Memo.001 災厄の日
2019年11月21日(18:29) 一部、誤字を修正しました。内容に変更はありません。
それは入学式を控える幼き紳士淑女の卵たちの許に、舞い上がった桜の花弁が撫でる様に背をそっと後押しする、何気無い朝の一時の事だった。
通勤時間のすれ違い様、制服姿の面々を見遣るや、これからの進学なり就職なりの近い将来避けて通れない苦難を思えば些か可哀想であり、同時に全くの無駄では無かった実体験に、勝手ながら溢れんばかりだった不思議な元気を僅かに分けて貰う。
各々の正装に身を包み、今日もお仕事頑張りますか、と内心独り言つ。まだ幼く眩いばかりの彼らへ無言の声援を送りつつ、会社へと頭を切り替えようとして失敗する。
何処から途も無く馴染み深い赤ランプが回転しながら発光して居る負の印象を獲得する。
依然として遠くながら、警笛の音が鳴り止まない煩わしさや違和感に、先ほど迄の爽快な気分は台無しになり、「やけに長いなぁ」と溢した声が隣人と重なり、訝しげに首を捻った仕草に二人して苦笑する。
「事件ですかねぇ」、「かも知れませんね」等と軽い相槌を打ちつつ牛の歩みになるや、阿吽の呼吸の如く以心伝心して取り出した携帯電話には、幾つかの新着通知が表示されて居た。
「あれ……また、電車が停まってる」
「あー、本当だ。勘弁してくれよ。今日、大事な会議があるんだよ。飛び降りるなら他所で……他所は他所でも人に迷惑掛けない場所にしてくれよ。良い場所パッと思い付かないけどな」
大柄の男は理不尽を訴えながら車両用防護柵に腰掛けた。怒りに任せて物に蹴り上げるなど、短気の輩では無い様で一安心する。
車は先ほどから一台も通って居ないから、姿勢が多少反っても安全だろう。と言う浅慮が巡り、ふと変な話だなとやや気持ち悪くなりながら、近場に見えた自動販売機にICカード乗車券を接触させる。
水道水では得られない微量栄養素を含んだ日課の水分補給は欠かせない。自分もおっさんになったものだと商品が落下する間、茫然としてしまうも、同じ合成樹脂容器を隣人へ差し出す。
「あ、どうも、今払いますよ」いそいそと財布を出そうとする。見た目のごつごつとした印象とは異なり、とても礼儀正しい人物の様だ。
「安いですし良いですよ。立ち往生仲間として、ここで少し骨休めして行きましょう。どうせ電車が動かないなら、急いでも常時ラッシュですから」と言うと、ネクタイを緩めた男は「なら、ありがたく頂きます」と合成樹脂容器を摑み取った。
四月に入ったと言うのにまだまだ肌寒く、今日は特に乾燥して居た事もあり、二人して喉を鳴らしながら体内に水を流し込む。
ふと、先の疑問が甦った。
父母と共に徒歩登校する新入生とはすれ違ったものの、割合長い坂道の先に位置する軽い登山でもするかの様な学校の立地条件から、健康観念の強い家族や諸事情ありを除けば、少し遠れた新入生家族は自動車を走らせるのが普通だろう。
帰宅時の登りこそ辛い事この上ないが、駅まで坂を降るだけの社会人一同とは違い、ここの徒歩通学風景は毎日、辛そうの一言に尽きる。尚更、その発想に至るのは自然では無いだろうか。
普段なら全く気にする事では無いかも知れない些細な事が、今日に限っては妙に気になって落ち着かない。何か引っ掛かる部分でもあるのだろうが、具体的にそれが何時の出来事だったか特定するに至らない。朝見た良く覚えてないニュース速報の所為か、或いは電車が停車した事実に、思いの外動転して居るのかも知れない。
手足が太く日に焼けて居る恰幅の良い熊の如き巨漢が、思い出した様に口を開いた。
「あー、名前。そちらさんの名前聞いてなかったわ」
「あ、僕、田島って言います。名刺ならここに――」
巨漢とは真逆に色白く痩せ型の青年は、懐に手を伸ばす。
「あ、いいよいいよ。堅苦しくなったら気疲れちゃうから」
「はは、そうですね。こんな時はリラックスしないと」
「俺は倉木って言うんだ。短いかもだけどよろしくな」
倉木と名乗ったその男は、さっと右手で軽い敬礼をすると、視線を携帯電話に落とした。機械が苦手そうでは無さそうなものの、誰かと対面して居る時にわざわざ手慰みにスマホを弄るような印象は無く、田島は些かの異和を感じる。
「はい、よろしくお願いします。倉木さん、ところでさっきから何調べてるんです?」
倉木の横顔が初対面でも解る程に、強張って居る様に見受けられた。
「んや、なんか変なんだよ。田島さんも電車の運行状況見てみてくれないか?」
「うん? 運行状況?」
確か停車して居ると言う話だった筈だ。近年、頻発して居るから何時も通り。可笑しな部分などあっただろうか。ただ、時間には余裕がある訳だし、詳しく調べて見よう。何が話題になって上手く時間を潰せるかも解らないのだから。
田島は飲み掛けの合成樹脂容器を鞄に仕舞い、車両用防護柵の支柱に引っ掛けると素直に携帯電話を取り出した。
「検索検索と……ええと、ん? 特に変なところは――あれ?」
最終更新時刻、二〇〇六年四月二日六時四十二分と表示されて居る。
携帯電話の画面左上と腕時計は、八時五十分を示して居た。
「二時間も更新なし? 運行再開してるとかですかね?」
田島の言い分に倉木は「それが違うみたいなんだ」と携帯電話の画面を見せて来た。
「んー、『電車ずっと動かないんだけどどうなってんの!? ヽ(`Д´)ノプンプン』あ、これ一分前」
実時間で個人の投稿を更新して行く――確か、つぃってぁ、とか呼ばれて居る奴だったか、と田島は疎覚えの記憶を、眉を顰めながら引っ張り出す。
「他にもな『東京だけじゃねぇですから! 大阪もですから!!』とか、『通勤できねぇじゃねぇか!? 誰だ線路内立ち入りした奴?』とかな」
「ここまでなら偶然だ何だで済みそうだけどな。全国一覧にして見てみると……ほれ、これどうなんだ?」
倉木が徐に、手に持つ自分の携帯電話を渡して来た。
「運行停止。再開の見込み無し。原因は全線……線路内立ち入り?」
田島は画面を下へ下へとスクロールして行ったが、映し出されるのは終ぞ同じ文字列だった。
「それによ。さっきから自動車通ってないだろ?」
「あ、はい、僕もそこは気になってました。でも、渋滞とか大きな事故とかは全然出ませんよね……ん?」
「お! なにか解ったか?」
「何でしょうこのつぃってぁ? でしたっけ? のこのコメントなんですけど?」
「んー、なになに『なんだアイツ!? 怪我してないじゃ』なんだこれ? 途切れてるのか? 『塗装? ペンキ? うわ、よく見たら血じゃんこれ? お巡りさん早よ!』、『とか言いつつ警察署行ったら中、真っ赤なんですけど……今日って何か特別な日だっけ? 四月馬鹿だっけ?』、この二つは同じ奴の投稿だな。三分前か――ん?」
倉木は田島に携帯電話を返すと、唐突に立ち上がった。
「倉木さん?」
道路の崖寄りにある車両用防護柵に、手を引っ掛けて身を乗り出した。田島は倉木に駆け寄って、腰にしがみ付く。
「ちょ!? 倉木さん危ないです! いきなりどうしたんですか?!」
「おお、丁度いい! そのまま押さえて居てくれ! 飛び降りる気はないから安心していいからな!」
一度だけ顔を上げ得意気に親指を立てると、体勢を更に傾けた。
「あ、ちょっと!? 僕の体重じゃ限界早いですからね? 見た目通り重りにもならないですよ?! もって数秒ですからね?」
突然の事で焦りを隠せない田島は、早口で泣き言を叫んだ。折角、知り合ったのも何かの縁だと言い聞かせ、プロレス技でも掛けんばかりに腰と背中を仰け反る。
一応は名前を知った相手だ。死なれたら寝覚めが悪い。田島は一般的な良識を備える大人だった。
「んよし、田島さん。もういいよ。おーらいおーらい」
役に立ったかの疑問は残るが、倉木を救出した田島は、道路上へ大の字で仰向けに倒れ込んだ。
「はぁ……っ!? けほっこほ! ……それで倉木さん何か見えましたか? と言うかいきなりどうしたんですか? 僕は天国がちょっと、見えました、はぁ、酸素って美味しいんですね。久しく、忘れてました」
暫くして田島の呼吸が整う時機を見計らって、険しい面持ちの倉木が携帯電話を渡し、最も落下防止に貢献しただろう車両用防護柵に軽く腰掛けた。
「倉木さん?」
「なんか変な音? が聞こえてな。いいから見てみろ。俺にはよう解らん」
「なんですかこれは……現代アート?」
赤い斑点と薄黒い靄の様なよく解らないものが、点々と配置されて居る。
「画像ですかこれ? 僕、芸術はちょっと……美術五段階で評価2だったものでして」
「違う。動画だ。少ししたら拡大されるからよく見てくれ――それと多分、芸術じゃない」
倉木の表情は明らかに暗い。知り合って数分でも解る程の変化に、その内情は計り知れず、田島は黙って動画の続きに眼を向ける。
「あ、薄いのが動いた…………あ、この点のような細いのは人か? に近付いて、ああ、拡大ここか。あ……れ? 人が消え――いや、違う? この赤いの血!? は? 倉木さん? これって?」
眉間に深い皺を寄せていた倉木は、数秒の間を空けて答える。
「……なあ、倉木。あーるぴーじー? って解るか?」
「え、はい? あーるぴーじー?」
突然の話題変更に田島は素っ頓狂な声になったが、言葉の指す意味は一つだけ直ぐに浮かんだ。
「あのゲームの種類のですか?」
田島は見た目からして肌が白く細身で、印象通り筋肉質な事も無く運動神経が決して良いわけではなかったが、学生時代水泳だけは長く続けて居た。
その為、自主的なトレーニングを始め日々屋内プール通いだった事もあり、同年代が教室で話す様な室内遊戯には非常に疎くなってしまって居た。偏見一切無しにあのピコピコと言ってしまう部類の少し古めかしい人種でもある。
しかし、水泳を始める以前、小学校の低学年だった頃は、少し裕福な友人の家に招かれ、それらしきゲームを眼の前で自慢された悔しい記憶が微かに残って居た。
「確かあれですよね? 大体は勇者が居て、村人が居て、魔王を倒して、世界が平和になるような?」
「そう、それだ。確かそんなんだったよな? あと田島がいま言った以外にも登場する奴いたよな?」
「んー、他にいましたっけ? 僧侶とか?」
「いたかそんなの。まあ、間違ってない気はするが……いただろ? ほらあれだ。なんつったかな? 敵って言うか、村人は最初そいつらを勇者に倒してって言うんじゃなかったか?」
「ああ! 解りましたよあれですね! 魔物とか怪物!」
漸く体力を回復した田島が、上体を起こし胡座を搔いた。
「やっぱ俺よか詳しそうだな。まあ、助かる。いや、助からんかも知れんが……」
「倉木さん? さっきから何言ってるんですか?」
深々と眼を閉じた倉木は、意を決して見開くと言葉を慎重に選びながら、伝えたくない真実を語り始めた。
「さっきの動画な。もう気付いてるかも知れんけど、この坂の下のやつだ」
「……え?」
本の少し前に田島の口にした、何言ってるんですか、と問うたあの言葉に嘘偽りは無かった。
電車が停まって居るのは日常茶飯事で何時もの事だ、すれ違った生徒の数が少ないと感じたのは本年度の試験が例年になく難しかったからだとか、鳴り止まない警笛の音も、偶々治安の悪い日が重なったからであって、倉木が車両用防護柵から落ちそうになる程に身を乗り出した事も唯の気紛れで、何かにつけて結び付けるのは子供の放つ支離滅裂な推論くらいのもので、自分は成人して久しい。
口をぱくぱくさせるが儘、何を言っていいやら迷う田島に、直線上にある下り坂の最奥を指差した倉木は淡々と尋ねる。
「なあ、田島。あれはなんて言う怪物なんだ?」
「は……え?」
道路上を何かが歩いて居た。その余りにも規格外の大きさに力士を思い浮かべたが、正確に計れない筈の彼奴の背丈は三メートルを優に超えて居る事が解るや、冷や汗が額を濡らした。
弛んだ肉体とでも形容すれば良いのか、身体は幾重にも連なる膨らんだ皮下脂肪で覆われて居り、歩行自体は鈍重である様だ。
白やら薄暗い肌色の斑模様が点々として居る様は食生活の偏りかも知れないが、それは恐らく人間の話だったと思い直す。
二足歩行を実現出来て居るのが不思議な超重量に、脊椎動物の重心移動やら臓器配置やらを考えると、あの巨躯の維持に必要な筋力は凄まじいものがある。詰まる所、端的に簡潔に要するに――アレは物凄く強い! と分析した瞬間、田島は自身の心臓の音を聞き取った。
「口から……血が!? ちょ、倉木さん? アレなん、に? は? なんですか?」
怪物と倉木の方を世話しなく見る田島の狼狽ぶりは、先ほど迄とは一線を画すものだった。
早朝より唯今に至り、続いた全ての点と言う点が、能動的に頭の中で繋がってしまった。
「慌てるな田島!!」
倉木が田島の両肩に、張り手の如く喝を込めて手を叩き付ける。
「先ず冷静になれ! それでよく見ろアレを!」
パワーハラスメントが浸透し始めて以来、長らく忘れて居た生の痛みと間近に迫った倉木の凄みで、頭が幾許か正常さを取り戻す。
倉木の指示通りに、じわじわと距離を詰めて来る存在を見遣る。
「いいか田島。恐らく奴はここまでの通学路にいた家族を食い殺して来たに違いない」
「っ!?」
藁にも縋る思いとはこの事だった。
TVの放送が控えて居るビックリ系統の特番や生放送、兎にも角にもこの斯くも珍しい光景は催しであり、娯楽の類である筈だ、そうに違いない。
接近して来るアレは、未発表且つ高度な立体映像化技術で、触れる様になると真しやかに囁かれて居た例の噂に準ずるものであって欲しい。否、そうであって然るべきだ。
「眼ぇ逸らすな! 現実見ろ!」
されど、倉木は田島の頭を鷲摑みにし、現実から逃げようと思考を働かせた最後の疑心をへし折った。
「はっ、はい!」
「アレはなんだ?」
醜い豚の面が覗える。モンタージュの黒より更に濃い圧倒的な犯人面だ。
「恐らく豚人と言うやつ……です」
豚の怪物と言えば、ゲームで序盤に出現する代表格。
件の自慢された時、画面に映って居たのはドット絵だったが、水っぽい粘液生物より明確な硬質感があり、幼き日の田島の恐怖心を煽った為、とても印象的深い敵として記銘されて居た。
「田島。いいか。俺たちは死なずに逃げきらにゃならん。なぜなら、この先にある学園にアレの存在を知らせて、可能なら避難を手伝う。その後は十中八九、正常に機能してないだろう警察に駆け込んで助けを求める! それが一般人の俺たちのできる最善策だからだ!」
「倉木さん! す、凄いですね! 僕、さっきから手や脚が笑っちゃって、はは、立てそうですけどそこまで出来るかどうか……」
やれやれだよなぁ、と不貞腐れた様に倉木は立ち上がると田島の眼前に聳え立つ。行く手に迫る敵の姿をその力強い瞳で捉える。
「やれなきゃ死ぬからな。死んだら家に帰れないだろ? もう家族に会えないだろ? 俺は御免だねここで死ぬなんて。事が済めば仕事だって山のように残ってるだろうよ。それは誰がやるんだよ? 今、生きてる奴だ。今、生き残った俺たちだ。そうだろ田島! まあ、仕事なんか別に好きじゃねぇが、挨拶すらまともにきねぇ新入りばっか生き残ってみろ? 日本滅ぶだろうが。流石にそれじゃ悔しいだろ?」
冷静に淡々と述べられた叱咤は、田島にも共感出来る内容だった。決して激励では無かったが、若かれし頃の我武者羅なものよりも洗練された確固たる意思と情熱を兼ね備えて居た。
言わばそれは利己的な覚悟。己が定めた我が儘を貫く不屈の精神の現れだ。
深く響く言葉を聞き、これぞ日本男子たる器と覚しき背に、雲の間から射し込む太陽光を受けた倉木の眩しさに、田島は生まれて初めて同性に見惚れて居た。
すると、恰もランニングでもするかの様に倉木は軽く駆け出して行った。
「え、倉木さんっ!!? さっき逃げるって! それが俺たちのやる事だって!?」
一拍、反応が遅れはしたものの、田島が喚く様に叫ぶ。
「田島の方が詳しい。ならこうするだろ?」
道を逸れる事無く一直線に直走る。真っ直ぐ敵を睨み付けて居る様で、振り向く気配も無い。
「は? ちょっと? ゲームの知識なんか頼りになりませんって!?」
足腰に力が着々と戻って来て居るのを感じる。あと少しすれば立ち上がれる。だから、当然二人で逃げられるものだと田島は勝手に決め付けて居た。
それもその筈で、想像する迄も無いが、田島の見立てでは豚人に徒手空拳で勝てないと出て居る。
装備無しで、まともな戦闘経験の無い素人が勝てようものなら、割と強い村人で十分対処可能であり、そうなれば極論、勇者は諸悪の根源的原因に当たる魔王なりラストダンジョンのボスだけを倒せば良い事になる。
しかし、その様な楽な物語は無い。詰まらない以前に、少し努力すれば勇者すら必要ない世界になって整合性が崩壊するからだ。
物事の成り立ちはそう簡単には覆らない。一部の例外を除き、一般人は怪物には勝てないものだ。
ゲームを知らない子供でも解りそうな単純な理屈だ。
更に言えば冷静に状況を把握する事が出来て、客観的に数少ない情報から現実に起きて居る事態を推測して見せた倉木が、その程度の結論を導けないとは到底考えられない。
「倉木さん……どうして?!」
俯く田島の視界一杯に広がる混凝土が、生き抜く意思や希望と言った輝かしき礎を黒々としたもので冷え固めていく様に、無関係な事を敗色と結び付け出す。
諦める前に倉木の言葉の意味を考え、幾度となく倉木を引き返させる一言を探して居た。
訳は話して居た。至極単純な動機だ。田島の方が詳しいだろうから、田島の方が生き残る価値がある。倉木は自らを生け贄として、田島の生き長らえる時間とし、延いてはこの先にある学園の生徒たちの逃げ果せる時間を稼ぐ算段だ。勿論、それは希望的観測であっさりと殺されてしまう可能性の方が高い。
本気なのか……? 会って数分しか経って居ない僕をどうして信じられる? 僕よりあなたの様な想像力と応用力を持ち合わせた人の方が、後々居るべき、生き残るべき人間なのに。僕は不甲斐ない奴で、こうしていざと言う時に足が竦んで動けない。
眼先に迫り来るあの怪物に対し、体験した事のない死を想像しただけで、身震いが止まらず恐怖で動けない僕に、一体何が出来る?
動けない。前へ進めない。何処か寒気に似たものを覚える。
不意に、身体が芯から鉛の様に硬直して行く感覚が蘇り、懐かしい思い出が現状と重なって見えた。
田島は子供の頃、二週間ほど預けられた祖父母宅の近くで、畦道から足を滑らせ雪に埋もれて、生死の境を彷徨った事があった。
俯せに倒れ、気絶して奇跡的に眼を覚ました田島の身体は既に悴んで悶える事も儘ならない有り様で、叫び声は被さる様に降り積もった雪に阻まれて意味をなさない。落下した痕跡も、同様に一目では解らない様に見事な擬態となって居た。
心臓はまだ元気に動いて居るし、意識は鮮明だったが、最早時間の問題と言えた。
どうやって助かったかは全く憶えて居ない。眠気を誘う寒気に耐え切れず意識が再び落ち、気が付いた時には祖父母宅の布団に寝かされて居た。
真相は解らないが、田舎では滅多に使われない構内有線通信装置を三度押されて、飛び出したら毛布に包まれた田島が玄関口に座らされて居たらしい。
体温がある程度、平熱近くまで戻って居た事から察するに、誰かが救助し適切な応急措置を済ませた事は明白だった。けれども、結局はそれが誰か迄は突き止められなかった。
ともあれ、田島はあの幼き日襲い掛かって来た自然の猛威を忘れず、教訓とする事でここまで生きて来た。
自然の力は人に災いを振り撒く事もあるが、同時に様々な恩恵を齎す事も儘あるものだ。
よく例えられる話だと人は水が無ければ生きて行く事が出来ないし、一昔前までは食べ物を腐らせずに保存しておく為に、氷の冷蔵庫が常用されて居た。
死の瀬戸際に立たたされながらも、刻一刻と意識の薄れ行く悍ましい程の零度に、田島は終ぞ恐怖を抱く事はなかった。晩御飯に好物の筍ご飯があると言われた事だけが、心残りだった程だ。
後遺症無く復活した田島は地元に戻ると水泳を始め、今では壊れた家電を修理して居る技術職に就いて居た。専ら舞い込む仕事は電気で稼働する冷蔵庫の取り付けと内部部品の点検修理だ。
それは走馬灯の様だった。あの足を滑らせた日から、今日までの目紛るしい日々が頭の中を駆け巡る。
唐突に、透き通る水面に波紋が広がり、次の瞬間、急速に冷え固まる写像が湧き上がった。
直感に任せ、田島は合成樹脂容器の蓋を少しだけ外し、ふらつき転びそうになりながら走り出した。
先を走る倉木に追い付くのは無理だ。なら先にこれを届けてしまえばいい。重心を意識しながら、あまり回転しない様に投げる。
田島は球技が苦手だ。制球は申し分無いのだが、球速はどの競技も皆と比べて遅かった。
それは競技で活躍するには物足りないが、田島が投擲した合成樹脂容器は倉木の頭上を通過し、走行速度を上回った。
倉木は視界に映り込んだそれが、あと数歩と言う所で見事オークの頭部に命中する事を目撃する。
ゴールに放たれた籠球が、輪の縁に当たり跳ね上がる様にそれは縦回転し、容器の中身から微量の水飛沫が怪物に降り注ぐ。
鬱陶しそうに首を振り、地面に引き摺る様にして携えて居た大剣を乱暴に振り回す。オークは怒濤の如く何かを叫んで居る。
至近距離に立つ倉木は空気が揺れるのを全身で感じる。高が一体の放つ唸りは、酷く懐かしい合唱コンクールの記憶と結び付いた。一クラスが一丸となって作り出した声量を、遥かに凌駕して居る。若かれしあの頃の肺活量と我武者羅な努力を、糸も容易く踏み越える。
解っては居た積もりだが、悔しさを倉木の裡に渦巻かせた。どの様な生態系かは定かでは無いが、見た目の通り生物としての格差がある。見て呉れ通りの知能だとしても、一対一では力が遠く及ばない。足留めももしかすると無意味かも、とは心の何処かでは思って居た。
それでも人間は可能性が0では無いのだと縋り付くものだ。限りなく0に近くとも、例え0と断言されようとも、己が諦めない限り道は続いて居る。
敵を前にして居ると言うのに倉木は無防備にも振り返り、身勝手に決め付けた田島と言う希望を視界に映す。
「倉木さん! アイツに水を!!」田島は走りながら、はっきりとそう応えた。
お世辞でも強そうと言い難い細い体躯。頼り無さそうな顔付き。しかし、眼の奥に宿る揺るぎ無さが、倉木を奮い立たせ行動を起こさせた。あの眼は芯を持つ者の眼だ。見た目では計り知れない底力を何かしら備えて居る。倉木には尊敬して止まない今は亡き父の瞳と同質のものを、田島の瞳に重ねて居た。
田島ならやってくれる。自然とそう信じられた。
倉木は楯替わりにしようと持って来た鞄から、合成樹脂容器を引っこ抜き、蓋を外して、投げ付ける。
水は湾曲しながら豚人の胸許に掛り、多くの水滴は足許にぽたぽたと落ち水溜りを作った。
手先や指先で水を拭うと言う概念が無いのか、豚人は降り注ぐ水に憤慨を隠そうともせずに暴れ回る。
「おおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
そこに入り込もうとする田島が映った。
「田島!!?」
咄嗟に追い掛け、田島が大剣で切り裂かれそうになる軌道が見え、身体を鞄と共に割り込ませた。鞄が盛大にくの字に凹む、中身の書類はぐちゃぐちゃで使い物にはならないだろう。だが、高級鞄だけあって頑丈だ。まさか防げるとは思わなかった。やたら重かったのは金属が入って居たからかも知れない。
倉木は俯せに倒れながら田島の背を押す。
「行け田島!!」
眼を見張った田島は一瞥し、前を向きオークの懐に踏み入った。この一瞬を作り出した倉木に感謝し、両足で跳ね豚人の胴体に抱き着く。
「氷ぉれえええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
田島は心の中にある印象を、あの日の出来事に重ね、豚人の身体に隈なく行き渡る様に反芻した。すると想像以上に上手く出来た達成感を摑み、同時にずっしりとした脱力感が襲ってきて意識を手放した。
□ □ □ □
田島の咆哮に呼応するかの如く、辺り一帯が極端に冷え込んだのを、倉木はその身をもって思い知らされた。
それは須臾に起きた未知な体験で、体勢を崩した為に見る事も叶わず、何が起こって居るかの理解は全く捗らなかった。
それでも確りと頬に伝播して行く凍えが、危機管理を働かせじたばたと身体を揺らす。顔を引っ張る様にして浮かせ、眼下の有り様を垣間見た。豚人の足許に飛散した筈の水溜りが凍り付いて居た。
「氷ってる……?」
少しだけ頬が氷面にくっ付いて居るのを、慎重に指先で引き剝がす。
のっそりと立ち上がり、何とか五体満足で居る事実に安堵する。
視点を切り替えた眼先には、豚人の全身が真っ白に変色して居る異常な光景が映り込んだ。
暴れ回る事も雄叫びを上げる事も出来ず、唯々静止させられて居る。息が白く苦しそうだ。しかし、まだ生きて居る。
だが、何がどうなってああなった? 田島がやったのか? 疑問は解消出来ず、倉木は田島の安否が心配になり、豚人の下を見ると田島を発見した。僅かに揺れて居るのを見るに、呼吸は出来て居る。
近付いて改めて見ると、豚人の表面は厚い半透明の氷に覆われて居り、肌は青白く変色して居た。
更に近付き豚人の二の腕をノックすると、見た目より圧縮された様な硬質感が短い音で返って来た。
丸で、身体中の血液を凍らせた様な状態とでも言い表せば良いのか、捌く前の硬質感溢れる鮪より固そうだ。下手な鈍器より武器になりそうだが、先ず持ち運べないだろう。
しかしながら、流石に身動きが取れない様だったが、これでも死なないのかこの怪物は、と呆気に取られる。
ただ、これだけの損傷を与えたのだ。死なないにしても、当初の目的通り、この道の先に位置する学園へ危険を知らせる事は叶うだろう。
それにしても、田島本人は凍って居ない。豚人の秘技による自爆技の失敗と言う事も有り得るが、やはり田島がやったと考えるのが妥当だ。田島は超能力者だったのか? ならもっと効率的なやり方が幾らでもあったと思うのだが……。
田島を豚人の足許から引っ張り出し、近場の車両用防護柵に座らせる。
無駄に肌寒いと思って居たら、手に小さな白い何かが降り注いで居た。雪だ。通りで寒い訳である。これであの豚人とか言う怪物でも、流石に凍死は免れないだろう。
さて、これからどうするべきか。制御出来るか否かを棚上げし、あれが偶然で無ければ田島は戦う術を持って居る事になる。
だが、あれは端から持って居たものなのだろうか。であれば、田島はあれほど怪物を警戒する事も、戦慄を覚える事も無かった筈。
慣れて居ない、と言うよりは、行き当たりばったりであの超常現象を引き起こした様に俺には見えた。だとしたら逆に凄いな。ぶっつけ本番で大成功を叩き出したのだから。今は伸びて居るが、助けられたのは紛れもなく俺の方だ。あれが俺にも使えれば、それが一番なんだけどな。生憎、俺には超能力は使えない。足手纏いにしかならないだろう。
倉木がそう帰結させた所で、
「お前も使っていた筈だが? 無自覚か」
かなり至近距離、恐らく隣から急に知らない声が聞こえた。倉木は驚くより身構える様にして、恐る恐る視線を向ける。
倉木とは逆の田島の隣に位置する車両用防護柵に座る何者かが、声を掛けて来た事が解った。
一見すると普通の女の子だ。雪の降る曇り空を眺めて居る。
服装は所々、血塗れで絵や図形などの商標識別があったものでは無いが、高そうな生地を使って居るのが解る。
去年、入学祝に娘へ贈呈した服から鑑みるに、受注生産の服はやたらと値が張る。細かい意匠など付けば更に高くなる。
眼を凝らすと、制服に縫い付けてある円形の腕章には、小さな祠の紋章があり、そこが桜色に輝いて居る錯覚を覚えた。
手の甲で眼を擦るも、見えて居るものに変化は無い。視力は両眼ともに1・5だった筈だが、眼科へ診断に行った方が無難かも知れない。近々、お決まりの健康診断だったから都合が良い。機能して居る病院があればの話だが。
三城の生徒は一般的で田島も馴染みある黄色い帽子と紋章の代わりに、歩くだけでずり落ちそうな背の高い絹帽子と、背面と両腕に紋章が付いた八万ぐらい掛かる特注の制服の着用を義務付けて居る。
何故なら倉木の娘は今年、この坂道の上にある三城学園の初等部第二学年に上がるからだ。
折角、合格を手にした自分とは似ても似付かない優秀な愛娘の為にと、二ヶ月と言う短い様で長い間、同僚から来る昼食の誘いを一切断り、日の丸弁当を嫁さんに頼み、家計を支えたあの米の味がまざまざと蘇る様だった。
入学時に必要なものの資料を注意深く読み返したからこそ解る。腕章と言い、絹帽子と言い、その様な色では無かった事を。と言うより絹帽子は大きさと形状が異なって居て、最早、絹帽子では無い。小さな絹帽子と言う奴だろうか。娘の着用時もそうだったが、紐も留め具も無いのにどうして落下しないのか不思議でならない。
兎に角、風貌は娘より幾らか幼く見えるので新入生だろう、それ位の情報しか得られない。
「それで……その鎌はなんなんだ?」
眼を背けるにも限界だった。倉木は最も大きな疑問を口にせざるを得なかった。
それは彼女の服装や帽子や返り血を物ともしない圧倒的な異質さを醸し出して居た。
例年通りなら入学を控えて居ただろう彼女の人並みの体躯に不釣り合いな大鎌は、全長が倉木の身の丈ほどか、或いはそれ以上の長さを有して居た。重量がどれ程のものでも、それを片腕で支えて微動だにしないのは、倉木にとってぞっとするほど恐ろしく、桜の花弁を固めて出来て居るのかと勘繰る程の美麗な光沢を僅かに放って居る、何処か神秘的な光景だった。
子供の体重程度なら普通は身体が浮いてしまう様な重量差ではないだろうか。それとも実際の見た目よりも軽い張りぼてと言う可能性もあるのか。いや、そもそも何故その様な武器を所持して居るのか。安全の為? この地獄の入り口に片足を突っ込んだ状況に対応したからか。
「疑り深く、警戒心が強いようだ。それは当たり前か。今し方、未知の化け物に襲われたばかりなのだからな」
ふむふむと独り言ちながら振り向き、漸く倉木を視界に捉えた。
「ああ、この鎌の事だったな。この鎌はここに来る道中、拾った。いや、拾ったと言うよりは奪ったが正しいか? 無謀にも豚どもが群がって来たものでな。武器欲しさに拝借してしまったよ。これはあれだな、正当防衛と言う奴だ。過剰防衛な気もしなくもないが……まあ、仕方がない。向こうも殺しに来て居るのだから、殺されても文句は言えまい」
本来なら何を言って居るのか理解できず、冗談と受け流すような戯言だ。
しかし、倉木はその娘より一つ下であるだろう女の子が、ついさっきまで戦った怪物とは比べる迄も無く遙かに恐ろしい存在に見えた。
その瞳は曾て一度も見た事も無い桜色に煌めいて居たからだ。
背筋が凍る様な感覚は、決して降雪の所為だけでは説明出来ない。話し方も何処か男らしいと言うか、堅苦しいと言うか、田島より幾らか老いた恰も同年代と話して居る様な精神性を内包して居る感覚で、そこに子供特有の甲高く冷静そうな声が入り混じり調和が崩壊して居る。
「本当に人間なのか? と疑問に思って居るな?」
そして、彼女が恐ろしいと感じさせる最たるものは、先程から倉木の心中を的確に見透かして居る様に話す点だ。
彼女は最初、倉木の方を向いて居なかった。視界から外して居た。
詰まり、倉木の癖や仕草を観察して、あの一言目を導き出した訳では無いと言う事だ。
仮に事の始まりである田島と倉木が会った所から見て居たとしても、倉木の考えを理解するには圧倒的な情報不足に苛まれる事だろう。
しかし、この瞬間、倉木の頭にはある閃きが舞い降りた。
いや、待てよ。このあり得ない状況なら何が起きても不思議は無い。田島がいきなり水を凍らせられた様に、俺が鞄を楯に出来たのも、何かしら得体の知れない力が働いた証拠かも知れない。だとすれば、この少女、いや、幼女? ……人間? にも何かしら頂上的な能力が芽生えた可能性があるのでは無いか。筋肉質になる奴とか? あれだ、あれ、なんと言ったか、人の心を読む、相談員……違うな、なんだ、催眠術師……占い師。
「それは、恐らく読心術者だな」
「そう、それだ! それ……なのか?」
倉木は会話が普通に成立した事に驚かされたが、同時に感心もさせられた。本当に心を読む事が出来る様だ。
彼女は地に降り立つと、手に持つ大鎌の取っ手の部分を、混凝土の表面に難なく差し込んで見せた。棒状の下部先端が接触する刹那、小さな衝撃が走るが、地割れが起きた様子も無く、旗を収める要領ですっぽりと穿たれた穴に嵌まる。
「読心術者……まあ、間違いではないが、それを今正したところで、意味は薄いし時間も惜しい。先にもう少し現実の話をしよう。構わないだろう?」
「現実の話、と言うのは?」
「先ずは安心させる話題を一つ提供してやろう。お前の娘はまだ生きて居る。これから向かおうとしていた学園に既に登校していた生徒は皆無事だ。名前は倉木瑠璃子だろう?」
「な!? そんな事まで解かるのか?」
田島との会話で、倉木は娘の話題を一度も出して居ない。これは愈、信じるしかない。
「何も言わず私の手を取れ、話をさせてやる。先ずは何より確証が欲しい。そうだろう?」
手を差し出して来る彼女が敵である場合もある。同時に可能性でもある。可能性があるならば踏み込むのが人間だ。携帯電話の電波が圏外の今、連絡手段があると言うのは幸運以外の何物でも無い。それに後になってもう機会を得られない可能性もある。
「解った。どうすればいい?」倉木は腹を括り、立ち上がった。
「先ずは手を乗せてくれ。あとは文章を読む時の要領で、思い浮かべる自分の声を意識し、一言一言慎重に心の中で思い浮かべれば良い、準備は良いな?」
身長差で掲げる様に挙げられた何の変哲も無く、娘とそう変わらない様に見える手だった。得体の知れない彼女の手の上に手を乗せる。当たり前だが手が小さい。重くは無いのだろうか、と考えた所で「もっと全体で弛緩する事だ、腕一本があの鎌より重い訳がないだろう。手の体重を全て預けて構わない」と注意を促された。
倉木は頷くと眼をそっと閉じ肩の力を抜く。待つ事、僅か数秒。
「よし、繋がった。存分に話すと良い」
『ん、もしもし、瑠璃子?』
『え? お、お父さん? なにこれ? どうなってるの?』
おおおお!! 本当に繋がってる!! 凄いな!!?
倉木は初めて眼の当たりにする超能力に興奮し、娘の安否も解り、思わず眼を見開き、空いて居る手で握り拳を自身の胸許に引き寄せた。続いて、つい、はしゃいで親指を立てるをしてしまったが、彼女も親指を立て返して微笑んで見せてくれた。口許が、定がでは無いが『良かったな』と動いた様に見えた。
『ちょっとお父さんお父さん!? ねえ、説明! 電話……じゃない、けど、なにこれ?』
『あ、ああ、仕組みはよく解らないんだが、瑠璃子いま声に出してないよな?』
『それはそうだよ。そんな事したら変な子扱いされちゃうじゃん』
娘は至って冷静だった。俺が七歳の頃と比べたら少し惨めになったので、思い出すのを止める。
『……そうだな。それで今、何してるんだ? どこかに、体育館とかに避難して居るのか?』
『え? 今日入学式だよ? 入学式の準備だよ。何言ってるのお父さん?』
『え……?』
倉木は言葉に詰まった。
まだ、何も伝わってない? いや、それはそうか、俺も現状を全て理解して居る訳じゃないし、俺の様に襲われて居らず、TVも点けて居ないなら情報は入って来ないか。だが、教員陣が何も指示を出して居ないのはどう言う事だ? 入学式をやる積もり……は流石に無いよな?
倉木の沸き立つ疑問に答えるべく、彼女が口を開く。
「倉木の認識はおおよそ間違っていない。教員陣はまだ何も知らない。早朝に出勤して身体と頭を動かして準備して居る真面目な者ばかりだ。腕時計を頻繁に見る者は多いが、携帯電話の画面を確認した者はあの中には居ない。少し新入生の集まりが悪い事を気に掛けて居るがその程度だ。入学式の準備を平常通り行って居ても何ら不思議はない」
「なるほど…………どう説明しよう?」
翌々考えると、説明は不可能と言うより無意味な気がした。この眼で見て肌で感じなければ、俺も信じられない側の人間だった事だろう。この凍り付いた生物を見せただけでは足りない。かと言って、何もしない事はあり得ない。田島が作り出した活路、無駄にする訳には行かない。
『瑠璃子、お子さんな、今からそっち行くから。ええと、担任の先生にそう伝えて置いてくれないか?』
『え? 今日、大事な会議で来れないって……来てくれるの?』
『ああ、急に仕事が休みになってな。あと急用が出来て、先生方に大事な話があるんだ。瑠璃子は俺が学園に俺が着く前に何とか話をする場を設けて欲しいんだ。無茶言ってるのは解るけど、なんとかたの――』
『いいよ!』
どう言う訳か快諾してくれる。
『いいのか? 滅茶苦茶な事、言ってるんだぞ?』
『うん、いいよ! だって、お父さん、新入生が遅れてる理由知ってるんじゃない?』
倉木はひやっとした。最近の女の子は皆こうなのかも知れない。いや、家の娘に限ってそんな事は……思い当たる節ばかりあった。
『……どうして、そう思うんだ?』
『んー、だいたいは勘なんだけど、私がクラス委員やってるのは知ってるよね?』
『ああ、そう言ってたな。それで?』
『今年の新入生の席順リスト作成を手伝ったんだけど、一番早く来た家族が、前の列から座るんだよね。私の時もそうだったけど、厳密な時間制で案内するから、学園に来る順番で席の番号が決まってたじゃない?』
六時に登校してたのか。朝、既に登校して居たのは知って居た。早過ぎる気もするが、今日に於いてはその心掛けが幸いしたと言えるか。
『そうだったな』
『それで何時もなら案内する筈の番号が二十番を過ぎてるんだけど、さっき最初の確認した時、待合室に居たのはたった二組のご家族だけなんだ。遠くから通う人も多いから、そう言う人の番号は大体小さい訳。待って居る間が暇だろうって事で、暇つぶしにはならないけど学園の自動販売機の飲み物を事前に買って保温してあって、それを渡しに行った雑用が私だったのね。その時に何時にいらっしゃったんですか? って聞いちゃったの。自主的に私、六時には登校してたから、それより隨分早かったんだなとは思ったから。そしたら四時に来て車の中で仮眠取ってたって言うからびっくりしてね。学園の駐輪場は二十四時間、学生証さえあれば入れるようになってるから納得したけどね。新入生の子が行きたいってせがんだんだって、それで二時間寝ちゃったみたいだけど、ふふ、私も解るなぁ。一年前、早く行きたいなって思ってたから、家近いから最後から五番目くらいだったけど……』
『それだけなら、父さんが何かを知ってる理由にはならないな』
『うん、そうだね……お父さんこれ凄いよね。読心術って言うのかな。四時にはここに来れたご家族が二組、職員室で小耳に挟んだ話だと六時三十分頃から電波が圏外になった携帯電話、ガラパゴス携帯もそうなったみたい。パソコンの有線も無線も接続エラー。多分、その時間から何か事故があったんだね。交通障害が起こるような規模の何か、大方それが通信にも影響してる。遠方からの連絡手段が途絶えた状態に、私に何らかの手段で連絡を取ったお父さん。これ可笑しいよね? お父さんは機械系とか情報系とか技術系の職業じゃない。そう言う知識もあまりない。あっても未知の通信手段を作れるほどお父さんは頭が良いの? これまで私たち家族をずっと嘘を吐いてきた? それは無いよね。お父さんは器用じゃない。だから、お父さんはその方法を誰かに与えられて居るだけ。お父さんの近くには多分私の知らない誰かが居るよね。その理由を知って居る誰かが居る。だから私に接触を取った。私は学園に在籍して居る生徒だから、それを知って居る確率は高そうだね。それなら先生を呼ぶ事くらいは出来そうだし。クラス委員の事も知ってるかも、なんてね。でも、もしそこまで私の事を知ってるなら、先生に話を通すのに打ってつけの人選だね。これ全部、推理と言うより勘なんだけどね。そんな感じだよお父さん』
瑠璃子……あれまだ七歳だったよな? もう父さんより頭良いんじゃないか?
娘の成長具合が大変宜しい様で、極めて濃厚な欣喜と戦慄を堪能した倉木は、もしかすると心配要らなかったのだろうか、と思い直して居た。
『……おう、元気なのはよく解った。話、頼むな、多分早ければ十五分後くらいだ』
『うん、解ったよお父さん。私、お父さんのそう言うところ大好き!』
手を離した倉木はどこか窶れた顔をして居た。親の知らぬ間に子は育つとよく聞くが、こう言う事では無い気がしてならない。正直、娘相手に引いてしまった自分が情けない。幾ら筋力トレーニングをしても、肝心の中身である度量なり器量なりが足りないのは明白だ。瞑想とかが良いのだろうか。
「聡明な娘さんのようだな。それで、信じて貰えたかな?」
迷いなく倉木は頷いた。
「ああ、助かった。娘と学園の現状を知る事が出来た。ありがとう……あー、えー、な、名前を伺っても良いか、宜しいでしょうか?」
妙な感覚だが、倉木の直感が彼女を子供では無いと告げて居る。確信と言っても過言では無い。
「敬意など要らない。この子はまだ誕生日を迎えていないから五歳だ。今日、三城に入学予定だった。先の事は解らないが、暫くは私がこの子の代理をして行く予定だ」
胸に手を宛てて、彼女はそう言った。倉木からして見れば意味不明だ。
「代理? ええと、よく解らないな」
何もかもが解らない倉木は正直に答える。
「ざっくり言えば、私はこの子ではないと言う事だ。だが、この子が実現しようとした事を代わりにやり遂げる契約を交わした。その後はこの子次第だが、今はまだ良い。先ずはこの現状をどう打開するか、それを考える事が先決だ」
「事情があるなら、後で聞かせて貰おう。それに学園が先決って言うのは同感だ」
「そうだ、この子の――私の名前は日下部奈央」
友好の証か奈央は握手を求め、手を揚げる様に伸ばした。倉木はしゃがみ込む事はせず、そのまま手を握る。
奈央とは対等の関係を築いて行くべきだ。目線を合わせる行為は、恰も子供扱いして居る様で憚られた。
「俺は倉木。倉木龍之介。倉木でも龍之介でもどちらでも構わない。俺は奈央で構わないか?」
「ああ、それで良い」
「ところで貴女は何なんだ?」
素朴な疑問をそのまま口にした。
「……そうだな。私の事は身体に取り憑いた悪魔とでも思って置けばいい」
やんわりとお茶を濁した奈央は、床に立てて居た大鎌を軽々と背負う。この状態でも普通に歩ける様だ。重くないのだろうか。質量保存の法則やら万有引力はどうなって居るのか。疑問が尽きる事は無い。この光景だけだと、どちらかと言えば悪魔よりも死神の印象が色濃い。
「悪魔が味方になるのか」
龍之介の中の悪魔の印象は、魂を取引材料にする願いを叶えてくれる存在だ。
ただ味方であれば頼もしそうだと感じたのもまた事実だった。願い事を叶える力を持つ存在は、他に神や仏、或いは精霊などが挙げられ、それは見方や考え方、それを定める者次第で容易に姿形を変える。
悪魔とて例外では無く、人によっては幸も不幸も齎すだろう。
「初見では当然そのような考えも抱くだろう。ならば簡単だ。敵を捻じ伏せて行けば良いだけだ。要は実績が物を言う」
左手を大鎌の上部、右手で下部を持ち、両手で構えると凍り付いた豚人へと直進した。虚を突かれた訳では無い。ただ挙動が滑らか過ぎて、身体が反応しなかった。
元々、大した距離はなかったが、子供の駆ける加速度には見えない。大鎌を左から右に滑らせる様に一閃し、気が付けば豚人の横を通り過ぎて居た。
何処とも無く桜の花弁が現れ、大鎌の軌道を追隨しては降下し、地に落ちる雪の様に消えて行った。
「おおい! 危ないだろう。奈央には娘と連絡を取ってもらった借りがあるんだ。いや、そうでなくとも、死んで欲しくない。もう知り合いとか友人みたいなものだろう。一緒に学園に行くんじゃないのか?」
追い掛けて来た龍之介が心配そうな表情を浮かべて居た。言葉にも嘘偽りは無い。
「先ずは、よく見て、よく聞いてから判断すると良い」
されど、気に留める様子も無く、大鎌を背に乗せた奈央が豚人を指差した。
すると、豚人が輪切りになって四散五裂した。首、胴体が二分に別れ、両足が支え切れず倒れる。中から大量の赤い血液と半分溶けて居る人の頭蓋骨の様なものが浮かび上がる。
「動きを封じる為に凍らせるのは模範的な正解だ。しかし、此奴らはあの程度では死なない。どれほど未熟な奴でも十分もすれば身体の温度を急上昇させる基本的な性能を用いて、全身を真っ赤に染め上げる。そうして、あの氷結を容易く溶かして来る。溶かすのは殆ど時間が掛からない。僅か三秒と言う所だ。だから、殺せる時に、確実に殺さなければならない。まあ、生半可な攻撃では通用しないがな。豚の内臓を見てみると良い。まだ普通に脈打ってるだろう? 田島が頑張って凍らせたあの攻撃は身体中の脂肪と筋肉の鎧に阻まれて、内臓には到達せず、ほぼ完全に無傷だったと言う訳だ。あのまま待って居たら死んで居たのはお前たちの方だった。そして、この先の三城に居る生徒と教員が全て犠牲になっただろうな」
説明を聞く毎に、次第に険しい顔付きになる龍之介は、無言で歯を食い縛って居た。
考えが浅かった。同時に、奈央が唯者で無いと言う直感は確信へと変わる。正解か不正解かは解らないが敵の情報も持って居る。彼女が何者であるか、それはこの際どうでも良い。彼女は間違い無く龍之介よりも強く、賢いのだ。鮮やかな体捌きや手際の良さから、田島以上の戦う術を体得して居るのは確か。十中八九この怪物との戦闘経験がある。
奈央の語る言葉は、その真偽がどうであれ、龍之介の中で確かな意味を持つ情報へと変わった。そして、この期に及んでも奈央の事を、子供扱いした自分を蹴り上げたくなった。
「奈央は確かさっき″先ずは安心させる話題を一つ″と言ってたな? あれはまだ他にも何かあると言う事か?」
龍之介は怪物の亡骸を見下ろし、豚人に立ち向かった時より深く覚悟を決める。
恐らく安息とは程遠い深刻な問題が発生して居る。奈央はその情報を学園に届ける途中だったに違いない。ここに居合わせたのは偶然などでは無く、坂道を登る途中の事で必然だったのだろう。
ともあれ、龍之介は自分が助かったのは、ただ運が良かっただけだと理解して居た。
田島が奇跡を起こし、奈央が止めを刺した。龍之介は田島の起爆剤になったかも知れないが、それだけだ。必要だったかも知れないが、この様な幸運が何時までも続く訳では無い。
もう少し早く家を出て居れば、何か一つ違えれば、豚人の腹の中に居たのは自分だった。
「……龍之介。これを聞いたら私を最後まで手伝って貰う事になるが、お前にその覚悟があるのか?」
大鎌と同質の煌めきを放つ奈央の射抜く様な瞳に、精神的な圧力を感じ生唾をごくりと飲んだ。
次は俺が二人を助ける番だろうが……気張れ俺!!
「やるしかない、もうそこまで来て居る状況なんだろう?」
龍之介を突き動かすものの中には正義感もあったが、純粋な使命感では無くなった。拳を痛くなる程に握り締め「聞かせてくれ」と口にした。
「忙しくなるな……」
そう言うと悪魔と称した彼女は微笑みを湛え、満足した様に瞼を閉じて二度何かに頷いた。
これが龍之介と悪魔との邂逅。人類に救済を齎す者との初めての接触だった。
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