Memo.006 花見月へと至る道 その13
現在朝六時、齢十九にもなって漏らし、枕を濡らしながら超硬度の銀糸から逃れられない憐れな蓑虫の姿を曝す久瑠実の許へ駆け付ける雫。
「あれまー、これは可哀相にー」
飽く迄、自分は悪くないと言う立ち位置を確保する為とは言え、これまで闘技場でやって来た所業に比べると隨分と甘い処置で優しくなったものだと悦に浸る。
待ち望んだ雫の登場に、んむーんむーと唸り、途端じたばたし出す久瑠実の主張は、【記憶の渠溝】など無くとも大体予想出来た。
やれ、拘束を解きなさい、どうしてこんな事をしたの、私は漏らして居ないからね、等々だ。
三城学園に通って居たら、まだ初等部と言う所の少女に木刀を振り下ろそうとした反省は、して居るか正直言って怪しい。
だが、雫は無法者に反省を期待して居る訳でも無かった。課題は彼女の蛮行の目的を知る事だったのだから。
なので、助ける素振りを見せつつそっと近付き、久瑠実を窓際に向けて少しだけ持ち上げ、下腹部辺りの寝台の湿り気を手で確認すれば良かった。
雫が何をして居るか即座に認識した久瑠実は物凄い形相をして銀糸越しに叫び声を上げたが、終ぞその訴えが部屋の外の誰かに届く事は無かった。
きちんと手に残る湿り気を確認した。唯ここで終わってはならない。まだ言い逃れが出来るからだ。
『シュピンネ、例の映像を』
『ほい来た。ほっかほかのが出来上がってますぜ、姐御』
花見月への道すがら栄一郎が教えてくれた【情報神の巻物】を起動した。視界に映る半透明のパネルを裏返して久瑠実にも見える様にする。
雫は寝台で起きた一部始終の映像を本人に見せながら問い掛けた。
「久瑠実さん、どうして私を執拗に付け回すのですか? 理由を教えてくれませんか?」
それを見た久瑠実は青白い顔になり、声が出せないなりに必死に何度も首を縦に振った。
雫が頷くと銀糸の拘束は実に呆気無く解けて消え、久瑠実は解放された。
久瑠実の胴より下の衣服ごと水の玉で包む様にして洗浄し、続いて乾燥を想像した魔法を発動する。序でに、寝台も同様に丸洗いして置いた。
証拠そのものを消してしまったが、今回の事で懲りて話し合いに応じてくれると一先ず信じる事にした。
久瑠実を寝台の縁に座らせ、その隣に雫も腰掛ける。少しばかり大きな蜘蛛が天井から雫の頭上に降り立って来るも、気にせず話すように促した。
「あの……雫ちゃんは、このお屋敷から一度も外に出てませんよね?」
どう言う意味かは解らないが、言葉その儘の意味として捉えて正直に答える。
「うん。出てないよ」
久瑠実はそれを聞いて、口許を隠して何かを考え込んで居る様に見えた。
「聞き難いんだけど、雫ちゃんって栄一郎様以外に家族居る?」
「居る…………居たけど、生きて居るかどうかは解らない」
「じゃあ、お姉さんとか妹さんとかは居た?」
「姉が一人……この質問の意図は説明して貰えるのだよね?」
つい、雫が一睨みすると小さく悲鳴を上げ、少し距離を空けた久瑠実は委縮して居るのが見て取れた。
「はぁ、怯えるのは止めて下さい。さっきの事は誰にも言わないし、きちんと話してくれれば良いから、だからその、睨んで済みません」
雫は場都合が悪そうに頭を下げた。
「ぁ、わ、私の方こそご免なさい!」
常日頃、出来て居た大人然とした対応が儘ならず、恥じ入った久瑠実も慌てて頭を下げる。
「それでどう言う事?」
「率直に言うと、雫ちゃんのお姉ちゃんが見付かった……かも知れない」
「ええと?」
雫は腕を組んで首を傾げた。それが本当の事だとしたら、一番に栄一郎に報告するべきだ。当然その報告があれば、栄一郎が朝一だろうと飛んで伝えに来てくれる筈なのでは。と言う事は――
「栄一郎にはまだ伝えてない?」
「はい」
「理由は?」
「確度の低い情報なので」
どれだけ確実性が低かろうとその情報は言った方が良い。そもそも栄一郎が希求して止まない情報なら尚の事だ。
「……本音は?」
「う、嘘じゃないよ? 本当に不確かな感じ……だから」
じっと久瑠実を凝視する雫。
「うぅ……降参です。済みません」
数秒でその視線に耐え切れず、両の掌を見せる久瑠実に別の不審の念が芽生えた。
この調子だと嘘とか吐けないのでは無いだろうか。他の同業者組合との交渉事とか、これ迄どうして来たのか妙に気に掛かったが、今はそれ所では無いし、口出しするのも御門違いと言うものだ。
内心、口出しし掛けたが、雫は疑惑の眼差しを引っ込め、姉の手掛かりを追及する事にした。
「先ずは話して見て下さい。何時、何処で、何を知り、その結論に至ったのか。久瑠実さんが私に率先して話したのは、どう言う考えに基づくものなのか。その上で栄一郎に話すかは私が判断します。良いですね?」
久瑠実は神妙な面持ちで、一度だけ深く頷くと話し始めた。
初めに【情報神の巻物】は、神様が情報を提供してくれる体系で、昔から存在したものを現代人が使い易い様に誂えたものだそうだ。
昔から存在した具体例としては、神の言葉を聞き届ける神職の類いがそれに該当する。
神様と言うものは基本的に人の手助けをするものでは無いが、結ばれる契約次第で様々な恩恵を与えてくれるものでもある。
現状、神が手助けしてくれて居る様に見えるのは、大多数の人々が救いを願ったからでは無く、神と実際にやり取りをした何者かが人類に優位となる契約を取り付けたからだ、と推測されて居る。
そこで今回、踏まえるべき要点は、【情報神の巻物】と言うものが神の与える非常に精度の高い情報であると言う点だ。
最初は頭に響くだけの囁きであったそれを、視覚的に誰にでも解り易いものとしたのは魔法を探究する天才的な一人の賢者だったそうだ。されど、その高度過ぎる秘匿性魔法、故にその正体は未だに謎に包まれて居る。
兎も角にも、その正しい【情報神の巻物】で調べる事の出来た情報と久瑠実の魔法の合わせ技で、同業者組合の組合員に限ってとはなるが、個人の特定が出来る様になった。
それが丁度、雫たち地下闘技場の人たちを救助に向かった頃だった。
その特定には、魔法を観測する事が必要とされ、それはどれ程の小規模のものでも構わない。【情報神の巻物】を起動した者が視界に収めて居るだけで済む、と言う優れものだ。
お陰で魔法には、固有値と言う概念が生まれた。現在、確認されて居る強者の証の様な位置付けとされる虹彩の色の変化である【心象色】や相手の思考がある程度読み取れる【記憶の渠溝】なども、数値化する事が可能となる予定だ。
魔法の構成は、魔法使いの積み重ねた記憶と感性的想像力からなる。
魔法使いの記憶は、本人の培った記憶の中で思い出しやすいもの。自己肯定出来るもの。自己否定出来るもの。印象的なもの。忘れたくても忘れられないもの。他にも数え切れない種類がある。
感性的想像力は、本人の記憶を本とした感情を伴ったもので、新たな可能性の模索に繋がるもの。進化の子種と言える。
魔法とは、ある過去があり、それを次はどうしたいか、どうすればより良くなるか、それら願いを見えて触れられて実現させて行くもの。
それには清濁併せ持つ存在も当然にして居る。
また他人が全く同じ魔法を使うのは理論的に不可能とされる。同じ魔法を使えるのは、本人であり、他人では無い。
だが、それを使える場合、同一人物としての観点から見れば、不可能を可能と言い換える事が出来るかも知れない。
全く同じ視点、全く同じ行動、全く同じ経験、その上、全く同じ感情を持つとなれば、全く同じ数値の羅列を叩き出す魔法を使える可能性がある。
詰まり、ある一人の人間に極めてよく似た複数の人格があり、共生して居り調和が取れて居る場合だ。
かと言って完全に同一の魔法を、制限無く扱える等と言う上手い話がある訳では無い。
理想的なら、単純に魔法を使える回数が二倍かそれ以上になり、魔法の強度も速度も硬度も二倍近い力を秘める。
それが実現可能なら、非常に強い魔法使いを生み出せると言う事になる。
そして、この他人格を縦にして居る魔法使いを一人見付けた。
基本的に見かけ上、同じ魔法を使って居るが、時たま全く違う魔法になって居る。
その魔法固有値が、0.12587469。それから僅か数秒後に変化した固有値が、1.27684923となって居り、この二つの値を交互に繰り返して居る。
ここまで明らかな隔たりがあると、別人の生み出した羅列と言われても何ら不思議は無く、その可能性は大まかに三つへと分岐する。
雫の姉、日下部奈央が生み出したとされる第二の人格を制御出来て居り、魔法の実験を兼ねて試験して居た場合。これは最高に楽な模様。唯の再会ハッピーエンドで終幕出来る。
次に、奈央が生み出した人格が、当人の指示を遵守する事無く、好き放題に振る舞って居る――言わば身体の主導権を乗っ取られて居る模様だ。
そして、最後に極めて特殊な実体を持たない寄生型の魔物が身体に取り憑き、奈央の精神を完全な支配下に置き、自由に魔法を操って居る模様。これは最悪な事例だ。
人格を取り戻せるのか、或いは殺さなければならないのか、救い出せたとして人格はどの程度無事であるのか。限り無く黒に近いグレーエンドで閉幕を迎える。
これを話したのが例え久瑠実で無くとも、後者の方の可能性が濃厚と判断を下す事だろう。
花見月を介さず雫に直接、話した理由は解った。
予測される最悪の事例だと、敵の状態を読み取れる【記憶の渠溝】を習得して居ないと判断出来ない。更に奈央を取り戻せないとしたら、その場で躊躇わず殺せるだけの力が必要となる。
雫は真正面から奈央に勝てる見込みがある上、勝負を捨てれば一方的に始末する力も備えて居る。少なくとも久瑠実は、あの莫迦げたステータスからそう予想して居る。
この内どの事例であっても、これ以上無いと言えるくらい適任の人材と言えた。
同時に無茶苦茶な久瑠実の行動の数々に合点が行った。
栄一郎は優秀だが、躊躇わず人を殺せる人物では無い。
雫を救出した時の作戦と呼ぶのも烏滸がましい捨て身の賭けは、小を切り捨てる選択を良しとしない理想論が見え透いて居り、組織を束ねる当主と言う立場上、余りに粗末なやり方だった。
人としては正しいかも知れないが、主君としての資質は不適格と言わざるを得ない。
その一点に於いては、栄一郎と久瑠実は比べ物にならない。
久瑠実は終ぞ口には出さなかったが、暗にこう言って居るのだ。
『貴女の姉は十中八九乗っ取られて居るから、自ら出向いてその手で殺して来い』と。
危険度を迷わず潰せる冷酷さ、それを兼ね備えた久瑠実の言動に、雫は大いに評価を改めさせられた。
敵は育つ前に、早々に排除すべきだと理解しての軽くない言葉。殺せる時に、殺して置く。
でなければ、何れ遠くない未来、大切な人たちに甚大な被害を齎す事を知って居る。
栄一郎は、それでも最善を尽くしたい人なのだろう。
しかし、否定的な性質ゆえに生き残って来れた雫には、久瑠実の後ろ暗い殺伐とした心情の方が理解出来るものに映った。
恐らく、これは正しく無いやり方だ。
然るに、間違って居ると宣うには、手も足も身体中の何処に肌色を探しても見付けられないと幻視してしまう程に、赤黒い他者の血に塗れ過ぎた鉄臭い肢体が、雫の歩んで来た残酷さを忘れさせまいと脳裏に膠着いて離れず明瞭に映し出すのだ。
花見月は、とても長閑で温かく感じられる夢心地な楽園だ。
他人を殺さなくて良いし、血腥さも忘れてしまいそうになる。
訓練に明け暮れる皆は、感情が豊かで遠眼に見て居るだけなのに、何処か飽きが来ない。何気無いやり取りが楽しいのだろうと思う。
あの輪が、もしも私と奈央と栄一郎だったなら、とありもしない過去や未来に思いを馳せ、それこそが切なる望みだったのだと知った。
そして、渇望して居るからこそ、雫は絶対に手に入らない事実を肯定してしまって居る。
諦めた理想は、美しく眩くその輝きを無尽蔵に増して、月の光を吸い込むが如く、固く閉ざされた両の瞼の奥へと鮮明に刻み込まれた。
苛酷な提案を突き付けられて居る真っ唯中で、浮き彫りになった実に自分らしい解答は他人からすれば心底、莫迦莫迦しいものに違いなかった。
けれど、雫自身はそれが然も正しい事の様に腑に落ち、長らく揺り動く事の無かった冷え固まった心から溶け出す様に溢れた、曾て自分で受け止め切れなかった「ありがとう」をその儘、久瑠実への謝意として囁き、独り満足げに口を引き締めると寝台から立ち上がった。
背後に久瑠実の物悲し気な視線を感じながら、それを最後に雫は屋敷から姿を消し、行方を晦ませるのだった。




