17
結構な高熱が出ていたが、環境の変化で体調も崩れたのだろう。良光は、とりあえず熱には果物かと仕事の帰り道に桃を買った。それなりに値が張った桃だけに、食べさせてやれば喜ぶかもしれないと淡く期待する。
玄関に放り投げられたリュックサックに蹴躓く。良光は舌打ちしながら、鞄を立てかけ、靴を脱ぐ。
「おふくろ! リュック、ここに落ちてんぞ!」
玄関入ってすぐ――目の前には階段があって、その下が空いたスペースを少しでも有効活用するかのようにトイレがある。その前には短いながらもリビングがあって、真っすぐ進めば洗面所や風呂があって、右手のドアを開ければリビングに通ずる。その短い廊下に母親が座り込んでいた。良光は、何をしているのかと首を傾げた。
「ああ、ちょうどよかった。今電話しようとしてたのよ。さっき家帰ってきたら、ここに倒れてて……ずっと、さっきから吐き続けてて」
「え、うわ……救急車呼ぶか」
何を抱えているのかと思えば、彩香は凌の頭を抱えていた。かなり吐いたのか、あたり一面どころか彩香の洋服も吐しゃ物まみれ。引きつれた呼吸をしている凌に、良光はスマートフォン取り出す。
「意識はあるし、さっき7119で病院紹介してもらって、タクシー呼んであるから大丈夫よ。お水と、タオルとレジ袋持ってきて」
「わ、わかった」
母親の背中側にあるリビングのドアをゆっくり開ける。良光は、テレビの前にあった薬のシートを見つけた。
「おふくろ! そいつ、薬、酒で飲んじゃったみたいだけど」
「え? ええ……」
まさか勝手に飲まないだろう。油断して、引き出しに入れっぱなしだった彩香は、空の薬のシートを見て後悔する。
「とりあえず、二階からこの子の財布持ってきて」
「わ、わかった」
慌てて二階に駆け上がった良光は、財布を見つけ握りしめる。階段を降りる間も、下から吐き戻す音が聴こえてきた。
「凌くん、口開けて! 口! つっかえちゃうでしょ! ほら! タクシー呼んであるから」
指で凌の口をこじ開け、誤嚥しないように体を支える。彩香は、背中を摩りながら、眠らないように声をかけていた。ふと、階段の上から、聞こえてくる息子の声に焦る。
「はい、救急です。ずっと吐いてて」
「え、ちょ、良光! もう病院には連絡してあるのよ!」
「おふくろ、病院どこ!」
「ここから、すぐの小児総合医療センター!」
「すぐ、来るって!」
階段を降りてきた息子に、彩香は苦笑いを浮かべた。外から聞こえてくるクラクションに、外へ目を向ける。
「呼んじゃったのね……リュックから、財布取り出して、タクシーの人にはかえってもらって」
「わかった」
「それから、凌くんの財布と薬のシートをまとめて、ママのカバンに入れて」
冷静な母親に、良光はすっと冷静さを取り戻す。言われたものを押し込み、手にしていたレジ袋とタオルもとりあえず中に入れた。
外へ出てタクシーにお金を渡して、手間を詫びた。救急車のサイレンに気づいた運転手が、何も言わず、ただお大事にとだけ言って帰っていく。
「患者さんは」
「中です」
ドアを開けた良光は、母親に声をかける。廊下にいた彩香は、その光景に項垂れた後、大きくうなずいた。
「すみません。意識はあるんですけど、吐き方がひどくて……息子が驚いちゃったみたいで」
「どうされましたか」
「熱が高くて、眠れなかったらしくて処方された睡眠薬をお酒で飲んじゃったみたいで」
「それ、ありますか」
母親に言われて救急隊に薬のシートを渡した良光は、ぐったりしている凌の姿に不安が募る。
搬送先に確認を取っている救急隊に、彩香はその隙に上のシャツだけ脱ぐと干してあった洗濯物のシャツに着替えていた。
「息子さん、最近悩んでましたか?」
「特にはないんですけど……凌くん、寝ちゃだめよ! 浅く呼吸しないの!」
救急車に収容される凌に、リュックサックを手に取った彩香も乗り込む。
「良光、鍵閉めて頂戴」
「あ、うん」
どこまでも冷静な母親に、良光は少しずつ落ち着きを取り戻した。
「多分、飲んじゃった薬も八錠くらいですし……日本酒もそこまで飲んではないと思います……すみません、なんか」
「いえ、いいんですよ。どうしますか」
「熱もありますし、お願いしてもいいですか?」
車内でも吐き戻している凌に、彩香は体を支えてレジ袋を広げていた。
「おふくろ、なんか慣れてる?」
「昔、知り合いがよくこういうことする子だったのよ。意識あるから、救急車呼ばなくてもいいのに」
「いえいえ、なんかあったら大変ですからね」
「すみません、本当に」
フォローしてくれる救急隊に、彩香は恥ずかしそうに詫びていた。
慌てて救急車を呼んでしまった良光は、結構な大騒動に、今頃後悔する。夜にも関わらず、大勢の医療従事者が集まっている光景は、まるで重病人のよう。
「高熱で吐き戻しているって、さっき連絡くれた方ですよね」
「そうです。すみません、こんな大掛かりなことになってしまっていて」
「いえいえ」
大勢のスタッフが、集まる様子に、彩香はいたたまれず謝っていた。
「おふくろ、なんか凌が吐くって」
「本当にもう!」
散々吐いたらすっきりしたのか、凌が穏やかな顔で眠り始めてしまう。その光景に、医者も苦笑いを浮かべていた。