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レイチェルの末裔  作者: 柏木 裕
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Memo.005 暗闇に挑む愚か者

2019年11月21日(18:52) 誤字を修正しました。内容の変更はありません。

 闘技場にて、何処からとも無く湧いた黒い靄がその全貌を覆い隠した。

時に雲の様に、時に蛇の様にうねり、二分された靄は瞬く間に二つの人型を形成する。

 空気が鼻腔から入り、肺へと送られる。正常な呼吸が出来る。気分は良好と判断。拳を握り締め感触を確かめる。身体は繫がって居て、当然の様に動く。それは以前にも増して、とても軽く靱やかなものだった。

 初の試みだったが完璧な出来栄えに終わり、安堵と驚嘆を綯い交ぜにしつつ、遅れて恐ろしさも嚙み締めざるを得ない。

【負情堆積】、【記憶の渠溝】、【設計図】。真っ先にこの組み合わせは、非常に危険だと導ける。回数的に無制限で無いにせよ、これは不老不死であり、不老長寿を実現する。その上、魔法を使える人と言う前提条件を満たす。詰まる所、結構強い人間である訳だ。

 懸念は多々あれど、一旦棚上げして置く事にする。

 服の【設計図】こそ渡されて居なかったが、そう言えば最初に衣服を強化した時、三城学園初等部制服Version.黒を自力で製作したのを、雫はここに来て思い起こして居た。

 その事が何処か物寂しく、懐かしくもある。本の少しだけ過去の出来事に懐古の念は晴れず、持病とも呼ぶべき憂鬱感を伴って、胸に穴を開けた様な苦しみを停滞させる。としても、素っ裸で戦うのは流石に気が引けるので、運が良かった。こればかりは不幸中の幸いと言えた。

「これは……一体?」

 少しして軍人の装備して居る様な服装の男が姿を現した。自分の掌を開き、裏返し手の甲を見て、まじましと見詰めるその風貌は、見紛う事なく栗原誠二その人だった。

 どうやら身体を覆う衣服ごと一つの【設計図】と言う扱いで創造するらしく、目隠ししながら戦うと言う可能性が潰えたのは、玲に感謝せねばならないと雫は独り頷いた。

「誠二……」

「え……君は……っぅうううあああああああああああ!?」

 誠二は幾らも離れて居ない位置に平然と佇む雫の容姿を目撃した刹那、状況反射に従い数分前の記憶を漁り出そうと躍起になった。それこそが、頭が割れるかと錯覚する程の偏頭痛の原因だった。

「ぁ……あ、れ? 確かあの時、君は……僕は!! そうだ僕は何で生きて居る?!」

 状況が読めず辺りを見回し、切断されて居た足が繫がって居る事を右手で触れて確かめ、血痕や土埃一つ見当たらない綺麗な服装を見て、それらが完全に修復されて居る事実を知り、動揺を隠せない。

「誠二。簡潔に言う。落ち着いて聞け」

 制服に身を包んだ一見童児の雫が放つ幼い声に、集中力を根こそぎ持って行かれ、誠二の頭は異常事態だと慧悟する。何かが可笑しい。人間の持つ潜在的恐怖心が逃走本能を選択して居る。初見から得体の知れない者と見定めていた彼女は、もう既に自分の想像の及ぶ範疇に居ない、と背中を万遍なく刺し貫く圧倒的な発汗が裏付けて居る様だった。

 早鐘を打つ鼓動と逃げ出したい衝動を胆力で抑え込み、誠二は努めて冷静に振る舞い、絞り出す様に掠れた声を上げる。

「……聞こう」

「あの時、私たちは二人とも死んだ。憶えて居る筈だ。でも、こうして此処(ここ)に二人ともこうして生きて居る。それは何故か。私は死んだ人間をその儘の状態で蘇らせる魔法を身に着けた。この意味、お前が解らないとは言わないな?」

「なっ!!? それを何処(どこ)で? どうやって!? いや、それよりも頼む、僕にそれを教えてくれ!!」

 誠二は直ちにその場で(ひざまず)き、頭を地に擦り付けて懇願して居た。現状を理解する判断力に長けて居る彼は、雫の言う世迷言が虚言の類いで無い事を即座に看破した。

 それは長らく誠二が求めて止まなかった希望の集大成だ。死んでしまった者の魂の定着を自分自身も含め二人分も同時に実現してしまって居る。それも肉体の修復を同時に進行させる事も可能と来て居る。先ず間違い無く雫の用いた手段なら、祈願だった玲を蘇生させる事が叶う。誠二はその生きた証人そのものなのだから。

「誠二。私はお前が何をして来たか知って居る」

 凍て付く声が誠二の聴覚を支配し耳の奥で木霊する。これは拙い。交渉の余地など初めから無いのでは、と奥歯をぎりぎりと嚙み締める。

「な、何か望みのものは無いか!? 僕に用意出来るものなら、時間は掛かるかも知れないが、何でも用意して見せると誓う!」

 だが、ここで折れてはなるものかと頭を地に伏した儘、妙案も無く声を張り上げてしまった。

 この交渉の組み立て方は失策だ。何せ雫は、亡骸なる素材があったとしても、曲がりなりにも人間二人分を完全に蘇らせるだけの魔法を行使し、こうして成功させた。

 それは、状況次第では手に入らない物など無いとすら断言出来てしまう程の偉業だった。それだけ人間の身体の構築は、複雑で困難を極めるものなのだ。度重なる失敗と同等以上の屍を玩び、大罪を犯し続けて来た誠二は、その事実を他の誰よりも深く理解して居た。だからこそ、この機会を逃す愚を犯せない。形振(なりふ)り構わず縋る事に、何ら躊躇いが生まれよう筈も無かった。

「どうか、この通りだ。雫、君は僕を許せな――」

「勘違いして居るな誠二。私はお前にこの魔法を授ける積もりは毛頭無い。私がお前に提案するのは唯一つ――戦って勝てと言う事だけだ」

 鮸膠(にべ)も無い返答により突き付けられた死闘の提案に誠二は慄き、間抜け顔を晒しながらおずおずと雫を見上げた。

「戦って勝て……?」

 今一、要領を得ない謎掛けの様な発言に啞然とする誠二を見据え、雫は考える暇を与えず、その先にある青写真を容赦無く送り付ける。

「もし、私を殺す事が叶ったなら、当時の姿の儘とはなってしまうが来栖院玲を蘇らせる。そう言う条件魔法を蘇生時、私自身の身体に施して置いた」

「な、何を……」

 とんでもない内容に誠二は二の句を継げなかった。

「プロセス1、該当【設計図】を(もと)に日下部雫の蘇生を実行。プロセス1に成功した場合、プロセス2に移行、該当【設計図】を(もと)に栗原誠二の蘇生を実行。成功したら完了。何れのプロセスでも失敗したら、そのプロセスから再蘇生を実行する。現段階、ここまでが完了して居る。そして、プロセス3、私の生存活動を判定。生きていた場合、プロセス3を再実行、これを繰り返す。死んだ場合、該当【設計図】を(もと)に来栖院玲を蘇生させ、私自身の【設計図】を修復不可能となるまで、情報を断片化(シュレッド)した後、消去する」

 子供でも解る簡単な流れ図(フローチャート)だろ、と雫は見事な迄の無表情(ポーカーフェイス)で言葉尻を上げて見せた。

 誠二は真偽を判定する系統の魔法は扱えない。この童女の語る内容の真相は一切不明だ。信じるか信じないか、その二択しか選べない感性的な択一。とは言え、この期に及んで自分を殺させようとし、そこから生じる利益は何処にあるか冷静になって考えるべきだ、と予防線を張ってしまう。

 そも、どうしてこの提案を持ち掛ける必要があるのか。何故希望を抱かせる甘言を吐くのか。戦って勝利するだけが目的なら、誠二を蘇生させる事無く死体の近くに落ちて居た筈の認証紙片を拾い、自ら潜った入場門を通るだけで済む話だ。それが一番の近道だ。戦いに勝利する事が目的では無いとしたら。

 誠二の頭には、混乱の最中、棚上げしてしまった大きな疑問が一つ浮上した。雫は何処で来栖院玲と言う名前を知ったのか。

 雫は対面する何も無い空間に黒い棒状の靄を生み出し、(たちま)ちあの鋭利な一振りの刀を構築して摑み取った。それと同様のものが、誠二の眼の前で宙吊りに現出し、重力が働き容易く地に突き刺さる。

「私からしたら何方(どちら)でもいいよ。何もしないで私に殺されるか。何かして私に殺されるか。その差異しか無いのだから」

 事も無げに、恰も決まった事であるとでも言わんばかりに、勝利宣言を言い放った。

 左手のみで刀を悠々と構えるその自然な動作に、子供染みた驕りがある様子は一切見られない。

 それでも、自信と言うものを彼女が持つ程に、経験を積んで居るとは言い難いのもまた事実だった。

 何より謎めいて居るのは、この先程からずっと止まる気配の無い冷汗だ。脱水症状を懸念してしまう程に、全身から体液が溢れ出ては服が張り付いて行く。

 蛇に睨まれた蛙、とでも言えば解り易い。誠二は潜在的な恐怖心が、奥歯をがたがたと揺らして居る事に、漸く気付かされたばかりだった。

 説得を諦めて立ち上がる足は痙攣し、刀を引き抜こうと伸ばした手は小刻みに震えて居る始末。

 恐怖心に簡単に打ち勝てる訳は無く、震える儘に引き抜いた刀を両手で構える。想像して居たよりも相当な重量で、片手で持てない程では無いが、誠二からして見れば両手持ちで何とか数十回まともに振り回せれば上等と言うものだった。その分、斬れ味は凄まじい。

「準備は良いのか?」

 もう、後には引けない。雫へ言葉を重ねる意味は無く、それで居て彼女の言葉を信じるしか無い。勝つ以外に道は残されて無い。死んだら勝負の結果如何(いかん)に関わらず、そこで終わりなのだ。腹を括れ。効き目も微妙な自己暗示を掛け、ゆっくりと誠二は頷いた。とっくの昔に、目的の為に最善を尽くすと決めて居る。

 今際(いまわ)(きわ)、見付けた希望を自ら破壊する事になったとしても、生き抜かねば意味が無い。それで、玲が蘇るなら御の字だ。

硬貨(コイン)が落ちたらそれが始まりの合図だ」

 そう言うと何処から途も無く雫は硬貨を創り出し、親指で高らかな音を響かせて上空へと弾いた。

 落下までのその時間、僅か三秒と言う所。

 硬貨が地面に落下した瞬間、地を蹴り上げ誠二は一気に距離を詰めた。

 雫は最初に構えた体勢を崩さず不動の儘だ。

 舐めて居ると訝しむが、端末で情報収集する様な性格上有り得ない話だと否定する。

 何の因果か先手を取れた幸福に感謝し、間合いに入った誠二は全身全霊で刀を振り下ろした。入れば鎖骨から心臓に到達する軌道だ。確実に仕留める積もりで、次の一撃を考えず容赦無く踏み込んだ。

 踏み込みは完璧だった。振り下ろしにも迷いは無く、雫も避ける動作をしない。例え防御が間に合ったとしても、致命傷を負う事は必定。辛口の採点基準でも、十分に及第点を上回る一閃。それが誠二の自己評価だった。

 これでやっと玲に会える。そう思うと、眼尻に涙が溜まり、勝利を確信した――その瞬間だった。

 雫の到底、間に合う筈の無い後出しの防御が、どう言う訳か間に合った様に誠二の瞳は捉えた。それも正面から受け止めるのでは無く、態々(わざわざ)下段に構えての振り上げと言う形で急速に迫り刃がぶつかろうとして居る。

 居合に似ても似つかない力を籠め難い振り上げで、足運びも体勢も何も無い、完全に素人丸出しの腕力任せな動作で上段からの振り下ろしを防げる筈が無い。誠二はこの儘、押し切れると踏んだ。

 そして、二人の刀は激しく衝突し、直後一振りの刀が宙を舞った。

「なっ……!!?」

 有り得ない事が起きた。誠二は前傾姿勢の儘、何も持たない両の掌が激痛の余り痙攣して居る。

 誠二の成人男性の両腕の全力の上段切り、片やあの様な技術もへったくれも無い片手の子供の振り上げに負けたと言うのか。だが、未だに震え使い物にならない両手が、圧倒的な怪力に敗北を喫した事実を知らしめてくれた。

 脱力した誠二は膝を突いた。純然たる力ではどう足搔いても勝てそうに無い。なら、卑怯な戦いだろうと勝利を捥ぎ取って見せるのみ。

「ま、まだだああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 余裕が抜け落ち後先考えず本能に従った結果、最早、それは言葉と呼ぶに値せず、唯々獣の雄叫びへと成り果てて居た。

 距離は無いに等しい。まだ間に合う。伸ばした両の手はあっさりと届いた。誠二は無抵抗な雫の細い首を握り潰さんと握力を込めるも、何かに阻まれて居る感触も無いのに潰し切れないで居た。次の手だ。

 何時もは安全第一だが、自分自身の腕と引き換えでも構うものかと許容を超えた大電流を解き放った。

 刹那、利き手である右手の指先から左手共々融ける様にぐつぐつと煮え出し、電子レンジを使用した直後の肉の様にしゅうしゅうと音を発てて肉汁を滴らせる。数秒と経たない内に、辛うじて機能して居る神経が、損傷を激痛と言う形で脳へと伝播させ誠二を(うめ)かせた。

 されど、その甲斐あって、雫はそれ以上の損害を被って居た。首から何ヶ所も裂け目が入り、血液が所々滲み出し、肌の色が浅黒く変色して見るに堪えない。

 誠二は自分の融解した左手を、叫び声を上げ激痛を伴いながら辛うじて引っぺがし、右の掌と雫の首の肉が溶け合ってくっ付いて離れない事に難儀した。それでも、雫の体勢が崩れ誠二側に(もた)れ掛かる様にして倒れ込んだ事で、完全に意識を刈り取り、致命傷を与えた事に歓喜する。

「勝っ、た……? やった……やったぞ…………玲!」

 これで雫の言う通りなら時期に玲は蘇生される。

 滂沱(ぼうだ)の涙が零れ落ちて行く。悲願の成就に胸が苦しくなり、嗚咽が入り混じる。誠二は痛みも忘れて玲の顔を思い浮かべた。

 ――これで終わりか。

 それはともすれば聞き逃しても可笑しくない真実か細い音韻だった。一秒か、二秒か、僅かな時間が、その唯の音を人の声として脳内で組み立て復元する。

 俯いて居た目線が次第に上昇して行き、醜く変質した雫の顔に、誠二は海の底でも彷彿させるかの様な深い蒼玉の双眸(そうぼう)が見開かれるのを(しか)と捉えた。

 途端、誠二の背筋に冷たいものが物凄い速度で駆け抜ける。反撃よりもその場を離れようとする意思を優先したが、後ろ手にぐっと引き戻される右手は雫の首許にくっ付いた儘と再認識させられ、焼ける様な痛みで満足に動かせない左手と、極度の筋弛緩によって震えるだけの肢体に、次第に乾いた笑いが込み上げて来た。

「あは、あはは、はははは……」

 誠二は雫からゆっくりと伸ばされた手に胸倉を摑まれようとした刹那、どうしてあの条件を突き付けられたのか、(ようや)く理解するに至った。

 莫迦莫迦しい程の蘇生能力が雫にはあるからだ。(すなわ)ち、何度殺されようともその度に治癒し、此方(こちら)の体力が尽きるその時まで戦闘を継続出来る。少なくとも、それだけの体力を有し、魔法を行使し続ける源である膨大な記憶(リソース)を確保して居り、全身蘇生の副産物とでも言うべき尋常ならざる膂力(りょりょく)をその身に宿して居る。

 そして、中でも最も誠二の心を(くじ)けさせたのは、雫の瞳がもう二度と生気を帯びて見る事は叶わないと薄々勘繰り始めて居た、玲の瞳そのものだと瞬時に理解させられた事だった。

「念の為に言って置くが、誠二は本当に一回殺せれば良かったんだ。でも、私の蘇生能力の方がお前の電撃より速く優れて居た。たったそれだけの事だ」

 雫の裂け(ただ)れた皮膚は、話して居る数秒の間に元の健康的な傷一つ無い肌色へと変貌を遂げた。眼の当たりにする圧倒的な蘇生能力の証明。求め続けたものを茫然と見詰めて居る内に、誠二の融解した儘の右手は自然と雫の首から離れて地に落ちた。

 この期に及んで科学的知見に興味が湧く。これを研究出来れば素晴らしい事に繫がる。人殺しが何を考えて居るのかと言われればそれ迄だが、誠二は、(それ)(それ)(これ)(これ)の人だった。

『これがあれば多くの不治の病に伏せる病人を救えただろう。この技術が、魔法が過去にあれば玲を死ぬ前に助けられたに違いない。どうしてここに来て、手が届くこんな近くにそれを持って来たんだ……』

 雫の蒼き瞳は誠二の円環を読み解き、この神の悪戯とでも呼ぶべき数奇な巡り合せに、嘆き苦しむ心の裡を容易く見通した。

 雫の弱々しく見える子供の細腕一つで、誠二は簡単に引き寄せられる。

「誠二、歯、食い縛れ」

 現実逃避と身体が自由に動かない状態で、敗色が確定的だと諦観した誠二は、次に雫がする事は呆気無く命を刈り取る事と結論付けて居たが、もっと凶悪なものだった。

「……がっ!?」

 途轍も無い衝撃が頰に叩き付けられた。これまで感じた事の無い浮遊感が身を包み、視界が何回転も同じ方向をくるくると回った。当然、直ぐに呼吸すら出来なくなったが、それでも意識があると言う奇天烈な異常を保持し、壁に激しい轟音と共に叩き付けられる。

 一般的な肉体に対し壁の堅牢さの方がより上手(うわて)で、身体の至る所が激痛で叫び出したい程に痛いが、誠二は声を出せなかった。視界が奪われ意識が消えず、そこに全身から隈なく送られて来る激痛の信号情報が加わり、正常な思考は敢え無く損なわれる。

 暫くしても、死には至らず、『……ああ……今……殴られたんだ』と、それだけの事を微かに誠二は思った。それから直ぐ思考が泥の様に濁り始め、(かげ)りを見せる。恐らくこれが最後の思考となる、そう予感させた。

 自分の歩幅を守りてくてくと歩いて来た雫は、曾て誠二だった者の側に立ち留まり、自分のした残虐な所業を見下ろした。

 服は至る所が裂け血染めになり、首はあらぬ方向を向き、眼は既に正常に機能しては居らず何も映って居ない。呼吸も儘ならず、身体がずたずたの状態で幾つもの細やかな蘇生を繰り返しては生を享受し、激痛に正常な思考は塗り潰され、それでも声を上げる事は二度と叶わない。

 全く同じ事では無いが、痛みを長く堪能出来る状況に追い込んだ。少しはこれで懲りて欲しく思い、その反面どうして誰かにやり返される事態を引き起こしてしまったのかと、雫は胸中に悲哀を孕ませる。

「誠二………………私は、お前のこと恨んで無かったよ」

 時同じくして、疾うに何も臨む事の出来ない常闇の中、誠二は直ぐ近くに青藍の光源を感じた。それは瞳に映す景色とは全く違い、肌で感じる生温かい感触、冬場の暖炉で燃え盛る薪の焰から発せられる熱の様なもの。見失うと途切れてしまいそうな矢鱈と脆い未知なる感覚だった。

「今度会えたら、きっと…………」

 その先を口にする事無く、雫は上段に構えた刀を振り下ろした。出鱈目な怪力と刀の斬れ味が合わさり、誠二の身体は一刀両断された。

 生来より彼の持って損なわれなかった蒲公英色の円環の輝きが失われ、空気に融けて霧散して行く。線香花火の様に段々と(ともしび)を小さく変え、やがて消失した。

 後追いする様に蘇生を施した身体が黒い靄となって崩れ去り、そこには見覚えのある蜘蛛模様の描かれた紙切れが音も無くひらりと落ちた。

 認証紙片を拾おうと手を伸ばした雫は、そこで急激に意識を朦朧とさせ片膝を地に付ける。

 数瞬、気力で耐えるも、仕舞いには有無も言わさず倒れ込み、とうとう雫は気絶してしまった。

 手から離れた刀は消え、代わりに雫の手の内には、一枚の紙切れが大事そうに握り締められて居た。

 一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた事に、終ぞ雫が気付く事は無かった。


                          □ □ □ □


 この世界には、奴隷と呼ばれる者たちが居る。

 その種類は多々あれど、大抵は名誉や権利を侵すもので、労働力目当てや性欲を満たす道具、他には莫大な富を得て居る富裕層の娯楽の一つとして、戦わせ殺し合わせるもの等がある。

 唯、お金持ちの趣向は何時どの時代でも似通う様で、その無様で憐れな姿を堪能し、嘲笑う。殆どはこれに尽きる。

 その様な事をして居る状況ではないと正常に判断出来ないのか、将又、それ以前に諦観して居る故か、本来なら欠かさず戦闘奴隷の死闘を観戦しなければならない。

 自身の置かれて居る面倒な立場に花見月栄一郎(はなみづきえいいちろう)は、自室の豪奢な机に積まれる紙の報告書の数々に眼を通しながら、気分だけで肺が悪くなりそうな重く長めの溜め息を吐いて居た。

 度重なる急務で、方々に人手が足りず、物資が足りず、けれど犠牲者は後を絶たないと言う悪循環は変わりない。多少の緩和はあったものの、猫の手も借りたい程に状況は逼迫して居り、正直言って娯楽に付き合って居る暇など全くなかった。

 あの【災厄の日】から早三年が経過した。

 当初こそ豚の化け物だけしか出現しなかったが、その常識は凡そ半年後に書き換えられる事となる。

 全身緑色の肌、尖った耳に小さな子供程度の背丈の鬼。基本的に五頭以上の群れで行動し、俊敏に街中を疾走する灰銀の毛並みを持つ狼。植物の蔓で構成された身体を持ち、頭部と思しき場所に大輪の花を咲かせる化け物。純粋に巨大化した様な蛙。美しい女性の上半身と鳥の様な足と鉤爪で人を連れ去る異形の獣。死んだ人間の骸が斑な紫色や灰褐色に変色し襲い掛かって来たり、または人の骸から肉が消え去り、骸骨がそのまま動き出す場合もある。

 地上と上空、海の中のみならず海底に至る迄、その新種の生物は何処から途も無く出現しては蔓延り、生きて居る人間を襲い、単なる食物へと変換させて行く。

 この中で殊更に厄介なのは、初日から出現して居る豚の怪物である豚人だ。

 人間を喰らうのは勿論の事、地面すら食い破り地下に埋設された電線を嚙み切り、電信柱を傾け倒しては、通信線及びその他設備で腹を満たすと言う厄介な事を進んでしてくれる。

 その明らかに意図された行動規範の所為で、最も普及して居る携帯電話や計数型電子計算機(コンピュータ)による現代の一般的な電気通信手段は、始まりの一週間で完膚なき迄に途絶する運びとなった。

 豚が狙うのは上から電線、通信線、人間の順で、人間の優先度はそれほど高く無いが、一度(ひとたび)視界に入るとあの巨体に不釣り合いな敏捷性を発揮し、どこ迄も執拗に追い掛けて来る。

 悲しい事にその加速度は、人間が真っ直ぐに全力疾走するより速く、振り切れる場合は余程足の速い歳の若い人か、障害物の多い小回りの利く地形で遭遇したか等の幸運、何方(どちら)にせよ極端に低い確率だと言えた。

 積極的に逃げる事を前提としても、どの怪物と接敵した場合に於いても、基本的に戦闘は避けて通れないものであり、生き抜く為に見渡せる範囲の周囲の群れを殲滅する事は、安全確保の最低条件となった。

【災厄の日】は、同時に人類へと魔法が齎された日でもある。

 一般人に殺し合いの経験は、言わずもがな皆無で未知数の魔法に関して右も左も解らない素人が知恵を絞り、皆生まれながらの生存本能に従って怪物に立ち向かった。

 冷静さを失った怒り任せの特攻で、大勢の死者が後を絶たないのは当然の事の様に想えた。

 しかし、その中には魔法を習得する者が少なからず現れ始め、危機一髪で全滅を免れる事に成功する。

 見付かった魔法には幾つかの種類があった。

 火傷させるのに十分な熱量を持った炎、円柱状や四角柱状の水、身動きを封じる吹き荒ぶ烈風、砂を丸めた泥団子の様な土の球。

 中には稀少分類として、可視出来る程の電気を迸らせ怪物を感電させる者や周囲を瞬く間に氷結させる特異な事例(パターン)も挙がって居る。

 その発現事例には、単純明快な偏りがあった。本人の適性の有無だ。

 例えば基本的に日本ならば各家に水道が通って居り、清潔な飲料水の適性を持つ者が非常に多い傾向だった。よく見られる円柱や四角柱と言うのは、合成樹脂容器(ペットボトル)の形状概念によるものだ。

 他には家庭用のガスコンロに灯る円状配置の火や実験用のアルコールランプに灯るこじんまりとした火、烈風は傘の骨を折る台風の印象が根強く、泥団子は砂場で遊んだ事のある経験が生き、その儘巨大な土の球体へ推移したのだと度重なる調査にて判明した。

 残念な事に海外と比べて陰湿的で、表面上平和的な日本では、豚を覆い尽くす大火力の炎を出せる様な尋常ならざる者や荒くれ者は現在確認されて居らず、他のあらゆる魔法に関しても生活に密接した便利な部分に傾倒して居る。要するに魔法が攻撃的で無く弱いのだ。

 魔法構築に於いて明確な規則(ルール)を一つ挙げるとするなら、『現象を想像出来ないものは、創造する事が出来ない』である。

 怪物は概ねどの種どの個体であっても、人間より強く素早い。中には魔法すら使用して来る厄介な個体も存在する。

 その為、怪物に致命的な損害を与えられない魔法使いは、役に立たない所か足手纏いとなり、戦闘に参加させるべきではないと暗黙の了解が出来上がった。

 生活支援の体で、一つの集団拠点の食事事情を支える事で影から守り、出入り口に交代制の哨戒を立て、非常時の逃走経路を確保し、疲弊して帰って来る間引き部隊の身体を按摩(マッサージ)したりと各々の役割を果たして居た。

 この様な拠点は日本各地に点在し、恐らくは海の向こう側でも、近しい状況が展開されて居る事と容易に推し測れる。

 よって想定された最悪の未来予想通りに窮状は悪化の一途を辿って居り、国外の援助は望めず、各拠点の間引き部隊から少なくない犠牲者を出し、殊、最初の数週間は明日も解らぬ日々が続いた。

 息の吐く暇も与えられず陸の孤島と化した日本が、絶望に包まれる最中【花見月】の動きは迅速だった。

 花見月は、予言の話の持ち上がって居た当初から、魔法を先んじて拡散させる事に賛成の意を示した推進派閥であり、怪物の出現を現実的な未来予測と捉える、数少ない【災厄の日】を肯定する派閥でもある珍しい旧来の高家だった。

 事前準備として、金に物を言わせて各都道府県に最低二ヶ所は非認可組織である同業者組合(ギルド)を設置し、地上と比べて窮屈になってしまうが地下へ避難用の居住空間を構築して置いた。

 同業者組合(ギルド)は、各々の場所に於ける情報を収集して、せめて日本国内だけでもその情報を発信、共有出来る様にし、怪物の襲来に備えようと言う試みの基、十年も前から発足され今日に至って居る。

 ()(もた)れのある椅子に腰掛ける栄一郎が不機嫌な相貌を隠そうともせず、ぶよぶよに肥え太った風船腹を揺らし、ずれた重心を戻す様に太ましい太腿をのそのそと動かし足を組み直すと、拝読して居る報告書と視界を阻む位置に丸い縁のある電話の図記号が浮かび上がって見えた。鬱蒼な気持ちに苛まされながらも、観念して机に報告書を置き、空かさず人差し指を伸ばした。

『栄一郎様、至急お耳に入れたいご報告が御座います』

 投影された横長の映像に映し出された、艾年(がいねん)を迎えた執事服を纏う老人の何時にも増して真摯な眼差しに、更なる面倒事の気配を察し、眉間に皺を寄せる栄一郎の渋面は一層その醜悪さを増長した。

「はぁ~、今度はどうした? 食糧は優先的に豚を殺せば十分に手に入ると通達したから、その案件では無いよな。防衛魔法指導員は、同業者組合から各拠点へ配属して、練度も拠点防衛に申し分ない程度には上達した、そう報告を受けて居るが……」

 他には何かあっただろうか? 勿論、懸念事項は尽きる事が無い。問題は沢山ある。日に日に増えてさえ居る。我々は何時まで持ち堪えなければならないのか。この怪物出現と言う現象を根絶する事が出来るのか。人為的なもので無く、既に自然発生して居る状態であれば永続的にこの狩猟生活を続けて行かなければならない。食糧問題は怪物を殺す事で確保出来るが、問題はもっと先、十年後二十年後の未来へと世代を交代して行く、転換期の人材が足りなくなる事だ。

 正直、防衛に携わって居る人たちに、悠長に小作りして居る暇が無い。通常、十ヶ月もあれば拠点から最低でも五十を超える犠牲者が出るのは必定。正確には怪物に殺される訳だが、兎に角、赤子を無事出産出来たとして、親子共に戦える様になるまで相手は待ってくれないと言う切実な現実が待って居る。 

 抑々(そもそも)、戦う為に子供を儲ける前提そのものが、間違った考え方の様な気もする。倫理観がどうのと言って居られない状況下に追い遣られて居るが、本当にどうするべきか悩み所だ。

 一人で悶々と考え仕舞いに袋小路へと差し掛かった栄一郎は、推測出来ない内容だと匙を投げた。

 映像に映る鶴髪の老人は、花見月家の雇用する執事であり、名を洗馬朱雀(せばすざく)と言う。屋敷の従業員からはセバスと言う愛称で親しまれ、名前からとても仕事が出来そうだと言う評価(レッテル)を貼られ、実際に仕事が出来てしまう非常に優秀な人物だ。

 もう五十歳を超えたと言うのに背筋はぴんと伸びて居り、服の上から見ても鍛えて居るのが解る筋骨隆々さを保ち、身長が一九〇センチ程ある。長身だが、柔和な微笑を湛えて居る表情が様になり威圧感は余り無い。その上、紳士的で頭が良く回り気も遣える。一応、生粋の日本人だが、琥珀色の瞳をして居て、この歳にしてもまだ幅広い異性から持て囃され、同性からの支持も厚いと言う完璧超人だ。しかし、自身にとても厳しく、自己紹介以外で朱雀と名乗る事、呼ばれる事を良しとしない頑固な一面を持って居る。それ故に稀にだが、見知らぬ人は洗馬セバスと言う氏名だと勘違いされたりもする。

 先代当主が逝去してからは、現当主の栄一郎の輔佐をして居り、どの様な経緯と考えを辿って洗馬が花見月の家に留まってくれたのか。栄一郎は、未だにそれが不可解で仕方無かった。

 洗馬は並々ならぬ優秀さだ。大抵の事は幅広く深く(こな)せる。詰まり器用貧乏などでは決して無い。何処にでも働き口はあるだろうし、魔法や怪物の件があって尚、他のどの場所で生き抜く為の精神的、肉体的な力を秘めて居るだろう。それに、洗馬が花見月に雇われて居たのは、先代当主と同期の学生時代からの付き合いがあったからだ。

 高々、数年前、花見月に拾われたぽっと出の栄一郎が先代から指名で当主に据えられ、その決定を良しとせず辞職した使用人は半数以上居た。現実問題、花見月を支えて居る大多数の従業員は、新たに栄一郎が雇い入れた新人を教育したものだった。

 内心何を考えて居るかは解らないが、洗馬の仕事振りは疑いの余地無く精励恪勤(せいれいかっきん)だ。先代当主の時と遜色無く、寧ろそれ以上の働きを見せてくれて居る。

 実際に屋敷の外へ出ての人命救助や支援物資の運搬、その道中に伴って発生する怪物討伐や護衛と、無理をさせて居る自覚はあったが、反旗を翻す様子も無く、危険極まりない特殊業務に文句の一つも言わず各拠点を巡回し、彼此(かれこれ)三年間もの間、危な気無く問題点を洗い出してくれた。

『いいえ、栄一郎様。これは全く別の案件で御座います』

 業務に忠実な洗馬が拠点訪問の最中、珍しくこの様な事を言うからには、何かしら理由がある。深呼吸した栄一郎は弛んだ両頰を叩き、頭を切り替えた。

「急ぎ、それも態々ボキに通す案件か。何があった?」

『それでは敬一郎様。最近、闘技場の観戦をなされたのは何時ごろありましょうか?』

 闘技場と聞いて、あの金持ちの悪趣味な道楽かと思い当たる。何時だったかはよく憶えてないが、花見月が魔法研究を大々的に始めたのが凡そ十年前。先代当主も性根の腐った人物では無かったから、闘技場の観戦をしたのは最初の一回きりで、それから見た憶えは無かった。

「確か四、五年前だった筈だ。正確な日時は調べて見ない事には解らないが、それがどうしたんだ? まさか、怪物が地下に現われたとか、最悪な展開ではあるまいな?」

『ええ、ご安心を。今のところその様な事は御座いません。話が少々脱線してしまいますが、私は以前、栄一郎様のお母上様とお父上様の御尊顔を拝見させて戴いた事が御座います』

 ボキのマザーとファザー? 凡そ血みどろの闘技場と何の繫がりも無さそうな世間話の展開に、つい栄一郎は疑問符を浮かべつつ続きを促す。

「それで具体的には何があった?」

『唐突な話で何を(のたま)うのかと耳を疑うかとは存じ上げますが、闘技場にて勝ち上がっていらっしゃる奴隷のお顔が、どうにも栄一郎様のお母上様とよく似ていらっしゃるようでありまして、誠に失礼とは存じますが、一見で構いませんのでどうか御拝見しては如何(いかが)かと考える次第であります』

 眼を円かにした栄一郎は、無意識に口許を手で覆い隠し、再び皺を寄せると独り静かに吃驚(きっきょう)する。

 当事者である二人はその事実を知らないが、栄一郎には血を分けた兄妹が居た。双子の名前は日下部奈央と日下部雫である。

 日下部夫妻の携わった大規模な共同研究の末、生み出された人造人間第一号である栄一郎は、言わば試作モデル(プロトタイプ)だった。

 記憶を視覚的に捉える事で、魔法の仕組みを解き明かす目的として創られた彼は、太古の昔、人間が皆等しく持って居たとされる【記憶の渠溝(メモリスロット)】を先天的に発現した状態で誕生し、捗々(はかばか)しく無かった魔法研究を大幅に加速させる起爆剤の役割を見事に果たして見せた。

 今現在、使用されて居る電線や電波を必要としない魔法による通信手段の確立も、栄一郎の積極的な研究参加による貢献が少なくない。

 魔法を如何(いか)にして強化する事が出来るのか、魔法の持続時間を伸ばす具体的な方法とは何か、それは過去から現在、未来へ至るまでの目下最大の課題だった。

 そして、日下部夫妻は世界中の数多ある古文書の中から、魔法の更なる可能性探し出し結び付けた。

 それは誰れしもが、一度は見聞きした事のある何の変哲も無い有名な物語に端を発する。世界が危機に瀕した時、何処から途も無く現れる救世主。殊、魔に立ち向かう者と限れば、それは勇者と呼ばれる者たちに他ならない。

 多くの勇者の神話や伝承を紐解き、その力の原動力となるものを突き止め、それが普通の人と比べどの程度違うものなのかを、文献から(つぶさ)に調査し考察する。

 膨大な情報収集の果て、勇者は普通の人と比較し、何ら遜色無い一般的な人間である場合が大多数を占める、その事実を読み解いた。

 道を外れない位には道徳心を持つ凡庸な村人が特に多く、大抵は御神託によりその天命を授かり、後に最強と囃し立てられる能力は元々持ち合わせて居たものでは無く、長い旅路を経て自身の能力を礪行(れいこう)し、絆を育んだ仲間たちと鍛え合い、開花させて行く。

 そう言う意味で、勇者は全く特別な存在では無い。(くわ)しか握った事の無いちょっと素質のある村人を引っ張って来て、突然、世界を救えと言われた無茶苦茶可哀相な役回りの苦労人だ。

 唯、敢えて勇者の特異性を語るとするならば、それは尋常では無い伸び代があると言う事。成長限界とでも表現出来るその幅が、努力云々では説明が付かない程に拡張されて居る事実。

 ともすれば魔法を極めた悪逆非道の帝王などと(しばしば)称される魔王を倒してしまえる。言わば人の形をした化け物である。

 だが、此の度の災厄に限って、その尋常ならざる強さは(かえ)って好都合に映った。

 敵は手心を加えたり慈悲すべき好敵手などでは無く、紛う事なき怪物。容赦は一切合財、無用で構わなかったからだ。

 日下部夫妻は、二人の遺伝情報と栄一郎の実測情報を加え、新たに双子を創り出した。栄一郎の生誕から僅か二年後の事である。

 理屈は酷く単純なもので、生まれたばかりの赤子の生涯獲得するだろう才能の伸び代を、片方へ余す事無く移してしまうと言うものだった。

 後遺症を感じさせない()()りの生命活動基準は満たし、やや性格に偏りが生じてしまう危険性を覚悟の上、試行されたのが第二次試作モデルだった。

 経過観察が必要な為、健康体のみをどうにか押し留めた様な子が一人。通常の学習能力に加え【記憶の渠溝(メモリスロット)】の範囲や魔法の持続時間が飛躍的に伸び、自我が芽生えたその瞬間から周囲の物体を無重力の如く宙に浮かせ、桜の花弁を顕現させる才女が一人生まれた。

 兎も角、栄一郎の知りうる限り、母である日下部真霧によく似た容姿となると、その二人しか該当しない。

 両親はあの襲撃の日に身命を賭して他の研究者を幾人か助け、その命を落とした。それは良い。決して良いで済まされる話では無いが、二人の性格からして物凄く納得の行く最期だからだ。

 それでも、この双子は魔法の研究を直接手伝った訳では無い。飽く迄、生後約一年間、才能の移譲情報の経過観察を主の目的とする事のみに留めて居た。

 それ以外は、日下部夫妻の要望に沿って、四人で一家族として普通に暮らして居た。

 詰まり、魔法を他より達者に使い熟せて居ても、人の単純倍の才能を有して居たとしても、他の感性の部分は一般人と何ら遜色無いものであり、圧倒的な物量で攻められれば当然にして休息が必要な脆弱な身体をして居るし、魔法も訓練して居なければそれ相応より多少増しと言うのが関の山。

 どう考えても怪物の大群へ突貫(とっかん)し、一騎当千出来る程の鎮圧能力は期待出来ないものだった。

 勇者の成長理論は言わば長年掛けての集大成。となれば一朝一夕でどうこうなるものでも無い。

 実践叩き上げの魔法戦熟練者であっても、明日は日を拝めないと言うのが常世の常識となって久しい。

 最近では、生存の可能性は限りなく零に近いものと自暴自棄になり、下眼瞼(かがんけん)(くま)を拡大して居た所為で、態々声を掛けなければ専属の洗馬以外、蜘蛛の子を散らす様に栄一郎から離れて歩くのが屋敷の日常風景だった。

 厳密に言えば違うかも知れないが、栄一郎にとって二人は妹の様な存在だ。

 あれ以来、三度目の桜の開花を眼の当たりにして来たが、両親亡き後、二人の忘れ形見である双子の姉妹の捜索は欠かす事が無かった。

 これは近年、稀に聞く胸弾む喜ぶべき吉報である筈だ。

 そう一考した直後、栄一郎は唯喜べる無邪気な話題では無いのだろう、と踏み留まった。

 洗馬は確信があるからこそ、この話を人伝では無く直接耳に入れたのだ。

 顔を確認する必要もあるにはあるのだろうが、そこまで信憑性の高さと確度ある情報を得た。

 良い意味で不意討ち好きの洗馬ならば、何名かの部下を従え地下闘技場へ突き進み、当人をここに連れて来て「爺のサプライズですぞ、栄一郎様!」等と顔に似合わない茶目っ気を発揮しそうな場面だ。

 真っ先にそれをしないとなると、事の不可能性を疑いたくもなると言うものだ。

 この様に降って湧いた懸案事項には、正確な相互認識が何よりも重要だ。見す見す誤解を生じる隙を作ってはならない。

「それはボキが動かなければ、解決出来ない案件なんだな?」

『その通りで御座います。誠に遺憾ながら私の手には余ります』

 眼を伏せた洗馬が片腕を胸許に引き寄せ、恭しく頭を垂れた。

 すると、眼の前の洗馬の映像の直下に、写真フィルムの図柄(アイコン)が浮かび上がり、栄一郎は能動的にそこへと指先を伸ばした。

 新たに投影され始めた映像は、筆舌に尽くし難いものだった。

 漆黒の刀の様なものを引っ提げる少女が悠然と佇立した広く薄暗い円状の場所に、様々な風貌の老若男女が次に次にと送り込まれては容赦無く斬り伏せられ、肉塊へと変貌を遂げる。

 少女が一人であるのに対し、挑む人数は四人から二十人程度と、その時により区々(まちまち)だ。

 それでも、屈強な面構えの強襲者に少女は怯む所か圧倒し、全てに勝利を収めて居た。

 瞬きをする僅かな間に距離を詰めての一閃、か細く柔そうな白い腕から繰り出される殴打は肢体を本来曲がらない角度に折り曲げ、糸も容易く敵を壁まで吹き飛ばす威力を秘めて居る。

 何より不可解なのは、意思を持つ生き物の如く少女を覆い守る黒い靄状の何かだ。

 敵の放つ銃弾で致命的な傷を負っても、黒い靄が患部を包み再生して居る様子。その証拠に少女は、手負いである事を物ともせず、敵に近付き刀を振るう。

 それは爆弾による理不尽な広範囲攻撃の際でさえ、束の間すら与えず少女を治癒し、何事も無かったと言わんばかりにその刃を敵に届かせる。

 余りにも予想と反した死屍累々の地獄絵図、一見で正しく把握出来ないその内容に、栄一郎は眼を見開き絶句し、凝視して居た映像から流し見へと切り替えた。

 あの黒いのは治癒魔法? 治癒魔法は確かにある。が、あそこまで即効性は無いし、当人が自身の身体を治癒しながら走ったりする等と言う芸当は先ず不可能の筈。

 治癒魔法は再生時に、大の大人でも慣れない内は泣き叫び、悶絶する程に強烈な激痛を伴う。

 彼の洗馬でさえも治癒の途中は、襲い来る激痛に耐えるので手一杯となり五分はまともに戦えないと言って居た。

 ボキの場合、声は我慢出来たが、治癒後の小一時間は気持ち悪く肉体労働では無い執務すら手に付かなかった。普通の人だとそれが三十分位だと聞く。

 件の少女は、あの足許が怪しくなる感覚や倦怠感を全く感じさせない俊敏さを兼ね備えて居る。

 それに普段、直接戦闘に携わらない栄一郎から見ても、これは異常過ぎる、と判断せざるを得ない。

 一度、瞬きをすれば姿を見失い、真正面から斬り伏せ、次に近い敵の許へと疾駆する。

 酷く単調だが、故に力強く回避など殆ど必要とせず、その直線性は弾丸を思わせる。

 ぱっと見ただけで、並大抵の強者では無い事はよく解った。

 ここで踏まえるべき問題は二点ある。

 一つ、瞳の色が深い蒼である事。

 凡そ二人分の才能を持って生まれたのは、双子の姉である日下部奈央だ。彼女は綺麗な桜色の【心象色(ヘルツファルベ)】を、その瞳に宿して居た。

 そして、この我が眼を疑う様な虹彩色は、その心の有り様次第で濃淡が日々微妙に変色する位で、基本的に色自体が大きく変わったと言う事例は今の所無い。

 これは人の心、物の考え方が根底から全く違うものに変わらない限り不変とされ、現状、魔法熟練度合いの一種の指標(バロメータ)と考えられて居る。

 詰まる所、映像の中で刀を振るう少女は姉の奈央では無く、あらゆる側面の才能を簒奪され生まれた妹の雫の可能性が高いと言う事だ。

 雫は奈央を大層溺愛して居たと聞き及んで居る。と言うのに、戦う奴隷は蒼の瞳の持ち主が唯一人のみ。

 逃走中にはぐれた? あの阿鼻叫喚な災禍に巻き込まれたのだ。奈央が囮になって時間を稼ぎ、その間に逃げて来たと考えるのが普通。だとすれば奈央の所在は解らないか。

 差し当たっての問題は雫の出鱈目な強さだ。何故ここまで強くなれた? 確かに地下闘技場は基本的に不殺が許されない無慈悲な領域だ。要するに雫は今まで一度足りとも負けて居ないと言う事に他ならない。

 負けなかったから、それだけ多くの実践経験を積めたと言う言い分もあるにはある。

 だが、銃弾で射たれても尚ぴくりとも怯まず、耐え難い蘇生痛を涼しい顔で受け流し、明らかに身の丈に合って居ない長物を軽々と自在に振り回す様は、その身に宿る修羅を色濃く感じさせる。

 彼女は健康体が精々で、他には何の才幹にも恵まれて居なかったと報告を受けて居た。また、【記憶の渠溝(メモリスロット)】の発現の予兆も見られなかった。

 まさか、純然たる努力のみで幼子の時から生き延びたとは考え難い。

 二つ、想像も及びも付かない経緯によって得体の知れない能力に目覚め、成長を遂げた。それが目下最大の問題点となる。

 栄一郎は、これこそ洗馬が話を持って来た訳なのだと解釈した。

「洗馬、何人導入すれば無事、身動きを封じられるか、想定される動員数を報告せよ」

『……正直に申し上げまして、精鋭百人、いいえ、二百人を以てしても無傷で捉える事が不可能であると苦言致します』

 恐ろしい事実に栄一郎は息を飲んだ。それ程までに雫は脅威だと、他でも無い洗馬が言い切ったのだ。自身の持つ肉厚ぶよぶよの頰に拳を押し付けた。

「理由は、あの俊敏さと膂力か。洗馬の感覚で良いから、どの位のものか何かに例えて見てくれないか?」

『そうですな。はっきり明確にとは参りませんが、真正面からオークと素手で殴り合っても問題無いでしょう。無論、怪物の方が一、二撃で絶命するでしょうが、現在の妹君様の実力を鑑みるに、殴られても、握り潰されそうになっても無傷でしょう』

 そう言った洗馬の表情は至って真面目そのものだった。

「いや、待て待て、流石にあれに殴られて平気とかは無いだろう? 冗談だよな?」

『いえ、栄一郎様。これでも控え目に表現して居ります。今、見て戴いて居る映像。これは凡そ二年前の妹君様であらせられるもの。今日(こんにち)であれば、この程度とは比べ物にならないものと考えるのが妥当でありましょう』

 これで二年前? おいおい、何かの冗談だろう。そう思ったから洗馬は話を持って来たんだったな。納得。凄く納得だ。

「う~む、これで六、七歳? 具体的には解らないが、やや身長高くないか?」

『一三〇センチ近くまで伸びております。現在であれば一四〇ほどに成長していらっしゃるかも知れませんな』

「何かの魔法の副次的な影響か……成長加速、いや、判断材料が足りない。それよりもだ。どうやれば無事お互いの被害を最小限に留め、もっと言えば死傷者を出す事なく、彼女の安全を確保出来るか、それを考えなくてはな。あと、因みに聞いて置く。洗馬、一対一で勝算はどのくらいある?」

『それは希望的観測も含めてでありましょうか?』

 結果が殆ど見え透いて仕方無かったが、栄一郎は鷹揚に頷いて見せた。

『そうですね。希望的に見て、生死を問わなければ多少の手傷は負わせられるかと存じますが、間違いなく私が敗北して斬り刻まれる未来しか望めない事でしょうな』

「それほどにか?」

『それほどで御座います。あの五輪(オリンピック)選手顔負けの超加速、眼を逸らさず迷い無く敵と定めた(つわもの)を両断する胆力、見た目の細さに騙される怪物を圧倒する剛腕、それに頭も非常に良い戦い方だと覗えます。全ての攻撃に対し致命傷を悉く避け、最少の怪我を許容していらっしゃる。多対一も全く苦にならないご様子。これは飽く迄、私の主観の話となりますが、地上に出れば間違いなく現人類最強を名乗れると確信して居ります』

 間引き部隊として最高齢組に属し、現役以上の活躍を見せる洗馬の勝算振りは兄として純粋に鼻が高く、この先の苦難を案じると素直に喜べるものでも無く、栄一郎の心理をより錯雑なものとさせた。

「して、具体的にどれくらい持つ?」

『十秒持てば良い方でしょうな』

 両親の訃報を報告され憔悴し切った暗鬱とした日々が、栄一郎の脳裏に蘇える様だった。

 希望的観測で十秒なら、実際はもっと時間を稼げないと言う事になる。

「……割に合わない仕事だ」と栄一郎は言い大きく嘆息した。

 洗馬で時間稼ぎにならないのだから、動員数は問題では無い。あの黒い刀の斬れ味は斬れぬ物など無いと言わんばかりで、魔法対策をしてある壁を音も発てずに斬り裂いて居た。生半可な防具は寧ろ動きを鈍重にするだけで邪魔になる。それなら防御を無視して機動力に重きを置くか、完全固定してしまう重防具を用いるかの二択。何方(どちら)にしても、長期戦は絶対選択してはならない相手だ。あの治癒速度を、三十分でも継続維持出来るとしたら最悪の事例(ケース)だ。勝ち目が無くなる。しかし、あの全く遅くなる気配を見せない治癒速度もかれこれ二年前の情報。もう、魔法を発動して居るかすら目視で確認出来ない塩梅に昇華して居るかも解らない。

 映像から掬い取った情報を基に、栄一郎は有効と考えられる方針を組み立てた。

「やるなら精鋭を率いての短期決戦だ、それしかない。あと、何か決定打となる策が必要だな。現状だと百パーセントに限りなく近い確率で、全員輪斬りにされてお仕舞いだ」

『となると、やはり防御に重きを置く戦い方を考案なされるのでありましょうか?』

 どうやら洗馬も既に同様の戦略を組み立てて居たが、栄一郎と同じ結論に至って居るのか、その表情は何処か険しいものに見える。

 それはそうだ。現状この作戦は多大な犠牲の基、一人の少女を救出すると言うものでしか無い。身内とは言え、相手からすれば赤の他人も同然の存在との接触、難なく信じて貰える保障も無ければ、本当に最悪の場合は作戦に携わった精鋭部隊は全滅し、共に出向いた栄一郎も洗馬も命を落とす。頭に次々と浮かぶどの作戦でも、むざむざ殺されに行くだけで、博打にすらならない模擬実験(シミュレーション)が繰り広げられて居る。

 苦悶の表情で醜悪な顔を更に歪めて居る所に飛び込んで来たのは、程よい流し見にして居た雫の戦闘映像の一場面だった。

 捨て身有りきの完璧な連携が決まり、明らかに無防備になった真後ろの視覚外から銃撃を放たれた雫が、背負い鞘にでも収める様に刀を背中に回し見える筈の無い弾丸を刀の側面で受け、その一瞬で身体を半身に逸らし僅かに軌道を変え、弾道を把握して居るかの様に避け、接近し相手に一太刀浴びせた。

 まさか背中に眼が付いて居るとでも言うのか、と疑いの眼差しを向けてしまう程に、勘の一言で済ませて良い動作(モーション)では無かった。

「いや、待てよ」と栄一郎は自慢の豊満な頬をぶるんと揺らし、顎に手を添えた。

 思い付いた作戦の概要を洗馬に伝え、席から立ち上がった。



 薄暗い闘技場の中、一際煌(きら)めく雫の瞳は最早、人間の其れでは無く、夜目の利く獣の特有の輝膜(タペタム)を思い起こさせる。

 虹彩の【心象色(ヘルツファルベ)】は魔法熟練度が一定以上の兵に現われる特徴とされ、【記憶の渠溝(メモリスロット)】の発現詳細は依然として不明だが、熟練度が深く関わって居ると推考されて居る。

心象色(ヘルツファルベ)】の研究は独逸(ドイツ)主体の研究班によって行われて居り、心の色を直訳した所から来て居る。

 その為、音信不通である現在、途中経過までの研究情報があるだけで、引き継いだ花見月の研究班が日夜研究に明け暮れて居る。だが、取り組んで居た題目(テーマ)が異なる事もあり、お世辞にも進捗が芳しいとは言えない状況にあった。

心象色(ヘルツファルベ)】と【記憶の渠溝(メモリスロット)】。この二つの発現に比例した魔法成長が欠かせないと仮定出来るなら、雫は【記憶の渠溝(メモリスロット)】を既に会得して居ても可笑しくは無い。

 であるなら、理論的には周囲の複数人の即時式記憶(リアルタイムメモリ)から、多視覚を読み込みながら戦えると言う便利そうな技能の一つも使えると踏まえる。

 勿論、時間的余裕も人員的余裕も確保出来なかった事で実験は試行されて居らず、机上の空論でしか無かったし、非常に感覚酔いし易く、平衡感覚を正常に保つのも困難とされる欠点があった。

 その上、相手から見た自分の動きは左右が反転する為、一朝一夕で咄嗟に扱えるものでも無い。長い訓練が必須だろうと考察されて居たお蔵入りの技術だ。

 もし、欠点を何らかの未知なる手法で克服し、戦闘中は常に即時式記憶を収集して居るのだとしたら、記憶を読み取る速度は銃弾を撃ち、それが着弾するよりもずっと速い事になる。

 なら、勝負は一瞬、一言でも発っせれば充分。必要な人材も自分一人で事足りよう。

 洗馬にはもしもの時に備え、地上の救出部隊に待機して貰った。説得は難攻し、三日費やした。こう言う時、肉体言語では無く、話し合いに応じてくれる相手と言うのは本当に貴重と実感する。

 栄一郎の仮説が全て想像通りに正しければ、それなりの成功確率が見込める。かと言って、一つでも些細な見落としがあれば、栄一郎は黄泉に足を踏み入れる事となるだろう。

 それでも、勝利を手にした場合の利点は、比較も莫迦莫迦しいと感じられる程に膨大だ。正しく高い危険性を伴う高い収益性(ハイリスクハイリターン)を見込める。

 雫は魔法の未解析部分(ブラックボックス)を知る超越者として上等、否、至高とさえ言える。

 卓越した戦闘感覚(バトルセンス)は、現状喉から手が出るほど欲しい指導教官的人材でもある。

 直接、間引き部隊に携わらせる気は毛頭無いが、あの戦いの心得や実践宛らの間合いの取り方、想像を絶する膂力を生み出す訓練の方法も教えて貰えるならご教授願いたい。

 中でも治癒魔法を扱える者が非常に少なく、未だに拠点ごとの頭数を揃えられず仕舞いで、死傷者が略々(ほぼほぼ)助からないと言う常識が根付き、戦闘職の心のゆとりが蝕まれてしまい、度々諍いが起きて居る。

 どれ程、些細な情報だとしても、治癒魔法を使うに当たって(コツ)でもあれば、是が非でも聞きたい所なのだ。

 しかし、これらは確かに得たい情報でもあるが所詮は方便だ。今、一番重要なのが、兄妹である事。家族なのだからどうにかして救い出したい。もう戦わないで良いのだと手を取りたいのだ。

 栄一郎は生まれて意識が芽生えると、直ぐに魔法研究を第一とした。家族よりも優先した。

 彼女ら姉妹の様に日下部夫妻と共に生活する事も実現出来たが、それよりも災厄をどうにか凌ぎ切る事の方が大事に想えた。その後の未来へ繫げなければ、何の意味も成さないのだと日夜焦りを感じて過ごして来た。

 これ迄の事、間違っては居なかった筈だ。でも、正しかったのかは判断出来ない。

 魔法は確実に力無き人々を自助する力となった。同時に魔法は警察の機能しなくなったこの陸の孤島で悪事を増長させる手助けにもなった。

 善人と悪人を選別する時間など何処にも無かったし、同じ人間が人間を区別するとしたら、その公平さはどうしても疑わしいものとなる。

 結局、全ての生ける人に対し、可能性を授ける事しか出来なかった。

 政界の全面的協力さえあれば、顚末は全く違うものだったのだろうが、当初の予想通り水面下で秘密裏に進めざるを得ず、想定を遥かに上回る多大な犠牲を被る事と相成った。

 そして、災厄が現実のものとなり、話を事前に通達して置いた政界の御歴々は何処かへ雲隠れした。嘘だ虚実だと口では訴えて居ても、逃げ果せる準備だけは怠らず、天秤に掛ける迄もなく、他者を切り捨て己の命を守る事に全力になれる。その判断力、誠に見事な手際だったと感服したものだ。

 つらつらとここまでの反省と失敗を思い浮べ、ボキ殊、花見月栄一郎は現実逃避をして居た。

 考えて恐怖を消せ、さっさと口を動かせ生活習慣病患者と自身を叱咤する。

 汗を搔く暇さえ、与えられなかった。足音も聞き取れなかった。唯、頭上から黒い刃が迫り来る。その光景が眼に焼き付いて離れない。

 差し迫る確実な死の足音にこれまでの記憶が駆け巡り、色々やり残した事が多過ぎて、まだ死ぬ訳には行かない、と眼を剝く。執務室には文字通り書類が山の様に積まれ、栄一郎を待ち構えて居るのだ。

 やや早口で、それで居て大声で、栄一郎は咆哮を上げた。

「ここを出て奈央を捜しに行こう!」

 作戦と呼ぶには、賭けの要素がその殆どを占め、杜撰(ずさん)としか言い様が無い。

 だが、前髪まで触れた刃はその必殺の一閃をぴたりと静止して居た。

 背丈は明らかに栄一郎の方が高く、腕の太さも、身体の何処の大きさを取っても、雫の方が小さく脆弱そうに見える。

 栄一郎は、その見せ掛けだけの前時代的な優位性を振り払う様に、次の手を打つ。

「ボキは、お前たちの兄だ」

 初めて互いの視線が交錯したのを感じた。記憶を読み取ってくれと(いの)る。

 失敗するかも知れない。成功確率は元々高くない。怯える前に動け。立ち竦むのはもっと後だ。

「ボキの記憶を受け取ってくれ」

 刀を物ともせず栄一郎は足を踏み出した。刃が額を(かす)め、血が垂れる。

 それを見た雫は咄嗟に刀を引き下げ、逸らす事無く栄一郎をその瞳で捉え続けて居た。

 円環から見ても栄一郎に戦う意思を感じ取れ無かった。それに雫は片手の腕力だけでも、跳躍しながら軽々と眼前の男を投げ飛ばせると言う自負があり、焦る要素が何処にも見付からなかった。

 それに、眼は口ほどに物を言う、とはこの事で、荒々しい感情よりも、酷く懐かしい何かを向けられて居る感覚になり、何故か居たたまれない想いを抱えたと言うのもある。

 だからだろうか。雫は栄一郎が、自分の頭の上に手を乗せるのを拒まなかった。

 これ迄の苦難を思い浮かべ、壊してしまわない様にと心掛け、栄一郎は頭を優しく丹念に撫でた。

 何度も何度も繰り返して居る内に、ふと前にも赤ん坊だった頃、抱き抱えこうして頭を撫でた事があったなと思い出して、気を緩めてはならない場面ながら目頭が熱くなるのを堪えた。

 それから直ぐに変化があった。

 雫が自ら刀から手を離したのだ。落下した刀が空気に溶け消えると、頭上に置かれた栄一郎の手を摑み、自分の眼前に引き寄せ、両の手で弄び出した。

 何が起きて居るか解らず、頭が真っ白になった栄一郎は取り敢えず待つ事にした。

 (ツボ)でも押すかの様に指を押し込み、感触を確かめて居る気はするのだが、実際は何なのか解らない。

 兎に角、手の小ささ、指の細さと乖離した物凄い指圧に、骨が粉々に砕けてしまわないかと言う全く別方向の懸念が心音を増幅し、執務室の書類に手を着けられるか、或いは仕事を肩代わりさせ、洗馬にまた無理をさせてしまうのではと不安に駆られた。

 暫くして堪能して満足したのか、漸く雫はその堅く閉ざされた口を開いた。

「兄は栄一郎って言うんだな……」

 その声音は甲高くやはり子供の其れにしか聞こえないが、放たれた言葉は自分の何倍も年月を重ねた老成人の様で、ここでの苛酷極まりない戦いの記憶を内包する静謐な話し声だった。

 声も、瞳も、身体の所作からも、動揺や驚愕して居る様子は一切感じ取れない。

 その事が、栄一郎の気持ちを(かげ)り一つ無い安堵とは程遠いものに変え、同時に「私は大丈夫、精神(メンタル)も強いから」と間髪入れずに励まされた。

 早速、甲斐性無しの兄と思われたと消沈し掛けた所を畳み込む様に、「作戦通りに動く。さっさとここから出るぞ栄一郎」と追い打ちを食らい、「はい」と思わず丁寧語が出てしまい更に凹まされた。


                          ■ ■ ■ ■


 栗原誠二との戦いから、かれこれもう三年が経過した。

 最初の戦いから一週間寝込んだのを最後に、雫は順調に勝利を捥ぎ取り、所属して居る12番区画の戦闘奴隷たちは、(かつ)て無い優遇を受ける事となった。

 闘技場の戦闘は基本的に、立候補選出とランダム選出により戦う奴隷を選ぶが、ランダム選出で選出された人から、他の奴隷が希望し両者の同意が得られる場合に限り、戦闘する権利を買い取る事が可能となって居る。

 御鉢が回って来た時、雫は自ずと立候補し、ランダム選出時に戦闘の権利を買い取る事で、12番区画の三年間全ての戦闘を単独で熟して居た。

 規則的には問題ない為、不正でこそ無いが、一人では全く歯が立たない雫の異常な強さに、途中から雫のみ特例として多対一を強いられる規則が書き加えられた。

 その客観的に不利な状況は新たに12番区画へ加わった奴隷仲間に異議を唱えさせたが、雫としては勝利報酬が格段に増し、『自由の権利』を当初の想定された期間とは比較にならない程早く入手する事に成功した為、寧ろ運営側の富裕層の方々に謝意すら抱く始末だった。

 だが、雫はその権利を自分の後に区画に連れて来られた仲間へと譲渡し、もう地上へと帰還出来る解放者を三人も出して居た。この三人は未だに12番区画に留まり、何かと雫の身の回りの世話を焼いてくれる。

 雫からすれば恩誼はそれほど気にする事では無い、と諭してお仕舞いにする積もりだったが、相手の命を奪う事に躊躇いのある平和な日常に身を置いて来た一般人からすれば、率先して汚れ仕事を引き受ける彼女の存在は幼いながらも女神の様に見えた。

 更に、雫の後続が四人とも女性だった事もあり、当人こそ知らないが、何とか戦い以外の時間を潤いのあるものにしようと話し合い、協力関係を築いて居た事も大きい。

 雫は闘技場での戦闘中のみ【記憶の渠溝(メモリスロット)】を全力で使用するが、他の日常生活では滅多に使用しない。区画(ホーム)に居る時は身体を休めて居るか、皆年上だった事も幸いし仲間に勉強を見て貰い、日々を過ごして居た。

 


 ある時期を境に、12番区画に新人の奴隷が増えなくなったので、自分を含め後一人、計二人分の『自由の権利』を獲得すべく、それなりに快適な地下の日々を謳歌して居た。

 これまでと近い貯蓄具合なら、これっぽっちも切り詰めない一日三食デザート付き間食有りの魔法式セキュリティ完備の邸宅に住み、ふかふか寝台(ベッド)有り宅内銭湯有り按摩(マッサージ)有り生活を維持しても、あと恐らく三ヶ月も勝ち続ければ達成出来る所まで至った。

 そこに見た目二十代前半に見える肥満気味……ふっくらとした体型を持つ、丸腰の男が闘技場にやって来た。

 それで戦う積もりか? と言うか動けるのか? いや、しかし、地上にはあのよく動く豚の怪物がうじゃうじゃ居た。見てくれなど何の参考にもならない、と再考する。

 油断大敵と言う奴だ。

 大抵の生物は心臓を潰すか、首を()ねれば死ぬ。人間は大体これでご臨終だ。今まで戦った人間はそうだった。豚とは戦った事が無いから、これで死ぬかやや懐疑的だが、身体を二十等分ぐらいに分断すれば再生するのも億劫だと思われる。

 何故なら私がやられて少し困る事だからだ。

 少し腕を切り落とされたとか、骨を折られてぐるんぐるんに捻られたとか、その程度の軽傷なら一秒も掛からずに治癒出来るが、身体から一定距離以上離された挙げ句、区分けされればされる程、その治癒に時間を取られてしまう。

 その場合、【設計図】の身体情報を(もと)に、再構成を試みる方が断然速く済む。

 (すなわ)ち、雫のやるべき事は至って単純。切断だ。

 私は知って居る。通常、人間は自力で蘇生しない。切り落とされた腕を生やす事も出来ない。銃弾でずたずたになった肢体を瞬時に治すなど、先ずもって不可能だと理解して居る。

 であれば、血液が減れば減るだけ勝率が上がる。

 人間は基本的に二足歩行で、直立して居る場合が殆どである性質上、縦の振り下ろしの命中精度が自然と上がり、非常に有効である。

 なので例え芸が無いとしても、今日も今日とて刀を振り下ろす事は当然の行い。縦を避けられてからの横の振り抜きは定跡であり鉄板と言える。

 やる事に変わりは無い。だか、何かが可笑しい。

 敵は、最近では珍しい御一人様だ。理由は不明だが、敵は直立不動で案山子(かかし)の様に棒立ち待機を決め込んで居る。

 そして、相手の入場から此方(こっち)、記憶を読み取れない異常が生じて居るが、これは深刻な事柄とは言えない。

 お世辞にも筋肉質とは言えない恰幅の良い体型、鍛え抜かれて居ないのが眼に見えて解る二の腕、見たところ武器は無し。身体の発達度合いから脅威段階(レベル)はそう高くない。

 入場の足取りものそのそとして居て、演技とは考え難い。

 負ける要素を考える方が難儀する有り様だ。

 その筈が、雫は行方の解らない違和感を拭えないで居た。

 勝利者は、一対一の単純報酬と賭け金から何割かを上乗せで貰える合算額を受け取れる。

 それが今日に限っては、単純報酬だけで、一対一の報酬の凡そ5倍の額だったのも、気に掛かる。

 単独でも十二分に戦える……様な(つわもの)には見えない。全く見えない。

 だとすれば、答えは魔法使いだ。それなら見た目は関係無くなる。

 しかし、幾ら熟練の魔法使いでも、無反応と言うのは理解に苦しむ。

 既に何か魔法を発動して居るとすれば、魔法は記憶で形作られて居り、近付けばこの瞳で捉えられない道理が無い。

 また私の様に、日に何百回も切られた部位を復元出来るなら()だしも、全くの無防備は死活問題である筈。

 仮に避ける必要が無く、絶対的な防衛力があるなら、防ぐ事は可能なのかも知れない。

 が、都合良く私に致命傷を与えられる程の攻撃力、(もとい)殲滅力を備えて居るものだろうか。

 あれから魔法使いも度々、この闘技場で相手にして来たが、攻守共に秀でた平衡(バランス)型は一人も居なかった。

 恐らくだが、魔法は個人の性質により、何方(どちら)かに偏って成長してしまうものなのだと推察出来る。

 斯く言う私も攻撃力側に傾倒して居り、防御力はそれ程でも無い。

 地上の豚。収集した情報によればオークと呼称されて居る二足歩行の怪物。あれに殴られたら多分、普通に痛いと思う。青痣が出来るかも知れない。それはとても悲しい。

 単体を倒すのは訳ないだろうが、それでも頑張って数十体程度、葬れれば御の字だ。

 ここを出た後、非戦闘員を引き連れ、運良く生存拠点まで辿り着けるかが、私の正念場となるだろう。

 走って居る内に色々脱線したが、特に問題は見当たら無かった。

 この男、不自然なまでに自然体だ。周囲に魔法の気配は微塵も無く、身体を動かす素振りもこの期に及んで無い。

 この瞬間、既に雫の刃が届く間合いに入って居た。

 要は相手の魔法より速ければ良いのだと自分を奮い立たせる。

 これから見えない針金(ワイヤー)で私の腕を固定しようが、切り落とそうが、刀を持った腕は慣性の法則に従い、折れても男を両断するだろう。

 深読みから生じた微かな迷いに付け込む様に、男がある言葉を言い放った。

「ここを出て奈央を捜しに行こう!」

 途端、刀を全身全霊で静止させると、指と手首の骨が何本か細かく砕け、皮膚を突き破って出血し出したのを傍眼に捉える。次いで黒い靄が零れた血液と共に骨を同時に修復し始めた。

 治癒の傍ら、雫は条件反射的に至近距離で今一度その相貌を改める。

 見覚えは無い。雫からすれば間違い無く知らない人物だった。

 されど、この男は奈央を知って居り、私も知って居る。姉妹である事も割れて居ると考えるべきだ。

 それで……誰だ。いや、先ずは誰かより、目的を知る方が先決か。

 触れた刀の先が男の顔に一縷(いちる)の血を流させ、この距離に来て漸く薄ぼんやりとした円環を垣間見る事が叶った。

 この距離なら記憶を読み取れる、と考えさせる罠である気もするが、今の私なら読み取りながらでも意識を保った儘、自由に動く事が出来る。毎日、欠かさず特訓して居たお陰だ。

 決死の覚悟を決め、雫は男に巻き付くの円環を躊躇わず読み込み始めた。

 男の名前は花見月栄一郎。花見月家の当主。【災厄の日】以降、全国に支援物資を届けて居る例の家が花見月か。だとしたら、何故そのご当主様ともあろう者が、護衛の一人も無しにここに来た……日下部雫の救出作戦…………だと?

 何だこの出鱈目な作戦の全貌は……【記憶の渠溝(メモリスロット)】を持つ者同士は相互干渉が生じる為、記憶の受け渡しや読み取りは数メートル以内且つ合意の上でしか成立しない。その為、距離を詰められた時、初めて記憶の開示を承認し読み取らせる段取りが必須、また雫の関心を得られなかった場合は失敗の確率増――詰まり死亡する。

 (ほぼ)全て相手任せでやっとこさ成立するこれを、果たして作戦と呼んで良いものか。

 栄一郎の無謀さと豪胆さに、雫はこの地下深くで敵に感じた事の無かった温かな人間性を嚙み締めた。

 気付けば栄一郎が雫の頭に手を乗せて撫でて居り、それを許容して居た。

 思えば人と触れ合ったのは奈央の手を離して以来、筋肉質な運び屋に担がれた時が最後だった。最近は本当に殴る蹴るばかりで、人肌の温もりを身近に感じる事は皆無と言って良い程に酷く懐かしい。

 何が引き金になったのか、これまで堰き止められて居た記憶が奔流の如く流れ込んで来た。

 それで私との関係性が明らかになった。この栄一郎なる男、実の兄らしいのだ。

 私たちは人為的に造られた生命とやらで、幾つもの円柱型の容器ポットに赤子が入って居る。白衣を着た人が何人も行き交って居り、中には父と母の姿も見受けられた。下方より見上げて居る事から、これが兄の視線だと解る。

 ある大部屋にそれは集められて居り、数多く並列する容器の中から、日に日に点灯する数が減って行き、【70】と【429】と表示された型番のみが最後に残される、その映像が頭に入り込んで来た。

 どうやら、この二人の赤子が私たち姉妹と言う事なのだろう。

 何と言うか、名前その儘だ。酷い名前にならなかった事だけは、運が良かったとも言える。唯、雫と言う名前を割と気に入って居た身としては、少なからず落胆があった。

 それにしてもだ。栄一郎、高々数年でどうしてそこまで太った?  ストレス的な何かか? それとも相手の油断を誘う為の特殊な魔法か?

 記憶を全て読み取れない雫は、何かに阻まれて居る嫌な感触を覚えながらも刀を消失させ、栄一郎のストレスを和らげる手助けになればと手の(ツボ)を押して見る事にした。

 掌の中指の第一関節を心血(しんけつ)、中指の爪の生え際である爪半月(そうはんげつ)部分より人指し指側を中衝(ちゅうしょう)、小指の同じく爪半月部分より薬指側を小衝(しょうしょう)と言う。どれもストレス予防や苛立ちを抑制するもので、副交感神経に働き掛け自律神経の平衡(バランス)を整えてくれる作用があるとの事。

【鴪を救う会】の構成員である壺按摩(ツボマッサージ)好きな豊永野(とよながの)と言う男性の記憶を拝借した。ずぶの初心者で辿々しい上に、指圧する場所の正否も覚束ない始末だが、栄一郎の指の大きさや太さ、また触り心地が自分とは雲泥の差と呼ぶべき別物であり、それが雫には不可解でとても興味を惹かれた。

 粘り気を指先に残留させ、鉄の匂いを醸し出す死者とは異なる、弱まる事の無い脈動と温もりを持つ生者がここに居るのだと、ここで漸く実感が追い付いて来た。

 それは奴隷仲間や門番とは又異なる縁戚関係と言う心理的距離感が、そう想わせる要因となって居るのだと雫に結論付けさせる。

 ぱっと手を離した雫が「兄は栄一郎って言うんだな……」と溢すと、栄一郎の円環が微かに澱み濁った様に見えたのを見逃さなかった。

 言葉から何かを察したのか、表情も朗らかとは程遠く仄暗い。

 この澱みは駄目だと雫は胸のざわめきを持て余すも、当の対処法の検討が付かない。

 これまで幾度も敵の円環を眼の当たりにして来た。空腹感や焦燥感、恐怖感など一過性の類いの感情では、こうはならない。より中枢、栄一郎の核心に触れる何かだったに違いない。

 雫は安心させる積もりで、「私は大丈夫、精神(メンタル)も強いから」と励ましの言葉を送った。

 俄に栄一郎は凄い微妙な顔付きになる。何だその顔は、と想いながら円環に眼に見える変化は確認出来なかった。この問題は後回しだと棚上げした。

 栄一郎の作戦によれば、この闘技場の入場門から堂々と区画へと通り抜けられる。

 何せ今日、闘技場で戦う予定は組まれて居ない。

 一見すると、闘技場の観客用のカメラが起動し、映像が何処かへ配信されて居るかの様に見える。

 その上、門番の眼を欺く為、対戦相手が確定した時に灯る認証ランプは正常にその輝きを放って居た。

 事前情報も情報屋に流されて居たし、専用端末にも表示されて居たのを雫自ら確認して居る。

 これら全ては、この日の為に周到に準備された欺瞞(ぎまん)。花見月の人脈を駆使した栄一郎の大規模且つ繊細な誤認魔法による賜物だった。

「作戦通りに動く。さっさとここから出るぞ栄一郎」

 雫は姉とは又異なる部類となるが、突然現れた優秀な兄の存在が純粋に喜ばしく、弾む心に任せる儘、入場門へと手を引っ張る。

 雀の涙ほどの誤差は生じたものの、計画が大凡思い描いた通りに進行した筈の栄一郎は顰めた顔をして「はい」と力無く返事をし、雫の馬鹿力に従って闘技場を後にした。


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