第六章 冒険は続く、色々な意味で
第六章 冒険は続く、色々な意味で
1
翌日、壊れた施設から風祭がいた事実を示しそうな重要な証拠だけを処分すると、クルーザーは島を後にした。
風祭は離れ行く島を見ながら、部屋に戻ろうとする柊に尋ねた。
「ねえ、柊、きちんと片付けなくていいのかな。結局、室内は廃屋状態のままで、壊れた家具やら家電やら、残っているんだけど」
柊は全く気にしていない様子で答えた。
「ああ、それなら、大丈夫よ。この後、島にはボスの手配した専門のクリーニング業者が来て片付けをしてくれるから」
故人の部屋を丸ごと綺麗にしてくれる業者があるご時勢だが、こんなところまで来て、片付けてくれる業者なんて、あるのだろうか。
柊の話が本当なら、やってくるクリーニング業者と呼ばれる存在は、死体も処理してくれるような、裏世界の業者なのかもしれない。詳しく聞くのは藪蛇になりそうだから、よそう。
久々のクルーザー生活。一度、船に慣れたせいか、もうクルーザーが揺れても、吐きはしなかった。命綱を利用しての船内移動も、お手のものだ。
衛生的でバランスの取れた食事を摂れる環境で見聞録の清書を続けていた。
だが、二日で釣りの禁断症状が出た。釣竿の釣助が勇者の手に渡る聖剣よろしく「私を使いなさい」と呼んでいる幻聴が聞こえた。
もう、釣りはいいだけした気がする。クルーザー時代と孤島時代を併せれば、一生分とはいかなくても、もう飽き飽きするほど、釣りをしたと思ったが、違った。
釣がしたい。風祭はすぐに誘惑に負け、清書を一章の半分だけ柊に渡すと、釣りを始めた。
釣りをしていると、いきなり背後から頭を殴られた。
振り向くと、怒りの形相の柊が立っていた。
「ちょっと聞きたい箇所があって部屋に行ってみれば、部屋にいない。なに呑気に、釣りなんてしているのよ。まず、さっさと仕事をあげなさいよ」
「えー、だって、海が、釣助が、俺を呼ぶんだよ。海も釣助も、俺を生かしてくれた命の恩人だよ。恩人の言葉を聞かない訳にはいかないよ。それに、ずっと朝は釣りをするのが日課だったんだよー」
柊が詰め寄った。
「あんた、なにわけのわからない、酔っ払って葬儀に来た生臭坊主の説教みたいな言訳を並べているのよ。状況をわかっているの。時間がないのよ。時間が。頭を切り替えなさいよ。さっさと、仕事しないと、その釣竿をへし折るわよ」
柊なら釣助を本当に折りかねないので、すぐに、釣助をしまった。釣助は孤島で俺を生かしてくれた恩人だ。柊に折らせるわけにはいかない。
清書の作業に取り掛かるが、区切りがつく度に釣助の「使ってくれー、使ってくれー」という呼声が聞こえてならなかった。
風祭は以前「見られていないと仕事ができない人間」と評価したが、違った。いつの間にか、「見られていても仕事ができない人間」に変わってしまった。
とはいえ、釣助をへし折る宣言を聞いたので、堂々と釣りができない。
船の窓が開けば、食堂から小エビをくすねて、部屋に鍵を掛けて、窓から釣糸を垂らすのだが、窓は開かなかった。
やれないと、やりたくなるのが人情だ。
風祭はいつの間にか、清書の手を止めていた。
風祭の頭の中には、すでに見聞録の話はなかった。どうやれば柊を騙しながら、釣りができるかを、ミステリー作家が完全犯罪のトリックを考えるように考えていた。
部屋の扉が乱暴に閉まる音がした。
振り向くと、表情は半分ほど笑っているが、明らかに怒っている柊がいた。
「あんた、机の前に座って手を動かさずに、何をやっているのよ」
「い、いやだなー、ちょっと休憩だよ。休憩」
2
柊が大またに歩いてきて、パソコンのワープロソフトを操作して、進み具合をチェックした。
柊の怒声が飛んだ。
「なにが、ちょっと休憩よ。ぜんぜん進んでないでしょ。どうして、机に向かっているのに、仕事が進まないのよ。これじゃあ、机の前に狸の置物を置いているのと変わらないわよ。悪筆は、書いた本人にしか読めないんだから、あんたが仕事しないと、前に進まないのよ」
風祭は素直に謝り、頼み込んだ。
「悪かったよ。悪かったとは思うけど、もう釣りが頭から離れないんだよ。釣りがない生活なんて、考えられないよ。釣りができれば、仕事も進むと思うんだ。釣りをさせてくれよ」
「嘘ね。釣りをさせたら、絶対に仕事が進まないわ。座ったが最後、日が暮れるまで、あんたは仕事をしないわよ」
風祭は子供のように懇願した。
「じゃあ、一時間だけ、一時間だけ、釣りをさせてくれ」
柊は険しい形相で、嫌々そうに妥協案を提示した。
「わかったわ。朝食後と夕食後の一時間だけ、釣りを認めるわ。ただし、それまでに見聞録がほとんど進んでいなければ、釣りは一切なしね」
風祭は、すぐに席を立った。
「じゃあ、さっそく、朝食後の釣りの分を――」
風祭の言葉が終る前に、今まで聞いた中で一番大きな柊の怒声が部屋に響いた。
「さっきも釣っていたでしょう。あんたは釣り中毒患者か! 夕食までは、仕事なさいよ。締め切りが、どんどん近付いているのよ。無人島で二ヵ月以上サバイバル生活したから、少しは成長したかな、と思ったら、前よりダメ人間になっているでしょ!」
なんか、一日に二時間なんて、ゲームを規制された子供のようで情けないが、柊に逆らうわけにはいかなかった。
仕方なく、見聞録を清書しながら、夕食の時間を待つ。夕食後、すぐに釣りをする。
釣りをしていると、柊の声が聞こえた。
「はい、一時間経過。釣りは終了ね」
「え、もう一時間。短すぎるよ。もう少しいいだろう。そもそも、釣りというのは、時間を区切ってやるものではないよ。もっと、こう大自然と一体となり、心をゆったり持って――」
風祭が全てを言い終わる前に、拳法家が強力な一撃を繰り出すように、柊が床を踏み鳴らして、凄んだ。
「終わりって、言ったわよね」
「わかった。わかった、やめるよ。やめるってば。でも、やっぱり、一時間は短いよ。今から十時くらいまで仕事するから、そのあと寝る前に、もう少しだけ釣りをさせてくれよな、寝る前ならいいだろう、な、な」
柊が冷たい表情で風祭を見下ろし、無情に告げた。
「却下ね。それを許可したら、あんた夜通し釣りをやって、昼寝をするでしょ。結局、仕事に支障を来たすのが目に見えているのよ」
「えー、そんなこと絶対しないって、ちゃんと十二時前には寝るよ」
とはいうものの、柊の予想は当っている気がする。やらなきゃいけない仕事だとはわかっているが、わかっちゃいるけどやめられない、が性分だ。
人間として締め切りを守れない人間はダメ人間だとは思うが、そんなダメな所も個性だと、風祭自身の中で無理やり屁理屈を付けた。
結局、風祭は自室に連行され、執筆を強要された。
夜の十時になって、柊が清書した原稿を取りに来て、変更点などの打ち合わせが終わり、また明日となった。
3
風祭は柊が寝てから、釣りをするつもりだった。けれども、柊はご丁寧なことに、最後の話し合いが終ると、鎖と南京錠で風祭の部屋を中から開かないように封印して帰っていった。
次の日の朝食時に鍵は外されるが、朝食の釣りの時間が終ると、柊がついてきて昼食時まで、同じように施錠された。
もはや、風祭は全く信用されておらず、仕事を一緒に進めるパートナーの関係ではなく、看守と囚人の関係になっていた。
結果として、囚人と看守の態勢は成果を出した。見聞録の清書と修正は締め切り七日目の夕食前に、ぎりぎり仕上がった。
食事中に柊が話し掛けてきた。
「とりあえず、間に合ったわ。あとは、細かいミスは、研究所側で校正してくれるでしょう。今晩は、好きなだけ釣りをしていいわよ」
どんな形であれ、仕事が終るというのは、いいものだ。
風祭は機嫌よく応じた。
「うん、波の具合も良さそうだし、心行くまで夜釣りをするよ。そういえば、一作目の評価って、どうだったの」
柊が見聞録の評判なんて全く興味ないといった風に、淡々と教えてくれた。
「一作目の評価? もちろん、世間一般ではボロクソに貶されて、見聞録は虚偽の上に面白くないって評判よ。作者に対しての評価も九十七%がバッシング、残り三%は、作者は死ねっていう感じよ」
一作目は評価されないと思っていたが、柊が言うほど酷い評価になっているとは思わなかった。
「え、ちょっ、それじゃあ、全くダメだろう。二作目を作る意味ないって。え、ひょっとしてこの一週間は無駄!」
柊が冷静に分析結果を述べた。
「作者死ね、は冗談だけど、バッシングが九割は本当ね。でも、バッシングについては、ボスはこれでいいって思っているみたいね。昨日の段階で少し状況を聞いたけど、悪評が立ちすぎて、社会現象として調べ始めるフリーの記者も出てきたそうよ」
悪い意味で注目を集めているのか。これは、いよいよ、所長の計画が完成してくれないと困る段階に大嘘見聞録計画が突入したと見ていいだろう。
現段階で火が消えれば、俺は大嘘吐きで終る。
今はただ、犬の瞬間移動実験が成功し、論文が掲載されて流れを変わるのを待つしかない。
流れが変わったところで、二作目が出たとする。そうすれば、バッシングも六割くらいにまで減り、代わりに、どこかの専門分野違いの大学教授辺りが瞬間移動を擁護して、盛り上がるのではないのだろうか。
風祭が充分に夜釣りを楽しんでいると、まだ陽も明けきらないうちに柊が甲板に現れた。
「朝食が終ったら、自室に入っていてちょうだい。港に入って車に乗り換えて、次の執筆場所に移動するわよ」
また、急な移動である。でも、一週間で寒くなってきていたので、日本列島に近付いてきている状況は薄々感じていた。
次はいったいどこに連れていかれるのだろう。移動を極秘にするといっても、行き先ぐらい教えて欲しいものだ。
それとも、人には言えないような場所に、また連れて行かれるのだろうか。
人に言えない場所でもいいが、最低限、釣りができる環境であって欲しい。
クルーザーが港に入った。風祭は他人目に付かないよう、後部座席が見えない仕組みになっているワンボックスカーに乗せられた。
次に行く場所に釣りができる場所があるかどうかわらないが、柊に頼んで、最低元の釣り道具だけはトランクに乗せてもらった。
車に乗ったあとは、最初に研究所から連れ出されたように、目隠しとヘッドホン着用が義務付けられた。
誘拐されていく被害者のような扱いだが、もう気にならなくなっていた。それに、一晩中夜ずーっと釣りをしていたから眠かったので、すぐに眠ってしまった。
4
ヘッドホンが外され、柊の「着いたわよ」の声が聞こえたので、風祭は目を覚ました。
目隠しを取って、車の時間を確認した。
時刻は午後二時半。七、八時間くらいは寝ただろうか。
車から降りると、車が停まっていたのは、どこかの林道の脇にあるスペースだった。見上げれば、山が見え、沢が近いのか、水の音も聞こえた。
「外洋の船の中、孤島と来て、次は山荘が仕事場か。真冬じゃなくて春の上旬なのが、救いかな」
さっそく、釣りが可能なのかが、頭を過ぎった。川釣りや渓流釣りをした経験は全然ないが、海釣り用の竿の釣助でも、どうにかなるだろう。
釣りは、釣れれば嬉しいが、成果よりも釣糸を垂らす行為が大切だ。
問題は山登りだった。山なんか登った経験がないし、クルーザー、孤島と、ほとんど運動をしていない。体力には、まるで自信がなかった。
それに、装備は、長袖シャツの上に薄いウィンド・ブレーカーを羽織り、下は、ジーンズ。足はサンダル履きで、釣り道具の入ったクーラー・ボックス持参といった、海釣り用装備。
山登りをする人が見れば、「この人、山を舐めているといより、頭があれなのかな」と思われるような格好だ。
現在の季節は、四月の上旬。暖かくなってきたとはいえ、気温は低かった。気温から感じるに、道にはまだ、雪も残っているのではないだろうか。
「ねえ、柊。今度は山なの。この時季はまだ、雪が残っていたら、軽装で山に登るのは、危険だよ。それに俺、完全に海釣り装備だけど」
柊は車の後部座席のダンボールからフードの付いたダウン・ジャケット、ニットの手袋、トレッキング・シューズを出し、風祭に渡した。
「別に、本格的な山登りはしないわよ。道は真っ直ぐで。目的地の山荘は、ここから歩いて三時間くらいのところにあるのよ。ちゃんと電気もガスも水も使える別荘的な場所だから、心配ないわよ。山荘なら、船と違って揺れないし、嵐が来ても大丈夫でしょ」
同じようなセリフを孤島に行く前に聞いた気がする。孤島の時も「問題ない」というセリフを聞いたが、結局、セリフを聞いた後で嵐に遭って死にそうになった。
柊の「問題ない」発言は政治家の「問題ない」と同レベルの信用性な気がする。
風祭がこれから登る山道を見上げていると、横で柊が、風祭が着ているのと同じようなダウン・ジャケットと手袋を装備していた。
一人だけ軽装で山を登れと言われれば、確実に危険な気がするが、柊が一緒なので、それほど危険はないのかもしれない。
風祭が柊を見ていると、柊はダウン・ジャケット、手袋、トレッキング・シューズの他に、下に薄手だが防寒用のズボンを穿き、マフラーをした。
「あれ、俺の防寒用のズボンや、マフラーは?」
柊が当然というように返事をした。
「ないわよ。いいでしょ。風祭は雪国生まれの男性なんだから。ブラジル生まれの私とは違って、寒さに対して耐性がありそうだし」
北海道育ちの風祭は寒さに強いかもしれないが、つい一週間くらい前まで、南国で二ヵ月以上も生活していたのだ。体は暑さに慣れている。
急に春山に連れて来られたので、体が慣れていないせいか、とにかく寒い。
俺にも同じ装備をと、文句の一つも言いたいが、口には出すまい。
ダンボールの中は空なので、文句を言っても、手品の種でもなければ装備が出てくるわけでもない。だからといって、麓に下りて防寒具を買い足すのは、きっと柊が認めてくれない。
一言だけ文句を言って、二言も三言も怒鳴り返されるなら、言わないほうがいい。
柊の話では、山荘までは一本道で、所要時間は三時間だ。下手に時間を浪費すれば、暗くなってしまう。
柊は最後に、お握りとお茶が入ったコンビニの袋を渡した。
「はい、これが、あんたのお昼。寝ていたから、買っておいたけど、今ここで食べる? 食べるなら、早くして」
風祭は朝食を食べて寝たせいかあまり、お腹が減ってなかったので、山荘に着いてから食べようと思った。
5
歩き出して、三十分で悪い予感がしてきた。
林道は舗装されていたが、入ってすぐの所から、浅いものの、雪がずっと残っていた。雪は数日前にも降ったのか、前に人が通った人の足跡はなかった。
雪は明らかに、歩く速度を遅くした。
また、風祭や柊が履いているトレッキング・シューズは、防水加工をしているが、雪道対応ではないので、長時間に亘って歩き続ければ、水を吸って重くなる気がした。
風祭はすぐに、柊に提案した。
「ちょっと、柊。これ、マズイって、三時間じゃ山荘まで着かないよ。ここは一旦、車に戻って、今日は車の中で休もう。そして、明日の天気を見て、朝から登ろうよ」
柊は風祭の提案を、頑として受け入れなかった。
「道は整備されているし、山荘まで一本道なのよ。少しくらい日が暮れても、大丈夫よ」
もう三十分、雪に苦戦しながら歩くと、案の定、靴に水が染みてきた。
分かれ道にも遭遇した。ただ、分かれ道といっても、一本は明らかに山の中に入っていく細い道で、もう一本が緩やかな上り坂の太い道だったので、柊は迷わず太い道を進んでいく。
風祭はますます嫌な予感がした。ひょっとして、山荘までの一本道とは、おおまかな表現であり、山荘に辿り着くには、まだ何本か分かれ道があるのではないだろうか。
夏ならきっと迷わないが、残雪がある状況では、道を間違う可能性も、あるかもしれない。
日が落ちるギリギリに出発しているので、一回でも道を間違えれば、遭難もあるのでは。
風祭は前を歩く柊に、いくつかの疑問を発した。
「柊は、これから行く山荘には、以前に行った経験あるの? 地図とかコンパスは持ってきた? 柊は山登りの経験はあるの?」
先頭を歩く柊は、振り返らず、ぶっきらぼうに答えた。
「どれも、ないわよ」
非常に、嫌な予感がした。地図なし、素人、軽装、残雪、予期しない分かれ道、全て遭難フラグに直結する事柄にしか思えない環境だ。
一人なら間違いなく、車に戻る決断をした。けれども、実質的な決定権を持っているのは柊で、柊は意地っぱりな性格だ。今の時点で、いくらいっても聞かないだろうし、言い続ければ、喧嘩になるのは見えている。
喧嘩になるのは、この際、もういいだろう。最悪なのは、柊と喧嘩別れした挙句に、数日後、無理を言って進んだ柊が山の中で死体となって発見される事態だ。
柊が山の中で死ねば、研究所側で大問題になるだろう。もっとも、大問題になっても、所長はうまく処理するだろうが。
風祭は心の奥で、これは俺が柊を守らねばと思った。柊と生活でいい想い出はないが、このままで柊が死ねば、いい想い出だった、になってしまう気がする。
まだ、柊との生活をいい想い出にするには早すぎる。
風祭の心の中では、確実に中島みゆきの歌『地上の星』が流れていた。
勝手に使命感に燃えた風祭だが、風祭のほうが先にペースが落ちて、柊との距離が離れ始めた。頭の思いに、体が従いていかなかった。
「ちょっと、待ってくれ、柊。置いていかないでくれー」
柊が「面倒な奴と一緒になった」とばかりの表情で振り返り、不機嫌に応じた。
「あんたねー。体力ないにしても、ほどがあるわよ。まだ、一時間ちょっとしか、経っていないわ。そんなんじゃな、山荘に着く頃には明日になるわよ」
柊が前を向いて再び歩き始めたが、歩く速度は少しだけ落ちていた。
6
歩き出してから二時間、本来なら、あと一時間のはずだが、まだ半分くらいの行程の気もする。ひょっとすると、雪に足を取られて進んでいるので、三分の一くらいかもしれない。
地図やコンパスがあれば、だいたいの見当が付くが、ないので不明だ。
二度目の分かれ道が来た。今度は、道幅が同じくらいの道が二方向に分かれていた。柊がスマートフォンを出して、地図を出そうとした。きっと、GPSで場所を確認しようとしているのだろう。
GPSで場所がわかれば、遭難はないのかもしれない。
柊が舌打ちして、スマートフォンをしまった。
あれ、ひょっとして、ここ圏外なのか。
柊もどちらが正しい道だかわからないのか、どちらにも進もうとしない。
風祭は再び提案した。
「ねえ、柊。日も傾き始めているよ。道がわからないなら、やっぱり、一度ここは戻って、今日は車で休もうよ。車の遭った場所まで戻れば、スマートフォンも繋がるかもしれないだろう。見聞録の締め切りに追われているわけでもないしさ」
柊は苛立ったように答えた。
「却下よ。却下。ここまで苦労して進んだのに、戻るなんて、ありえないわよ。道だって目星はつくわよ。ほら、見なさい、こっちの木の幹に真新しい、赤いリボンが結んであるから、こっちよ」
風祭が柊の場所までいくと、確かに片方の道に続く木の根元に、赤いリボンが結んであるが、素材はポリエステル素材と思われ、新しいのか、去年の夏からあるのか不明だ。
それに、リボンに「山荘はこちら」とは、書いていなかった。
柊は、どこか冷静さを少し失っていると思った。
「あのね、柊。山道で道に迷った時、勝手に進むと、遭難するよ。やっぱり一度、戻って――」
柊はキッと風祭を睨むと、リボンの結んである道へ進んでいった。
風祭は柊の態度を、予想していたとはいえ、頭が痛くなる思いだった。
雑木林の中に続く道を進んでいく。
一時間近くが経過した、風祭は疲労がかなり溜まってきて、風祭の疲労に反比例して、道は段々と細くなり、雪は深く歩き辛くなってきた。
今、歩いている道は、違う道の気がしてならない。
「あのさ、柊。そろそろ歩き出してから、三時間経ったよ。でも、山荘は見えてこない。道を間違えたんだよ。これは一回、どうあっても戻ったほうがいいよ」
柊が怒りをぶつけるように言い返してきた。
「三時間は目安よ。それに、あんたが遅いから到着が遅れているのよ。きっと、もう少し先に行けば、山荘があるわよ。それに、戻っても、車はもうないのよ。車は午後四時に別の人間がピックアップしていく予定になっているの」
柊は強気の口調を崩さないが、背中から不安が滲んでいるような気がした。
太陽は木の陰で見えないが、空の色から、日没は遠くないと思った。
風祭は何もいわなかったが、山の中での一泊を覚悟した。
さすがに、日が暮れるまで歩けば、柊も諦めるだろう。
更に四、五十分ほど歩いたところで、柊の足が止まった。
道は背の高い笹薮の中に続いており、日も落ちる寸前だ。無理に笹薮の中に入ってしまえば、暗い中、道を見失う可能性も高い。
また、今から引き返そうとしても、細い道を暗い中で逆に辿れば、道を外れる可能性もある。
「柊、これは、どう見ても違うよ。今日は、ここまでだね」
柊が無言でスマートフォンを取り出したが、すぐにしまった。おそらく、現在いる場所も圏外なのだろう。
風祭は釣り道具の入った小型のクーラー・ボックスを下ろして、中から魚を捌くための包丁を取り出し、辺りの笹を切って、雪の上に地面に座る場所を作った。
笹といえど、何層か敷き詰めれば、水は染みてこないし、地面に熱を奪われない断熱材代わりになる。毛布代わりとはいかなくても、体の回りに置けば、いくらかは保温になる。
7
山の気温はどこまで下がるかわからないが、今は四月上旬だ。一晩なら、凍死することもないだろう。
柊もこれ以上に進む無謀さは理解したのか、笹で作ったクッションに腰を下ろした。
火を焚ければ本当はよいのだが、辺りに燃えるものはないし。第一、風祭も柊も、ライターを持っていなかった。
ただ、釣り道具の中に、夜釣りの時に手元を照らすための頭に装着するライトがあったので、真っ暗な森の中、過ごさなくていいのが救いだった。
風祭はコンビニの袋の中を見ると、おにぎりが六個と一Lのお茶のペットボトルが入っていたので、柊に勧めた。
「おにぎり、半分ずつして食べようか」
柊が面白くなさそうに、返事をした。
「食べたくないわ」
「じゃあ、明日の朝、出発前に食べよう。ただ、水分を取ったほうがいいよ。お茶は飲みなよ」
「いいよ。水ならまわりに、いっぱいあるでしょう」
柊は雪に手を伸ばそうとしたので風祭は止めた。
「雪はやめたほうがいいよ。もっと高い山の中なら、雪は綺麗だけど、おそらく、標高が低いこの辺の雪なら、体に悪いよ。お茶を飲みなよ」
柊はどこか意地になっているようだった。
「要らないわよ」
柊は意地を張っているのか、風祭の申し出を拒絶して、雪の上澄みを掬って口にしていた。
柊が靴を脱いだ。靴は履いていたほうがよいと注意しようしたが、柊の靴下に血の跡がついていた。
おそらく、新しい靴が足に合わなかったのだろう。靴擦れしたのだ。
柊が途中で速度を落とした原因は、風祭にペースを併せただけではなかった。踵を痛めたからだ。
風祭はクーラー・ボックスの中から、ビニール・パックに入った絆創膏とガーゼを取り出し渡した。
「はい、これ。絆創膏、以前、テグスで指を切った経験があるから。絆創膏とガーゼは、持ってきてた。絆創膏は傷口に張るといいよ。あと、ガーゼは靴と靴擦れの間に入れてクッション代わりにするといい」
柊は黙って、風祭の言う通りに従った。
夜になると冷えてきたと思ったら、運悪く、小雪が降ってきた。
二人は身を寄せ合うようにして、柊のマフラーを二人で巻いた。
柊がポツリと零した。
「私のこと、責めないのね」
「別に吹雪に遭っていないしね。四月に山の中で一晩ぐらい過ごしても、死ぬことはないよ。それに、ほら、俺って、情けない男だろう。俺自身がダメな人間だから、俺は人のことを責めないんだよ。でも、流石に明日、引き返さないっていったら、考えるよ」
柊は何も言わなかったが途中で疲れたのか寝てしまった。
風祭は眠らなかった。山に登る前に充分に寝たせいもあるが、空から降ってくる雪が気になってどうにも落ち着けなかった。
もし、小雪が大雪になるようなら、今の装備では、まずいかもしれない。
柊は防寒用のズボンを穿いているからいいが、風祭は下が寒かった。
笹を敷いたとはいえ、防寒用のズボンがない尻には寒さも感じていた。でも、風祭は我慢し、風祭自身を鼓舞した。
鼓舞しなければ、不安でどうにかなりそうだった。柊のせいで遭難したが、一人だったら、冷静でいられたかどうかわからない。
それに、雪の中で一晩なら過ごした経験があるので、どれくらい寒さに耐えられるかの判断もできる自信があった。
四月という季節のせいか、小雪は二時間ほどで降り止んだので、安堵した。朝に二人で凍死体という事態は避けられたと思った。
雪の降った量も二センチにも満たないので、朝になれば融けて、歩くのにも支障がないだろう。これなら、明日は大丈夫。
8
早朝まだ早いうちに、柊が「寒いわね」と目を覚ました。柊はあまり動かず、夜が明けるのを待った。朝になると、お握りを二人で三個ずつ分け合った。
天気は生憎、曇っていたが、雪が降らないだけマシかもしれない。
昨日のうちに喉が渇いたためお茶を半分ほど飲んでしまったので、残りを柊に渡そうとしたが、柊はお茶を拒否して前の晩のように、雪を口にした。
まだ、意地を張るだけの元気があるなら、今日は行ける。
二人は来た道を一時間かけて戻り、あの忌々しいリボンが結ばれた地点に戻った。
おそらく、ここまでの道のりは間違っていないはず。ただ、リボンがなかったほうの道の先にまた分かれ道があって、そこで道を間違えれば、大変な事態になる。
風祭は柊に意見を求めた。
「俺としては、柊のスマートフォンが繋がる場所まで後退して、助けを呼んだほうがいいと思うけど」
柊は頑なに拒否する。
「私はボスから、あんたを人に遭わせるなと命令を受けているのよ。それに、おそらく、ここまで道に間違いはないはず。もう一本の道を進んでみましょう」
風祭は、まだ早朝なので、柊に付き合う意思を決めた。
歩くこと一時間、再び分かれ道にあった。道の太さは同じ、片方には青いリボンが巻いてあった。
ただ、今度のリボンは目の高さの太い木の枝に結ばれてあった。
柊は昨日の件があるので、リボンが巻いてあるから道が正しいのか、迷った。
風祭はリボンを見ると、リボンに「犬NO十八Q」の文字を見つけた。
犬NO十八Q? 犬の№・十八のQ。犬、ナンバー十八のクィーン。以前、研究所で風祭が瞬間移動実験に使った犬が実験№十八で、クィーンという犬だ。
ひょっとしたら別の意味があるのかもしれないが、リボンは所長の指示で付けられたものだと思った。
風祭は持論を柊に説明して、こっちだと言って歩き出した。
歩くこと三十分後、断熱タイルで覆われた、二階建ての家が見えてきた。家の天辺にアンテナも立っていた。とりあえず、遭難は避けられた。
あとは、目の前の家が目的地の山荘なら、問題ない。柊が山荘の入口に来て、ポケットから鍵を出すと、鍵は回り、扉が開いた。正解だった。
風祭は誰にいうわけでもなく、感想を述べた。
「やっと、無事に着いた」
家の中は壁も床も木で壁紙が張られていない。おそらく、建物は外断熱工法で建てられているのだろう。
建物の内部の柱、壁、梁の木を直に見せるのは表しという工法であり、一面木であり、ちょっとした山小屋の雰囲気を出していた。
柊と風祭はさっそく、パネル・ヒーターの暖房を入れ、各部屋の温度設定を上げた。
二階の部屋の一室には、ダンボールが積んであり、一次落ち作品の束と思われるものがぎっしり詰まっていたので、ここが風祭の部屋だろう。
風祭は窓から外を覗いて、微笑んだ。建物裏に五分も歩けば、小さいながらも細い渓流と繋がった池があった。
ひょっとすると、単に冬場の雪解け水が溜まった水溜まりか、人工池もしれないが、ちょっとした釣りスポットになっているかもしれない。
だが、仕事や釣りは、あとでいい、安心したら、おなかが空いてきたし、眠くもなってきた。
風祭はさっそく、キッチンで冷凍パスタを温めて食べると「ちょっと眠るから」と柊に声を掛けて、温かくなっていく家で眠りに就いた。
9
起きると昼過ぎだった。夕飯を食べようとすると、夕飯ができていなかった。不思議に思い、柊の部屋に行くと、柊が寝込んでいた。
「具合が悪いのか? 薬を探してこようか」
柊は体調が芳しくないのか、元気なさそうに、初めて弱弱しく言葉を発した。
「薬は、さっき飲んだわ、ちょっとした風邪だと思う。悪いけど、食事は独りで食べてちょうだい」
柊は海や暑さには強いが、寒さには弱いのかもしれない。
雪が残る山で一晩を過ごしたり、雪を掬って食べたのが、体に障ったのかもしれない。
風祭は、柊の好みに合うかわからないが、冷凍庫にあった食材や缶詰で、柊のためにミネストローネ・スープを作った。
クルーザーの中ではいつも、柊が食事を作ってくれていた。柊の体調が悪い時くらい、料理当番は風祭がしなければ。
結局、柊の体調は次の日も、また次の日も悪かった。どうやら、風邪を拗らせたらしい。
風祭は、柊の体調が良くなるまで、釣り竿を取り出すこともなく、家事をしながら、見聞録の粗筋書きをすると決めた。
もっとも、家事といっても、朝食と夕食の料理だけで、昼はレトルト食品だが。
風祭は「三作目はファンタジーになってもよい」と言われていたので、柊が苦手なSFを意識的に避けた。
孤島にいた時から温めていた、海洋冒険ファンタジー風の見聞録に、風祭は意気込んで取り掛った。
風祭は、一作目が酷評と聞いていたので、少しは世間を見返してやりたいと、感じていた。
「俺には外洋に船に出た経験もできたし、嵐をやり過ごした経験もある。二つを盛り込めば、きっと、ありきたりでも、面白い見聞録にできる。やるぞー」
*
(大嘘見聞録・三作目)
俺が瞬間移動した先の世界は、砂漠だった。砂漠の先には、大河と崩れかけたビルが見えた。どうやら、ここは前回やって来た世界より、もっと荒廃が進んでいる世界らしい。
俺は警戒しながら、移動していると、大河のほとりで、半魚人と人魚の中間のような、ネーマンという種族の青年バニスと会った。
バニスは俺が瞬間移動で別の世界からやって来た事実について、ほとんど興味を示さなかった。
どうやら、大部分が砂と水で構成されたバニスの世界には昔、高度な瞬間移動技術があったらしい。
瞬間移動があった時代に、人類の大部分は荒廃した母星を捨てて新天地を求め、どこかに旅立った。
残った人間は、水中でも陸上でも生活できる種族ネーマンになる選択をした人類と、人のままでい続ける選択をした人間に別れたそうだ。
バニスの村に行くと、邪険にはされなかったが、歓迎されもしなかった。バニスの村には、俺の他にもアドネという人間の少女がいた。
アドネが、同じ人間である俺に興味を持ったので、バニスにやきもちをやかれ、苦労した。
アドネは赤子の頃に村に連れてこられて、バニスと一緒に育ったそうだ。
二人は仲がよかった。
俺はネーマンの老人から、アドネが使うのと同じ携帯型小型ボンベを借りた。
バニスとアドネは、いつもの遊び場である水中遺跡に俺を連れて行ってくれた。
俺は「もう少し遠くを見たい」と言って、少し遠出させてもらった。遠出した先で人間の街から来た老人と遭った。アドネは人間の街の存在を知ってしまった。
アドネから人間の街に行きたいと相談された。バニスからはアドネに対する恋心を打ち明けられ、アドネと今いる村で一緒に暮らしたいとの相談を持ちかけられた。
俺は、好奇心により、二人の感情の板ばさみになった。
異邦人の俺は結局どちらの味方もできかった。結局、アドネはバニスに別れを告げ、人間の街に行く。
*
粗筋を作ってから不思議に思った。
「あれ、なんか海洋冒険ファンタジーを書こうとしたのに、恋愛要素が前面に出ている。書いてみたら、船の揺れも、嵐の経験もほとんど活かされていないな。なんか、違うものができたぞ。でも、これ、作ろうとした物がカレーなら、カレー南蛮くらい違う物ができだけど、良さそうに見える。でも、人の評価は、どうなんだろう
」
実際に机を前に書いてみたら、思ったものと全く違う物ができた。こうなると、書いた本人が出来栄えについて一番よくわからない。
独りで悩んでも、どうしようもないので、柊に感想を聞いてみるしかない。
風邪がよくなり、寝たきりから、半寝たきり状態の柊に粗筋を見せた。
柊はどこか熱でボーッとした表情で、鼻を詰まらせた声で、評価した。
「これでいいわよ。なんか、あまり想像力を刺激されないし、人魚と人間の種族を超えた愛っていうのも、とても、ありきたりで、創意工夫が入らなさそうでいいわよ。これで、ボスに御伺いを立ててみるわ」
柊は鼻をかみ「鼻が辛いわ」とこぼしながら、使用済みティッシュが山のように入っている、ゴミ箱に使用済みのティッシュ・ペーパーを捨てた。
どうやら俺の書いた力作はまたも、大嘘見聞録としては妥当である=駄作という評価を貰えた。
でも、柊が本調子ではないのは明かだ。いつもなら、もっと辛口の表現で、「この見聞録はないわよ」とか「あんたに男女の駆け引きを書けるの?」みたいな意地悪な言い方をして、貶めて笑うのだが、そんな余裕は、まだ戻っていないようだ。
別に俺はマゾではないが、今までが今までだけに、辛口の批評で笑われたり、ダメ出しがないと、もの足りなさを感じた。それとも、これはある種のマゾヒズムなのだろうか。
柊の頭脳が熱で本調子ではないなら、粗筋を見せるのを、もっと待ったほうがよかったのかもしれない。
「あのさ、柊。なんなら、別なの考えてみようか」
柊が具合の悪い顔で、不機嫌な視線を向けた。
「なに、私の判断が不満なの?」
どうやら、意地っ張りで強気なところだけは、復活しているらしい。だったら、怒らせるのは適切とはいえない。
見聞録の粗筋については、所長からあっさりOKが出た。研究が早く進みすぎた現在、もう見聞録なんて、どうでもいいのかもしれない。
風祭は家事をしながら、柊の完全復活を待った。
結果、寒さに弱い柊が完全に復活するのは、山荘に着いてから十日が経過してからだった。
10
柊が復活したら、見聞録を書く傍ら、裏の池で釣りをしてみたが、全く釣れなかった。
最初は、成果よりも釣糸を垂らす行為が大切、と思っていたが、やはり、釣れないと癪だ。
もう、ここは水溜りなのだと言い聞かせて、釣りなんかしないぞと思ったら、魚影が見えた気がした。
鯰か鯉でもいるのかもしれないと思うと、魚に負けた気がして、釣りを止められなかった。
そうして、エサや水深をどうするかで、頭を悩ませていると、執筆が滞り、柊に怒られた。
柊に怒られると怖いので執筆するが、手が休まるとやはり、池の攻略法を考える。考えると、執筆が停まるので、また柊に怒られる。
今回は時間があるのか、はたまた一日二食でも料理を作って誠意を見せたのがよかったのか、看守と囚人状態にはならなかった。
すると物足りなくも思えてきた。どうやら、いつの間にか、執筆しながら怒られ、隙をみて釣りをするという状態が楽しいと感じるようになっていた。
監視の目をすり抜け、仕事をサボってする釣りがなにより好きとなると、本当にもうダメ人間だ。人間、向上するのは難しいが、堕落するのは蜜の味だ。
駄目な己に対しては、アルコールや合法ドラッグに走らなかっただけいいと自らに言い訳した。
見聞録の執筆は三作目と慣れてきたせいか、七週間後に七割が完成した。そんな、ある日の午後、柊から話があった。
柊は日常会話をするように普通に話してくれた。
「瞬間移動の基礎論文が、権威ある雑誌に見事に載ったわよ。載った翌日、以前にも言っていたように、北海道から研究所への犬の瞬間移動実験を行って、大成功したわ」
意外と早く、来るべき時が来たのかもしれない。問題はここからだ、次は猿でやると思うが、猿の実験のほうが難しい気がする。
犬は人類最初の友といえるべき、従順さを持った動物だ。研究所で愛情を持って育ててやれば、素直に研究所に戻りたいと思い、実験は成功するだろう。
けれども、瞬間移動に対象の意志が作用するのなら、猿のような動物だと、難しいだろう。
むしろ人、間でやったほうが成功するかもしれない。だが、人間で失敗すれば、研究は日本のトラウマになって、停まるかもしれない。
そうなれば、元々論文があったロシアやイスラエルが瞬間移動論文に気がつき、先を越されるかもしれない。アメリカだった、黙ってはいないだろう。
トップは走り続けなれば、追い越されるのが科学の世界だ。
科学の世界はいいとしよう。科学の世界は所長のリングだ。レスリングでもボクシングでもバトルロワイヤルでも、好きにすればいい。
大事なのは、俺だ。
風祭は、どきどきしながら聞いた。
「それで、あの、世間様の評判は、どうなの」
柊が肉じゃがを器用に箸で割りながら、他人事のよう評した。
「どうなのって、世間は手の平を返したように、お祭り状態になっているわよ。二十一世紀は、アメリカを追い越して、日本がリーダーになる時代が来る。経済成長は爆発的に起こって、年金と医療問題は解決して、消費税とガソリン税を撤廃して高速道路タダにしてもお釣が来るって、浮かれまくっているわよ」
日本の未来は、どうでもいい、聞きたいのは、俺の評判だ。
「世間がお祭り状態になっているとか、消費税が撤廃できるほど経済が成長するとか、そのへんは、どうでもいいよ。大事なのは俺の評価だよ。俺は今、どういった立場なの」
柊が箸を止めて、浮かない顔で答えた。
「見聞録の著者は、まだ謎になっている。でも、見聞録の著者は、今や瞬間移動のお祭り騒ぎを支える影の役者になったのは、確かね。著者の名前や素性は知られていないけど、一部では信仰の対象にすらなっているわ。なんだけど、やはり見聞録の粗を全部は潰しきれていなかったせいか、見聞録の著者は単なる創作上の人物か、または詐欺師だとのバッシングも流れているのよね。もし、風祭が実在していて、大嘘吐きだとバレたら、反動でCIAにでも匿ってもらわないと、命が危ないかもしれないわよ」
柊が冗談ぽく言ってくれたのならまだ笑えたが、真面目に浮かない顔で評価されると、今になって心配になってきた。
最後に柊が、澄ました顔で付け加えた。
「結局のところ、ボスの匙加減一つといったところね。風祭が実在するのか、風祭が見聞録を書いた張本人なのか、公表していないからね」
風祭は今になって、一番運命を握られてはいけない人物の手に風祭の未来が託されたと知った。
食後、風祭の気分は欝的に落ち込んだ。なんか、勢いで進んできたけど、最後は悪魔の手の中に落ちたと気分だ。
所長は何を考えているのだろう? 所長の考えだけは読めない。




