最終章 大嘘見聞録は永遠に?
最終章 大嘘見聞録は永遠に?
1
三週間後ついに三作目の見聞録が完成した。見聞録の完成後は待機となった。
待機なので、裏の池で釣りをしていると、鯰を釣り上げることに成功した。柊が鯰を料理できたので、さっそく、柊に鯰を料理してもらった。
鯰を切り身にしてから揚げにし、中華風の餡を掛けた鯰料理を出されたが、まあまあ、いけた。
さらに二週間後、ちょうど山荘にあった食料のストックも底を突く頃、山荘に初めて人が尋ねてきた。
風祭は人の気配がしたので、二階で隠れていると、柊から下に呼ばれた。
人には会っていけない風祭が会える人物は、限られている。
所長は来ないだろうから、四谷さんだろうか。
ちょっと、期待して降りていくと、下のリビングには叔父がいた。叔父は忙しいのか、痩せた感じがして、髭の手入れも少し乱れていた。
叔父は風祭の無事を笑顔で喜ぶと、風祭の母親や、身近な人の世間話をした。だが、どうも態度がおかしい。
風祭のほうから世間話を切り上げ、率直に意見を聞いてみた。
「叔父さん。俺、隠れていなきゃならないのは、知っているよね。それでも会いに来たってことは、何かあったの」
叔父は非常に言いにくそうに切り出した。
「実は、富雄くん。お金を貸して欲しいんだ」
風祭は冷静を装いつつ心の中で叫んだ。
「身内からの借金が来たー」
風祭は隠れて生活しているので、研究所から出ている給与には一切、手を付けていない。給与も八ヶ月分とボーナス(出ていれば)があれば、纏まった金額になっている。
でも、叔父は国会議員で、ある程度の資産も持っているはずだ。それが、金を貸してくれと頼み来るのだから、並大抵の額ではないはず。
「あの、叔父さん、お金を貸してあげたいの、やまやまだけど、俺、研究所に入るまで貯金とか全然していないし、そんなにお金ないよ」
叔父さんは、ソファーから立ち上がると、土下座して頼んだ。
「すまない。富雄くん。私が貸して欲しいのは、君が所長から貰う約束になっているお金なんだ。君さえ了解してくれれば、葛葉所長が渡してくれるんだ」
確かに、大卒公務員初任給の給与二百年分の金額だから、ざっと計算して四億円以上にはなるはず。四億円を無担保で貸してくれというのなら、土下座もあるかもしれない。しかし、危険な話だ。
一見すると借金のようだが、よく考えれば、保証人になるに等しい話だ。事実上の前借だし。ここでOKを出せば、所長に対して余計に立場が弱くなる。
「あの。叔父さん、落ち着いて、お金、何に使うの」
叔父は土下座したまま、声を絞り出し、懇願した。
「詳しい事情はいえないが、でも、ここでお金があれば。大臣の椅子が手に入るんだ。瞬間移動が実用化する前に大臣になっておけば、葛葉所長のコネと経済界からの支援を受けて、総理への道が開けそうなんだ。この借りは、利子を付けて必ず帰すから。頼む、私を未来の総理にしてくれ」
普通なら荒唐無稽な話なのだが、叔父は国会議員であり、衆議員を五期務めている。大臣就任の話があっても、おかしくはない。
これが見聞録の風祭なら「顔を上げてください、叔父さん。叔父さんのおかげで、瞬間移動に参加できたんです。今度は僕が恩返しする番です。ぜひ国の未来のため総理になってください」とポンと気前良く、話を受けるだろう。
とはいえ、実情の俺は凡人だ。そもそも詳しい事情が言えないお金を貸す行為自体が、あとで犯罪に関与したとされる可能性がある。事情が事情なだけに、借用書も取れない。
身内で金銭トラブルになりやすいケースの最有力候補の一つではないだろうか。それに大臣はすぐの話でも、総理はだいぶ時間が経ってからの希望的な予測だ。
叔父が総理までの道筋のどこかで躓けば、全てが水の泡。
それどころか、最悪の展開もある。叔父が汚職で辞職。俺は政治資金の出所の関係で検察に呼び出された目を付けられる。
見聞録は嘘が露見して世間を歩けなくなった上に、多額の借金を抱える事態になりかねない。
迷うと心の悪魔が囁いた。
「Hey,You。逆もあるぜ。総理の甥となれば、権力が付いてくる。金も利子をつけて倍返しさせれば、濡れ手に粟。おまけに、世界初の瞬間移動者としての名声もある。権力、金、名声が手に入る。どうせ、一年も掛らず、手にした金だ。ここで大きく投資しちゃいないよ」
風祭は悪魔の考えにストップを懸けた。
待て、待て、待て、今まで欲に眼がくらんで行動して、どうなった。全て、裏目に出ている、ここは断るべきだ。
風祭が断ろうとした、まさに絶妙のタイミングで叔父は一段と深く頭をこすりつけ、小さくなって頼んできた。
すると、どうだろう、父親を小さい時に亡くしてから遊んでもらった記憶。
高校、大学と保証人になってもらった過去。就職活動で四十連敗したところを、職を世話してもらった思い出が浮かんできた。
結局、風祭は情に流されて、思っていたのとは逆の言葉は吐いた。
「頭を上げてください。叔父さん。散々お世話になったんです。お貸ししましょう」
叔父は頭を上げると。顔をくしゃくしゃにして、ありがとう、ありがとう、と何度も繰り返した。
何度も礼をいう横で、柊がスマートフォンを操作した。
柊が指先で風祭の肩を叩いて、スマートフォンの画面を突きつけた。
スマートフォンの画面を見ると、英語と数字が並んでいた。理解するのに数秒かかった。
柊が提示しているのは、いつの間にか作られた、海外ネットバンクの風祭の口座画面だった。口座の残高に物凄い金額が並んでいた。
風祭が、画面の金額を見て驚いていると、柊が「じゃあ、送金するわね」と発言した。
風祭が何か言葉を発する前に、柊が画面の下に出ている「OK」ボタンをタッチした。
次の画面では金額は一瞬でゼロになっていた。知らない間に口座を作られ、「貸しましょう」の一言で、億単位のお金が風祭が目にすることもなく、所長から叔父に渡った。
2
叔父が帰って、呆然としていると、ビニールシートを敷いた椅子に座らされ、柊に頭をカットされた。
カットが終るとすぐに、ラフなスタイルで旅行に出掛ける格好をさせられた。
着替え終わると、旅行鞄、カードのみが入った財布、パスポートを渡された。パスポートは、就職前に旅行に行くこともあるかもと作っておいた、本物のパスポートだった。
柊から唐突に厳重に注意された。
「これから移動するけど。あんたがクルーザーに乗った日から、今日まで何をしていたか絶対に、人に話したらダメだからね。もし、話したら、どうなっても知らないわよ」
柊も同じようなラフ格好で荷物を持ち、宣告した。
「じゃあ、これから、リオに向かうわよ」
「え、リオってリオ・デ・ジャネイロ? 次の隠家は、ブラジルなの」
柊は気軽に答えた。
「そうよ、ブラジルよ。リオは良い所よ。見聞録を書かなきゃいけなから、色々見せられないのが残念だけど。ブラジルはミネラルウォーター一本からでもカードが使えるから、買い物は全部カードで済ませて。紙幣で買い物すると、スリに狙われて危ないから」
風祭は柊に連れられ、空路でリオ・デ・ジャネイロに向かう事態になった。
リオに向かう前に、柊にもう一つ注意された。
「ブラジルだからといって油断してはダメ。警官や入国管理官に以外に、名前を教えたらダメよ」
空港で久々に日本の週刊誌を適当に一冊買おうとすると、週刊誌を取り上げられ、柊に理不尽に買うのを止められた。
ただ、表紙には「瞬間移動完成間近か?」「石原政権内閣改造の大予測」という見出しが見えた。
飛行機に長時間乗っていなければならないためか、シートはビジネス・クラスを利用させてもらえた。
ブラジルへはサンパウロ行きの直行便が出ており、そこからリオへの乗り換えとなる。
サンパウロへ向う飛行機は満席に近かった。ブラジルへ向う飛行機が混雑しているのは少々驚きだった。世間から隔離されていたのでわからないが、ブラジル旅行が今のブームなのだろうか。
座席は思ったより間隔が広く、窮屈ではなかった。飛行機に乗ると、柊からヘッドホン付きの小さな音楽プレーヤーを渡された。
「瞬間移動に関する理論講座が録音されているから、飛行機に乗っている間に聞いておいてよね。講義は二十四時間くらいあるから、退屈しないわよ」
講義はわかり易くもなければ、わかり難くもないが、ただ、退屈なのは確かだった。義務と割り切って聞いていたが、途中から聞き流しになった。
しばらくして、飛行機の窓から外を見ると、青い海が見えた。以前は憎く見えた海の青色も空から眺めるぶんには綺麗だった。もっとも、飛行機は太平洋をずっと飛ぶので、すぐに見飽きた。
講義を聴いていて、途中で眠たくなったので、寝てしまった。
起きると、何本もの光の道が走る、明るい夜景が広がっていた。サンパウロに着くには、まだ早かった。給油のためによった、ロスでの夜景だ。
ロスで二割ほどの乗客が降りたが、乗ってくる人も同じくらいおり、混雑具合は変わらなかった。ロスで給油して飛び立つと、雲の上に飛行機が出た。
星がとても綺麗に見えたが、消灯になったので、窓のカーテンを下ろした。風祭はいつまで続くのかわらない講義を、うとうとしながら聞いた。
寒さ感じて起きた。カーテンを開けると、夜が明け、飛行機が空港に止まっていた。
サンパウロに到着したのかと思い、ヘッドホンを外した。
風祭の横で、ちゃっかり毛布に包まって横になっている柊から、すかさず注意が飛んだ。
「まだ、ペルーのリマだよ、講義の終わりまで、ちゃんと、聞いていなさいよ」
風祭がヘッドホンを掛け直すと、リマでも下りる人が少しいたが、新たに乗ってくる人もまたおり、混み具合は全く減らなかった。
見ていて感じたが、風祭同様に日本から乗ってきて、サンパウロまで下りない人が結構な人数いた。
サンパウロで乗り換えとなるが、サンパウロの空港には日本人以外にも多くの人がいた。ブラジル旅行がブームというより、何かイベントがあるのだろうか。
3
辺りをキョロキョロしていると、柊に急かされるようにリオ行きの便に乗り換えさせられた。
しばらく飛ぶと、飛行機の窓から山と海に囲まれたリオの街が見えた。
入国審査では少し戸惑った。入国管理官から「お前の名前は本当に風祭なのか?」「入国も目的はなんなのか」「職業は何をしているのか?」「どこに宿泊するのか?」等等と詳しく聞かれ、困った。
前の日本人がすんなり、二言三言ほど会話しただけで、通ったのに、なぜか風祭は色々聞かれた。
まずいな、なんか犯罪者と勘違いされているのかと思うと、後ろに並んでいた柊がポルトガル語でフォローしてくれた。
何を言ったかわからないが、別室に連れていかれるのは阻止され、ホッとしていると、柊が入国管理官とポルトガル語で少し話しこんで、ごく自然な手つきで何かを入国管理官に手渡して、入国審査を通った。
風祭は余計な物を見た気がしたので、あえて、柊が、何を話し、何を渡したのかは聞かなかった。
リオの空港を出ると、柊はタクシーに素早く乗って、ポルトガル語で行き先を指示した。
柊にとってブラジル故郷のためか、どこか楽しげで、タクシーの運転手ともポルトガル語で談笑していた。
風祭は早口で話し合う二人の会話にはついていけないので、タクシーの窓から外を見ていた。
リオの街は大きく発展しており、あちらこちらに高層建築が並んでいる。街には幅の広い道路が何本もあり、都会だった。
高層建築が止むとビルの間から時折ちらっと大きな、山が見えた。リオは港町なので、綺麗な海もあるのだろうが、進行方向の関係から海が見えないのが残念だ。
タクシーは街がから少し外れたところにある、城壁のような大きく高い壁に囲われた、マンションの前で停まった。いわゆる、安全重視のゲーテッド・マンションというやつだ。
マンションの中にはいるのに、パスポート提示を求められた。
銃を持った数人のガードマンに扉を開けてもらった。扉の先には短い通路があり、通路の先にも扉があった。
二枚目の扉を通してもらうと、やっとマンションの敷地内に入れた。敷地内には大きなショッピング・モールや映画館があったので、ビックリした。
柊から説明があった。
「ここは二〇一六年のオリンピックの時に建ったマンションなのよ。ショッピング・モールの他にもジム、小さな病院もあるから、街に出なくても、全てがこのマンション内の敷地で用事が済むわよ。落ち着いたら案内するわ」
リオでは去年オリンピックがあったので、マンションは新築だろう。賃貸でも結構な値段がするのではないだろうか。
マンションの部屋は5LDKで、ファミリー用だった。ただ、マンションには、もうすでに誰かが住んでいるのか、人の住んでいる気配があった。
先に、セシリアが到着して住めるようにしてくれていたのだろうか?
柊に「ここが風祭の部屋よ」と通された部屋にはパソコンがあったが、ダンボールの箱がなかった。
「あれ、見聞録のネタにする一次落ち作品は」
「見聞録は三作目を出したら、少し様子を見たいから、待つようにと指示が来ているわ。もう少し待ったらダンボールが届くわよ」
おかしい。待つだけなら、日本の山荘やクルーザーの中でもよかったはず。なぜ、外国に出国した証拠が残るブラジルで待機なのだ。
風祭は探りを入れてみた。
「なら、海外じゃなくても、日本で待機していても、よかっただろう」
柊は筋の通った理由を述べた。
「日本は潮時だったみたいよ。マスコミも見聞録の著者について、必死で追い出したみたいだから、国内にいたら危ないって判断したみたいよ」
本当にそれだけか? 叔父の借金の申し込みに来てから、すぐにブラジルに移動させるって、尋常な動きではないぞ。
風祭が疑っていると、柊が笑って、とんちんかんなセリフを述べた。
「なに心配しているのよ。リオなら船と違って、揺れない。ハリケーンが来ても飛ばされない。マンションの中だから、遭難もしない。問題ないでしょ」
来た、三回目の「問題ない」発言が。
今まで二回、問題ないと言われて、すべてろくな目に遭っていない。おそらく、この安全で銃を持ったガードマンに囲まれたゲーテッド・マンションでも何かが起きるのではないだろうか。
こうなると、外から隔離されたゲーテッド・マンションがテロリストに占拠されて、警察が中々入れないという、ダイ・ハード的な事態とか起きて、建物が炎上するのかと疑いたくなる。
4
荷物を解き終わり、落ち着くと、柊が風祭の部屋に顔を出した。
「これ、今日の夜までに読んで、できるだけ暗記しておいてね」
渡された本は三冊。三冊とも風祭が書いた大嘘の見聞録だった。おそらく、世に出回っている物と同じ物だろう。
柊が軽く注意して部屋から出て行った。
「ちょっと、出掛けてくるから、おとなしくしていてよね。くれぐれも外に出ないようにね」
風祭は最初は真剣に世に出回って入る事態になっている見聞録を読んでいたが、途中で嫌になった。
速読のような飛ばし読みをしても、自分が書いたものとさほど変わらない。それに、第一、嘘だとわかっているので、つまらなかった。
インタビューで話と本の細部と内容が違うといわれれば、本のほうに誤りがあると言い張ればいい。
あとがきや裏表紙を見ても、研究所が関与している記述がないので、細かい箇所が間違っていると指摘しても、問題ないだろう。
どうせ、書いてある内容には真実なぞ、どこにもないのだ。
大嘘見聞録を読まないとなると、何もすることがなくなった。
テレビを見ようとしても、テレビは点かなかった。電源プラグは入っているが、点かない。
故障かもしれない。高級マンションに備え付けられている、テレビにしては故障は不思議だった。
まあ、ポルトガル語がわからないのでテレビを見ても、面白くないだろうと勝手に納得した。
風祭は、柊やセシリアが使っていない部屋を見たり、リビングの色々な場所を開けて、設備を確認するしかなった。
窓の外には遠くに綺麗な海が見えた。釣りがしたいが、さすがにブラジルに入国するのに釣助を持って入国するわけにもいかなかったので、道具がなかった。
リビングの机を開けていると、鍵を一本、見つけた。
ひょっとしてと思い、扉の外に出て、鍵穴に差し込むと、鍵が掛った。
家の鍵を見つけた。家の鍵があれば、外に出られる。
風祭は柊の言った「外に出るな」の言葉を、マンションの外と自己解釈したので、ゲーテッド・マンション内の施設をブラブラ見て歩こうと思った。
夕食にはまだ少し早かったが、機内食だけでは、お腹が空いていた。
せっかくブラジルまで来たのに、冷蔵庫のレトルトで我慢する必要もないだろう。
ブラジルのゲーテッド・マンション内なら、マスコミもいないはずだ。
風祭はカード財布の入ったと、パスポートを持って、マンション内のショッピング・モールを見に行った。
ショッピング・モール内にはレストランがあったので入ってみた。レストランは入ると、入口に空の皿が置いてあり、色々な料理が並んであった。
バイキング形式なのかと思ったが、人の流れを見ていて、少し違う状況に気が付いた。
どうやら、空の皿に好きなだけ料理を盛って、それからお金を払うらしい。
風祭も他の人も見習い食べたい料理を皿に盛った。
会計システムが、いまいち謎だった。
日本の定食屋のように、一品ずつ皿に盛られた料理なら、どれを幾つ選択したかで、料金を計算できる。けれども、大きな皿に何種類も量が違う料理を載せてしまえば、どうやって料金を計算するのだろう。
会計のレジに並んでいてわかったが、皿の重量を量って料金を出していた。
肉、魚、野菜関係なしに、合計重量で料金を払うシステムだったので、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。
カードで会計を済ませて、ショッピング・モール内をブラブラしていると、なんとモール内に釣道具屋があった。
釣道具屋は人があまりいなかったが、室内釣堀があった。風祭はゲーム感覚で遊んでみたくなり、釣道具をレンタルして練りえさエサを買い、チャレンジしてみた。
釣糸を垂れていると、日本語で「日本人かい?」と話し掛けられた。
振り向くと、お腹が少し出た、白髪交じりの、人の良さそうな日系人男性が隣に来ていた。
風祭は無視するのも失礼だし、ブラジルで風祭を知る人間なんていないだろうと思い、気軽に答えた。
「そうですよ。日本から来ました。このマンションにいる友達のところに遊びに来たんですが、友達は今日は仕事があるそうなので、マンション内の施設で時間を潰しているんです」
年配の男は気さくに聞いてきた。
「そうか、日本から来ているのか、だったら、風祭を知っているかい?」
驚きで釣竿の先が震えた「思わず、なんで風祭を知っているのか」と聞きそうになったが、あえて知らないふりを決め込んだ。
もしかしたら、風祭が人との接触を断っている間に、ブラジルにやってきて有名になった同姓の風祭さんかもしれない。
「風祭ですか。うーん、知りませんね。サッカー選手ですか?」
年配の男は驚いたように教えてくれた。
「違うよ、風祭喜一ではないよ。今、日本人で風祭と言ったら、テレポーターとして有名になった風祭だよ。明日、その風祭が、マラカナン・スタジアムから、日本に瞬間移動を見せてくれるんだよ」
瞬間移動実験を次は猿でやると思っていたが、違った。猿の順番を飛ばして、俺で実験をやる予定になっているのだ。
嵌められたと知った。ブラジルは隠れ家ではない。地球の反対側まで瞬時に移動できる事実を世間に知らしめるスタート地点だ。
騙されていた事実は、まだある。瞬間移動をしている人物は名前、素性一切不明と言っていたが、もう地球の反対側まで風祭という名前が広まっているではないか。話が違う。
柊は消費税やガソリン税の話をそれとなく出しておいて、お祭り騒ぎは日本だけに起きているように、錯覚を与えるように印象を操作していた。
けれども、こうして日本の裏側の一般人まで風祭の名前を知っているのだ。お祭り騒ぎは、地球レベルで起こっているのかもしれない。
風祭の胸の内で激しく動悸が起こった。風祭は警官を見つけた不審者のような不自然さで、親切な日系人との会話を打ち切り、マンションの中へと戻った。
5
おそらく、柊は、俺が瞬間移動第一号になる予定を知っていたに違いない。風邪の時に食事を作って心配していたのに、最終的、この仕打ちかよ。
テレビが点かなかったのも、俺に瞬間移動実験がブラジルで行われるのを知らせないための処置だ。
そういえば、日本からブラジルを目指す人飛行機に乗っている人も多かった。あれはブラジル旅行がブームになっていからではなく、人類初の瞬間移動を見に来た観光客だったのではないだろうか。
それなら、日本人が多い飛行機の中でずっとヘッドホンをさせられ、退屈な講義を聞かされ続けた理由もわかる。俺に「風祭」といキーワードをうっかり聞かせて、計画を悟らせないためだ。
このままでは、わけのわからない瞬間移動実験の被験者第一号にされる。
日本に帰りたいが、海外で日本までの航空券を一人で買った経験はなかった。
もし、航空券の買い方がわかっても、今、手にしているカードの使用限度額では買えないように設定されている気がする。
とりあえず、どこかに潜伏しようとしても無駄だ。現金がなく、カードなので、どこで何を買ったか、すぐに足が着く。足が着けば、すぐに捜査網が敷かれるだろう。
柊が現金を渡さず、スリに気をつけるように言ったのは、方便だ。
ブラジルのゲーテッド・マンションに連れ込まれたのは、明らかに陰謀だと気が付いた。
陰謀と気が付いたときは、既に遅いもの。今回の件もそうだ。
無理に逃げたら、所長は風祭の顔の情報も公開して、公開捜査に乗り出すかもしれない。風祭は冷静になればなるほど、どう逃げても、どうにでも対処法がある事態に気が付いた。
風祭は風祭自身に言い聞かせる。
「落ち着け、風祭。俺は確かに風祭だが、瞬間移動実験に参加する風祭は別の風祭かもしれないだろう」
虚しい言い訳だった。そんなに都合よく、もう一人の風祭が現れる訳がない。風祭は「でも、しかし」と万一の可能性をずっと頭で、考えていた。
玄関ドアが開く音がした。
風祭は柊に真相を聞くために立ち上がり、リビングに行った。
リビングにいたのは、シャツにジーンズ姿で、すっかりブラジルに溶け込んだ姿の四谷さんだった。
柊が使っている部屋以外で、もう一つ使われている部屋はセシリアのものではなく。四谷さんの部屋だったと知った。
四谷さんがかなり前からブラジルにいたのなら、もう瞬間移動装置はブラジルに運ばれ、組み立てられている。
明日、瞬間移動実験が行われるのは間違いないと見ていいだろう
四谷さんは久しぶりに会った、友達に挨拶するように友好的な口調で声を掛けてくれた。
「風祭君、久しぶり。元気だった。あっちこっち行って、大変だったでしょう」
最後に会った時とは大違いだ、好感度が三段階くらい上がっていた。
思いもかけない人に会ったので、風祭は思わず声が出なかったが、確信した。
瞬間移動する風祭は、俺だ。
四谷さんが、風祭の手を取って、笑顔で言葉を続けた。
「でも、よかったわ。風祭君が自ら実験に志願してくれて、他の人には頼めないものね」
いつの間にか、大嘘見聞録同様に風祭自身が志願している事態になっていた。
四谷さんの顔を見ていると、「いえ、他の人に頼んでください」とは言い難い雰囲気が場にあった。
場の雰囲気に流されるのがどれだけ危険かは身に染みてわかっているはずだが、なんと言葉に出していいか、わからなかった。
四谷さんに抗議したとしても、無駄だろう。全ては所長の采配だ。
四谷さんがキッチンに立って尋ねた。
「積もる話もあるから、まず飲み物を淹れるわね。そうだ、せっかくだから、マテ茶にしましょう。ブラジルでは名物なのよ。最初に飲んだ時は、少し薬臭いかなと思ったけど、飲むと結構、いけるのよ。元気も出るし、ぜひ風祭君にも好きになってもらいたいわ」
初めて飲むマテ茶は、ちょっと薬臭くて苦いが、飲めないほどではなかった。
四谷さんは美味しそうに飲んでいるので、飲み慣れれば、美味しいのかもしれない。
「四谷さん。人間で瞬間移動した場合の成功確率は、どれくらいなんですか」
「安心して、風祭君。シミュレーションの結果、九十八%成功の確率が出ているわ」
九十八%と聞いて安心した。九十八%なら問題ないか。だが、すぐに考え直した。
「待て、早まるな、風祭。四谷さんも、以前、俺を騙した過去がある」
本当の確率を言っているとは思えなかった。
風祭は平静を装い、四谷さんに聞いてみた。
「人間でやるくらいだから、猿でも、もう実験をやっているんですよね。ちなみに、猿での成功確率は、どれくらいでした」
四谷さんは以前にもよく見た、柔和な笑顔で答えてくれた。
「残念だけど、猿では、やっていないわ。猿は注意力が散漫で、どこに飛ぶかわからないから」
猿でやっていないのは、いいとしよう。でも、それならなぜ、どこに飛ぶかわからないと言えるのだ。
隠している。絶対に研究データを隠している。隠している数字はきっと、聞けば止めたくなる、最低でも躊躇うような数値だ。
6
風祭は素直な気持ちを告げてみた。
「四谷さん、俺、志願なんてしていないんです瞬間移動実験に参加したくないんです」
四谷さんがびっくりした表情で答えた。
「なんですって、そんな。所長からは、風祭君が多額の報酬を受け取るのと引き換えに、実験に志願したって聞いたわよ」
確かに報酬は、右から左へと流れていったが、受け取ってしまった。もう、金は叔父の手元にあるので返済もできない。
お金をすでに受け取っていると言ったら、やらざるを得なくなるので、風祭は黙った。
風祭が黙ると、四谷さんは明らかに困った表情を浮かべた。
「そんな。でも、今さら、できないなんて、困るわ。もう、実験開始まで十四時間を切ったのよ」
四谷さんが風祭の手を取り、懇願してきた。
「今さらできないでは、困るのよ。お願い、風祭君、人類初の瞬間移動実験の被験者になって、研究所を、私を救ってよ」
風祭は四谷さんの懇願する瞳を見て思わず「はい」と言いそうになった。いいそうになってグッと堪えて、言葉を発した。
「すいません、俺にはできません」
四谷さんは風祭の言葉を聞き明らかに落胆した。
「そうよね。人類初なんて実験、怖くなっても、しかたないわよね。それに、志願していないんだから、騙されたも同然だわ。いいわ。現場責任者として、所長に掛け合ってあげる」
四谷さんの言葉に風祭は驚いた。
「え、いいんですか」
風祭の頭に、すぐに不安が過ぎった。
「でも、明日の実験、どうするんですか。代わりの人間なんて、用意しているんですか」
四谷さんは寂しげに微笑んだ。
「風祭君の代わりの人間なんて用意していないわ。でも、私は現場責任者なの。この研究に全てを懸けているのよ。私が代わりに実験に参加すれば、済むことだわ」
風祭は心の中で激しく動揺した。
「四谷さんが身代わりになるだって! 確かに、俺がやらないと現場責任者の四谷さんが責任をとらなきゃいけないのは、わかる。でも、俺は半分、騙されたようなものだが、多額の金を受け取ったのは事実だ」
風祭は葛藤した。
「本当にいいのか? 四谷さんを実験に参加させて。本当にいいのか、俺?」
風祭は悩んだ、悩んだ末に結論を出した。
「すいません、替わって下さい」
情けないが、そんな人類初の行為に挑戦する勇気はなかった。
しかも、データを隠されたうえに、色々と酷い目に遭ってきたのだ、どう考えても「やります」とは言えなかった。
四谷さんは風祭を責めなかった。四谷さんは、黙って上を向き、目を瞑ってから、決心したように発言した。
「よし、風祭君の心はよくわかったわ。あとは任せて」
四谷さんは立ち上がると、携帯電話を取り出して、吹っ切ったように述べた。
「ごめん、席を外すわね。お父さんにちょっと、電話してくる」
四谷さんが覚悟を決めたのだと思った。何か言葉を掛けなければと思ったが、風祭自身にはどんな言葉を掛ける資格があるのだろう。
風祭は黙って部屋から出て行く四谷さんを見送るしかなかった。
しばらく経って、風祭は理解した事実があった。マテ茶を初めて飲んだが、薬臭いというのは嘘だ。
薬臭かったのは、何かの薬が入っていたからだ。現に、ものすごく眠くなり、立ち上がろうとしても足がふらつき、転んでしまった。
転んだあと、再び立ち上がれなかった。
意識が遠くなった。
7
腕に痛みを覚えた。次いで、柊の声がした。
「もし、もーし、時間ですよ、風祭さーん、起きてくださーい」
風祭が目を覚ますと、呆れたような表情をした柊の顔が、目の前にあった。
辺りを見回すと、ロッカー・ルームで、風祭は椅子に鎖で縛られていた。格好もいつの間にか、普段着から、遺跡を発掘する探検家のような服装に着替えさせられていた。
柊は澄ました顔で発言した。
「三つの異世界を旅してきた風祭さんが、地球上の瞬間移動を躊躇うなんて、いけないわねー。もう、覚悟を決めないと。それと、四谷からの伝言を預かっているよ」
柊はそこで、四谷の口真似をして、嫌味たっぷりに述べた。
「所長に掛け合ったけど、やっぱり変更は、なしになったから。あと、あそこまで言われて、替わってくださいって、よく言えたものね。本当にあなたの根性なさには、がっかりだわ」
四谷さんにも、最後の最後まで騙された。
「くそ、お父さんに電話してくるなんて、思わせぶりの嘘だったんだな」
柊が意地悪そうに言葉を返した。
「あ、それは、本当よ」
柊の言葉を聞いて、今さらながら、気づかされた。
「え、もしかして、四谷さんの、お父さんて、所長!」
「正解。ボスが離婚したときに、娘の四谷は、母親の四谷姓に変えたっていっていたよ」
なぜ、所長が若い四谷さんを信頼していたか、理解できた。
四谷さんが所長と親子なら今の展開は理解できる。思えば、四谷さんは、所長とどこか似たような所もあった。
もう、やけだとばかりに、風祭は言葉を荒げた
「くそ、絶対に実験なんかに参加しないからな」
柊が久々に犯罪者のような顔で、脅してきた。
「それは、賢い選択とは思えないわね。見聞録は冒険心溢れる風祭氏の記録として、世界に発表されているのよ。嘘がばれたら貴方は日本だけでなく、世界に居場所がなくなるのよ。あなたはもう、どのみち、ヒーローになるしかないの」
大嘘見聞録は世間に対してアピールするのが表の目的だったが、同時に裏の目的もあった。風祭を被験者として逃げられなくするためだ。
所長は最初から風祭を被験者第一号にするつもりだったのだろう。
「ヒーローになんか、なりたくない。死ぬよりはいいだろう」
柊が今まで散々見てきた、意地の悪い表情を浮かべた。
「死ぬよりは、いい? 私の言葉が、よくわからなかったみたいね。実験前、狂信的な男に撃たれて死んでも、風祭はヒーローにはなるのよ。スタジアムって広いから、どこかに狙撃手が潜んでいるかもしれないわよ」
風祭はムキになって叫んだ。
「狙撃手が潜んでいるなんて、嘘だ! そんな奴はいない」
柊がワザとらしく、誰もいないのに辺りを見回して発言した。
「そういえば、セシリアを最近、見ないけど、彼女、どこに行ったのかしら。また、南米の奥地に、鰐でも撃ちに行っているのかなー。彼女、船の扱いも上手いけど、銃の扱いも上手いのよねー」
確かにそういわれれば、セシリアには傭兵的な雰囲気があったような気もする。
柊が風祭の髪の毛を鷲づかみにして顔を近づけ、覚悟を求めるように叫んだ。
「もう、覚悟を決めなさいよ。このヤマには、人が何人か死んでもおかしくないだけの金が動いているのよ。金を受け取った以上、途中下車はないのよ。あんたが考えなければいけない将来は、ただ一つよ。実験を成功させて、ヒーローになる、明るい未来だけよ」
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柊の言うとおりかもしれない。ここまで来たら、逃げて大嘘吐きだとなれば、ブラジルから帰ることなく、異国地の地で死ぬ気がする。
なら、いっそ、一発逆転に懸けて、瞬間移動実験に参加するか。
風祭は心の中で、自身に言い聞かせる。
「成功確率は、そんなに悪くないのかもしれない。所長だって四谷さんだって、失敗すれば研究が危うくなるのだ。俺の心配はしていなくても、研究の心配はしているはず。なら、ヒーローになってやる。いや、なるしか、もう道はないんだ」
風祭は柊の顔を真っ直ぐ見て、答えた。
「わかった。金を受け取ったんだ、覚悟を決めて参加するよ」
柊が風祭の決意を本当だと感じたのか、鎖を外してくれた。鎖を外したあと、柊がポンと風祭の肩を叩いて背後で囁いた。
「難しい行動なんか、一つもありはしないわよ。綺麗なアシスタントに連れられてスタジアムに入る。あんたは自信たっぷりに笑って、スタジアムに手を振ってやればいいのよ。あとは、長々と司会のスピーチを聞く。時間になれば、アシスタントが装置の扉を開けるから、中に入る。最後に装置の扉が開いて出れば、もう、そこは日本。日本に着いたら、日本の司会者がうまくやってくれるわよ」
確かに、難しい話ではない。瞬間移動にどれだけリスクがついているのかを無視すればの話だが。
というか、結局、瞬間移動なんて、できるんだろうか。装置の蓋が閉まった瞬間に床が抜けて、抜け道から、また控え室に戻ってくる。戻ってきた控え室で、テレビを見ると、風祭そっくりの替え玉が日本側の機械から姿を現して、実は手品だったという事態になるのではないだろうか。
この期に及んでも、風祭が最後の最後まで瞬間移動を疑問視していると、柊が風祭に手を出すように伝えた。手首を出すと、GPS発信機を付けられた。
最後に小さなリュックと、スマートフォンを渡した。
「風祭は三度も異世界に行った経験がある人物になっているのよ。これは、異世界に行ってもいいような道具が入っているから、持っていって。日本側の司会者も見たがると思うし」
リュックの中身を一々出して確かめなかったが、スマートフォンには、以前の作中で写真を撮ったことになっていた魔術師ニルファと一緒に撮った写真が入っていた。
柊が最後に重要事項を説明した。
「日本の受信側だけど、場所は研究所とは違うわよ。受信側は、あんたが六年間を過ごした大学。大学であんたが一番好きだった、大学ローンに設置されてあるそうよ。意識しなくても、大学ローンに出るそうだけど、年のために、大学ローンを思い浮かべておくように四谷が言っていたわよ」
柊が携帯を取り出し、ポルトガル語で短く会話した。
携帯を切ると柊が、微笑んで最後に言った。
「もう、会うことをないだろうと思うけど、しっかりやりなさいよ。風祭さん」
柊が出て行くと、黒のパンツスーツ姿の綺麗な女性が入ってきて、手を差し出したので手を握って従いていった。
控え室を抜けると、人の大きく騒ぐざわめきが聞こえてきた。スタジアムのグラウンドに入ると、九万五千人が収容できるマラカナン・スタジアムが満員だった。
強い日差しの中、朝なのにもかかわらず、大勢の人がスタジアムにいた。あまりの人の多さと歓声に風祭は萎縮しそうになったが、柊に言われた通りに、無理にでも笑いながら手を振った。
スタジアム中央に設置されてある、大きな強化プラスチック製の透明な台の上に置かれた、魔女のパン焼き釜のような巨大な装置が見えてきた。
装置は以前に見た時より三倍大きく、充分に人が入れるように改造されていた。
風祭が台の上に行くと、台の下にいた司会の男が、ポルトガル語でなにやらスタジアムに向かって話し始めた。
音声はきっと何カ国にも翻訳され、テレビ中継されているのだろう。
司会の男が話している間、風祭が立つ透明な床下で男たちが、装置の下に抜け道がないのを証明するかのように、動いていた。
風祭は何もしていないと、不安が顔に出そうなので、目のくらむような大観衆に、努めて手を振り、笑顔で応えていた。だが、心臓は高鳴り頭は緊張でショートしそうだった。
司会の男のスピーチが終ると、台の上に上がってきた。
視界の男は風祭の手を取っているのとは別のアシスタントから色紙を受け取ると、なにかポルトガル語でサインする。
スタジアムに設置されている電光掲示版に色紙の文字が浮かび上がると、歓声は一段高くなった。
大観衆の熱狂ぶりが、嵐の晩より、雪山で遭難しかけた時より怖いと思った。
風祭は先ほどまで、瞬間移動を疑い、身の危険を最も怖れていた。けれども、今は成功しないで、装置の中で何も起きずにまた出てくる事態を考えると、血流が凍る思いだった。
風祭は司会の男から色紙を受け取ると、アシスタントが、装置の扉を開けた。
中に入って装置の蓋が閉まると、緊張で息が上がった。自分のハアハアという息遣いが聞こえてきた。
装置の内部が七色に光り出すと、風祭は必死で六年間過ごした大学の一番好きだった場所である大学ローンを思い浮かべた。
風祭は必死に祈った。
「もし、人間の意識が作用するなら、大学ローンに送ってくれ。おかしな場所には出ないでくれ。頼むから異世界なんてわけのわからないところには出たくない」
9
装置が揺れた。激しい揺れだったので壁に手を突こうとしたが、壁がなくなっていた。足元の感覚もない。体の固定しようない世界で体が、激しく揺れた。
普通なら気分が悪くなるような揺れだった。船の中で散々揺られて経験があったので吐きはしなかったが、掴りようのない場所での揺れは気持ちが悪かった。
揺れは数分に亘って続いた。このまま訳のわからない世界から出られなくなったらどうしようという不安が過ぎった。
風祭は必死で記憶を探り、楽しい学生生活を送った大学を思い出し、大学ローンを心に思い浮かべた。
前方に扉が現れ、扉が開いた。
実験が成功して開いたのか、失敗して開いたのかは不明だが、体を揺らされるのが堪らなかったので、扉の枠を掴んで、一歩を踏み出した。
歓声が聞こえてきた。外に出ると周りに何十台ものテレビカメラがあり、夜空の下、風祭に向けて強いライトが照らされていた。
二十メートルしか離れていない場所に、風祭を囲むように作られて満席の観客席が見えた。
夜空を見渡せば、飛んでいるヘリの灯り以外にも、見慣れた建物が見えた。
今、立っている場所は実験用にと手を入れられているが、去年までよく見ていた、青い芝生が広がる大学ローンだ。
さっきとは違う司会の日本人の男が駆け寄ってきて「風祭さんですよね、色紙を見せてください」とお願いされたので、色紙を高々と掲げた。
観客席以外からも大きな声が聞こえた。
おそらく、大学中にいる人が、テレビを通したり、近くの建物から、見ていたのだと思った。
人の接する生活を避けていた風祭には感動や興奮より、大勢の人間に見られる恐ろしさが先に立った。
背後を振り向けば、さっきまでいた朝のマラカナン・スタジアムを映す大型スクリーンがあり、ビジョンの向うでも大いに観客が沸いていた。
沸いているのは、日本とブラジルだけではないのだろう。瞬間移動が実現して新たな技術革新を目に世界中が沸いていると思った。
大勢の視線をと狂騒を見て、逃げだしたいとい思ったが、逃げる場所はない。
正確には一つだけあった、まだ光の消えていない扉の中だ。
日本人の司会者が宝籤で十億でも当てたかのような興奮した表情で尋ねてきた。
「風祭さん、人類初めて瞬間移動を行った、今のお気持ちをお聞かせください」
怖くて、逃げ出し、隠れたい、が本音だった。
風祭は自分の心に正直な行動を取るために大嘘を吐いた。
「今の心境は、失望です」
風祭の第一声を聞いて、観客が静まり返った。
風祭は声が震えないように気をつけ、大嘘見聞録の主人公、風祭を演じるように大きな声で話した。
「私を嘘吐きであると思われる方は大勢いるでしょう、でも、私は、異世界を見てしまった。もう、飛行機で一日と掛からず、移動できる小さな世界では、興奮できないんです。私の求めるのは、今まで人類が辿り着けない場所です。地球上のありふれた二点間を結ぶ、つまらない、瞬間移動の証明は終りました。私が求めるのは、もっと刺激のある世界です。少なくてもここではない」
風祭は大きな声でスピーチを終えると、まだ光の残る扉の中に引き返していった。
とりあえず、この場を去りたい。
光の中に入って、研究室の動物飼育室を思い浮かべれば、きっと研究所の動物飼育室に戻れるはずだ。
光の中、穏やかな日々に戻りたいと思った風祭だったが、以前どこかで聞いたような、たくさんの櫂が水を漕ぐ、水音が聞こえてきた。
*
(異世界見聞録・第三巻・文庫版あとがき)
かくして、風祭氏は再び瞬間移動装置に入っていった。だが、このあと風祭氏を見たものはなく、研究所も風祭氏の個人情報保護の観点から消息を明らかにしていない。
ある女性研究員からの話によると、送受信のプロトコルの終了間際に、瞬間移動装置に入る行為は、全く予期しない場所に出る可能性が常にあり、危険かつ無謀な行動だそうだ。
むろん、風祭氏も当然、危険性を熟知していたとの証言を得ている。
多くのエンターティメント作品でも扱われるように、異世界を見たいという願望は常に人にある。
そんな、瞬間移動による異世界への旅は、麻薬的興奮をもたらすのかもしれない。
また、風祭氏をよく知る、日系ブラジル人の女性の話によると、風祭氏は研究に際しては、いつも積極的であり、危険な行動を常に好む傾向が顕著だったそうだ。
今回、あとがきを書くにあたって、研究所内では極秘となっているが、風祭氏に対して行われた。心理テストが存在する事実も知った。
詳しくは教えてもらえなかったが、心理テストにおいても、やはり風祭は常人とは違う結果を出していたそうだ。
風祭氏が無謀な瞬間移動をして、異世界に行って戻れなくなったのか。
現在も研究所内でこっそり異世界に行く実験を手伝っているのか。
はたまた、名前を変えて、どこかでひっそり暮らしているのか。
結局のところ、わかっていない。
異世界への移動は、国防、外交、防疫の観点からの問題も、もちろんある。
とはいえ、政府は異世界行きを危険と見做した背景には、風祭氏が公開実験で起した行動が契機となったのかもしれない。
残念ながら、今後は異世界に行けないように、瞬間移動装置に制限を付ける法案も成立した。
法案を成立させた時の総理大臣の姓が、異世界行きを何より熱望した風祭氏と同じだったのは、なんとも皮肉としか言いようがない。
*
【了】




