118
結婚して家族ができたゆとりと幸せから、凌のまとう雰囲気は柔らかくなった。
有名人ではなくなく一般女性を選び、いたって普通の結婚したことはファン以外には概ね好意的に受け止められていた。それまで凌にバイアスをかけて穿った見方をしていた人たちや、アイドル的な側面を敬遠していた人たちも見方を変え始める。
ツアーの観客層が変わり始め、活動は順調に行われた。
そのことに、ひとまずメリアも安堵する。ツアーの美術スタッフからは外され、産休をもらうまでは、小道具を主に作ることとなった。
「綺麗な人だよね、谷島さんって……流石、国宝級イケメン」
小道具の花吹雪を用意していたメリアは、同業者である高橋の言葉に顔を上げる。彼女は、ゲネプロをうっとりとした顔で見つめていた。その視線の先を見て、小さな頷きを返す。
反応が鈍いことに、高橋がからかう。
「何、既婚者だと興味ないって? 君のパパさんは、よほど美人さんなんですねぇ」
この距離でもかっこいいとわかるほどに端正な顔をした俳優さんだ。それなのに、興味がない様子の人に、高橋はその丸いおなかにも声をかけた。
「徳ちゃん! また、旦那様が迎えに来てるよ。いやー、愛されているねぇ?」
西崎の言葉に、メリアは客席を見る。凌が笑顔で手を振っていた。
責任感から落ち着いた雰囲気を漂わせるようになった凌は、余裕さえも感じさせる。新婚の嫁よりも、どんどんと綺麗になっている有様だった。とにかく目立って仕方ない人に、メリアは気づかれて騒ぎになったらいけないと、慌てて帰る支度を始めた。
「めーちゃん! 荷物持つよ。靴紐ほどけている……転んじゃうから、気を付けなきゃね」
目の前で膝をついて靴紐を結んでくれる夫に、メリアはいたたまれなかった。
「今日、何が食べたい? なんでも作るよ」
「うん」
反応が鈍いメリアに、凌はおでこに額をつけた。
「具合悪い? お腹痛い? 仕事大変?」
「ううん、大丈夫」
ボロボロ泣き出したメリアに、凌は慌てて背中をさすりながら涙を拭っていた。
「どうしたの? どこか具合悪い? あぁ、大丈夫だから……帰りにめーちゃんが好きな果物買って帰ろう?」
「すぐに家へ帰りたい」
「うん。わかった。疲れちゃったか」
もう周りからの視線に耐え切れなかった。メリアは、何度言ってもこうしてきてしまう夫に疲れていた。
「あれ! 確か、君タブラ・ロサの人だよね! あー、一回会ってみたかったんだ……あ、何かお取込み中?」
舞台の主演を務める谷島は、ゲネプロ終わりに楽屋へ戻る途中で、その人を見かけた。すぐにそうとわかるほどの容姿をした人に、好機とみて駆け寄る。だが、何やらまずい時に話しかけたとわかって、声のトーンを慌てて落とした。
「すみません。劇場の人に無理言って入れてもらったんです」
心配そうな顔を向けてくる谷島に、凌は妻を見やる。
「妻の現場が今ここで。ちょっと具合悪いみたいなので、これで失礼します」
「え、えぇ! 奥さん?」
一層泣き出したメリアに、凌は困って背中を摩りながら宥めていた。
「どうしたの、めーちゃん。あぁ、大丈夫だから。おうち帰って、温かいホットミルクのもうか」
「……ごめんなさい」
「良光から、いろいろアドバイスもらったから大丈夫。何かダメな点があったら言って。ね? 帰ろうか」
頷いたメリアは、凌に手を引かれて歩き出した。
良光からアドバイスをもらっている凌は、メリアが驚くほどなんでもやってくれた。ツアーの合間も、少しでも時間があれば家のことをしてくれ姿は、かえってもうしわけなく。その甘やかされっぷりが段々と重荷になりつつあった。