Memo.006 花見月へと至る道 その3
2019年11月17日(18:58) ルビの誤字を修正しました。内容に変化はありません。
花見月の屋敷へと着く迄の道中は、三日の予定の所が二日で済み、救出された日の翌日の夕暮れには目的地へと到着した。
そこは背の高い塀に囲まれ、飛行する魔物も塀の上に張り巡らされた半透明な侵入防止魔法で阻碍されて居り、遠眼に捉えれば四角い巨大な正方形であり、この場所の目印ともなる。
あの明らかに鳥では無い凶悪な顔をした魔物は美味しいのだろうかと、雫はじっと睨んで居ると何故か遠くへ行ってしまった。
執拗な久瑠実の質問の悉くを搔い潜り、到着した花見月の家は、雫が漠然と想像して居た部
分を見事に補完した日本の御屋敷そのものだった。
陰陽師の家かと見紛う程に何らかの魔法の施された紙片で埋め尽くされた荘厳な設えの門戸が見え、足を踏み入れる瞬間には闘技場と似通った感覚が頭を掠めた。
瓦で形作られた灰色の屋根は整然と並び景観を美しくし、歩いて居る間も暫くその綺麗さに眼が離せなかった。
吹き晒しの渡り廊下を通され、左手に砂利の敷き詰められ木々の立ち並ぶ庭園が見て取れ、右手に和の空気とは一線を画す砂地とやや奥まった位置に荘厳な佇まいの建造物を発見した。
「道場……?」
雫の中に眠る誰かの記憶が、慕わしい感情を去来させた。
「雫どうした?」
隣で急に立ち留まった雫の視線の行く先を見て、栄一郎は顎に手を宛がい逡巡する。
『道場に行くとなると、興味があるなら稽古を付けようかと言う流れになる。最初なら興味を潰さない為、適当に打ち込んで来て良いと師範代は提案するだろう。仮に竹刀や木刀を使った所で、地下で死を覚悟させられたあの太刀筋は本物だ。師範代が防げるか防げないかは、問題では無い。達人であるなら尚の事、隠された実力の一端を垣間見てしまう。駄目だ。立ち合せてはならない』
俄に、栄一郎は誤魔化す事も考えたが、首を振って諦めた。
地下で雫にあの愚策が通用したのは、遠距離での干渉が起きるのを栄一郎が既知して居た為、転じてそれは至近距離でしか【記憶の渠溝】が、上手く機能しないと言う切り札があったからこそ成立した奇手だった。
だから、もう雫に隠し事は出来ないに等しく、説得と言う手段しか栄一郎には残されて居なかった。
それに【記憶の渠溝】を使わなかったとしても、雫の観察能力は高いのだと道中、ふぇっふぇっふぇと笑う不気味な爺さんが教えてくれた。長く嘘を隠し通せる半端な相手では無いのだと、意識を切り替える。
「最初に言って置く。ボキは雫に戦って貰う気は毛頭無い。奈央の捜索も、出来る限りこの屋敷に留まり、吉報を待って居て欲しい」
話題を転換した雫は、栄一郎の言わんとした心の裡を正確に把握した。
「人前で能力を使わないで欲しいのか、心配性だな」
兄としては引き留めたいが、花見月の当主としては戦って貰いたい。洗馬の認める実績があるだけに、雫の実力を周囲に知らしめる機会は、何としても避けなければならない。
だが、栄一郎にとって一番の懸念は雫の意思を蔑ろにしてしまう事だった。正しい倫理観を持ちながら、自分を殺して生きるのは辛い事だ。出来る事を出来ないと言い張らせる窮屈さを押し付けてしまうのは、兄として避けたいと言う葛藤もあった。
「……雫はどうしたい?」
聞きたくない事を尋ねて居るのを、その険しい視線とか細い声から雫は容易に読み取れた。
真正面から見上げ臆する事無く答える。
「出来る事なら栄一郎の望み通りにしたい。栄一郎は言った。ここを出て奈央を捜しに行こう、と。これまで一度も奈央とは会えて居ないんだろう? 魔法を使っても手掛かりは中々集まらない。人は動くものだから、豚人の脅威に晒されて、周囲の人を守りながら何処かで生きて居るかも知れない。でも、花見月の力があれば施設はもう粗方、調べ回って居て、生存者名簿も出来上がって居る筈だ。なら、もう自分の足で危険な場所だろうと捜索に赴くしか無い。私をそこへ向かわせたく無いのだろう? 念願叶って漸く会えた家族だ。私だってそうする。私は栄一郎の手の温かさ憶えて居たよ。意識もはっきりとしないあの時、私を抱き上げて頭を撫でてくれた事が一回だけあった。私は私に、愛情を以て撫でてくれた人を忘れない。私は栄一郎が望むならここで待つよ。何年も。何十年でも」
雫から順々に紡がれる言葉の重みが、栄一郎の涙腺を決壊させるのは早かった。見っとも無い嗚咽を漏らすのを自覚しながら、醜く大きな手を摑んだ小さな手に残る大きな手を重ね、懇願する様に膝を折った。
「栄一郎、大丈夫。私は生きて居る。ここに居る。これまで、お前は良く頑張ったよ、栄一郎」
丸で母親の様に抱き締め、雫は泣き崩れた栄一郎の頭を撫で続けた。もう、怖くないよ、もう、辛くないよ、大丈夫だよ、と何度も言い聞かせて、慈しみに満ちた励ましの言葉を贈った。
何時しか、啜り泣く声は聞こえ無くなり、雫は栄一郎が寝息を立てて居る事に気付いた。
他の人はこの通路に案内されず、栄一郎に連れられた雫の二人だけがここを通って居たが、人の気配はずっと側にあった。付かず離れず一定の距離で、後ろから付いて来る気配。
一つ前の曲がり角に、その人物が隠れて居るのは解って居た。悪意は無く、何処か今の雫の感情に共感して居る節があると【記憶の渠溝】は訴えて居た。最早、意識しなければ空気の様に使ってしまう欠点はあるが、こう言う時、実に便利な直感道具だ。
「洗馬朱雀さんですね?」
「……おやおや、この距離でも見破られるのですか?」
角から渋い男の声が聞こえる。年齢は三十程度と間違い掛けるが、実年齢は五十位だろう。隨分、鍛え抜かれた貫禄を感じさせる声音だ。待って居る間、重心も殆どぶれて居ない。可也、戦える人だ。栄一郎の護衛か何かかも知れない。
「今回は簡単だった。洗馬さんは栄一郎をとても大事に想って居るから、私の感情に近いものを持って居る。そう言う人は探し易い。栄一郎は嫌われてこそ居ないが、本人が好かれない様に擬態して居るから、心から慕う者が少ないのだろうと思う。ある意味、報われて居るのだけども、余り良い気はしないな」
「これは……少々良い意味で予想外でありますな」
「良い意味? ああ、私を莫迦だと思って居たのか。まあ、強ち間違っては居ないけど」
角の陰から此方に近付いて来る気配を一つ確認出来た。
曲がりの無い良く伸びた背筋、肩幅もある良く鍛え抜かれた肉体、身長が一九〇センチはあるだろうか。柔らかい微笑みは、身に纏う執事服の通り一介の使用人に様にも見える程、馴染んで居る。琥珀色の瞳は、栄一郎が教えてくれた【心象色】と言うものだろう。魔法も使える有能な右腕と言う印象を持った。
「いいえ、私がここまで直ぐ信頼に足る人物であると判断出来たのは、貴女が初めての事ですよ雫さん。雫様とお呼びした方が宜しいでしょうか?」
「どちらかなら雫さんで。私が栄一郎と同格は有り得ません。考え抜き努力し、心細い中、ここを、皆を守って来た人が尊ばれるのは当然の結果です。私はまだ何もして居ないので」
雫は軽々と栄一郎を横抱きにすると、「道案内をお願いします」と洗馬に促した。
「間近で見ると、途轍も無さを実感しますね。此方になります、私に続いて下さい」
洗馬は雫の前を行き、本来栄一郎が案内する予定だった場所へと前進する。
「途轍も無い?」と雫は首を傾げた。
「ええ、身体のぶれが全く見られません。筋肉が十分に発達して居り、使い方も熟知して居るご様子。栄一郎様は少々ふくよかでいらっしゃいますからな。子供は大人を持ち上げられないものですよ」
「……そう言われて見れば、そうかも?」
高々、数年前の事だと言うのに、正直よく憶えて居なかった。私は何を持ち上げられて、何を持ち上げられなかったのだろう。薄ぼんやりとした光景だが、一リットルの牛乳パックが結構重く、奈央と二人で買い物して互いに袋の左右を持って仲良さ気に家へと持ち帰った事があった――様な気がした。
雫は両腕に乗る栄一郎に自身の成長を確と見た。
「洗馬さん、栄一郎は牛乳何パック分だろう?」
「ふふふ、栄一郎様は結構な重量ですよ。おっと、今のはご本人には御内密にお願いしますね」
人差し指を立ててにこやかに微笑む洗馬の表情は、子供を見守る両親を想わせるお茶目なもので、雫は「二人だけの秘密だな」と僅かに眼を細めた。
地上は、地下と同じで死と隣り合わせな事に変わり無いけど、それでも何処か人の心を温かくするものがある様だ。陽の光のお陰かも知れない。なら、ビタミンDの影響か、今は深く考えるのはよそう。
地下の皆のささくれ立った心が、これまでよりもずっと心穏やになり癒されれば良いな、と雫は先ほど別れた皆を想うと、疾うに日が沈んで居ると言うのに、胸が仄かに温かく感じられ、振り返る事無くその小さな歩を一歩一歩と進められた。