Memo.003 記憶の架け橋
2019年11月21日(18:33) 一部、誤字を修正しました。内容に変更はありません。
意識が覚醒した。有無も言わせずに私を気絶へと追い遣った謎の痛みは何処へ旅立ったのか、打って変わってとても穏やかな気分だった。
そこは見知らぬ小綺麗な天井が朝陽で露となり、起き上がり様に視界に映る室内の家具も全て見た事の無い物で溢れ返って居る。知らない場所に居た。
ただ起きたばかりだと言うのに、妙にむず痒く心が弾んで居る。熱でもあるのかと疑うほどの高揚した感覚に、胸中が落ち着かない。
「ふふ、今日から中学生だ!」
私が喋った、と思ったらどうやら違う様だ。鏡に反射し写し出された容姿や体格が、何処をどう見ても私とは別人のものだったからだ。
例えば入学予定だった学園の初等学業を修めた者の身長が、どの程度かは知る由も無い。明らかに私の其よりも高く、下手すればこれだけで酔いそうな高低差だ。少し成長する事が億劫に感じられる。
自分で動けないのだが、はっきりと物に触れる感覚があるのは解せない。
背が私より高く体重も重い。二股から足に掛かる鉛の様な重さを支える足裏は、明らかに年齢の違いによるものだ。あまり鍛えて居ないのか僅かに気怠い感覚がある。
血行が悪いのか、姿勢が悪いのか、先天的な何かの原因かは解らないが、重心が前寄りで少し猫背だ。
情報から察するに朝の支度をして居ると察する。私も今朝や、幼稚園へ向かう時に数こそ少ないが、持ち物を準備した。彼女もそれをやって居るのだろう。
彼女の自室は二階にあり、朝の洗顔や歯磨き、食事を取るため一階に降りなければならない、と無意識に頭に浮かんだ。
寝坊はして居ない筈なのに、相当な焦りが見える。パジャマの鈕を摑めて居ない覚束無い指がその証拠だ。
時間はまだ問題無さそうだが、自分の食事が遅いと認識して居る彼女の思考にはまだゆとりと言うものが感じられない。分単位の所要時間の把握が出来て居らず、浮かぶ予想が曖昧に過ぎる。
そこに小学校からの旧友と一緒に登校しようと約束して居るから、遅れる訳には行かない。
殆ど荷物らしい荷物の入って居ない鞄を肩に引っ提げ、駆け足で一階に降りる。途中、階段で滑り一瞬足が浮いた。偶然、何事も無く一段抜かしで降りれたから良いものを、入学式前に入院する可能性のある危うさに、別人ながら畏怖を抱く。
しかも本人は「セーフ!」と口遊み、自身の運の良さを噛み締めて内心喜んで居るから始末に終えない。
もう少し早く起きれば良かった、と言う教訓が一度も頭に浮かばない辺り、私とは打って変わって能天気な性格だ。少なくとも石橋を叩いて渡る事はしないのだろう。
そして、彼女である私は歯を磨き顔を洗い麦茶を一杯飲みながら、家族と時間を掛けながらも朝食を終え、玄関で靴を履き父と並んで母へ元気に「行ってきます!」と常套句を投げ掛ける。
一日の始まりである母の「行ってらっしゃい!」を聞くと、不意討ちの如くおでこに口吻される。父とは唇を重ねて居た。何時か私にも母と父の様に愛情表現を、出来る相手が現れるのかと思うと不思議と胸が温かくなった。でも、きっとまだまだ先の未来の話だ。
抑からして好意の劃りも曖昧で、好きである事が当たり前の人間性だ。止め処無く過る顔と関連付けられた名前に、数多くの友人が居る事を理解させられる。
彼女は両親がこの上無く大好きで、友人が大好きで、胸を張って嫌いと言える人の居ない、明るく清らかで眩い少し間の抜けた少女だった。
似て非なる性格だが、何処かその自分と掛け離れた心的距離感に、姉の俤を重ねる私が居た。
これでは、丸で誰かに成り済まして日常を過ごして居る。と言うよりは誰かの昔話を無理矢理、視聴させられて居るに等しい。されど、それともまた違う、確りとした感覚があるのだ。
彼女の息遣い、発熱と紛う程の胸の高鳴り、重心が擦れて居る危なげな足運び、手に取った硝子のコップのひんやりとした感触。
最早、白昼夢で済ませられる類いでは無い。余りにも鮮明な現実感が、私の中で唯の夢だと切り捨てる選択を搔き消した。
その時、すっと頭を過るものがあった。
これによく似た内容の映画を、忙しない両親が二人共揃った珍しい休日に、家族全員で見た事を思い出したのだ。
主人公は、頂上的な能力を隠して隠遁生活する白寿を迎えた老人の話だった。
老人は他人の気を色として捉える事が出来る。言わば生命力が見える人で、人間で無くとも生きて居る動物であれば大抵は感じ取れて居た。
自らの手で直接触れなければならない不便な側面こそあるが、触れるとその人物の歩んで来た人生の印象的な部分を、恰も背後霊になったかの様な視点で追体験する事が出来た。
とある偶然の巡り合わせにより、隠遁生活を手離し、ある事件の捜査協力を警察に要請され、彼の余生は予想だにしない方向へと舵を切る事となる。
余生と言うからには、老い先短いと直感的に結論付けた浅慮な私は三部作と聞いて面食らったのでよく憶えて居る。
一部で五年と言う時間経過だったので、同様であった場合、百飛んで十四才になる可能性がある。
演じた男優も実年齢八十を優に超える鶴の様な綺麗な白髪を持つ好好爺で、相互対談時に最後まで撮りきれるのかを懸念して居る本音を語り、多くの応援の声や便りが寄せられ脚光を浴びた。
果して生きて居るのだろうか。密かに続編を楽しみにして居る私は好々爺の安否が実に心配だ。
何しろ豚野郎の襲来で少なくとも都会の建物は、戦後然とした襤褸い有り様になって居る。舞台として機能しないかも知れない。海外を舞台として使う選択も、物語の展開次第ではありだが、その場所にも何かしら豚の様な非常識的な生物が発生して居ないとも限らない。
要は誰かがあのふくよかな豚をどうにかこうにか退治して、復興がある程度進み、映画撮影云々の話はそれからと言うのが一般的な常識だ。
余命と闘うあの御老人が奇跡的に生き長らえて居たとして、本当の白寿を迎えかねない長期的で曖昧な未来予想図。人は此を願望と呼ぶ。
それ以前に私が生き延びない事には始まらず、地上に戻らねばならない上に、日本人を食べ終えた豚が首を長くして待って居る事も、十二分にあり得る。
そもそもあのふとましい豚には、重火器が通用するのだろうか。警官のこじんまりとした拳銃では、皮膚を破る事にも難儀しそうだ。その様な素人目の判断は、唯の気の所為だったと思いたい所。
いや、近日中は豚に会うまい。私は地下に居るのだ。ある~日、森の中、豚さんが――とはならない。先ずは現状の打開、の手前である現状の把握をするべきなのだ。現実逃避して居る場合では無かった。
端的に決め付けると、私は誰かの追体験をして居ると言う事と仮定しよう。
何故なら今現在に限り、日本は至る所の安全な通学路など確保されて居ないからだ。蘭々の面子が教えてくれた話によると、止めてと言っても豚が湧く。そう言う場所なのだ。
その為、安直だけれど映画に則って過去の出来事であるとして話を進めようと考えた。仮に間違えて居たら、再び前提条件と睨めっこする事になるが、無能である私には繰り返す手順が必要なのである。人間諦めが肝心なのだ。
自宅を後にした戸倉鴪は、父親に手を引かれながら他愛ない話をしつつ、てくてくと歩いて居た。まるで雛鳥の様だ。戸倉鴪と言うのは能天気な彼女の名前である。
人は名前を呼ばれた瞬間、無意識に自分の名前と照合して居るらしく、一致した刹那その呼び名や状況から自身を呼んで居る事を判別する。
要は呼ばれたら基本的な言語を認識出来る人は、無言の儘でも返事をして居るらしい。どうやってそれを知ったかは定かで無いか姉がそう言って居た。
彼女は母から「いっちゃん」と呼ばれ、父は「鴪」と呼ぶ。二人から呼ばれる都度、無意識に思い浮かべた氏名こそが、彼女自身の名前なのだと確信した。
鴪は父の大きな手の感触を楽しむ傍ら、意外だったが少しだけこの通学時間が憂鬱なものであると捉えて居た。
出来る事なら、ずっと手を繋いで居たい。それを幼い時に自覚して居たからだ。
手を引いてくれるのは父や母や、何故だか多くの友達なのだが、何時しか訪れてしまう訣別を理解出来て居ても、まだ納得はしたくない。
しかし、それを口にするのは流石に恥ずかしいと言う両刀論法に陥り、限りある至福を感受しつつもやはり何処か鬱屈としてしまう。
人は知恵を得るからこそ不自由になるし、幸福の他に不幸を手に入れる生き物だ。姉の勧めで読んだ何かの書籍に載って居た一節だ。
彼女の見た目は兎も角として、中身はきちんと歳相応に成長して居る様だった。
先程から通学路と駅方面への分かれ道を思い浮かべる鴪の胸中は、機能不全とはまた違う心理的な不一致による息苦しさと、俯き気味の浮き沈む視線の端に滞る熱の球体の様な得体の知れない何かが見て取れた。
そろそろ件の集合地点だった。
その場所は、立地上通って居た小学校の先に位置する中学校へ通う為の待ち合わせ場所になって居り、既に年中健康老人並みに早起きの友人が待って居る筈で、父から手綱を引き渡されるのが小学校入学当初からの恒例だった。
その友人は鴪と同い年ながらも、両親に続く第三の保護者の様な立場となって居た。
基本からして鴪は猪突猛進の気質だが、妙に距離感の取り方が上手く言葉選びが極めて理性的で慎重な側面があった。
本人は無意識の積もりだが、話し掛けては行けない時機や逆に話を聞いて欲しいと考えて居る時、大勢で居る乃至一人で居るかの状況を見定める観察眼と高度な伝達能力及び、それに附隨して周りから齎される情報収集能力により、一個人としては異様な迄の他者との繋がりを持つ人気者として地位を築いて居た。
入学したての一年生は一見接点の無さそうな最高学年である鴪の存在を、通い始めて一週間もすれば知る程だ。
最初こそ凄いぽわぽわして居る風変りな先輩が居るらしいと言う不名誉な噂によるものだが、知らない人では無いと言う評価に貼り替える事で不審視は緩やかな消失を辿り、気付けば知り合いから直接的な友人へと昇華し、隣で笑って居る。
その為、記憶に新しい小学校の卒業式は、言わずもがな中々に大変な騒動になった。
最年少学年から次年の最高学年までの略全校生徒が、一時間ほど鴪を泣きながら引き留めると言う異例の事態が起き、何故こうなったのか全く解って居ない当の本人が挙動不審になりながら「みんな中学校で待ってるからね!!」と壇上で締め括り、勢いで卒業式を断行した。
鴪は決して頭が悪い訳では無いが、出来る限り多くの人と友好関係を築こうとする余り、学業はやや疎かだった。点数はそこまで酷い訳では無く、決まって平均点から5点上下する程度、要点を理解し人に教えるのはそれなりに上手いのだが、自分で解く時に丸が三角になる様な誤解答を多発する。
自身の為に何か行動を起こす事が、異様な迄に下手である残念な娘の様だった。
疾うに父は件の定位置で去り、暫くは小学校の顔見知りの生徒たちが、「あ、いっちゃん先輩だ! ラッキー!」、「今年は幸先がいいぜ!」と二礼二拍手一礼しては一言二言話し、やっとこさ普通の挨拶をしては通学路に戻って行く。
私は彼らの中の鴪の多角的印象から、そうした答えを導いたが、鴪の頭の中は中学になる事で殆ど白紙になった予定をどう埋めるか、具体的には最初に誰と会うべきか、どの様な接近行程を描くべきなのか、入学前に知り得た情報を元に、写真付きの名前がちらほらと浮かんで居た。
丸で履歴書の様に折り畳まれた記憶は、頁を捲る要領で、正確に会った事の無い誰かを割り出して居た。
姉とは部類が違うが、頭はかなり良いのだと思う。
使い方さえ間違えなければ、他人との縁故に於いて、数多の深い繋がりを得られるし、そこには後ろ暗い企みが無く互いに信頼関係が生まれる。
将来様々な職業に就く上で不自由しないだろうが、今は豚の時代だから残念だ。
遅刻常連組以外は一通り登校したのか、鴪が待ち呆けを喰らってかれこれ五分が経過した。
誰も通らない束の間の一時に、彼女は退屈を感じるものと決め付けて居たが、そう嫌な感情が思い浮かぶ事は無かった。
二股の道に自販機があり、椅子ほどの小さな車両用防護柵がある。鴪にとって幼馴染みが来るまで、その仮の腰掛け椅子が指定席となって居た。
切り替え上手いのだろう。ふとした瞬間、鴪の心は恐ろしくなる迄の静寂を取り戻し、自身の心音が耳に響くだけになる。無我無心の境地と言う奴だろうか。凄い。何も感じられない。
しかし、それが返って私を不安にさせた。鴪は良い人間だ。同じ教室に私が居たとしても、話し掛けてくれる人種に違いない。誰からも愛され、多くの人にその愛情を返せる。仲違いして居る友人同士を仲良くさせるとか、普通は上手に出来ない。
私は姉とその周囲を取り持つ事が出来なかったから、姉と周囲と個々に意見を聞いて見たりもしたけど、私はその意見に反してより良い関係性を築こう等と言う考えそのものが浮かばなかった。両者の意見を聞いて、唯々納得してしまった。それをどうにか出来るとしたら、こう言う人だ。こう言う人を素晴らしい人間と、そう表現するのだろう。
だがらこそ、私は望まない懸念を抱く。なぜ私が鴪を見せられて居るのか。怖い。怖くて堪らない。ドラマや映画やあらゆる物語は平穏無事な事が無い。何かが起こってしまうのだ。そして、それは主人公を脅かすものなのだ。
さっき私は闘技場前の認証ランプを見て気を失った筈だ。あの出来事がこの夢を、記憶を見せて居るのだとしたら、相手は鴪か。否、彼女は間違い無く、多くの人に必要とされる愛されるべき人だ。逆恨みに遭っても、卒なく収集を図る事が出来るだろう。
だとしたら立てられる仮説は、鴪本人では無く、
「やあ、戸倉鴪ちゃん、だよね?」
推定年齢は三十代前半か後半か、邪悪な笑みと眼許の濃い隅で判断が狂う。絡み付く様な声音は、受付爺を思い起こさせるけど、何かが絶対的に異なって居る。表情は朗らかで、左側の門番の人が言っていた、信用してはならない相手の代表の様な微笑み方だと警笛が鳴る。眼は細く獲物を見定める瞳だと感じられた。別段、変な顔をして居る訳でも無いのに、この様な表情全体が気持ち悪く思える人間は見た事が無い。
車両用防護柵に座る鴪の前に、じっと佇む壮年の男性が立って居た。
しかし、対応する鴪は至って平然として居た。
「初めまして。おじさん? 私に何かご用ですか?」
「うん、そうなんだ。おじさんね。娘から鴪ちゃんの話を聞いてね。ちょっと相談したい事があるんだ」
鴪も一応の警戒心を持ち確認する。殆ど中身の入って居ない鞄に視線を落とし、何か違和感を覚える。漠然とではあるが、何かが足りて居ないのだ。それはつい最近まであった何か。
「鴪ちゃん? どうか、したの?」
男が視線はその儘に、くいっと首を横に曲げた。
「あ、いえ、それでご用件はなんですか?」
言葉とは裏腹に、鴪は自分の行動により生じた違和を調べ始める。
壮年男性が現れ、私は警戒した。警戒……? 次に鞄を見た。その鞄は中学に入学するため、お父さんが新しく設えたもの。新しく……新しい? 新しい事が変? いや、何か視点がずれて居るような気がする。新しい鞄と言うより、新しくした鞄に何か……だとすれば、新しくない鞄、そうランドセルにはあった何かが足りてない……?
「鴪ちゃん? ねえねえ鴪ちゃん!」
本の一瞬だけ集中した積りでいた。すると男性は息が掛るほど近く、眼前に迫って居た。真っ黒な瞳の中に自分の顔が反射して見え、恐怖心を煽る。
鴪は条件反射的に鞄へと手を伸ばし、漸くその違和感の正体を突き止めた。
防犯ブザーが無い!?
動揺し眼を見開くや否や、首許に何かが宛がわれ痺れた感覚に襲われる。姿勢を平衡に保てなくなり、倒れ掛ける所で男に支えられる。
「ごめんね。鴪ちゃん、おじさんもね、好きでこんな事してるんじゃないんだよ? でも君に適正があったからいけないんだ。これは君の自業自得なんだよ? 今はお休み。次、起きたら君は生まれ変わってるよ。少なくとも役には立つから、全然心配要らないよ、大丈夫、だい――」
男性が用意しただろう口許を覆う湿った布を、退かす力は湧かず、意識は直ぐに遠退いて行った。何かをつらつらと語り掛けて居たが、途中から聞こえなくなった。
数時間後、覚醒した鴪の意識に引き摺られ、彼女の視野であろう位置へと瞬時に修正された。
気絶させられた鴪の感覚に則り、現実への帰還を果たすのではと淡い期待を抱いた私だったが、電撃を喰らってからと言うもの、背後霊の如く彼女の頭上をふらふらと彷徨い、一定の距離を保ちながらこの碌でも無い場所に到着した。と言うのも彼女は眠らされ、事前に準備されて居ただろう黒塗りの車に押し込まれる。その始まりから終わり迄の一部始終を目撃したからである。
現実とは斯くも厳しいものである。私がどれほど頑張ったとしても、生涯姉に追いつく事は無い様に。努力と根性だけではどうにもならないものが世の中には五万とある。これもその類いだと、私は直ぐに推測して止まなかった。
どう言う経緯をもって、あの地下でこの状況を垣間見る事になったかは定かでは無い。
けれども、私の否定的思考が活発化し、最低な未来を彷彿とさせるのは至極当然の事だった。幸せの隣には何時だって不幸と言う影が棲む。不幸は何時だって此方を覗い、扉を叩いて入れる時機を見計らって居るものだ。私が先ほど唐突に家族と離れ離れにされてしまった様に、順風満帆だった彼女もそうなってしまうのを想像させた。
悪い予想ほど当たるもので、鴪は山奥の研究施設の様な白い建物に運び込まれた。草木生い茂る獣道を通り、凡そ十メートルの距離まで近付かないと目視する事が出来ない擬態仕様の外観を見るや、如何にも違法な空気を漂わせて居ると判断せざるを得ない。
地下室に運び込まれ、手術室の様な作業台の上に仰向けにされた彼女の身体はゴム製の拘束具でがっちりと磔にされた。
とても強力な睡眠を誘発する薬を塗布されて居たのか、最期まで鴪が起きなかったのが不幸中の幸いとも言える。
それは悍ましい光景だった。待機して居た白い服の男たちが、まだ生気のある幼子の皮膚に鋭利な精肉包丁を突き立てて切断して行く。左腕、右腕、左足、右足、そして首を胴体から切り離した。
恐らく死因は激痛と出血よるショック死だ。注射器の類いは使って居なかったから、麻酔もして居なかった筈である。何にせよ鴪はその生を全うした、その事実は信じ難いが確かなるものだった。
他人の事になると淡泊な反応になるが、漸く私はこれで終わりだろうと考えた。だが、ここで予想外の可笑しな現象が起きた。
浮遊して居た私の意識が瞬時に引き寄せられ固定更新されたのだ。丸で鴪が生きて居た時の様に、彼女の視線や動向を再現する様にその場所へと誘われた。
彼女はずっとそこに居たのだ。私と同様に浮遊して居る様だった。自分の慣れ親しんだ肉体が部分ごとに解体されて居るのをその眼に収めて居た。手足が透けて居る為か、心做しか身体全体が薄っすらと輝いて見えた。本来であれば蒼い海の様な綺麗と表現出来る色だが、今はその色が酷く物悲しく感じられた。
最初は見間違いかと勘繰ったが、少しずつ薄っすらと見えて居たその閃光は、形を変えて瞳に映る様になる。最終的には鴪の周囲を映画の映写機に使われて居た様な巨大なフィルムが、環を作る様にしてぐるぐると回って居る異景が瞳に映り込んで来た。一定の規則で脈打ち、微小の光の粒が水飛沫の様に爪先までを覆い広がって居る。
これは鴪が見て居るものなのか、私が見て居るものなのか判断出来ない。そもそもこれは何なのかと言う見当も付かない。圧倒的な学習及び経験不足である。幽体離脱の経験など無いので当然と言えば当然だが。
反省も束の間、全ての元凶であるあの男が室内に入って来た。
私は意図して全く身動きが取れなかったが、鴪は肉体を失った状態でも自在に浮遊し移動する自由がある様だった。鴪は躊躇う事なくその男の中に入って行った。言うなれば憑依して居る様な状態とでも言えばいいのか。私の視線の高さが、鴪に引き寄せられ再び変更された。
結果として、男はこれが初犯では無かった。
鴪とほぼ同年代の解体された肉体が瓶詰にされ、ホルムアルデヒド水溶液が満たされた瓶が数多く存在した。俗に言うホルマリン漬けだ。
それ程の時を要さず、この事件は後の連続失踪事件へと繋がる。
大元や黒幕は覗い知れなかったが、この件の元凶であるこの男は狡猾で、他人を騙す事に掛けての演技力は大変素晴らしいものだった。
鴪捜索に乗り出した友人を共に探そうと意気投合させて攫い、その友人をネタに、更にその友人を釣る。鴪から連なる関係性のある者を芋づる式で拐かして行く、警察へ積極的に情報提供しては協力体制を築き上げ、ある程度の目的を果たすと解体に携わった実行犯の情報をあっさりと売る。
無論、その実行犯はでっち上げられた真っ赤な偽者なのだが、高度な洗脳でも行って居るのかある筈もない自白を口にする。男はその一連の流れを何度となく繰り返し、警察の信用を獲得し架空の実績をこれでもかと言う程に積んだ。
彼は優秀な探偵でもある。鴪を屠った者を許さないと立ち上がった数多の同郷者たちを悉くその手で連れ去って行った。彼に関連する一切の証拠は無かった。彼を訝しむ者も中には居たが、運悪く失踪する事となる。その犯人を彼が捕まえ、警察に突き出す。
鴪は来る日も来る日も、この眼を背けたくなる現実を彼の瞳を通して見届けて来た。
彼女の持って居た生前の輝きだろう蒼玉の円環は、疾うにどす黒く染色され、あの日の後悔と自責の念とこの先の未来も友人を死へ誘ってしまう絶望は、景色を遮る程に濃縮されて見えた。
『誰か……助けて……』
頭に語り掛ける鴪の悲痛の叫びを境に視界が黒く塗り潰されて行き、念願だった覚醒へ至るだろう最悪の眠りに落ちて行った。
瞼を開く。両手を突き身体を起こすと頭痛がすっかり落ち着いて居る事を知る。今度こそ自分の身体だ。立ち上がっても高低差はしっくりと来る。
能動的に指先で閉じた両眼を覆い隠した。双眼が熱を持って居る感覚は残って居たが、不快や違和は感じられず、馴染んだものとして扱えそうだ。この熱は失明に繋がらないものだろうか。少々の不安はあるものの、心は静寂を取り戻し凪いで居た。
「おお! 起きたな、大丈夫か!?」
門番の左側の人だ。橙色の円環が燻んで見える。恐れ、慄き、不安感を宿して居る。要らない心配を掛けてしまったと言う事だ。申し訳なく思う。
「ありがと。大丈夫……気絶して何分経った?」
「あ、いや、十秒も経ってない、くらいだ……」
嫌に歯切れが悪い。何かあったのか。そう尋ねる前に思い出すものがあった。
「……対戦相手が居るんだった」
手許には武器になりそうな物が無い。無駄とは思いつつ、何か武器になるものが見当たらないか見渡す。
十中八九、相手は彼奴だ。
一度、瞳を閉じれは木霊する声音と景色とあらゆる負の情念が、私の心を捉えて離さない。
『止めて……なん…で…』、『助……けられな…ぃ』、『ごめんなさい、もうしません。ごめんなさい……』、『いっちゃん、いっちゃん! 今、助けるから!』、『お前が皆を……絶対に許さない!』、『死んじゃえ! 死んじゃえよ!! なんで、なんで、いっちゃん先輩を!?』
殺害の後、男は神経質なのか几帳面なのか、頻りに腕時計を確認して居た。日付もだ。
鴪の死亡を知り、子供も大人も悲嘆に暮れた。ご近所中の彼女を知る者が集まったのだろう。葬儀は大々的に執り行われた。
彼女の遺体は長期間の捜査でも見つからなかったが、致死量を優に超える血液の痕跡は言わずもがな、皆に事故では無い殺人を仄めかす形となった。
捜査が打ち切られのか、或いは男が偽装した効果があったのか、彼の元に辿り着く者は少しずつ減って行く。
しかし、老若男女と幅広い繋がりを持った、彼ら彼女らは鴪の無念を晴らすべく、不倶戴天の覚悟を揺るがせる事は無かった。
活動を始めた二年で、捨て駒や一見犬死にしか見えない、極めて危険な情報収集を子供たちにも行わせる方針に変更した。彼が狙う標的は大人も居たが、子供の比率の方に傾きがあったからだ。
子供たちはそれを聞いて、仇が取れると躍起になって身体を鍛えた。狼煙、モールス信号、手旗信号と専門知識を余り必要としない遠隔地から情報を送る術や、その場にある何かに隠して後で回収するやり方も小数ではあるが身に着けた。
親は子供を死地に向かわせる事に当然抵抗はあった。他所の子の為にそこ迄する理由を、各々が見出だす事は正直難しい。
だからか、親は自らが志願して死地に赴く事例が比較的多かった。
態々、我が子を死に行かせる事は躊躇われたが、鴪の存在が自分たちの子供を明るくし、清らかにし、正しい方向へと手を引いて導いたのは、子の親であれば皆感じて居た事だった。
生存率は限り無く低い。知に長けた犯罪者となれば尚更だった。それでも、子も親も、僅かな繋がりを持った知人でさえも、勇ましく喜んで片道切符を手にする。
皆、鴪が好きだったから。生きて居て欲しかったから。
動機は単純であればあるほど、固い結束と揺るぎ無い意志を生む。
運が無いのか、奇しくも今日、私はその総意を受け取ってしまった。
事態に付いて行けず悲鳴を上げる者、裏切りを非難する者、最期まで抗う者、彼を事切れるまで信じ続けた者、暗殺を企てた者、彼を地下へと追い込む事に成功した者。
男の中に未だ宿る鴪は、彼ら彼女らが死に際に思い出した、走馬灯の様に活動の日々を垣間見て居た。
【鴪を救う会】は、男を誰も生きては帰れないと真しやかに囁かれる、この闘技場へ落とす事を成し遂げたのだ。
鴪と同調した所為か、私もその声を、叫びを、願いを、戦いの日々を、胸の深い所に蓄積して居た。
私には感情がある。表現が下手で、希薄であると自覚しても居るが表情もあるのだ。
彼奴は誰が何と言おうと、殺さなければならない。今ではその激情が当たり前の様に解る。
無数の黒い記憶が渦を巻き混ざり合わさる。あの一見、気色悪い色合いは、男の愉悦とそれに滅ぼされた者たちの無念の色が混ざり合ったもの。
本来、別箇の筈の記憶と憎悪が私を取り囲む様に黒い円環となり、幾重にも連なって映し出されて居た。
狂おしいほど淵い闇夜を思わせるそれは、相反した光の性質を持ち迸り輝いて見える。何故か私を手助けしてくれると確信に満ちた心強さを備え、胸の奥へ断続的に突き刺さる異質な苦痛が燻り蝕み続けて止まない。
「おい……本当に大丈夫か? 少しだけなら待って貰う事もできるぞ?」
綺麗な色をして居る。凡そこの様な場所に不釣り合いな煌めきだ。右の人も翠色で澄んで居る。完全な善人など居まいとしても、二人とも事情があるのだろうと擁護する感情が湧き立つ。
過去の一端でも見れば、何かしら解りそうだが、勝手に見るわけには行かないし、今はより優先する事柄があった。
「いい……そういえば木箱が……無くなってる?」
足許を隈無く捜索した所、よく解らないが木箱は跡形もなく消えて居た。
あの色は虚実の色合いでは無い。二人は木箱の事を本当に知らないし、気を失ってから目覚めた時間も大凡正確である筈。壊したとしても木片一つ見当たらないのは変だ。
折角、唯一武器になりそうなものだったのだが、仕方無い。
「……武器か」
私は木片の鋭利な印象から、何となく家にあった何の変哲もない包丁を思い浮かべると、握り締めて居た左手が僅かに重くなったのを感じた。
「…………包丁?」
刃先も刀身も黒いが、銀色の丸い鋲が三つ確認でき、家にあった洋包丁によく似て居る事に眼を見張る。指先をすっと切って見る。やや遅れて血が玉の様に滲み出て地に落ちた。玩具ではなく、これは本物だ。いや、玩具でも突然ここに突然現れたら可笑しい訳だが。
どうしてこれがここに、私の手の内にあるのかは解らないが、問題無く使えそうだ。それが重要だった。念願の武器だ。
少し丸みを帯びた包丁の柄の部分が気に食わなかった私は、一回り太めの正方形の柄を思い浮かべると、黒い靄が集まり出し思い描いた通りの形へと形成して居るのを眼の当たりにする。使い方が何と無く解った。私は説明書を読む派なので、黒靄運用マニュアルが欲しい所だ。
「おい、なにしてるんだ? なんだその黒いのは?」
具体的な詳細は解らないが、この黒い靄は想像した通りに動いてくれる手足の様なものだと推察出来る。四角く角張って居た柄の部分は、バドミントンやテニスのラケットのグリップ部分に似せた楕円の筒状へ形を変え持ち易く形成出来た。完成形には鑢が必要だと考えた時点で、砂鉄の様に黒い靄が零れて空気に溶け、もう仕上がって居る。
私とは違いとても優秀な黒い靄である。生きて居ると言う概念に当て嵌まるかは定かで無かったが、手を伸ばして撫でて見る。逃げると言う事もなく触れる事が出来た。
黒い飛沫が微小な水滴で出来て居る様なしっとりとした水の濡れる感覚があるものの、手は濡れて居ない。唯、触れて居ると何処と無く落ち着く感覚が残る。
この感覚には覚えがあった。鴪が一人になり、連れ去られる直前まで行って居た無心の感覚に近似して居る。冷静にならなければならない時、とても役立ってくれそうだ。全身に薄く纏わり付かせる想像をして見ると、頭からつま先まで身体を覆う様に薄く囲ってくれた。心做しか身体が軽くなった様な気さえした。
「解らない……けど、勝手に動いてくれるみたい」
私は素直にそう答えた。正直、よく解らない。寧ろ、現状で解って居る事の方が少ない位だ。だが、これで漸く戦える。
試行錯誤の末、曾て包丁だった物は、刃渡り二尺はあるだろう立派な刀に昇華して居た。これを携えて、門番に問う。
「で、どうすれば戦えるの?」
私にこれ程の度胸があっただろうか、起きてから結構変だ。冷静になろう。黒い靄を円環に準えてぐるぐるさせる。
「どうなってんのか……は解らないんだったか。まあ、いい。覚悟はあるんだな?」
こくりと頷く。
「はぁ、どうしてこんな子が――いや、仕方ない。この紙を手の甲にくっ付けろ」
何やら諦観した形相の門番から渡された何の変哲も無い白紙を手に取り、首を傾げる。
指示通り左手の甲に擦り付ける。剝き出しの刃先が危ないなと考えたら、刀自体がすっとその姿を晦まし手隙になった。
この黒い靄には人工知能でも搭載されて居るのか、と疑いたくなる。存分にその能力を発揮して戴こうではないか。頼みますよ靄ちゃん……靄卿? 靄さん? 靄――やっぱり私、変になってる。これは確定だ……やばい奴だ。
「……蜘蛛?」
逃避気味に切り替えて観察する。頭部と胸部が一体化された頭胸部から伸びる計八本の歩脚、丸みを帯びた尾の様な部分は腹部に当たる。頭部から牙の如く鋭い蝕肢が覗え、眼は丸く私よりずっと愛嬌がある気さえする。何と無く右手で撫でて見る。特に変化は見られない。
「その蜘蛛は闘技場へ入場する際と勝利して退場する際に、きちんと本人確認を行ってくれる。闘技場で負けた側、詰まり死亡した方の蜘蛛は最初の白紙の状態に戻る訳だ。その紙を蜘蛛の御印に重ねると負けた方の蜘蛛が食われる。食われた方の蜘蛛に認証登録されていた人物の脅威度合いを元に、勝利者は褒賞金と賭け金の一部を獲得する」
「蜘蛛が判定するって事?」
「不満か?」と門番は思案顔になる。
表情から読み取るに、恐らく遥か昔から脈々と受け継がれた伝統の様な取り決めで、何を訴えた所で変更する事は叶わないのだろう。
兎も角、飽くまでも審判は公平で居て貰わなければならない。監視カメラで判定するのだろうと断定して居ただけに、僅かながら安堵の溜め息を吐いた。姉至上主義の私にとって赤の他人よりは隨分増しである、と帰結する。
「……公平なら何でもいい」
「まあ、蜘蛛は実際出てこないし、餌付けも出来ないから、公平と言えば公平だな。雌雄を決する事で勝利となる訳だが、相手が降参しても一応は勝ちになる」
殊の外、意外だった。何と言うかそんな生温い勝ち方を残して置く必要性があるのか、と疑問符を浮かべてしまう。
然るに甘いばかりではないのだろう。何かしら不利益が生じるのは、眼に見えて居ると言ったところか。
「意外に思ったかも知れないが、その時勝利した方は褒賞金を獲る、これは変わらない。賭け金は手に入らないけどな。肝心の敗北を自ら宣言した方はと言うと、罰を科せられる。一ヶ月の間、闘技場に入れなくなる」
それのどこが罰則なのか。腕を拱きつつ訝しんで居ると、直ぐに常識的な解へと行き当たった。
「稼ぎが無くなる、となると……食べ物を買えなくなる?」
「大凡、正解だ。ここの奴隷は、区画内なら割りと自由が保証されて居る。だが、その殆どを利用する方法は、金銭によるものだ。地上とほぼ同様と考えて貰えればいい。但し、無い物や欲しい物は、例え違法な代物でも大抵は手に入れる事が出来る。ここには法律を遵守する細かい規定がないからな、武器でも薬でも、或いは人でさえも買う事が出来る。その非常識な分、値は張るがな」
不道徳的だ。しかし、文字通り買えない物は無いのかも知れない。
「自由の権利も買えるって言うのは本当?」
「ん……ああ、受け付けの爺さんか、本当の事だ。今まででたったの四人だけだが、その権利を手にして地上に舞い戻った人物が居た、と記録には残って居る。その後、どうなったか迄は把握していないけどな。地上に出て直ぐ殺されるような無配慮、と言うか自作自演が発生する事は無いそうだ。何でも最初に自由の権利を手に入れた者を陥れようとして、手痛い竹篦返しを受けたらしいからな。規則はその時に改定されたそうだ。決して“強き者を怒らせてはならない”ってな」
何があったかは何となく想像出来た。ここを脱出したと言う事は、少なくとも強者の範疇に足を踏み入れた人物だ。猛者に喧嘩を売ったのならば、それ相応の報いを受ける事になるだろう。特に生きるか死ぬかの強制二択を突き付けられて生きて来た人間は、地上の一般人と一線を画す存在に変貌して居ても不思議は無い。
古株の観客はそれを弁えて居るが、新参の青二才はその力を簡単に利用出来ると目論んでも可笑しくは無い。銃口を突き付ければ引き下がる、その様な弱者は権利を勝ち取れないと判断出来なかったのだろう。
「強き者……生き延びた勝利者の事?」
「そうだ。ここでは力が全てだ。計略でも純粋な力でも卑怯な戦い方でも何だっていいが、死にもの狂いで生き残った勝利者にはそれ相応に応える義務がある。詰まる所、弱肉強食、解りやすいだろう?」
完全な無法よりはやや増しか。勝てば生き、負ければ死ぬ。改めて解りやすいと納得して頷く。但し、その立場は褒美か賞賛か、揺るぎ無いものか、意味は無いのかも知れないが、一応は聞いて置く事にした。
「それは報酬と言う意味で?」
「それもあるが、単純に強い者には敬意を払うものだ。闘技場とはその者の強さを見出す試練の場、大昔は神聖な儀式の場所だったのだ。現代では賭け事もあり、観客の層も隨分変わり果てた娯楽の側面を持つが、古参の重鎮たちはきちんと敬う心を持って居るものだ。無論、強くなければ支持も獲られないけどな」
拘束力の乏しい口約束に、思わず不信感を抱かずには居られない。警戒心とも言い換えられるそれは、同時に私が他者への信じる心を喪失したのだと、ありありと物語って居る様だった。
結局は裏を搔かれても生き残れる強かさを持って居るかどうか。ここを出る時までに対策なり考えて置けば良い。
「対戦相手について開示できる情報はある?」
「基本、その情報も金銭にて調達するものだ。但し、第一試合を控えた初心者に限り、奴隷自らが尋ねた場合の時のみ、門番は情報を提供する事になって居る。またもや正解を引いたな。普通、事前情報ってのは喉から手が出るほど欲しいもんだからな。だが、この度開示する情報は有益になるかどうか怪しいもんだがな……ほれ、これが対戦相手の戦歴と主だった戦い方や武器だ」
差し出されたものは、最近出回り始めて居る薄型の携帯電話の様に見えた。私は勿論、持って居ない。高いのだ。
それに電話やメールをするだけなら二つ折りの携帯電話で構わない。
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■奴隷名 □セイジ クリハラ
■性別 □男
■年齢 □37歳
■奴隷認証コード □D・2897番
■戦闘回数:勝利回数 □57回:57回
■武器 □不明
■戦闘スタイル及び考察 □近接型の格闘術。
電撃に用いられて居る設備及び武具による衝撃で動きを封じ、全ての試合にて、喉許を圧迫する事で最終的に、窒息死に追い込み、勝利を収めて居る。詳細は不明。防具もしていないような風貌だが、鉄製の斧でも傷一つ付かない為、何らかの防衛手段を持って居ると考えられる。
■??? □権利が不足して居るため、表示できません。
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指先で動かすと画面が上下して、表示される文字が映り変わった。
「この最後の疑問符で表示出来ないのは何?」
「この疑問符とか、他には文字化けになるものがあるんだが、そう言うのは勝ち進む度に見えるようになる。要はここでも勝利者の権利って扱いらしい。通常、第二試合から確認する事になる訳だが、奴隷名、性別、年齢、奴隷認証コード、戦歴が見れるくらいだ。情報は高いから、戦闘スタ居るやら補足項目までもってなると、稼いだ金が殆ど吹き飛ぶくらい高額になる。考えて情報を獲得するようにな」
門番も毎日、哨役を熟して居る訳では無く、こうして地上からの奴隷引き渡しがある日に門前に待ち構えて居るそうだ。通常業務は、品物の売買及び情報の売買だ。
奴隷が売る情報と言うのも変な話だが、ここに幽閉される奴隷は少なからず何かしらの秘密を抱えて居る場合が多い為、初の非戦群資金調達として有効活用されて居るとの事。それでも持って数日だと言うのだから世知辛いと言うべきか、微妙な塩梅の優しさである。
奴隷認証コードの頭文字のアルファベットは、登録区画の分類を示して居ると予想して居たが、勝利回数により上昇して行く目安として見るらしい。詰まる所、評価だった。
最下等級のFからAまで存在し、勝利回数、所要戦闘時間、貯蓄額によって変動する。Aに近付けば近付くほど位が上がり、報奨金も増える。
唯、これだと観客の有無に関わらないため、報奨金も実は大した事ないのではと睨みを利かせた所、観客の審議だと明らかな依怙贔屓が発生してしまう事例が過去に多々あり、奴隷の評価自体には観客が関与出来ないシステムに移行したと言う歴史がある。蜘蛛様々である。
因みに初勝利の報奨金は結構な金額だった。諸々、差し引いても三十から五十と幅はあるものの、十分に生活出来る額であるのは確かだ。部屋は一人一部屋与えられるらしい。
備え付けの小汚い便器に蠅が集り、床の上に藁が敷いてあるのが、私の中での奴隷的牢屋生活の印象なのだが……それよりは些か増しである事を期待したい。
最低でも蠅の同居人は要らない。勝たねば蠅便器と考えて置こう。蜘蛛なら歓迎出来そうな気がするのだから不思議だ。
蜘蛛か、蜘蛛……糸便利そうだな、糸、糸、い~と~まきまき、い~と……服作れないかな?
精神の浸食具合に慄きながら、糸を出す。撚り合わせたものを交差させて編む。宙吊りと言う自由度で作業出来るのは靄のお陰だ。色を想像した所で、黒い糸しか出せないのは残念だが、尋常ではない速度で服の形状を設えて行く。と言っても裁縫の経験も余り無く、見様見真似が基本スタイルだ。
私の通う予定だった学園の名前は、三つの城と書いて三城学園だった。祠の様な紋章が刺繡されて居るので、それも複製する。三城学園初等部制服Version.黒が完成した。自分の指で一から順に縫合して作るより、精度が明らかに高そうだと解る出来栄えだ。靄には想像を補完する機能も組み込まれて居るのかも知れない。
試しに完成した制服を床に置き、間髪入れず黒い刃をすっと突き立てる。突き刺さり布地が地面に埋没するのを確認して刃を消し、腕力に任せて引き剝がす。
「おお」
明らかに混凝土より硬度の高そうな鉱物の床を貫いた刃に対し、埃を手で払った黒制服は凹みの痕跡一つ見当たらない。黒刀の素晴らしい斬れ味と、加えて驚嘆すべき黒制服の防刃性に瞠目した記念すべき瞬間だった。皺も無い。形状記憶でもして居ると言うのかと半ば啞然として口を半開きにしてしまい、思わず口先を釣り上げる。きっとこの蜘蛛が初戦サービスとして力を貸してくれたに違いない。
道を先導する傍ら、それを黙って見て居た門番には「お前さんはさっきから何をして居るんだ……」落ち着きが無いなどと評され、私は「子供だから仕方ないんだ」と適当に返した。
途端、立ち留まった門番は思案顔になり、徐に顎へと手を添え「あ、ああ……確かに、子供、だったな……うん、そうだ。間違って、ないのか?」と追隨する蜘蛛嫌い疑惑のある門番に問い掛ける。
「えっと……年齢は子供ですね。五歳。嘘は言ってないようです」と端末を操作し始めた。普通に言葉での否定を求めていたのではと思わないでも無いが、私は黙って手を掲げると、門番に目掛けて黒い糸を放出した。
「ぴぁっ!!?」とお高い端末を放り投げ、身体を捻って躱した門番を見て私は確信した。此奴、絶対蜘蛛嫌いだな、と。
「いきなり何をするのかなぁ君は……」と門番は青筋を浮かべて居る。さて、どうしたものか。
「誤射、かな?」と限りなく黒に近い白の弁明を嘯きつつ明後日の方へと眼を逸らす私。我ながら白々しい。
「嘘だ!? 思い切り狙ってたじゃないか? そうだろう? 目的はなんだ? さあ、吐け?」
素早く尋問係へと鞍替えした門番の姿を睥睨しつつ、詰め寄る顔の前に手を掲げる。黒糸を射出した。
「っ!? っしょああああああああ!??」
紙一重で仰け反り上手く躱したまではいいが、その身を守る金属製の鎧の重量を支えきれず倒れるかと言う所で、後方に飛び後転し、倒立に持ち込で事なきを得る。
二人の門番が気を取られて居るその隙を突き、たった今出した黒糸を私は引っ張り、闘技場へ繋がる入場門を潜った。
門は認証した者を透過させる様に通す仕組みなのか、内外問わず外観の差異は感じられなかった。
三十秒は経過しただろうか。門番が浸入して来る気配は無く、遮音効果でもあるのか真後ろに要る筈の二人の声も聞こえない。
手に携えた端末に眼を落とし、思わぬ獲得物に欣喜せざるを得ない。この様な猫騙しが通じるとは思わなかった。
善く善く考えて見れば、普通は警戒するに違いないのだ。
ところが、親から不要である等と説明を聞かされ、絶望と一寸先は闇夜である現実感に打ち拉がれた未だ幼い児童とも言うべき子供が相手だ。困惑するだろう心中を察し、小賢しい奇手を弄するなど想定外としか言い様が無い。
況してや私はここに連れてこられた事自体、間違いでは無いかと胡乱げな視線を向けられたのだ。
捨てられるにしては話し方や佇まいで、真面目、堅実、努力家なる印象を貼り付けた事が、功を奏したのだろうと理解出来る。
何事も勉強して屋ものだと実感する。姉への劣等感がここへ来て役に立った。
漢字を勉強して置いて良かった。当然にして、大人に近しい喋り方は大人に少なくない違和感を抱かせるが、知性を植え付けるには持って来いの無色透明な防具だ。
これが有ると無いとでは、天と地の差がある。父親の言って居た事も、本当に莫迦に出来ない。
父も母も私より先に生まれて様々な経験を積んで居るのだ。しかも、二人とも科学を探求する者。勉学に勤しめる環境は最適か、或いはそれに極めて近いものだったと自負できる。
適切とされる栄養価の高い食べ物、自宅地下にある広々とした健康目的のジムがあり、筋力や脂肪、靱やかさなど細かく分析する事が可能だ。
睡眠不足が生じない様に、日頃から交感神経や副交感神経の平衡を保てて居るか、自動的に円グラフ化してくれる機械がある。肱掛けと保護帽付きの玉座の様な椅子型で、座ると淡い輝きを放って居た。
あの螢火を連想させる儚い煌めきは、今しがた見た私の燭と何処か似通って居る気がした。
繫がりも根拠も全く見出だせない頓知なのだが、もしかしたら両親は認証紙片やらランプの輝きなどの技術を以前より知って居たのでは無いかと閃いた。
しかも、この謎めいた自信有りの感覚が付き纏い、疑問に愁眉を深める始末だ。
いや、考えても答えは出ない。一先ずは閑話休題としよう。
対する相手、セイジクリハラの情報は一応確認出来た。なら後は私自身の情報を改めるべきだ。
彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。有名な孫子の格言である。
詰まり己の知らない己、現状私の最大の未知数部分である黒い靄が何なのか、知って置くに越した事は無いのだ。
本当は取り扱い説明書が欲しいのだが、妥協点としてこの端末を拝借するに至った。そう、これは借り受けたのだ。私の俊敏さに返事を聞き逃してしまったに過ぎない。
然るべき後、謝罪と勝利報酬から詫びの催しとし、豪勢な酒肴を用意して酒宴を開けば窃盗にならない……我ながら中々の手筈だと自負出来る。この一連の流れ、初心者サポートの一環として伝統になれば良いと思う。
自己完結して爽快な気分になった私は、心置き無く端末に視線を落とした。
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■奴隷名 □シズク ???
■性別 □女
■年齢 □5歳
■奴隷認証コード □F・3068番
■戦闘回数:勝利回数 □0回:0回
■武器 □負情之珠玉
■戦闘スタ居る及び考察 □不明
■魔法 □負情堆積
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あれ名前だけ? 苗字は? 門番が起動していたし、権利が不足してる事はないよね? いや、まさか知らぬ間に天涯孤独の身になってしまって居たとか……? いやいや、ない。あの姉は生き残るに違いないから流石にそれは――あ、もしかすると私が持ったから権利が不足してしまったとか? ここの入場門同様、蜘蛛で認証してたら有り得るか。
うむむ、しかし、普通名前の開示に権利が必要になるものだろうか? そこまで多いと言う訳でも無ければ、これと言って珍しくもない様な苗字だよな。日下部だよ? 春日部じゃないよ? 語呂が似てる所為か二回幼稚園で保育士さんに間違えて呼ばれたけど、普通の名前だよな。うん。
ぁあ……もしかして、私は日下部ではなかった、とか? 悲しきかな連れ子疑惑。知らない方が良かった。いや、いやいや、姉と双子だよ? 能力面は似ても似つかないけど顔だけはそっくりだし、俗に言う一卵性双生児だよ? 二人とも引き取って育てたとか……ないな。ちょっと考えれば解る事だ。私の顔立ちは何処をどう見ても母の顔の遺伝情報が色濃く反映されて居る。劣性に偏り過ぎな気もするが、遺伝子は嘘つかないだろう。なので母の実子である事は確かだと思われる。思いたい、と此度は思考停止しておこう。と言う訳で保留。
尚の事解らない名前の横に付いた疑問符も気に掛かる所だが、ふじょうのしゅぎょく? と言うのも、興味を惹かれる。
字面からして負の念――怨念やら妬み嫉みやらの他者や自身へ対する否定的な概念に関連して居そうな、出来る限り忌避して置いた方が無難そうな響きを内包して居る。又、それは武器であると画面に表示されて居る。
恐らくこの【負情之珠玉】とやらは、あのあらゆる形状に変形可能な黒い靄だろう。刀を生成で来たのだから、武器でもある何かである事は想像し易い。
なら、次の疑問。【負情堆積】。これは……何だ。
魔法と言う画面表示に眼を窄める。
この項目は、先のクリハラセイジの情報を閲覧した時には見られなかったものだ。否、最後の権利不足による閲覧不可項目が、これだったのかも知れない。詰まりこれも下手な結論は出せない為、保留その2とする。
肝心な所はこれが何を意味して居るのか、基何をする事が出来るのかに尽きる。
【負情之珠玉】は武器となり、服となった。身を守る楯となり矛ともなろう代物だ。そう言うものなのだと想像が働く。
しかしだ。魔法とは何ぞや? と考え倦ねる私は、やはり普通の人なのだろうと諦観せざるを得ない。
何と無くは解る。あれだよね魔法と言えば、空を飛べたり、明らかに持ち上げられない重量の物を細腕で持ち上げられたり、有袋類の動物に似た形状の小物入れが四次元空間に繋がって居て有り得ない体積の物体を収納出来たりする奴だ。
ざっくり纏めると凄い事が出来る何か、だ。極めて曖昧な響きになってしまうが、納得出来なくもない。
所がどっこい、私の何だかよく解らない凄い事が出来そうな魔法とやらは【負情堆積】なのである。何と無く意味合いは察せられる。
恐らくは、負の感情に纏わる何かを積み上げる。要は蓄積する事が可能となる……のだろう。恐らく。多分。
『堆く』と言う言葉を反芻すると、私の場合、塔や積み石なる写像が、特に感慨も無く頭を満たしていた。
積み上げるだけならば、単に進み具合や進化を思い浮かべるが、積み石ともなるとそれが彼岸や此岸に行き着き、途端霊的な視野に埋め尽くされる。
見た事の無い足許を覆い隠す程の白い霧や靄の幻覚が、黄泉の存在を強く現実に紐付ける。
極度の緊張状態でも無いのに、死の間際なのかと錯覚する。
気を付けなければ負の連想を次から次へと浮かべる。これが【負情堆積】なのかも知れない。だが、唯思い悩んで居る鬱蒼とした気分になる事と何が違うのか、それが解らない。元々、何方かと言うと私は否定的な方なのである。
何よりこれがどう魔法と繋がるのか、負の感情に限って考える速度が増す等では無い事を禱るばかりだ。
俄に画面が暗転した。制限時間でもあったのだろうか。
画面の上下移動は巻き上げや巻き戻しに従って居たから、何も表示されて居ない画面の起動方法や操作方法が解らない。側面や背面に鈕はなく、認証紙片に類する技術かも知れない。
ふと、認証紙片は魔法である可能性が高いと仮説が立つも、これも確証のない話だ。
魔法か、と思わず独り言ち、魔法と言えば私は様々な分類の中から、彼の老爺の後ろ姿を思い浮かべる。
記憶とは人の源である、と当たり前の事を考える。
経験を伴った知識と技術が知的財産となり、当人を更なる極致へと誘う。ざっくばらんに言ってしまうと成長し、進化する事だ。
そして、その歩幅には各々で差異があり、同じ経験からも見方や考え方次第でその差は歴然となる。
私自身、自覚して居る子供らしからない言動の数々や考え方を持ったのも、この進み具合の差に他ならない。
才媛たる姉を持つが故に、僅かに嫉妬混じりではあるが尊敬し、讃える事が出来るに至った。
例え成長速度が違おうと、才幹が異なろうと、何時しか肩を並べて恥ずかしくないと胸を張れる自分でありたいと願い取り組んで来た。
これは上手く運べば、一気にこれまで開いた差を埋める絶好の機会とも言える。
私は卑怯と罵られようと、使える物は使いたい派閥なのだ。魔法が得体の知れないものであるのは承知して居る。
知らない内に何やら代償を支払わされて居るのかも知れない。だとしても、それは必要な代償に違いない。
【負情堆積】とやらが、負の感情を積み上げるなら、もしかしたら私の経験である必要は無いのでは、その様な光明が射し込んだからだ。
あの感覚はよく憶えて居る、と言うより頭から片時も離れず忘れられそうに無かった。
曾、全く憶えの無かった感覚が、今では手に取る様に解る。
恰も時間を掛けて修練し熟知した動作であるかの様な浸透感を齎して居た。
円環は私を囲んで周回して居り、かれこれ起きてからずっと見えて居て滲まない。高い確率で私は見る事が出来る。ぱっと思い付く不備は見当たら無かった。
覚悟を決めろ、と拳を握り締める。
積み上げてまた垣間見よう。あの暗鬱とした禍々しい日々を。鴪から私に至った彼らの軌跡を。余す事なく私に堆積して見せよう。
何が起きるかは解らない。何も起きないかも知れない。
それでも私は未来に繫げたいと冀い、行動し続ける事を止めようとはどうしても思えなかった。
再び姉と会う。当面の目標はそれだけで十分だ。その揺るぎない主柱さえあれば、まだ立って居られる。
呼吸をする様な無意識下の中で、私は谷底の如き暗然とした円環に手を伸ばして居た。
掌から引力でも出てるのか、じりじりと引き寄せられては吸い込まれ、砂塵の様な煌めく粒子を残して消え入る。何やら静音の高性能な掃除機になった様な気分を堪能して居る。
一つまた一つと円環を喰らう度に、両の眼に灼ける感覚が昂り、視界が霞掛かり暈け出す。
際限なく燃え滾るそれを、歯を食い縛って暫く耐えて居ると、すっと熱が引いた瞬間が訪れた。
何処からやって来たのか胸を締め付ける蟠りが渦を巻き、身体の内側を駆け巡り、不快感を募りながら溜められて行く。
幾百のフィルムが積み木を積む要領で頂門より重なり出し、地上の更に先の蒼天まで穿たんと言わんばかりに彼方へと連なって行った。奇しくも、先に思い浮かべた塔の様だ、と呆けられたのは別種の新たな刺激が与えられる迄だった。
それは恐らく本の僅かな時間の出来事だった。一秒か、五秒か、或いは本当に瞬く間に起きたのかも解らない。
手も足も首も胴体も、全てきちんと繋がって居るのを目視にて確認出来て居るのに、鋭利な刃物で五体を分断されて行くと覚しき激痛が頸椎を駆け上がり、あっさりと平衡を奪い地に伏した。
その都度のだろう白衣の職員が瞳に映り込み、淡々と作業を繰り返す。否、繰り返して居るかの錯覚に陥った。
本当は何れも手早く行われた殺害と解体の筈で、長くても十分も掛からない単純作業だ。
その記憶を聴覚と視覚、よく似た状況の別々の場面に立ち会って居た。
音声のみの録音と映像のみの録画を、同時再生し一斉に見せられて居る不調和感が漂って居り、所々何を考えて居るのか識別不能の雑音が混じる。
抽出された情報は、折り重なった苦痛と無念。そして、家族と鴪への対する謝罪を反芻し、死に際に立ち会うクリハラセイジを辛うじて一瞥し、抵抗も空しく意識を手離す。
それによく似た光景が、自分の視界に幾重にも覆い被さり、そのどれもが鮮明に覗えた。
数多の声に引っ張られると同時に、視界が移り変わる。代わり代わり来る激痛もまた別人であるから別物だった。
自分の中に止め処なく注がれる彼らの最期の激昂は、思考を怨嗟一色へと書き換えて行く。
直ぐに解った、これは手痛い失敗だと。何も全部を一気に乗せるべきでは無かった。自分と言う存在が希薄になって行く。でも、それが正常に感じられる様に、徐々に違和感が抜け落ち、普通であるかの様に感じられる。人を怨み呪う内に秘めた言葉、殺したいと願う心、いつか同じ目に遭わせてやると言う渇望。決して褒められず正しくない情動と判断出来て居たそれを、正常なものへと変貌させて行く。
どす黒い物が身体に纏わり付いて来る。疼く様な痛みと駆け抜ける痛みを、癒すかの様に身体の至る所に染み入る黒い靄だ。痛みで身体は言う事を聞かない。どうにかしなければならない。耐え難い痛みに我を忘れた。
アレがあればこの激痛から逃げ果せる事が叶う。アレとは何か、朧気な心象すら浮かばなかったが、望めばそれは忽ち眼前に現われた。
――これで大丈夫…………安心して、逃げられる。
妙竹林な音が聞こえた。現実か幻覚か、誰かの記憶から来る雄叫びか、
あぁ、とか、うぅ、とか、訳の分からない言葉が零れる。何が起きて居るのか、と言う思考もぐるぐると回る頭ではまともに考えられず、自身がのた打ち回って居る有り様もさっぱり解らなかった。
あれから何分経過したのか。少なくとも五分程度は経って居たと思われる。体内時計とやらを失った私は、ぐるぐるして居た先ほど迄とは打って変わって落ち着いて居た。
次第に意識が明確になり、自分の名前なんだっけ、何してたんだっけ、ここは何処だったか、そんな事すらも思い出せない始末に呆れる。
あれだけ私を苛んだ筈の痛みは疾に消え去った後だった。
「はぁ……本当にどうなってるのかなこれは?」
少し離れた位置から男の声が聞こえた。妙な感覚だ。知って居る気がする。誰だろう。
「……ぁ……」捻り出そうとして、漸く乾いた声の様なものが出た。これでは何も伝わらない。
「君、ええと……雫君だよね? まだ闘ってないのに何してくれてるんだい? って喋れないか。ああ、困ったよ」
顔が見れないし、意思表示も儘ならない。確かに困った。あ、でも、こう言う時はあれを使えば良いんだ。
身体が羽根の様に軽くなった解放感で、今なら大抵の事は出来る。そんな気にさせられた。
でも、奇妙な事に視界は愚か、身体はぴくりともしなかった。指先の感覚も感じられない。
疲労困憊なのかもとまで考えては見たものの、経緯を思い浮かべられない。愈、可笑しいと認めざるを得ない今日この頃。
解らない時は、誰かに尋ねるに限る。こう言う事は憶えて居ると言うか、要領が良いと言うか。自分の名前も思い出せないのに。
『誰?』
私は私自身の名前より、近くに居るだろう男に問い掛ける事を優先した。そこには好奇心も介在して居たが、彼の称した『雫君』が私だと半ば確信を持てた事が大きい。
顔も突き合わせて無いのに、嫌に高い信用度だ。恰も根拠でも、あると言わんばかりの。
「誰か、酷いな、こんなにして置いて……はははっ、寧ろ笑えてきた。いいよ、少し話そうか」
こんなに? と言うか、この薄暗い場所は何処だろう?
相も変わらず身体は微動だにしない。にも関わらず先程から私は不安を募らせる気配は無い。誰かが側に居る事に、安堵して居るのか。はたまたこの男の存在がそうさせるて居るのか。
となると、比較的親しい間柄だったのかとする考察も、何故だか頷ける様な気にもならない。
好意の尺度に当て嵌めると、好きでも嫌いでも無い。正確に無色透明だと、それだけは解る立ち位置に居る。
一方的に此方のみが、知って居る。他人であって、他人ではないような矛盾した解釈に、思考は綺麗に纏まってくれない。もう、いいや、と破れかぶれになり、深く考える事を諦める。
「僕にはね。幼馴染みが居たんだ」
おい、何の話だよ。私の事じゃないのかよ。幼馴染だって……これは自慢話か。友達居なそうな私に敢えての自慢話か。等々色々と浮かんだ。
どうにかこうにか突っ込みを飲み込んで、相槌を打つ。
『……へえ』
「あはは、興味なさ気だね? そうだよね、突然だし、僕らは初対面だし、だけど君も似たようなものだろうけどね」
私がこの男と似て居る? と言われても記憶が混濁して居て、さっぱり解らないのだが。
『初対面で似てるって解る普通?』
不信感が口調を刺々しくして止まない。
「まあ、そうだよね。でも、確信に近い勘なんだよ。君は多分、誰か大切な人が一人居て、その人は君の拠り所だったんじゃないかと僕は思う」
ふと、誰かの俤が瞼に焼き付いて居る様だった。胸の位置も正確に摑めないが、少し息苦しく、それで居て温かみも伴う刺激が広がって行く。どうやら本当に心当たりとやらがあるらしい。
沈黙を是としたのか、男は続ける。
「何があっても執着してしまう人物。自分とその人を事あるごとに比べてしまい、凄く近くに居るのに、遠くに遠くにと果てしない距離を感じてしまう。でも、絶対嫌いにはなれなくて、失うのが怖くて、こっちは嫌われたくなくて離れられない」
『好きだったの?』
喉を突いて、すっとそんな言葉が零れた。
「お、興味を惹けたね。うん……そうだね、多分、そうだった……もうずっと会えないから、会わないと確かめられないけど、きっとそうだ――大好きだった」
『もう会えないの?』
「……ぁ、いや、この前漸く会えるかもってなってね……もう少しだったんだけどね」
『そっか。残念だったね』
「うん。あ、でもね、僕は因果応報だと思ってるんだ」
因果応報は確か、原因が自分にあり、その結果報いを受ける。その様な意味だった……あれ、こう言うのは、すらすら出て来るんだ。
『何か酷い事したの?』
「一般的に酷い事なんだろうな、って判断出来るけど、僕には酷い事だと解らなかった。けど、今になって君に会えて少しだけ解った。あれは酷い事だったんだなって」
この様な薄暗いよく知らない場所で、会話の相互投球が始まるとは思いも寄らない事態だ。
だと言うのに、私は親近感の様なものをこの男に感じて居た。
問題は一体何処に、であるかだ。点で解らない訳だが、碌でも無い共通点の可能性ばかり考えてしまう。単なる不安感によるものか、私の性格がそうさせて居るのか、さっさと判断基準を設けたい所。要は問い質す必要がある、と言う事だ。
『私に会えてってどう言う意味?』
「痛いって感覚を思い出せたんだよ」
いきなり痛覚の話になった。私何やら痛くしちゃったらしい? よく解らないが。
『痛い事は酷い事なの?』
判然とする訳も無いのに、口が勝手に動いた。突飛で短絡的な解釈だが、無意識下に溢れ出す言葉こそ私の深層心理とも言えるのなのでは、とも考察して置く。
「辛いならきっと酷い事だと思うよ」
『辛くなければ酷い事にならないんじゃない?』
感想と言うよりも、討論の様な言い回しに引っ掛かりを覚える。反論したいと暗に主張して居るかの心境だ。読み解くには、暫しの時間と眠って居る記憶が欠かせないだろう。
「あれ、もしかしてこれは弁護してくれてるのかな? 君ってやっぱり変だね。優しいって言うか、排他的って言うか、自分の規則で世界を見てる感じがして、とても変だ」
『変だ変だと人を何だと思ってるんだ?』
一聞にして酷い評価と捉えられる内容の筈……なのに私は否定する気概など露ほども湧かず、軽口を返して居た。これは肯定して居るのか否か。記憶はまだ戻らない。
「おやおや……怒らせてしまったかな、ははっ」
『何が可笑しいんだか解らない。あんたは……ええと』
当然の事ながら名前を失念していた。抑からして、尋ねてねてすらいない。失礼か私。いや、相手も失礼だから、仕方が無い。お互い様だ。仲良しだったのか? 声からして年齢差ありそうなものだが、謎めいた関係性だ。
「栗原誠治だよ」
『クリハラ、セイジ……』
聞き覚えがあるような気はするも、記憶を導くには至らなかった。
「誠治、私の名前知ってるの?」
『ん、ああ……知って居る、よ……』
心做しか誠治の声音が徐々に衰えて行くのを感じ取り、身体を捩ろうとしたが儘ならない。
仕舞いには感触自体が無いのでは、とある筈もない仮説で訝しむや、言葉を重ねるしか出来ない自身の甲斐性無さ加減に腹を立てる。
「誠治? どうした?」
『ぁ、ああ、いや、大丈夫だ。どこまで、話したかな、最近歳の所為か物忘れが、激しくてね』
絶対的な嘘を吐かれたと直ぐ様解った。これは確実に空元気だ。
そして、それは同時に、声音のみを根拠に判断して居る訳では無い事も、私自身に納得させた。
確かな根拠がある。詰まりは確かな自信のある地に足を着けた感覚とでも言えば良いのか。
しかし、その根拠とやらの見当は付かないのだから摩訶不思議だ。
そこまで考えた所で、私は白い輝きを眼の当たりにする。否、したと言うべきか。
眼と鼻の先、真正面に映る光に、今の今まで気付かない事などあり得るのだろうか。
しかし、突然現れた輝きでは無いのだと、私の中の根拠なき直感が強くそう告げて居るのもまた事実。
この光の観測より、先にセイジをどうにかすべきだと考えるも、何故だか否定が入る。
根拠は無い。確証も無い。考えも何も無い筈の私は、この後に及んで只管に手を伸ばさんとして居た。
感覚すら無い身体はやはり動かないが、あれを摑みたいと強い願望を掲げ続ける。
丸で、それが正解であるかの様に、睥睨し念じて居ると、私の視界を覆い隠さんとその光がゆるゆると近付いて来た。
このままでは顔にぶつかる。そう思った時には、疾うに手遅れで視界が真っ白に染め上げられた。
一瞬の出来事で、合って居るか自信は無いが、私の頭の部分に重なった様な錯覚を覚えた。
そして、次第に私は光そのものとなった一体感を持ち、果てしない輝きを放つと、壊れたTVの如くぷつんと意識が崩れ落ちる様に途絶えた。