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推理紀行〜武蔵林影〜

作者: 目賀見勝利

         目賀見勝利の推理紀行『武蔵林影』

         〜推理小説「武蔵林影」に寄せて〜



       『荒海や 佐渡によこたふ 天の河』


という俳句は、松尾芭蕉が「奥の細道」の途上、7月7日に直江津での句会で発表した句である。7月4日に出雲崎で句想が成立したらしい。

「7月3日快晴。新潟を出発し、申の下刻(午後3時ころか?)に弥彦に到着したと、芭蕉に随行している曾良の日記に書かれている。その日のうちに明神(弥彦神社)を参詣した。」と云った旨の標札が、弥彦神社の隣にある弥彦競輪場のそのまた隣にある宝光院というお寺の境内(または近く?)にあった。私が、弥彦村を訪問した2002年5月31日には、この標札の横には石板か石碑があった(記憶が定かでなく失礼)。この石碑には上記の芭蕉の句が彫ってあった。

察するに、新潟から弥彦、出雲崎にかけて佐渡ヶ島を右に見て、俳句の想を練りながら旅をしていたのであろうか。


この句を発表した7月7日は、ご存知のように、七夕まつりの日である。

この句には二つのイメージが描かれている。


一つ目は、日本海に大きく浮かぶ佐渡の上空に、佐渡を覆うかのように横たわっている星群の天の河(英語のミルキーウェー)が白く輝いている現実の情景。(天文学者に言わせると、七夕時期の天の河は佐渡ヶ島に並行して横たわるのでは無く、クロスして立つような配置になるらしい。)

現在の都会では、夜間照明の空中反射・散乱のため、天の河を見ることは出来ないが、空気のきれいな、夜間照明のない地方に行けば、プラネタリウムで観るような星空に出会える。都会育ちの私など、35年前に能登半島のトヤン高原へバイク旅行をした時の星空が忘れられない。高原の未舗装の一本道にバイクを止めて、ヘッドライトを消すと、周りは真っ暗で無音の静寂。ひとり、ポツンと夜空を見上げると、一面の星空であった。こんなにたくさんの星が有るのかと思った記憶がある。それと同時に何か、いわれのない恐怖心が浮かんできたのを覚えている。やはり、都会育ちは明るく、賑やかでないと安心できなかったのだろう。二人以上いれば、もっと夜空を楽しめたかもしれない。今から思えば、もったいない話である。


二つ目は、荒海を天の河にたとえていると解釈する。

佐渡ヶ島と本島(本州)の間の荒海を隔てて、二人が離れ離れになっている、織姫(織女星)と夏彦(牽牛星)の話が思い浮かぶ。江戸時代、佐渡に流された罪人の恋人を思う本島(本州)の町娘の恋物語を芭蕉が思い浮かべたかどうかは定かでないが、『風に波逆立てる日本海の荒海は佐渡と本島にいる二人の前に横たわる天の河である』と七夕の心象風景を謳う俳句になっている。学者に謂わせると「夏の日本海は比較的穏やかな海であり、波はそれほど高くない様である。」(学者はロマンがないねえ)

小説に登場する恵明と次郎は、夜の弥彦山頂で初めて心を合わせる事となった。いままでは、次郎が罪の深さにおののき、恵明の心を受け入れられず、二人のこころは離れ離れであったが、《小説の結末》という橋が出来て、二人を別つ天の河を渡れるようになったのであろうか?今までの二人の罪は天の河に洗い流せるのだろうか?


ところで、弥彦神社の祭神は『天香山あめのかぐやま命』であり、又の名を『高倉下たかくらじ命』云う。この人は神武東征の時、紀州の熊野で『フツの御魂の剣』の神夢をみて、倉庫から神剣を見つけ出し、熊野から奈良へ向かう途上の敵軍?邪魔者?を蹴散らすのに大いに貢献した伝説の人物である。大和朝廷成立後、畿内から日本海経由で野積海岸に上陸し、弥彦の地を基点に、越後地方の開拓に貢献したらしい。

また、『伊夜比古おのれ 神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る』と謳われている人である。この詩の意味がよく判らないが、俗に云う『狐の嫁入り』を表現していると解釈すると、神のご加護のある、めでたい人物であるようだ。稲作には、太陽光と水(雨)が必要である。これに恵まれた越後地方が、《こしひかり》と云う美味しいお米ができる土地になったのは弥彦神社の御蔭であろうか。


更に、天香山命は天火明命あめのほあかりのみことの子供であり、国学者の本居宣長は穂熟ほあかりに通じる文字で、稲穂の成長に関与する人物でもあると述べている。火の神様のことを迦具土かぐつちの神と云い、香具山かぐやまは火に通じる。何故に、高倉下が大和朝廷から新潟の地の開拓を命じられたかを推理してみると、『フツの御魂の剣』逸話から、高倉下の命は刀の製作に関係した人物と想像できる。刀などの製作には、金属(当時は青銅)を溶かして鋳型に入れる。このためには高熱の火が必要である。新潟県には海底油田があり、高カロリーの石油の火を利用して、刀剣(矛)、銅鐸などを製作するため新潟に派遣されたと推理できる。ここに、火具=香具かぐの発音で『天香山命』の尊称が発生する。

現在の新潟県は《米どころ》であると同時に金属加工の工業地でもあるのは、大和朝廷の時代から続く歴史に根ざしているのであろう。


2006年7月29日(土) 記


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