね」と呟き私をぎゅうと抱きしめるのだった。
するりと肌を滑る衣に焚き染められた香の匂いを、私は一生忘れないだろう。
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