第二章 人には人の希望、犬には犬の希望
第二章 人には人の希望、犬には犬の希望
1
女性に平手打ちを喰らわされた経験は、人生で初めてだ。正確には、銃を向けられて脅され、人を撃ったのも、初めてだ。
風祭にも、ここに来て、事態が飲み込めてきた。全ては芝居だったのだ、と。
四谷さんが、汚れた白衣を脱ぎ、適当に辺りの血に見えた液体を乱暴に拭き取る。
背後から覆面女が来て風祭の肩を軽く叩いて「さあ、銃を返して」と要求する。
笑えない状況だが、怒る気にはなれない。むしろ、絶望感を覚えた。
風祭は銃を返して、とてつもない後悔をした。
所長や四谷さんは、風祭自身を評価してくれていたのだろう。だから、瞬間移動実験にも立ち合わせてくれたし、今回のように手の込んだ試験もしたのだろう。
結果次第では、大きく信頼を得て、大事な研究の一翼を任せてくれたかもしれない。
けれども、試された結果行った行動が、泥棒、裏切り、殺人だ。これ以上、最悪の行動があるだろうか。
論文を盗んだのは明日、きちんと所長に報告するつもりでした。
覆面の要求を聞き、チャンスを窺い、後から四谷さんを助けようと考えていました。
銃から弾は出ないと思いました。
現段階では、全てが白々しい言い訳だ。リストラ決定。
ここまでやってしまえば、もう泣きが通用する段階だと思えない。
四谷さんが明らかに不機嫌な顔で、死体袋を風祭から取り上げると、汚れた白衣を袋に詰めた。
所長が応接セットのイスに腰掛け、風祭に向かいの椅子に座るように促した。風祭が向いに座ると、所長を挟んで両隣に覆面女と四谷さんが座った。
リストラ面談開始かと思ったら、入口からさらに一人、スーツ姿の顎鬚を生やした五十代の男性が入ってきた。男性は今、もっと会いたくない人の一人だった。研究所に就職を紹介してくれた叔父だ。
風祭はあまりの恥ずかしさに、叔父の顔をまとも見られなかった。
今回の行動は明らかに叔父の顔を潰し、好意を踏みにじった。
まず、所長がいつもと変わらない表情で、無情な言葉を発した。
「今回のように人を試す行為は、誰に対してもやるわけではない。君は特別だった。君の様子は四谷くんと会話した段階から、別室のモニターから、全て風祭議員と観察させてもらった」
身内に恥を知られた。叔父はどういう顔で、てきぱきと泥棒をする甥の姿をモニターで見ていたのだろう。もう、土下座して逃げ出したい気分だ。
所長からはきっと、「もうこのまま真っ直ぐ帰宅して、明日から来なくいい。私物はあとで宅配便で全部送り返す」と、言われるのだろう。
だが、所長の言葉は、風祭の予測と少し違った
「君には今、二つの道がある。一つはこのまま真っ直ぐ帰宅して、明日から来ない。私物はあとで宅急便で全部送り返す。もう一つは、私の部下として明日からも働くかだ」
風祭は耳を疑った。一つ目の提示は当然だが、二つ目の提示は明らかに、おかしい。
風祭が所長だったら、絶対、部下にはしたくない人物だと評価するはずだ。
「所長、私を許してくださるんですか? まだ、雇っていただけるのですか?」
所長は悪魔と契約している哲学者のような笑みを浮かべ、どこか皮肉っぽい口調で返した。
「許す? 君は勘違いしているようだね。君には、ここの研究員としてやっていけるだけの能力はない。研究を完全に理解するのも不可能だ。ただ、瞬間移動の開発はおそらく科学的革命技術となる。研究をする以外に、他に色々とできる人材が必要になる。そういう理由での、適材適所だ」
風祭は所長の言葉を聞き、瞬時に恐ろしい解答を導いた。
つまり、所長が欲しいのは、堅気で身元がしっかりしており、手伝いもできるが、研究を盗めないよう、中途半端にしか理解でない人物。
それでいて、裏切り、泥棒、殺人ができるような人材を所長は一人、手元に置いておきたいといっているのだ。
2
人生選択の時、いや、転落の時が来た。ただ、転落には二種類あるのだと悟った。
一つは暗く苦しいドン底だが、のたうち、もがき苦しめば光が差す場所に上がれるかもしれない転落。いわゆる、経営のカリスマたちが昇ってきたという、ドキュメンタリー・コース。
もう一つは、一見するとそれほど暗くもなく、快適でもあるが、光が差す場所には戻れない転落。たとえるなら、第一の殺人を行い、第二の殺人で消される政治家の秘書のような、二時間ミステリー・コース。
風祭が状況を理解したところで、所長が暗い光りを宿した瞳で返事を聞いてきた。
「それで君は、明日、家にいるのかね。それとも、出勤したいのかね」
研究者としての能力のないのは、所長に言われずとも、四谷さんを近くで見ていて薄々気が付いていた。
どうせ、ここまで来たら、選択肢は破れかぶれの一択だ。
「明日も、ラットの世話をさせてください」
答えた後でなんだが、早まったかもしれない。今晩にいたっては、決断は全て悪い結果を出している。だが、もう人生に成功したいなら、こっちしかない気がした。
風祭が決断の言葉を口にすると、叔父が無言で部屋から出て行った。叔父の気持ちはわからないが、所長を紹介したのは叔父だ。何か、思うところがあったのかもしれない。
叔父が出て行くと、覆面女が覆面を脱ぎ捨てた。
覆面の下から、黒髪を後ろで結わえた、色黒の女性の顔が出てきた。
年齢は風祭より若いのだろうが、育ってきた環境のせいか、歩んできた道が違うのか、犯罪者のような貫禄があった。ただ、品格は、反比例して低そうだった。
博士が懐から財布を出し、風祭に三万円を渡した。
「まあ、今日はご苦労だった。これで、三人で寿司でも食べて帰りなさい」
風祭は三万円を受け取り、目の前で拡げた。
すぐに、四谷さんの手が伸びて来て一万円札に手を掛け、引き抜いた。
四谷さんは風祭に軽蔑の視線と言葉を投げ掛けた。
「今日は疲れたので、これで失礼します」
四谷さんは撃たれた状況がよほど腹に据えかねたのか、時間のないファッション・ショーのモデルのような早足で、さっさと部屋を出ていった。
覆面をしていた女性が微笑んで、右手で握手を求めるようにし、打って変わった女性らしさで、挨拶してきた。
「私は、柊美咲、ブラジルで生まれ。よろしくやりましょう。お兄さん」
右手を出されたので、握手するために、一旦テーブルの上に二万円を置いた。
柊の手が、握手を返そうとした風祭の手を素早くすり抜け、二万円を鷲掴みにした。
柊は、手品師もびっくりの速度で、平然とポケットに札を押し込んで告げた。
「私は、まず、寿司を含む生もの全般が嫌いなの。次に自分の命惜しさに、仲間を平気で撃つ野郎と一緒に、飯を喰う気もないわ」
風祭は、ちょっと腹が立ったので、手の平を突き出して言い返した。
「でも、一万円は俺のだろう。返せよ」
自業自得といわれればそれまでだが、柊のせいで、四谷さんに嫌われたようなものだ。そんな柊に、タダで一万円くれてやるのは腹立たしい。
柊は白い歯を見せて、悪女のような笑みを浮かべながら、ポケットから一万円を出した。
出した一万円を空中で、鯉幟が舞うように揺らしながら、柊は挑発した。
「私、四谷と賭けたんだよね。四谷は、絶対お前は撃たないって言って、万札を賭けたけど、私は命惜しさにお前が四谷を撃つに賭けたのよ。賭けは私と四谷でしたから、これを返して、四谷から新たに貰ってもいいけど、男として、本当にそれで、いいのかしら?」
グウの音も出ないとは、正にこの状況だ。これでは、ここで、一万円を俺が返せと主張すれば、昔話の欲張り爺さんとて、眉を吊り上げて唾を吐き掛けてくるほどの守銭奴野郎だ。
風祭は、手を引っこめるしかなかった。
柊は白衣の前を開け、銃をベルトに無造作に差し込むと、「じゃあ、お先に」と軽く手を挙げ、所長の部屋を出ていった。
風祭は最終的に、一人夜遅く帰り、借りていたアパートで、コンビニのおにぎりを齧り、カップ面を啜るしかなかった。
たった一晩で、平穏な人生と四谷さんの信頼を失った。代わりに得たものといえば、前と変わらぬ職場で、より危ない勤務条件だ。
風祭はじっと手相を見た。
「俺、恋愛運だけじゃなくて、仕事運もないのかな」
3
実験は二ヶ月で、次の段階に差し掛かった。風祭は四谷さんと一緒に、福島県のとある施設の地下にいた。剥き出しのコンクリの上には、魔女のパン焼き釜のような、例の装置があった。
騙されて四谷さんを撃った晩以来、タイミングが悪く、四谷さんと話す機会は全然なかった。
地下室には二人きりだが、四谷さんは、全く話し掛けてこなかった。風祭はこのチャンスを機に、四谷さんとの関係を回復したいと強く思った。
別に四谷さんと、恋人になりたいわけではない。まあ、成れたら、成れたで嬉しいのだか。ただ、このまま最低野郎だとの汚名だけは返上したかった。
風祭は会話の切っ掛けを掴むべく、話を開始した。
「四谷さん。犬を使った、今日の長距離瞬間移動実験、研究所がある茨城から福島間まで、成功するといいですね。これが成功すれば、四谷さんの名も、歴史に残るかもしれませんね」
四谷さんは、俺を一瞥するのも嫌なのか、装置に向き合ったまま「そうね」とだけ、ぶっきらぼうに返事をした。会話が切れた。
会話の初手は不発だったが、一応の切っ掛けは得た。
あからさまに持ち上げたのが悪かったのかな。素直に謝ったほうがいいのか。でも、謝るにしても、今さらな気がするしなー。
風祭は四谷さんの冷たい返事がなかったかのように、実験の話を続けた。
「実験に使う犬は二十匹とも、処分場から僕が引き取ってきて、面倒を見ていたんですよ。どの犬も健康で素直なやつだから、送手側の所長たちの手を煩わせる事態には、ならないですよ。きっと実験は、スムーズに行きますよ」
四谷さんは、またも素っ気なく返した。
「つまり、犬に問題があったら、貴方の責任なのね」
あ、やっぱり、謝罪から入るのが正解だったのかな。
いやー、でも、俺も一応は、騙された側の人間だし。俺から謝るのも、抵抗あるなー。とりあえず 実験の話題は避けたほうがいいのか。
でも、他に何を聞こう。
風祭が次の言葉を繰り出す前に、四谷さんが、先手を打った。
「何か他に、言いたいことはあるかしら」
完全にビジネスライクな、会話打ち切りモードだった。
何も言わなければ、ゲームセットだ。
追い詰められた風祭は、仕事以外の情報をすぐに聞かねばと思い、思いついた言葉を口に出した。
「あ、そうそう、四谷さんが、柊との間で行った賭けですけど、負け分、僕が払っておきましたから」
四谷さんが、不機嫌プラス怪訝そうな表情で、疑問を投げ掛けた。
「賭け? なんのこと? 知らないわよ」
柊に騙された。俺ってなんて、馬鹿なんだろう。我が身のこととはいえ、うんざりする。
待て、待て、待て、現状では腹を立てるより、まず、四谷さんとの会話を続けなければ。何かすぐに言わないと、勢いが切れる。
「でも、四谷さんて、演技うまいんですね。あんなに見事に泣けるとは、思いもよりませんでした。いや、もう、すっかり騙されましたよ。女優になれますよ」
発言の後で「俺は何を言っているんだ」と思った。謝るどころか、これなら、遠回しに非難しているのも同じだよ。
四谷さんの表情の不機嫌度が増し、突き放すような口調で教えてくれた。
「ああ、あれ。別に、前もってわかっていれば、泣けるわよ。『火垂るの墓』のワンシーンを思い起こせばいいのよ」
どうやら「泣き」についての感性は同じだ。なら、もう、仕事と騙された件については触れないでおいて、趣味の話で、局面を打開しよう。
風祭は共感を滲ませながら、無理に笑顔を作って、話題を膨らませようとした。
「『火垂れの墓』いいですよね。泣けますよね。『星も守る犬』も、いいですよね」
四谷さんは、突き放すように、言葉の矢を放った。
「『星を守る犬』? なに、それ? 知らないわ」
局面打開どころ、また、会話が途切れそうになる。それでも、スタジオジブリ関係で話の糸口を探ろうとしたが、今度は先に、四谷さんが口を開いた。
「気が散るわ、余計なお喋りは、もう止めてくれないかしら」
「あ、はい」あっさりゲームセットだった。
俺が抱く下手な被害者意識が、言葉をおかしくしたのかもしれないな。関係を元に戻したかっただけなんだけどな。
関係を直したいなら、機を見て、何度も話しかけるしかないか。
風祭は四谷さんとの関係修復を一時的に棚上げし、実験の結果に期待する。
今日の実験が上手くいけば、四谷さんの機嫌も上向くだろう。機嫌がよくなったところで、もう一度、関係修復を試みれば、氷解するかもしれない。
4
実験開始時間になった。四谷さんが部屋の隅にある椅子に腰掛け、インカムをつけて、パソコンの画面に向き合った。
前回同様に、瞬間移動に使う装置が七色の光を出した。
光の放出が終り、扉を開けると、犬はいなかった。
四谷さんがすぐに、部屋にあったパソコンを操作しながら、風祭に指示を出した。
「風祭君、ちょっと、装置の接続を確認して」
風祭は部屋の机の上にあった冊子を開いた。装置の部品が絵図面通りに接続されているか、確認する。でも、問題は全然なかった。
風祭が問題ないと告げると、四谷さんは天井を仰ぎ見て、目を瞑り、ぶつぶつと何かを言っていた。
おそらく、インカムからは、研究所側との間で技術的なやり取りが行われているのだろう。
長い沈黙が訪れた。ひょっとして、これは、まずいのでは?
最初から空の装置の扉を開け、発光後に扉を閉めしているだけなので、犬が出て来ないのは、当然といえば、当然の事態だと思う。
もう、状況がここに至っては、常識的な結果が起きたのでは、仕事的にも人間関係的にも困る。かといって、風祭にできる行動は何もない。
犬の管理が悪かったからという可能性はないとは思う。ないとは思うが、もし実験に使う犬の管理が悪かったからとなれば、最悪だ。
犬の管理が問題だったとは、考えたくはない。しかし、目下のところ、連続でババを引いている状況だ。何か悪運を引き寄せたのではと、胸が高鳴った。
風祭は不安を押し隠して待っていた。すると、四谷さんが宣言した。
「実験を続行します。手順どおりに作業を続けて」
扉を閉める。装置が七色の光りを放つ。扉を開ける。犬がいない。再び扉を閉める――という作業を、連続十九回も続けた。だが、見事に、犬は一匹たりとも、出現する事態にはならなかった。
四谷さんが、所長に犬が一匹も出現しない事実を報告するのが、聞こえた。
他人から見れば、全く問題ない事象だが、現段階では非常にまずい。
瞬間移動の詳しい理論には精通していないが、現段階で考えられる原因は三つ。
一つ目の原因=装置の故障。装置の故障なら、問題はない。故障箇所を直せばいい。けれども、四谷さんを傍から見ていれば、装置の故障や不備ではないらしい。
二つ目の原因=長距離ないしは、犬ほどの質量の物体は瞬間移動できない。瞬間移動にはまだ、実用化するには、制限がある。
制限があるなら、これもまあ、問題ない状況だ。改良すればいいだけ。時間が問題を解決してくれるし、規模を縮小して成功させれば、資金もどこからか、やってくる。
三つ目の原因=瞬間移動は端から存在しなかった。これは、頭から追い出したかった。風祭はすでに、一般人と違い、瞬間移動は存在しないと困る側の人間になっている。
「もう、やっぱり、瞬間移動なんて、ないよね」では、すまないほど深く関わっているのだ。
未公開株を売りつけられた老人の気分だ。なので、本当に詐欺とわかるまで、信じていたい。
四谷さんが急に「あっ」と叫ぶと、パソコンの画面を見ながら、キーボードを叩き始めた。
四谷さんが興奮したのか、大きな声で叫んだ。
「いました、所長。二匹、GPSで確認できました。場所は、北海道旭川市とブラジルのサンパウロです。ただ、残り十八匹は、確認できません」
四谷さんのお言葉が本当なら、原因は、二つ目の実用化の問題となる。
でも、風祭の心に、温いコーラをコップに注いだ時に発生する泡のような大量の疑惑が発生した。
疑っちゃいけないと思うのだけれども、瞬間移動が本当に存在するのか、段々怪しくなってきた気がする。
二点間の決められた場所での移動ならまだしも、勝手に、北海道やブラジルに瞬間移動するなんて、ありか? そもそも、本当に犬が移動したのだろうか? 俺、やっぱり騙されているのかな?
四谷さんが呟くのが聞こえた。
「でも、なんで十八匹は消えて、二匹だけが、もう一対の装置がある福島ではなく、なんで、北海道やブラジルに出たのかしら」
四谷さんに話しかけるチャンスが到来。もし、ここで良い言葉が出れば、関係が直るかも。
「あの、すいません、四谷さん。ちなみに、成功したのは、どの犬ですか? 犬の画像とか、見られます?」
四谷さんは、一瞬むっと、実験に口を出す、わからずやを見る目をした。それでも、犬の写真は、見せたくれた。
一頭は№十と表示された白い雑種の犬で、もう一頭は№十八と表示されたチワワだった。
風祭は犬の写真を見て、気が付いた。
「チョモ助とクィーンか。四谷さん、関係あるかどうかわからないんですが。この№十のチョモ助なんですけど、処分場に連れて来られる前、北海道にいたそうですよ。で、№十八のクィーンは確か、ブラジルから連れて来られたとか。犬を貰いに行った先の処分場の人が言っていました。ひょっとして、二匹とも元、飼われていた場所に移動したのでは」
風祭にしては、単なる思い付きで、また、話をする切っ掛けになればと、口にしただけだったが、四谷さんの顔は、難しい問題をする科学者の表情になっていた
5
実験終了後、慌しく装置の撤去が行われ、風祭は研究所に戻って行った。
残念ながら、四谷さんは先に帰ってしまったので、帰りは一人だった。ちょっぴり寂しくもあった。とはいえ、四谷さんの顔を見ていると、どのみち帰りが一緒でも、気安く声は掛けられなかっただろう。
翌日、風祭は所長の部屋に呼ばれた。
所長は風祭が行くと、カーテンを閉めると、前回と同じ位置に座った。
「まず、君の手柄を称えるとしようか。君のいった通り、№十と№十八は元、飼われていた場所に瞬間移動していたよ。成功率一割だが、より大きな生物を、より遠くに移動させる実験は、成功した」
手柄を褒めてもらえるのは嬉しい。でも、今回は前回と違い、実際に何も見ていないので、どんどん現実感がなくなっていく。
それでも、瞬間移動は存在すると思い込まねば生活していけない状況が、理性的に苦しい。
ある意味、今こうして働いている職場は、正気を失っていったほうが、適合していけるカルト集団のような存在にも思えてきた。
風祭は自分に暗示を掛けるように、言い聞かせる。
「違う、違うぞ。そうだ、瞬間移動は存在するんだ。ここで、瞬間移動の否定を叫ぶのは、サンタクロースの存在を声高々に否定する玩具屋や、幽霊を否定するホラー雑誌編集社のようなものだ。信じろ、俺。信じるんだ。信じる心を持つことが仕事だ!」
所長が風祭の心の中を読んだよう、どこか冷めた言葉で発言した。
「君は正直だな。すぐ、顔に出る。でも、どうせなら、コペルニクスやパスツールを思い浮かべたらどうかね」
確かに、地動説も微生物の存在発見の時も、人類の世界観は大きく変わった。
だからといって、瞬間移動も同様だとは、正直なところ、思えなかった。
所長が珍しく、意見を求めてきた。
「まあいい、ところで、君は今回の実験では、何で犬が元の飼い主のいた場所に戻ったと思う?」
「それは、犬が元の飼い主の所に帰りたかったからでしょ」
風祭は知らぬ間に、自身が異常な思考に毒されていると気が付いた。
風祭が言った言葉が意味するのは、瞬間移動は受信側がなくても、対象者は行きたいと思う場所に行ける、という意味だ。実用化するほうにとっては、とても喜ばしい事態だろう。
けれども、より科学から離れ、いよいよ現実感がなくなった。
きっと、隣にニュートンがいたら、リンゴを投げつけられるかもしれない。
「え、あの、ひょっとして、瞬間移動は、ある程度の知能を持った生物の場合、行き先を大まかに制御できるのですか?」
「そういう推論になる。実は、瞬間移動について考察した別のユダヤ人科学者が、そんな論文を本にして発表していた。もっとも、当時は相手にされなかったのか、イスラエルの古本屋で、娯楽本の古書と一緒に売られていたけどね」
瞬間移動だけならSFだが、意志が関係して来るとなると、ファンタジーの領域にも入った気がする。
所長が、いつもと変わらぬ澄ました表情で、次なる質問を発した。
「犬の首輪に仕掛けたGPSに故障がなかったと仮定する。装置により、分子レベルへの還元も起きなかった。では、残りの十八匹は、どこに行ったと思うかね」
「前の飼い主にいい思い出がなかったから、GPSで把握できない、どこか別の場所に行ったとか」
所長がすかさず、畳み掛けるように聞いてきた。
「どこかって、どこへだね?」
「たとえば、異世界とか」
普通に飛び出した言葉だが、風祭自身、気がおかしくなったのかもしれないと感じた。
瞬間移動で、思い描いた異世界に行けるだー。まさしく、ファンタジーの物語そのものだ。
ここは大学時代によく、映画を見たあとに仲間と馬鹿話をしに行った飲み屋ではない。科学者が集う、研究所の所長室だ。
なんのために親に修士課程まで出してもらったのか。科学とは全く関係ない発想だ。
きっと、修士の学位を与えた教授が聞いたら、「君に修士の学位を与えたのは誤りだった。修了証書を返せ」とでも言うだろう。
風祭は恥ずかしくなり、前言を撤回しようとした。
だが、風祭の口先より早く、所長がコメントした。
「エクセレント、上出来だよ、風祭君。そう言ってもらえると、話がしやすい。つまり、君に次にやってもらいたい仕事が、よく飲み込めている」
悪霊の類を信じない風祭だったが、所長が次にやってもらいたい仕事にという言葉に、只ならぬ気配、言ってみれば、邪気のようなものを感じた。
実験動物の飼育ではない、おおよそ、まともではない仕事の依頼がやってくる。
所長は、すぐに指示を出した。
「三日あげよう。三日で、クレジットカード、銀行口座、携帯電話、インターネットの解約をして、引越しの準備をしてくれたまえ。準備ができたら、研究所に来なさい。行き先は、着いてから教えるから。引っ越すことは誰にも内緒だよ。もちろん、親にもだ。なに、心配は一切しなくていい。親御さんには、君の叔父の風祭議員から事情を話してもらうから」
6
風祭は不安な気持ちを引きずりながら、引越しの荷物を纏めた。
荷物を纏めながら、「いっそこのまま本当に逃げ出そうか?」とも、思った。けれども、逃げるまでの決断は、できなかった。
研究所に行くと、携帯電話を持っていないかを入念にチェックされた。チェック後、裏口から出され、目隠しをされて、車に乗せられる。
最後に、ヘッドホンを着けられてからの移動開始だった。
ヘッドホンからからは、ゆったりした、クラシックの音楽が流れていた。
もう、これで、風祭はどこに向っているのか、全然わからなくなった。
風祭は、ぼんやりと、名前の忘れたミステリーのあらすじを思い出した。
ミステリーでこんなストーリー展開が、あった気がするよ。知りすぎた人間を、引越し前日に殺して、犯人が被害者に成りすます。
犯人は殺害した日の翌日に被害者として引越しをして、あたかも被害者が引越して、すぐに殺されるように見せけ、アリバイを作るトリックだったっけ。
所長の性格を知り、叔父の紹介で来た職場だから、正気を保っていられたが、でなければ、ちょっと警察にでも相談したくなるような状況だ。
風祭は不吉な妄想を忘れようと、クラシック音楽に耳を傾けた。
ワンボックスカーの運転手は誰かわからないが、四谷さんではないのは確かだ。四谷さんは、表の仕事を任せられる人間だ。
『裏方の仕事』ではなく。『裏の仕事』を期待される俺とは違う。
時間の感覚はわからないが、車が停まった。目隠しを外されると、真っ先に飛び込んできたのは、柊の顔だった。
柊の顔を見て、直感した。裏の仕事を期待されているのではない。裏の仕事をこれからするのだ、と。
柊に促されて降りると、普通の一軒やより値が張りそうな、四十メートル級のクルーザーが、マリーナに停泊していた。
クルーザーは新品ではないが、それほど古くはない。内部は専門のお掃除業者が入ったのか、ピカピカだった。
柊に「今日からここが、あんたの仕事場だからね」案内されたのは、ベッドと机の他にも、衣類棚がある、きちんとした部屋だった。
でも、空きスペースは、ほとんどなかった。
空きスペースには床から天井まで伸びる金属の支柱で固定された棚が備え付けられていた。
棚は金属製で、縦六列、横四列からなっている。個々のスペースには透明なプラスチック製の扉があり、錠がかかる仕組みになっていた。
一つのスペースには、一つのダンボール箱が入っおり、棚には既に二十二個のダンボールが入っていた。
ダンボールは、風祭が引越しに用意したダンボールではない。中身が気になったが、先にベッドに腰を下ろした柊に呼び止められた。
柊は、一応は聞いておくという態度で確認した。
「そいつを開けるのは、ちょっと後にしてくれるかしら。とりあえず、話を聞いてよね。まず、あんたは、人体実験一号として瞬間移動装置に入る気はあるの?」
自殺志願者でも、所長を崇める狂信者でもない風祭には、瞬間移動装置に入る気があるわけなかった。無事に済む確率は五分五分ですらないのだ。
風祭は部屋にスペースがないが、柊の隣に腰掛けるのが躊躇われたので、机の前にある椅子に座って返答した。
「犬での生還確率一割の装置に入れと言われて、はいやります、っていえるほどの忠誠心もなければ、度胸もないよ」
「よし、じゃあ、ボス、もとい、所長からの指令を伝えるわよ。あんたは今日からしばらくの間、海の上よ」
海上の船という密室も、ミステリーではよくある。とはいえ、二人しかいないのが救いだ。二人だけなら、殺人事件は起きないだろう。
柊がからかうように、聞いてきた。
「どう? こんな私みたいな、綺麗な女とずっと船の上なんて、嬉しいでしょ」
柊は少し品がないところはあるが、確かに美しい部類の女性に入るだろう。とはいえ、ブスは三日も見れば、慣れるが、美人は三日で見飽きるという言葉がある。
それに、性格ブスとずっと一緒に船に閉じ込められるのは、できれば御免願いたい。
風祭は当て付けるように、感情を込めずに言い返した。
「ええ、嬉しいですよ。ああ、僕は、とてもラッキーだ」
柊がすぐに、口を尖らせ、不満を述べる。
「なによ、その言い方。こういうときは、嘘でも、喜びなさいよ。ま、いいわ。最初に忠告しておくけど。私が魅力的なのは仕方ないとして、襲うのだけは、止めてよね。私はあんたの仕事の手伝いをしなければいけない立場だから、あんたがいなくなると、困るのよ」
柊は目で脅すように付け加えた。
「もっとも、海に事故は付き物だし、沖へ出て転落事故が起きれば、死体が上がらないって状況ってのが、よくあるのよ、これが」
風祭は皮肉っぽく言い返した。
「つまり、柊は自殺装置ってことだね。海の上で気の合わない人間と二人っきり、どうしても死にたいって思ったら、襲えばいいのか」
柊がいい加減にしろとばかりに言葉をぶつけてきた。
「あまり喧嘩腰にならないで欲しいわね。私がいったい何をしたっていうの?」
「暗殺者の真似で一度、嘘の賭事でさらに一度、合計二度も騙された」
柊が呆れたように言い放った。
「小さい男だね、あんたも、あんなの、騙したうちに入らないわよ。なんたって、私たちはこれから世間に向けて、大嘘をぶち上げるんだからね」
風祭は、騙され続けてきたせいで勘が鋭くなってきたのか、話が段々と見えてきた。
7
予期しない瞬間移動実験の結果は、実用の有用性と同時に、コントロールができない結果を出した。つまり、まだ完成には時間が掛かる。
時間が掛かる状況は同時に、多額の資金が必要という環境を意味する。
今の世の中、投資家は長期の投資を嫌うし、素早い結果のフィードバックを求める。そこで、風祭の出番になったのだろう。
知能が低い犬だから、行ったきりになる。犬で研究は進まないなら、人間でやればいい。
もちろん、本当に人間でやる実験は、リスクが伴う。本当に人が死ねば、実験は途中で遅延する。
なので、風祭が立候補しない以上、実際に人間で実験ができる試用段階まで来たと嘘をつき、金を集めつつ、時間を稼ぐのだ。
風祭の仕事は隔離された公海上の上で、瞬間移動を成し遂げた人間として嘘の報告書を出す作業をすることだ。
「OK、大体の状況は、把握できてきた。でも、あのダンボールの中身は、なんだ」
柊が悪徳の篭った笑みで答えた。
「いいね。理解の早い人間は大好きよ。でも、その前に一つ聞くけど、あんた、瞬間移動ができた前提で、報告書をどう書くつもり?」
ただ、単に、どこどこへ行って来ましたと、嘘の報告書を書けばいいのではないのか。ただ単に嘘を書くだけでは何か問題があるのかだろうか。
とりあえず、風祭は報告書をつくる前提で、掘り下げて考えてみた。
まず、舞台を日本にするわけにはいかない。
舞台が日本なら、日本のメディアがすぐに裏取りに走り、嘘が露見する可能性が高い。それに、日本なら、誰にも会わなかったというのも不自然な気がする。
「そうだな。とりあえず、簡単にはメディアにばれない場所に行った状況にして、見てきたように嘘をつくかな。アマゾンに行って未開の原住民に会ったとか、砂漠のド真ん中でスフィンクスを見た、とかかな」
柊が「思ったとおり、不安が的中した」とばかりに、げんなりと風祭に指摘した。
「ああ、やっぱ、そうするのね。ボスが心配した通りだったわ。もう、アマゾンは開発が進んでいて、ほとんどが、油椰子の大規模農業なのよ。未開の原住民なんて、いやしないわ。フィンクスにいたっては、目の前にすぐに街が来ていて、少し先にはピザ屋があるのよ」
知らない事実だったが、無理もない。風祭はインドア派で、旅行もあまり好きではない。
「え、そうなの、でも、責められてもね。俺、一番遠くまで行って、沖縄止まりだし。じゃあ、何、あのダンボールの中身は、秘境用の旅行ガイドの山なのか」
「違うわよ。某ライトノベルの新人賞とやらに送られてきた、一次審査落ち作品の山よ。あの山を読みながら、いかにもありそうな異世界を想像して行って帰ってきた、見聞録を書くのよ」
風祭は柊の言葉に、すかさず反対した。
「異世界に行ってきたなんて、絶対に嘘だと思われるだろう。いや、下手したら道端に転がるカラスの死体より相手にされないって」
柊は自信があるように、見解を堂々と述べた。
「馬鹿ね。こういうのは、案外、小さな嘘はバレても、大ききな嘘ほど、バレないものなのよ。犬が消えた実績もあるしね。異世界に行ってきたとなれば、マスコミも検証できないし、入出国のどうのという法律の問題もない。あとは私が、それらしい小物を調達してやればOKなのよ」
所長は頭がおかしいのか、とも思った。が、すぐに思い直した、逆かも知れない。悪事にとことん知恵が回るらしい。
現に、所長が説明しなければ、所長の発案だという証拠が残らない。
都合が全て悪くなれば、実験をした四谷さん、嘘を報告した風祭、嘘を補完するために小物を用意した柊を切れば、保身が可能だ。
風祭は心の中で所長を「あの、悪党め」と呪った。
風祭の心中を知らない柊が、宥めるような声を出す。
「待って。そんな、喧嘩寸前の犬みたいな顔しないでよ。私は異世界に行って帰ってきたと嘘をつくのは、そんなに悪い発想だとは思わないわ。本当に装置が完成してしまえば、巨大な利権が生まれるのよ。そうなれば、マスコミにも金が回る。金が回ればマスコミは真実か嘘かなんて、どうでもよくなるわ」
柊は、まるで柊自身が詐欺の経験者のように発言した。
「これはレアメタル詐欺とは違うのよ。ボスが完成まで掛かっても二年と言うなら、二年騙し通せれば、すべては闇の中」
二年か。微妙な数字だ。
でも、資金集めに時間が掛かると、アメリカや中国の研究に、先を越されるかもしれない。上限、二年は、ちょうどいい設定かもしれない。
「でも、計画が失敗した時の俺は、どうなる。大嘘吐きとして、社会からバッシングされるぞ」
「失敗時には、新たな人間としての戸籍を、用意してくれるそうよ。それに、リスクには見合った報酬を用意するそうよ。ボスは、成功の暁には、大卒公務員の初任給の年収換算で二百年分を用意するって言っていたわ。その金を持って遊んで暮らせばいいのよ」
引き受ければ、確実に犯罪だ。詐欺罪がどれくらいの罪かは知らないが、最悪、所長が資金を引っ張る先と額によっては、共犯者として実刑になる可能性がある。
しかも、社会に出れば、誰もが知る大嘘吐きの犯罪者だ。
断れない地獄への階段を知らず知らずのうちに一段、また一段と降りてきた気がするが、ここから先はもう、本当に犯罪領域だ。
でも、もう、返事は決まっていた。
「よし、やってやる。世界を騙す、大嘘見聞録を、書いてやるよ」




