Memo.006 花見月へと至る道 その11
何食わぬ顔で円台に乗った張りぼての様な入り口からひょいと帰還して来た栄一郎の後ろに、未だ年端の行かない小さな女の子が一人続いた。それを見て先刻の推測は、およそ正鵠を射て居たと言えた。
瞳に映ったその刹那、久瑠実は周囲の物音が一切聞こえなくなると言う感覚を生れて初めて体験した。
三十秒ほど呼吸をし忘れて居たのか、思い出した様に大きく息を吸い込み、胸に手を遣って落ち着けると、そこで漸く思考する事が出来る様になった。
あの子は強い。間違いなく強い存在だ。確信に似た何かを感じる。否、確信と言ってしまっても差し支えないのかも知れない。
久瑠実はその子の周囲に纏わり付く夥しい黒い奔流を、垣間見た気がして眼を手の甲で擦った。
改めて確認すると、蜃気楼でも見たのかと不思議に思うほど何も見えず、単なる見間違えだろうと指して気に留めなかった。
少女の名前は、日下部雫――依頼の最中で混乱を避ける為か栄一郎の妹と言う発表こそ無かったが、洗馬の話から略確実にそうなのだろうと一同に更なる緊張が走った。
救出された人たちの中に守られるほど軟そうな人は一人も居らず、一見死に掛けな老爺でさえも通勤するサラリーマンより歩くのが早く感じる。その手に持って居る杖使わないのか。もしかしたら魔法の杖なのかも知れない。外見だけだと雫が一番弱そうで、どう言う訳か、不勉強の久瑠実の頭から美人薄命と言う言葉がすんなり出て来た。
静寂に包まれた夕餉、そこに空気を全く読まない者が一人居た。久瑠実である。
「それで雫ちゃんは、栄一郎様とはどう言うご関係ですか?」
先ずは挨拶するべきだったかも知れない。いきなり質問から入ってしまった自分を呵責した。
「私の名前は橘久瑠実、宜しくね。一応分隊長を任されて居るんだけど、そんな事はどうでもいいよね」
周囲で怨念やガン付けてる人とか居るし、今にも摑み掛らん勢いだが、雫は久々の地上での食事を堪能していた。
戸丸があの三人に天幕の外に連れて行かれてからと言うもの極端に静かだ。
食事時が五月蠅いと言うも落ち着かないが、賑やか位が丁度良いと久瑠実は思って居り、話を聞き出すには今が最高の機会と言えた。
「それで雫ちゃんは、栄一郎様とはどう言うご関係ですか?」
「あとで解る事だ。気にするな」
「その喋り方変わってますよね?」
「人間生きていれば変わる、良い方にも、悪い方にも。そう言う事だ」
「地下では何して過ごしてましたか?」
「トレーニングと勉強だな。食事は当番制にした」
「トレーニングは解りますけど、勉強は要らないのではないですか?」
「この世界の有り様は、もうこれまでと一切違う。私たち全ての人民が、学問を残して行く側となったのだ。もう生徒で居られる時間は本当にその時間だけ、卒業したら先駆者として、広めて行かなければ無くなってしまうんだ学問たるその叡知がな」
「勉強熱心だから雫ちゃんは強いのかな?」
「根拠の乏しい推論は邪推でしかない」
言質を取ろうとして居るのが雫には解った。
「それにしてもよく食べるね雫ちゃん、地下は飯マズだったの?」
「いや、パンが無かったんだ。米を食べられるから上等だった。それでも久々のトーストにバターを塗ったら美味しくてな。ジャムも良い。蜂蜜は至高だ。蜂の幼虫は何故か無かったが、概ね満足できる夕食だった」
「よし、雫ちゃん。勝負しよう」
「……疲れているのか? いきなり、別の話題になったな? 衛生兵……は貴女だったな。もう一回、頭を治した方が良い」
「食事は終わったんでしょ? なら、腹ごなしに運動しないとでしょ。ほら、決闘だね!」
然り気無く、勝負から決闘に敷居を上げて来た。腹ごなしでやるものが決闘とか、生まれは戦闘民族か。日本人に戻れ、と雫は念じる。
久瑠実に手首を摑まれる寸前、雫は避けるか迷ったが、捕まって置く事にした。
天幕外には栄一郎が居る筈だ。久瑠実に莫迦な事は止めろと取り成してくれるだろう。
何故なら雫は護衛対象だからだ。常識的に考えて守るべき相手が怪我を負う可能性を許容するとは思えない。
「うむ、駄目だな」栄一郎は即答した。
「どうしてですか?」と久瑠実は困った顔で尋ねる。
「久瑠実分隊長。この度は護衛依頼と承知して居る筈だ。彼女はその護衛対象者であり、その対象者の中でも最年少だ。守るのが依頼なのに傷付けようとしてどうする? 本末転倒だ。よって決闘は認められない」
「ぐぬぬ、ぐぬぬぅ!」
「ぐぬぬ唸りしても駄目だ」
「ぎゃふん、ぎゃふん!!」
「自分からぎゃふんと言っても駄目だ。大体、意味が解らない」
「栄一郎様の頑固者ぉおおおおおおおおおおおお!!! 覚えてろおおおおおおおおおおおお!!!」
頬を食事中の栗鼠の様に膨らませた久瑠実は、大股でがしがしと足音を立てながら天幕へと戻って行く。
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