純童
ゴールデンウィークが終わって四日も経った日の、汗ばむほどの午後のことである。つい三日前まではUターン客でごった返していただろうローカル線の、たった一両ばかりのワンマン車両は、深緑の山間を縫い、田植えの終わったばかりの田んぼの中を優雅に線路を鳴らしながら走っていた。
黒い旅行鞄ひとつを脇に置いて座る幸夫は、腰を浮かせて車両の中を見渡した。向かい合わせの席のどの背もたれからも、まったく黒い頭は出ていなかった。幸夫はまさか乗客は自分だけではないかと少し淋しさを感じたが、確かに先ほどから小さな女の子の張り切った笑い声が、軋む線路の音の隙間に聞こえていたのである。鞄を向かいの席に置いて通路側に座り直した幸夫が横から首を出すと、ちょうど斜め前の席に、おさげを二つ作った、ゆるりと下がった目尻の可愛らしい小さな女の子が、やはりなにやら楽しそうに笑い、床から浮いた両足をバタバタ揺らしていた。女の子の正面には母親がいるらしく、赤い折り紙で折った鶴の羽の両端を持ち、飛ぶ真似をしている両手が見えた。
幸夫は、兄・久史の家を訪ねた帰りであった。
兄は農家の一人娘と結婚し、今では珍しく婿養子に入り、役所勤めの傍ら畑を持っているのであるが、幸夫が兄とつい疎遠になってしまったのは、兄が嫁の実家に暮らしているからということだけではない。事実、兄嫁の家からも遊びに来るようにとよく言われていたし、幸夫の実家と兄嫁の実家とは遠縁にあたることからも、気まずい遠慮をするような間柄ではなかった。ただ、青年は東京で大学生活に忙しくしているので、郷里に帰ること自体が稀だったのである。
兄には一人、子供があった。幸夫にとっては唯一の姪にあたる女の子である。姪・琴美とはもう四年ほど会っていなかったので、その成長ぶりにずいぶん驚いた。もう六歳になろうかという琴美は、久しぶりに会った、というよりも、彼女にとっては初めて会うに等しい叔父によくなついてくれたので、幸夫は安心をして彼女が寝付くまで遊んでやった。その仲の良さは兄夫婦も驚くほどで、兄嫁の陽子はよく「この子は本当に人見知りなのに」と感嘆した。
朝、ふすまを小さく開けてこちらを覗く琴美を見つけると、幸夫はすぐさま布団から起きあがり、歯磨きも後回しにして小さな手をとって近くの牛舎まで散歩に出かけた。だっこをして牛に近づくと、琴美は牛の垂らすよだれに笑った。幸夫は琴美のその無邪気さに愛らしさを憶え、よく笑った。
当初、ゴールデンウィークが終わる日に実家に戻るつもりであったが、兄夫婦と、兄嫁の親からも「どうせ時間があるんだったら、田植えを手伝っていってくれないか」と頼まれて、予定を数日延ばすことにした。擬似ではあるものの、初めて親らしい気持ちを味わっていた幸夫は、田植えどうこうというよりも、琴美と遊んでやれることに予定を延ばす利点を感じた。琴美が幼稚園に行っている間に田植えを手伝い、蒔き割りをし、琴美が帰る時間になると陽子と一緒にバスを迎えに行った。こんなにも子供が愛おしく感じられるのだから、親になることはよっぽど幸せに違いないなどと思いながら、黄色に塗られたバスを丘の向こうに探した。
しかし、三日目のことである。そうしてバスを待っている時、幸夫はぶらりと投げ出していた左手に女の冷たい手の感触を感じた。
「久史さんは忙しくて、夜もすぐに寝てしまうわ。ましてや、琴美もいるんだもの……」
陽子の言葉は、幸夫にとってまるで悪夢そのものだった。幸夫は手を振りほどくこともできぬまま、陽子の、これまでに一度も見たことのない哀願するような目を凝視したまま、動けなくなってしまった。声にならないような声だけが、わずかに幸夫の口から出た。
「なんで」
「だから……」と言いかけた陽子の手がわずかに震え、それが幸夫に悲しみを呼んだ。この女は母親としての幸せを知ってしまった代わりに、女としては空虚になってしまったのではないか。とすれば、彼女をこのような曖昧な存在に変えてしまった罪は誰にあるのか。幸夫がひどく落胆したのは、彼女が兄と子供にその罪を見出していることだった。いや、兄だけならまだしも、子供が女を不幸にする一因であるような、その言い方に怒りすら感じる。そして今自分も、まるでその罪に荷担してしまったかのような錯覚が、次第に幸夫を支配し始めた。
陽子が幸夫から目を離したのとちょうど同じくして、ゆるやかな丘の向こうから幼稚園のバスがやって来た。琴美はバスから降りるや、いつもの喜びに溢れる顔で幸夫の胸に飛びついた。幸夫は、この密着でこの子がなにか感じやしないかと危惧して、はしゃぐ琴美をすぐに地面に降ろした。しかし琴美は駄々をこねてまた幸夫の胸に飛びつこうとする。しょうがなくもう一度抱いてやると、幸夫はたまらず「よおし、走るぞ」と言って陽子を残し、胸に姪を抱いたまま遠くに見える母屋に向かって走り始めた。そうしないとやりきれなかったのだ。琴美は幸夫の首に両手を回ししがみついたまま、後ろに見える陽子を「おかあさぁん」と呼びながら激しく笑っていた。この子を取り囲むすべて罪悪から、とにかく遠ざかりたい。幸夫は一瞬、しかし強烈に、この子を連れてどこか遠い場所へ逃げてやろうかと思念した。けれども自分の存在すら罪悪に違いないと気づくと、突然、走っていることすら痛々しく感じられた。
「ねえもっとはしってぇ」
「お兄ちゃんはもう疲れちゃったよ」
「つかれちゃったのぉ?」
「そう、疲れちゃった。もう走れないよ」
夕食の席で、翌朝帰ることにしたと言うと、みんなそれぞれに驚いた様子だったが、元々の予定を延ばしているだけに、無理に引き留めようとする者はいなかった。ただ、陽子はなにかしら責任のようなものを感じているのか、一言二言、残念ね、とよそ行きに言うと、あとはずっと下を向いていた。その横で琴美は、存外明るく「じゃあ日曜日にまた遊びに来てね」と言ったが、それだけが唯一、幸夫にほっとするような安心を与えた。
通路よりの席に座ってぼんやりと女の子を眺めていると、小さく飛ぶように女の子が席から下りて、他に誰もいない車両の中を走り幸夫の前にやってきた。
「一緒に座る?」
と思わず声をかけた幸夫に、振り返って様子を見ていた女の子の母親が軽く会釈した。幸夫は満面の笑みで女の子に笑いかけながら、母親の方に目を向けて会釈した。母親だと思っていた女性は意外に年寄りだったので、もしかすると女の子の祖母かもしれなかった。
幸夫が女の子を持ち上げ椅子に座らせてやると、女の子ははにかんで「ありがと」と言った。血が繋がっているだけに姪の方が幾分も愛らしいはずであるが、やはり同じくらいの女の子の持つ純粋な愛らしさは、有無を言わさず心を柔和にさせる。
「どこに行くの?」
女の子は少し恥ずかしそうに答えた。
「おかあさんとおうちにかえるの」
あの女性はやはり母親だったのか。幸夫は当たり前のように陽子を思い出した。
すると、突然女の子が幸夫の脇腹をくすぐり始めたので、幸夫は身をよじらせて抵抗し、女の子に反撃に出た。女の子は快活に笑いながら幸夫と同じく身をよじらせ、しまいに幸夫の膝に乗って、両手で抱きついた。幸夫はわけもわからず、強い力で女の子を抱きしめた。これが琴美であれば、と心の底から思った。今朝夜が明ける前にこっそりと連れ出していれば……。女の子が笑いやんだのは、強い力で抱きしめられているからという他に、幸夫のやるせなさが伝わったからなのかも知れなかった。
電車が速度を緩め、淋しい駅舎に停まると、母親が立ち上がって幸夫の膝に抱かれている娘を促した。幸夫はすっと力を抜いて女の子を下ろすと、女の子はまるで出口に吸い込まれるように、幸夫を振り返ることもせず母親と電車を降りた。母親はどこか迷惑そうな顔であった。
扉が閉まり、たった一人きりになってしまった幸夫が窓の外を眺めていると、老いた母親に手を引かれたさきほどの女の子が、駅舎の前でにこやかに幸夫に手を振った。幸夫も魂を取り戻したように大仰に手を振り返した。しかし動き出した車窓から二人が見えなくなった時、幸夫は初めて現実に戻ったような気になり、急にそわそわ落ち着かなくなった。心を盗まれたような、そんな一人きりの居心地の悪さといったらないのである。
次の駅で、太った駅員が慌てたような顔をして車両に乗り込んで来た。その駅員は乗務員を連れ立って幸夫の前に来ると、急にこんなことを言う。
「お兄さん、財布ある?」
「え?」と訝る幸夫に駅員が確認を促す。幸夫は背筋がひやっとした。確かにジーンズの後ろポケットに入れておいたはずの財布が、なくなっているのである。
「切符は?」
「切符も財布の中です」
駅員が深い溜め息をつく。隣では乗務員が目を丸くして立ちつくしている。
「親子がいただろ。あれはスリの常習なんだよ。しかもあんな小さな娘にすらせるんだから世も末だ。あんたなにも気づかなかったのか?」
「…………」
「はぁ、しょうがないなぁ……」
駅員は何度も溜め息をつきながら、事態を防げなかった乗務員の不注意をなじった。
車窓に広がる嘘のように真っ赤な夕焼けを見つめたまま、幸夫はそれでも「あの子に罪はないんだ」と繰り返していた。
〈了〉