第三章 大冒険の幕が切って落とされ、ない
第三章 大冒険の幕が切って落とされ、ない
1
風祭の態度が決まると、柊が「ちょっと待ってなさい」と部屋から出て行って、すぐに戻ってきた。
柊は、袖の短い麻のシャツとジーンズ地の半ズボンといったラフな格好をした、柊と同じ年齢と思われる人物を連れて来た。
相手は、柊より身長が少し高く筋肉質で、髪が軍人のように丸刈りに近かった。色黒の顔立ちは、どことなく女性を思わせるのだが、髪が短すぎるので、男性にも見えた。
柊が、全く愛想のなく横に立つ人物を紹介した。
「私の相棒のセシリア・バルボッサ。ブラジル人で、ポルトガル語しかできない。船の操縦は、セシリアがやるわ。もっと小さくボロイ船で、ブラジルから日本までだって航海できる腕があるから、操縦のほうは心配しないでいいわよ」
セシリアという名なので、女性だろう。でも、印象としては、なんか傭兵のようにも見える。
風祭はポルトガル語が全くわからない。とりあえず、日本語で「よろしく、お願いします」と挨拶し、握手を求めた。
セシリアは、ぶっきらぼうに「オイ」とだけポルトガル語らしい言葉で短く挨拶し、手が痛くなるほど強く握って、握手を返してきた。
日本人が嫌いなのか、仕事に不満があるのか、わからないが、あまり友好的な感じではなかった。
柊がセシリアに、何かポルトガル語と思われる言葉を掛けると、セシリアはあまり風祭の部屋にいたくないというように、すぐに部屋から出て行った。
柊がセシリアの態度をフォローした。
「愛想がないのに、気を悪くしなでちょうだい。ほとんどの男に対して、セシリアはいつも、ああなのよ。ないとは思うけど、セシリアに言いたいことがあったら、私に言ってよね」
風祭をよく思っておらず、日本語が話せないなら、最初はあまり話しかけないほうがいいのかもしれない。
ただ、年単位で一緒に過ごすなら、ポルトガル語を教えてもらって、あるていど、コミュニケーションを取ったほうがいいのだろうか。
消えたと思っていたらすぐに、セシリアが戻ってきた。
先端にカラビナとベルトが付いた、リード状で長さを調節できる物体を渡してきた。セシリアが動作で使い方を教える。どうやら、命綱らしい。
風祭が命綱の取り扱い方を理解すると、セシリアは無言で部屋を出て行った。
柊が風祭に念を押した。
「海は揺れるから、常に命綱を付けること。とくに、甲板に出る時は必須よ。うっかり付け忘れて、海に落ちれば、きちんと、死亡診断書の死因欄には『うっかり』って記載してボスに届けてあげるわ」
そんな死因は嫌だが、船の上は、そんなに揺れるのだろうか、
船の大きさだって四十メートルはある。船が揺れるといっても、動き回るのは日本近海だろう。NHKの特集で見た、ベーリング海の蟹漁船ほどは揺れないだろう。なら、楽勝だ。
柊が宣言した。
「一旦、海に出たら、物資が切れるか、燃料がなくなるかするかまで、港には寄港しないわ。それと、もし、港に寄港しても、あんたは一切、陸には上げないから、そのつもりでいてね。つまり、船を降りたいなら、さっさと見聞録を書き上げること、いいわね」
「言われなくても、わかっているよ。見つからずに執筆するための措置だろう。すぐに、仕事に取り掛かるよ」
柊が部屋を出て行くときに振り返り、意味ありげに、捨て台詞を残した。
「すぐに、仕事に取り掛かる、ねー。初めて海に出る人が、いいますねー。しばらくは、仕事にならないと思うわよ」
風祭は柊の馬鹿にしたような言葉にカチンと来たが、あえて黙った。
柊がすぐに、閉めた扉を開けて、顔だけ出した。
「あ、なんだったら、賭けようか。もし、すぐに、仕事に取り掛かれて、見聞録の一章が三日以内に書けたなら、私は船の中で裸に命綱の格好で一ヵ月、生活してあげるわ。その代わり、あんたが負けたら、来月の給料一ヶ月分、まるっとちょうだい」
「よし、俺が勝ったら、お前は裸命綱だな。その賭け――」
風祭はその先の言葉を飲み込んだ。柊の裸命綱スタイルには、心を引かれるものが確かにある。
だが、クルーザーの上は柊の縄張り同然だ。船を揺らさないのは難しいが、逆は簡単だ。危ない危うくまた、助平心を利用され騙されるとこだった。
風祭は、いたって冷静に、優しさを滲ませるように努めて発言した。
「いや、賭け事はよくないよ。それに、もし万が一、俺が勝って、柊を裸命綱にさせたら、俺の紳士たる良心が痛むよ」
柊が呆れた顔で言い放った。
「命惜しさに、仲間の女を撃つ人間を紳士とは言わないわよ。やっぱりあんたは、大嘘吐がお似合いだわ」
2
クルーザーの中で、一次落ち原稿を読もうと、棚からダンボールを出している整理していた。
ところが、出航後、五分と経たないうちに、揺れが気になり出した。
さっそく、一つ目の原稿を取り出して読んだ。三分で気持ちが悪くなった。船酔いの始まりだ。
原稿を読むのを止め、ダンボールに詰めて棚に戻し、扉の鍵を掛けた。
横になれば、楽になるかと思ったが、よけい気分が悪くなった。もう、原稿を読んでいなくても、気分の悪さは変わらなかった。
風に当ればよくなるかと思い、甲板に出た。ところが、気分は最悪だった。甲板の柵に寄り掛かり、頭を上げて、遠くを見た。
名も知らぬ港がどんどん、小さくなって行き、海に沈むように消えていった。上を向いていたが、船酔いは停まらず、重力に逆らって嘔気が込み上げてきた。
緑色の海面が見えた。海面から波が、子供がシンクロ・スイミングするように、ゆっくり上がり下がりしている。
クルーザーの先端に目をやると、大男が張りきって、スクワットをするように激しく上下に揺れていた。
賭けに乗らなかった腹いせに、柊がクルーザーを激しく揺らしているのだろうか。だとすると、なんて性悪な女なんだ。
想像以上に、揺れは激しく、波が風祭の体を揺さぶっていた。風祭は結局、出航後、三十分と掛からずに、海に嘔吐する羽目になった。
吐いたら少し楽になった気がしたので、部屋に戻ろうとした。階段を下りていると、すぐに気持ち悪くなったので、すぐに、甲板に戻った。
甲板に出て空を見上げて、はあはあと息をしながら、再び吐いた。部屋に戻るより、甲板にいたほうがいいので、ずっと甲板に出ていた。
柊が、憎たらしくなるほど爽やかな笑顔で、やってきて、馬鹿にしたように声を掛けてきた。
「風祭さん、どうかなさいました? 顔色がお悪いようですけど、大丈夫ですかー」
「これは、お前の仕業か、柊」
柊が風祭を、見下ろして、心の篭らない優しい言葉を掛けた。
「馬鹿を言ってもらっては、困るわ。私が操縦していたら、あんたの目の前にいるわけないでしょ。セシリアの運転が荒いわけでもないわよ。これくらいの揺れは、むしろ当然。じゃあ、船旅は始まったばかりだから、ごきげんよう」
柊は、風祭の給与一ヶ月分をせしめそこなった腹いせに、苦しむ様子見にきただけなのか、すぐに、その場を去ろうとした。
風祭はすがる思いで柊を引き止めた。
「待ってくれ、柊。この、揺れどうにか、ならないのか。揺れを止めてくれたら、給与一ヶ月分やるよ」
柊は苦しむ風祭を見下ろしながら、丁寧な言葉だったが、突き放した。
「それは、私じゃなくて、海に言ってくれないとね。船を揺らしているのは、私じゃなくて、波なわけだし。じゃあ、そういうことで、海に頼んでみてね、ばーい」
柊がそのまま船の中に去ろうとしたが、何かを思い出したように足を止めて振り返った。
「ねえ、あんた。今でも覚えている中で、想い出深くて、情景を思い出せる、心地よかった場所ってある?」
柊がなんで急に俺の想い出の地を知りたがるのか不明だが、どうでも良い情報なので教えてやった。
「あるよ。大学の中にあった、ただ芝生の生えている広い場所。大学で単に大学ローン《芝生》って呼ばれていた場所だよ。冬以外、よく大学ローン内の木製ベンチに座って本なんか読んでいたよ」
柊がふーんといった感じで聞き、アドバイスしてきた。
「じゃあ、空を見上げながら、学生時代過ごした大学ローンとやらを思い出してみれば、少しは気が楽になるかも知れないわよ」
風祭は柊のアドバイスを元に、去年までいて、大好きだった大学ローンを克明に思い出した。大学ローンの風景はしっかりと思い出せたが、ちっとも気分が良くならなかった。
しばらくして、風祭はまたしても、柊にいいように、からかわれたと思った。
3
甲板で揺れに苦しんでいると、いつの間にか、緑色の海面が、薄い青に変わっていた。
あと、どれくらい苦しめばいいのだろう。
大海原とは、よくいったもので、もう、青い海しか見えない。青い海は綺麗だが、船酔いのせいで、海の青さがとても憎く見えた。
天気が良いのが救いだった。船の揺れなんて、ゴムボールが鈍く転がるぐらいの揺れだと思っていた。
けれども、実際は、中身が入った蜜柑箱を置いても、這いずるように移動するくらいの強さで、風祭の体を揺すっていた。
太陽がだいぶ傾いてきたころに、船の針路が変わった。
時間にして七時間くらい揺られただろうか、意識もはっきりせず、気持ち悪さだけが、胃に残っていた。
夕食の準備ができたと柊から知らせを受けたので、食堂に移動だけはする。
柊は食堂でサンドイッチを食べていたが、風祭の席には、乳酸菌飲料だけが置かれていた。
どうせ、食べられないでしょう、との柊の意思表示だが、「俺にもサンドイッチをくれ」とは言えなかった。今は、固形物を食べられる状態ではない。
風祭が、甘い味の乳酸菌飲料を飲むと、自室に戻り、横になった。
体力の消耗により眠れたが、揺れで起こされる。朝食は食べる気がしないが、食べずにいると、柊に馬鹿にされそうに感じた。
それに、昨日は乳酸菌飲料しか飲んでないので、少し空腹も感じていた。
風祭は無理にも、パンを少しだけ食べた。もっとも、朝食のパンも、昼飯前に海に消える事態になった。
それ以後、食事の後、ペンギンが食べて半分消化したエサをヒナに与えるように、風祭が海の魚にエサやりする事態になった。
風祭が吐くと、下に魚群があるのか、水面に魚の跳ねる尾が無数に見えた。
ほとんど甲板の上にいて、座り込み、憎たらしい青い海と、白い雲が流れて行く空を眺めた。
時折、胃が限界に来ると、立ち上がり、海に吐いた。海の色が緑から、青黒く変わっていた。
昔、社会科で習った黒潮を思い出した。ぼんやりした頭で、黒潮って、ほんとうに黒ずんでいるんだと納得した。
黙って空を見上げると、お日さまと雲だけが優雅に移動している。そうして日が落ちてくると、やむなく、ベッドに向かった。
見聞録を書くどころか、原稿を見る作業すらできなかった。揺れのせいで食欲も出なかった。でも、柊に馬鹿にされないように、少しだけでも、朝食と昼食を意地で食べ、魚に還元する。
三日が限界だった。三日目の晩に、風祭は食堂で柊に、凶作による年貢の免除をお代官様に頼む農民のように、縋り泣きついた。
「もう、ダメです。限界です。お願いですー。船から降ろしてください。柊様、お願いしますー」
柊が、縋りつく風祭の体を、強い力で引き離す。パンといい音を立てて、風祭の右の頬をぶった。柊はそれから、風祭の肩を掴んで、言い聞かせる。
「あのねえ、まだ、三日でしょう。一週間もすれば慣れるから、落ち着きなさいよ。それに、最初に戻れないと、言ったでしょう。もう、覚悟を決めなさいよ」
風祭は恥も外聞も、綺麗に捨てた。
「無理、無理、無理、この揺れはもう、無理。戻してくれ。誰にも見つからないだけなら、どこかの孤島や、雪に閉ざされた山荘だっていいだろう」
柊は苦い顔して、憮然と指示した。
「もう、しかたないわね。待ってなさい」
え、戻れるの。無理だと思って頼んで見たけど、ちゃんと考えてくれるんだ。そりゃそうだよな。こんな状況じゃ、仕事にならない。
風祭は期待して待っていると、柊が、手紙を入れるような縦長の封筒を持ってやって来た。
柊が封筒の上部を無造作に破って中の文章を読んでから「目を瞑って」と指示した。
風祭は目を瞑ると、いきなり左の頬にも痛みを感じた。いきなり、ぶたれて驚く風祭に、柊が言い放つ。
「悪く思わないでよね。出発前にボスから、もしあんたが、帰りたいと言い出したら、開けるよう指示された封筒があるのよ。一通目の封筒の中の紙には左の頬もぶってやれって書いてあったから。どう、降りる気、なくなった? それとも、二通目を開封したほうがいいかしら」
所長がいたら、「あんたは諸葛亮孔明か」と言ってやりたいところだが、降りるという選択肢はないらしい。
「左の頬も」と書いてあったのなら、すでに所長は今の状況を織り込み済みだ。とするなら、二通目もきっと風祭にとって、もっとろくな内容ではない。
下手をすれば三通目には「海に投げ込み事故を装え」とでも書いてあるかもしれない。
風祭は「もう、いいです」とだけ述べて、目が回るような意識と、嘔気に悩まされながら、自室に戻った。
柊は一週間もすれば慣れると言ったが、一週間が経っても、慣れなかった。
一日中ずっと悪路を進む、サスペンションの故障したトラックに乗っているような揺れを感じて、気分が悪かった。
結局、甲板から青い空と、青黒い海を見る生活に戻った。吐かなくなるまでに、さらに三日の日を要した。
4
船に乗って吐かなくなると、大嘘見聞録を書く仕事を始めなければならない。船に慣れるまでに、十日間は何も仕事をしていないのだ。
揺れるクルーザーの中で、一次落ち原稿を読んでいたが、三十分しない内に嫌気が差した。
揺れる中、物を読むという作業は、労力を要した。
まだ、興味ある本や、面白い本なら、いい。だが、風祭が読まなければいけない原稿は、ライトノベルの一次落ち作品だ。
読むのが困難な、日本語の不自由な作品が多い。
回想シーンの中に入る回想シーン。
途中で名前が変わる登場人物。
どこまでも、切れ間なく続き、何が言いたいのか、皆目わからない文章。
意味不明な創作漢字に比喩。
修飾語と被修飾語が離れ、意味がわかりづらい文章。
揺れる船の中で、面白くもなく、意味もわかり難い文書を読んでいると、気持ち悪くなった。
これほど、読みたくもない、つまらない原稿を、来る日も来る日も読むのが、こんなに苦痛になるとは思わなかった。
揺れる船。一次落ち作品の原稿読み。どちらか一つなら耐えられたが、二つ同時は、耐えられなかった。
結局、風祭は仕事をするかたわら、再び、甲板に時折は出て、青黒い海に向かって胃の中から魚にエサやりをする事態になった。
だからとって、もう逃げ出すわけにはいかない。退路はない。背水の陣どころか、全方位、水なのだ。
なぜ所長がライトノベル一次落ち作品を参考にする案を出したのかは理解できる。
あまりにも似た世界設定が多いのだ。新人賞なら似た設定が出れば、アウトだが、見聞録なら、話は違ってくる。
今回の仕事は、似ている作品が多いという事態は、それだけ同じ環境を考えている人間が大勢いる現実を意味する。
同じ状況を考える人間が大勢いる、イコール、誰もが考え付き、共感が持たれやすいという世界だ。
しかも、一次落ち作品は、有名な作品と似てはいるものの、見聞録を書くにはちょうど良い具合にマイナー・チェンジされている。なので、見聞録が世に出ても『あの有名作品』と全く同じという事態には、ならない。
多数の同じく芋判で押して作ったような作品から、世界観を抽出して、類似点を纏めれば、素人でも、それなりの世界が描ける。
芋判小説の寄せ集め世界。小説新人賞なら完全にアウトだが、なんせ、これから書こうとしているのは、見てきたように嘘を書く大嘘見聞録だ。むしろ、芋版小説万歳なのだ。
5
風祭は船の揺れもあり、途中で読むのが嫌になり、まともに、全部を読むのを止めた。
どうせ、必要なのはデジャビュー感がありそうな、継ぎ接ぎ世界観だ。内容は適当に読み飛ばしていこう。
休憩はない。正確には休憩する時間があるが、やることがなかった。
念の入ったことに、見聞録を書くために、固定されたパソコン部屋に一台あるが、作業から逃避するのを防止するためか、ゲームの類は一切、入っていなかった。
居場所を特定されないため、インターネットの接続もできない。パソコンに入っているのは、百科事典と国語辞書ソフトのみ。
さらに、四日が経つと、揺れる船の中でも吐かずに原稿を読めるようになった。食事も少しだが、一日に三回、きちんと取れるようになった。
慣れてきたと感じた。もう、大丈夫だと思った、翌日に、少しだけ天気が荒れた。
船酔いに慣れたと思ったのは、間違いだと思い知った。
四十メートル級クルーザーといっても、波が高い時は、金持ちが優雅に揺らすブランデー・グラスの中身のように揺れた。
もう、原稿を読むどころではなかった、食事もできなくなった。
辛くなり、灰色の空の元、甲板に一度、出ていった。
吐いている時に、大き目の波が来て、頭から海水をぶっかけられ、足が滑って尻餅をついた。
死神の手が、濃紺の海から突き出し、白い波の間から、おいでおいでをするのが見えた気がした。
こうなると、ただ、もう部屋のベッドの柵に掴まって、体を丸めて、座っているのがやっとだ。
部屋の円い窓からは外が見えるが、辺り一面、水しか見えない。
今の状況が二年も続けられるだろうか? ある意味、水上刑務所に懲役二年の判決を受けて服役するのと、あまり変わらない気がする。
今さらながら、とんでもない仕事を引き受けてしまったと悲嘆にくれた。
それでも、夜に波が低くなると、ベッドに座ることができた。やっとの思いで、食事代わりで野菜ジュースを飲んで、ベッドに戻った。
柊は風祭がどんなに苦しんでも、柊は手を差し伸べようとはしなかった。
翌々日にやっと、前と同じくくらい食事が食べられるようになり、揺れている中でも、イスに座って原稿を読めるようになった。
風祭が食堂にやってくると、柊が回復してきた風祭に対して、つまらなさそうに、感想を述べた。
「一日三回の飯が喰えるようになって、吐かなくなるのに、出航して十七日か。慣れるのが早かったわね。最低でも、船に慣れるのに三週間は掛かると見ていたんだけど。あんた案外、大嘘吐きより船乗りのほうが向いているのかもしれないわ」
前に揺れが一週間で、慣れると発言は嘘だと知ったが、もう、どうでもいいとこまで来た。騙されたが、文句を言う気にもならない。
柊に「船乗りに向いていると言われたので」柊なりの褒め言葉かと思った。風祭が食堂を出て甲板に出て風に当っていると、セシリアと柊が交替するのが見えた。
操舵を交代する時、セシリアが何か言って手を出すと、柊が面白くなさそうに畳んだ紙幣を渡すのが見えた。
柊は明らかに、風祭が三週間は吐き続けるに、賭けていたのだと思った。
6
さらに、一週間経つと、波がよほど高くならない限り、思うように、原稿読みができるようになっていた。とはいえ、見聞録は一行も書けていなかったので、焦りを覚えた。
そんなある日の昼食後、柊が話し掛けてきた。
「どう、船にも慣れたかしら。ボスから、そろそろ、一話目の見聞録作りが始まっているか、確認しろって指示が来ているんだけどね」
船に適応できたのはつい最近。見聞録はまだ、粗筋の段階だった。
「うん、そうだな。とりあえず、一回目の見聞録の粗筋は、できてきたけど、量を書けるかどうかが問題だな。こうしてみると、何百枚と小説を書いている人間って、ある意味、変人だ」
柊から小馬鹿にしたような、軽い叱責が跳んだ。
「あんたって、お馬鹿よね。最初から何百枚も書かなくてもいいのよ。物書きは素人なんでしょう。メモみたいな断片的な物でも、まず、何か書きなさいよ。あまりにも、できが酷いようなら、メモを元にして、ライターにでも編集させればいいのよ」
「なんか、ゴーストライターを使って書かせておいて、芸能人が書いたという小説みたいだな。なら、いっそ、俺に頼まず最初からライターに全部やらせればいいだろう」
「全部の事情を知っていて、あんたより信頼の置けるライターって誰かいる? そんな奴、いないでしょう。第一、ライターが良心の呵責にでも負けて暴露したら、どうすんのよ」
まるで、俺には良心がないとでも言いたいような言葉だが、言い争いは止めよう。
三人しかいない船の中で、俺の味方は誰もいないのだ。
食事が終ると、柊が意気込んで宣言した。
「粗筋ができているんなら、午後から私に読ませなさい。あんたの作った粗筋から、こっちの作業工程も見積もらなきゃいけないんだからさ」
*
(大嘘見聞録・冒頭・前編)
俺は人間を使った、瞬間移動実験に率先して志願した。
所長の話では、福島の研究施設に行く予定だった。光に包まれ、出た先は、見晴らしの良い丘の上だった。
所長から、行き先がずれる事態もあり、状況によっては、安全の保障はできかねない、と言われていた。
瞬間移動実験に協力するに当って、生命の危険を承知していると内容を記した書類にもサインしていたので、施設以外に出ても文句を言う気もなかった。
丘の上から下を見下ろすと、麦畑と、向うに大きな石造りの古い街が見えた。
どうやら、日本ではないらしい。雰囲気からして、ヨーロッパのどこか古い街かもしれない。
少しまずい事態になったと思った。
衛星通信を利用したスマートフォンを持たされていたので、GPSで場所を確認してから、研究所に指示を仰ごうとした。
GPSも作動しなければ、電話もかからなかった。
瞬間移動時に故障したのだろうか。これは困った。
俺は運転免許証を取得していないので、身分を証明するものとして、パスポートを携帯していたが、外国なら厄介な事態になる。
俺は、密入国者だ。それとも、瞬間移動失敗者は遭難者扱いとして、帰国させてもらえるだろうか。難しいだろう。
古いが大きな街なので、クレジットカードが使えるホテルにチェックインして、電話を貸してもらい、研究所に連絡しよう
。
VISAとアメリカン・エクスプレスのカードを持っているので、どちらかは使える事態を願おう。
とりあえず、街に行ってみよう。
街に行く途中、農作業をしている人が見えたが、農機具を使っていない代わりに、馬が見えた。
有機栽培小麦を作っているにしても、機械を使わないなんて、すごい気合の入りようだと思った。
街の入口に来て、驚いた。
街の入口には警備らしき人間が立っていたが、彼らもまた中世ヨーロッパを思わせる鎖帷子を着て、手には時代錯誤な槍を持っていた。
門の前から覗くと街の中が見えるが、街行く人間の格好は皆どこか、昔の中世ヨーロッパを思わせる格好だった。
街には鎧を着た人、先端に光を点した杖を持ちローブを着た人間も見られた。
驚きだった。所長より行き先は異世界になるかもしれないと言われたが、冗談だと思っていた。けれども、目の前の光景は、正に剣と魔法のファンタジー世界だった。
門番が立ち止まり、街中を覗く俺の姿を、黙って珍しげに見ていた。
帰れるのだろうか、という不安もあったが、この世界を見聞きしたいという、好奇心のほうが強かった。
*
7
柊は風祭の作った冒頭を読んで、渋い顔で感想を述べた。
「見聞録の冒頭なんだから、こんなもんでも、いいかもね。いきなり、盗賊に襲われたりしている少女を救って、実は少女は高貴な方でした。ってな展開じゃ、異常だしねー」
風祭は顔には出さなかったが、安堵した。実は冒頭で少女を助ける話も多かったので、導入しようかと思った。
でも、いくら芋版小説から作るといっても、見聞録の体裁をとらなければいけず、さらに冒頭なので迷って捨てた。捨てて正解だ。採用していたら、柊に酷くけなされただろう。
「じゃあ、何が不満なんだよ。どこにも不自然な点なんてないだろう」
柊が鼻で笑って、指摘した。
「ミステリーで捕まる直前の犯人みたいなセリフね。あるわよ、問題点が。日本だって出た経験がないあんたが、冷静で、用意周到、おまけに、前向きな人間と書かれているわよ」
問題じゃなくて、気にいらない点だろう。とは思うが、御指摘はごもっともだ。
風祭だって本当に、見聞録のような状態になれば、もっと恐れ、パニックになるだろう。だが、あまり醜聞は書きたくない。
どうせ、大嘘の見聞録を書くのなら、見聞録の中だけでもヒロイックな男でいたい。というより、いさせてくれ。
風祭は本心を隠して、柊に言い返した。
「いいんだよ。瞬間移動も、あと何回か続いて、冒険も続けるんだろう。冒険を続ける男は、あまり悩まないの。悩んでいたら、話が前に進まなくなる。ハリウッド映画を思い浮かべろよ。主人公があまり考えず進んでいく作品も多いだろう」
柊は「B級ね」、と小声で呟いた。それ以上、風祭の性格描写に文句を言わず、職人のような表情でコメントした。
「とりあえず、あんたの自己顕示欲の強さは、我慢してもいいわ。問題は、スマートフォンのカメラね。せっかく異世界に行ったってのに、写真を撮りまくらないのは、ちょっと変な気がしない? でも、大量の写真が出てくると、証拠品を捏造する私が、大変になるのよねえ。瞬間移動の時に、スマートフォンを壊すことにしない?」
「壊してもいいけど。帰ってくる時、どうするんだよ。予定では瞬間移動の光が次に現れたとき、研究所と電話が繋がって、異世界を見聞してから帰る予定を告げる展開にするんだぞ」
まるで、自慢げにアイデアを披露したプロデューサーが、脚本家に不自然な点を指摘され、逆ギレするように、柊が言い放った。
「そんなの、知らないわよ! 見聞録を書くのは、あんたの仕事でしょうが。あんたが、もっともらしい理由を考えればいいでしょ」
無茶苦茶だ。風祭は柊の口出しには辟易したが、今の段階ではどっちが、立場が上といった決まり事がない。なら、押してみよう。あまり主導権を渡したくはない。
「多分、スマートフォンは壊れないって。犬につけたGPS発信機だって、二台とも無事だったんだ。精密機械が壊れないのは事実だから、設定と違って、壊さないほうがいいだろう」
すぐに、柊が懐疑的に言い返した。
「でも、残り十八台は、壊れたかもしれないでしょう」
「それを言ったら、異世界に行かなくてもいいだろう」
柊が、言い合いで時間を潰すのを嫌ったのか、すぐに代案を出した。
「わかった。わかったわよ。じゃあ、こうしましょう。あんたは見聞録の中で、街に行く。すぐに、次に帰る瞬間移動の光が現れて、帰還する時間を知らせてもらうのよ。それで、その後、スマートフォンを誰かに取り上げさせるの。取り上げられておいて、帰る前に取り返すのよ。それなら、捏造する写真は、最初の入る街の概観だけでいいでしょう。電源が入れっぱなしなら、スマートフォンが戻ってきた時に電池切れで使えなくなっていました。と、なっても問題ないでしょ」
ありえなくはない展開だが、スマートフォンの取り扱いについては、確かに今後の課題でもある。
風祭も妥協した。
「よし、とりあえずは、壊れるか壊れないかは所長に技術的な判断をしてもらう。それで、壊れたほうがいいなら、あとで書き直す。本物の見聞録ではないから、どうとでも改竄できるからな」
柊は思案しながら発言した。
「うーん、そうね。科学的な考証は、ボスに御伺いを立てたほうがいいのかしら。でも、最初から写真を大量に出すのは、見聞録のマネージメント上、あんまし好ましくないわね。最初は小出しにして、話題になってから証拠品を多く出したほうが、盛り上がると思わない?」
現段階で携帯を持っていないのは、不自然だ。かといって、いつも存在するとなると、見聞録を書いていく上ではメリットもあるが、デメリットがあるのも確かだ。
今回は誰かに取り上げられるとして、見聞録中の記述から逃げても、毎回毎回、携帯を取り上げられる展開は嘘臭くなる。
次回からは理由を付けて、持っていけない理由をでっちあげたほうがいいのかな。
風祭が考え始めると、柊がすぐに、顔を顰め、口を開いた。
「後で考えてよ、後で。私はとりあえず、一作目でなんの小物を、どれくらい捏造しなきゃいけないか、知りたいんだから。見聞録の裏づけが写真一枚と証言だけってわけには、いかないでしょう。で、続きはどうする気なのよ」
8
*
(大嘘見聞録・冒頭・後編)
さて、どうしたものかと俺が思案していると、スマートフォンが突如、震えた。どうやら、瞬間移動用の新たな光がどこかに出現して、電波が届いたらしい。
俺はすぐに街から離れ、城壁の陰で、異世界に着いた事実を所長に告げた。すると、所長からすぐに、帰還命令が出た。俺は、即座に反発した。
異世界があるなら、もっとよく見物したい。もう、二度と同じ異世界に来られる保証はないのだから。
俺は正直にしばらく逗留したいと伝えた。ここで、しばらく、戻れ、戻らない、のやり取りがあったが、俺が強引に二週間の滞在を決めた。
帰ったら、瞬間移動実験の手伝いはクビになるかもしれないが、後の事態は後で考えればいい。
今は、この状況を楽しみたい。
*
柊がまたすぐに、冷たい視線で突っ込みを入れた。
「だから、あんたさー、カッコ付けすぎだってば。本当なら、逆でしょ。所長がしばらく滞在しろっていっても、すぐに帰してくれってー、泣いて頼むんでしょ。『後のことはあとで考えればいい』って言っているけどさあ、実際、行き当たりばったりで物事を決めて、悪いほうに転んで行くタイプでしょ」
真実だけに耳の痛いセリフだったが、少しくらい、夢を見てもいいだろう。
「実物には目を瞑れよ。でも、いいだろう。どうせ、大嘘見聞録なんだから」
柊が、馬鹿を蔑むような顔で、強い口調で非難した。
「別に、あんたが格好つけて失敗して苦しい立場に置かれても、そりゃあ自業自得だからいいわよ。ただ、心配なのは、あんたのヘマが、ボスを巻き込む事態なのよ。瞬間移動が成功して、時の人になったとき、あんたはインタビューを受けて絶対にボロを出すわよ」
余計なお世話だ。馬鹿にするなよ。俺は、柊が言うほど頭は悪くない、と思う。
風祭は、半ばムキになって答えた。
「大丈夫だよ。俺はそんなに馬鹿じゃない。取材を受けるのは最低限にして、受けた取材だって、乗り切って見せる。見聞録の仕事が終っても、芸能界に出る真似はしない。慎ましく、どこかにアパートでも建てて、年金が出るまで、家賃でひっそり暮らしていくよ」
柊がちょっと軽蔑したように風祭の言葉にコメントした。
「人生、それぞれだけどさあ。私だったら、あんたの生き方は、夢のない人生だと思うけどね。夢とリスクは隣り合わせだから、リスクを取れとは言わないけどね」
次に、辛辣な表情で厳しい警告を発した。
「私は一度、危険性を感じたから、忠告をしたわよ。忠告を無視するなら、すればいいさ。もう見聞録の別人格の風祭様には、なにも言わないよ。ボスはボスで、あんたがヘマをしたときの対処法を立てるだろうし。ボスがどう対処しても、ボスを恨まないでよ。でも、賭けてもいいね。あんたは、きっと後悔するわよ」
9
二人が黙ってしまうと、船の揺れが大きくなってきたと感じた。
風祭は正直に不安を告白した。
「おい、柊。なんか、揺れが大きくなってきてないか、これ、危ないだろう」
柊が風祭と対照的に、平然と発言した。
「ああ、セシリアがさっき、低気圧がどうのと言っていたから、今晩は嵐になるかもしれないわね。でも、心配しなくていいわよ。セシリアが舵を取っている限り、沈みはしないわ」
外洋に出て、やったと慣れたばかりなのに、嵐だと。
風祭は、すぐに提案した。
「悪い。今日は、ここまでにしよう。これ以上、揺れると、たぶん話し合いは無理だ」
柊が意地悪く微笑えみ、馬鹿にしたように笑った。
「私はいいけど、大丈夫なのかしら。天気が荒れるのは、今日だけじゃないのよ。これから、冬になれば、頻繁に荒れるわよ。その度に、仕事を中断する気」
柊に馬鹿にされるのは癪だが、クルーザーでの本格的な嵐初体験だ。
船酔いの怖さは、経験済みだ。見栄を張っている場合ではない。
風祭は拝むような口調で頼んだ。
「いや、明日にしてくれ頼む。今日だけは、やめよう」
柊が座った姿勢のまま、腰に付けたリード状の命綱の先端のカラビナを取り出した。
柊は、壁から突き出しているパイプに、カラビナを引っ掛けた。
「しかたない。勘弁してあげるわよ。荒れる時は、船内でも命綱を使うといいわ。腰に付けている命綱は、リード式でボタン一つで距離が調節できるでしょ。寝るときも、ベッドの柵に命綱の先端のカラビナを付けて、距離を短くしておけば、ベッドの外に放り出されて床を転げ回る心配はないわよ」
風祭は、船内のいたるところにパイプ状の手摺がついている理由を理解した。
大きな波を受けたのか、クルーザーが今までにないほど大きく、大きく全方位的に揺れた。
柊は命綱をすでに付けていたので、ベッドの上から転げ落ちなかったが、体を固定していなかった風祭は、椅子から転げ落ちた。
船が横倒しになるかと思うほど、さらに一段ぐらっと大きく揺れた。
風祭の体が、床を転がった。
大きな揺れで、ダンボールを固定していた金属製の棚の扉の一つが壊れて、ダンボール箱が一つ飛び出した。
ダンボールは箱が飛び出した先には、運悪く柊の顔があった。柊は身を屈めて、顔を背けて、ダンボールを避けようとした。
だが、命綱の長さの設定まで変える時間がなかったので、完全には避けきれなかった。柊の横面が、壁に頭を打ちつけられた。
問題の棚は、最初から金具が少しグラついていた。
知っていた風祭は揺れで寝ているとき、落ちてきて怪我しては嫌だな、という思いがあった。
風祭は棚が壊れないように、原稿が少ししか入っていないダンボールを、問題の棚に入れておいた。
少ない原稿が入ったダンボールでも、柊はかなりの衝撃を受けたのか、命綱にぶら下がった状態で、気を失っていた。
こんな状態になるなら、あの棚を使わなければ良かったと思うが、もう遅い。
揺れが数秒だが、小さくなった。
風祭はその機を逃さず、ベッドに這い上がった。
ベッドの柵に、腰に付けた命綱の先端のカラビナを引っ掛け、体を固定した。
風祭はベッドの柵と風祭自身の体を密着固定した状態で柊をキャッチし、抱き寄せた。
船が大きく上下に揺れた。それでも大波を一旦やり過ごしたのか、揺れが小さくなった。
風祭は、大きな声で何度も柊の名を呼んだ。
柊と何回、呼んだかわからないが、柊が顔を歪めて、目を覚ました。とりあえず、意識が戻って安堵した。
柊が風祭の体に抱きつき、体を安定させた。
柊が呻くように悪態をついた。
「痛いわね。扉の鍵は、ちゃんと閉めておいてちょうだい」
風祭は棚の金具の不具合に気が付いていた事実を伏せて、言訳した。
「鍵の掛け忘ではないよ、棚の欠陥のせいだよ。さっき大波を受けた衝撃で、扉の一つが壊れて、ダンボールが飛び出したんだよ」
柊が揺れる中、ゆっくりと視線をダンボールが飛び出た棚の扉に目をやった。棚の扉からは鍵が外れ、鍵の部分が音を立てて生き物のように、床を移動していた。
柊が風祭の耳元で囁いた。
「少しこのままでいさせてもらっていい? 頭がまだ少しクラクラするのよ」
「セシリアを呼ぼうか?」
柊がすぐに風祭の顔を睨みつけ、罵った。
「馬鹿。死にたいの。この状態でセシリアが舵を離したら、船は横転して、三人とも溺死するわよ」
十分かそこらの時間だが、柊は両手で強く風祭の体を抱きしめるようにしてベッドの上で体を安定させていた。
柊の柔らかい体が風祭の体に押し当てられ、本来なら嬉しい状況だが、風祭にも余裕がなかった。
クルーザーが横倒しになりそうな強い揺れは頻繁にきた。クルーザーは急勾配の坂を登り下りしているかのように上下に揺れる。クルーザーに乗って経験した一番の揺れだ。
段々、気持ち悪くなってきた。かといって、風祭の体はベッドの柵に固定されている。
甲板に行きたいが、出れば間違いなく海に放り出されて死ぬだろう。柊に抱きつかれているので、トイレにも行けない。
柊の顔に吐こうものなら、金玉を蹴り飛ばされそうだ。
柊が「もういいわよ」と、風祭の体から離れた。
柊が、壁のパイプに付いたカラビナを滑らせながら、揺れる室内を移動した。
パイプにカラビナを滑らせ、扉まで来ると、揺れが小さくなったところで扉を開け、カラビナを廊下のパイプに素早く付け替えると、部屋を出て行った。
嵐はその後、三時間に亘り、激しくクルーザーを揺すったが、クルーザーは沈む事態にはならなかった。
ただ、風祭は、クルーザーに乗って初めてトイレに行き、三度ほど吐いた。
嵐が落ち着いてから、風祭は操舵室に行った。すると、柊が舵取りを代わっていた。
風祭は柊に尋ねた。
「どうする。柊は短い間だけど、ダンボールで頭を打って、気を失っただろう。一回どこかのマリーナに停泊して病院に行かなくていいのか?」
柊は、どこか恥ずかしさを隠すように、怒ったように断った。
「いいわよ。あの、ダンボール、中身は大して入ってなかったみたいだから。骨にヒビが入るほどではなかったみたい。これぐらいで、病院に行く必要はないわ。それに、私たちは極秘に移動している状況を忘れちゃいけないわよ」
「柊の体は、柊一人のものではないだろう――」
柊は風祭の言葉に一瞬、表情が和らいだ。
風祭は情けなく言葉を続けた。
「柊に何かあったら、俺はどうしたらいいんだよー」
柊が怒声を込めた、突っ込みを入れた。
「お前は、ダメ夫か! って、結局、自分の心配なの。もし、朝起きて私が死んでいたら、見聞録の風祭さまのように、冷静に行動したらいいでしょ」




