第八話 魔術師の修行 *注意:修行内容に、主人公の人体破壊など残酷な描写があります。
静まり返る訓練場。
思わず兵士たちも駐隊長も手を止めて、二人の一挙一動を見つめている。
瞬間、彼らの目の前でホフレの姿が揺らいだ。
それと同時に、何かが衝突する低く鈍い音と、枯れ枝が踏み砕かれたような甲高い音が場内に響き渡る。
まずはホフレの陣を見極めようと、身構えたルクレツィア。
その目が何かを捕えるよりも先に、全身に激しい衝撃が訪れた。
「あ、」
骨と筋が軋み、喉の奥、脊髄の辺りから脳髄のくらむような痺れが走る。
次いでこみあげてきた嘔吐感に逆らえず、ルクレツィアは血反吐を吐いた。
その目が捉えることができたのは魔術陣ではなく、自分の右肺に突き刺さった棒状の何か。
――ホフレの、腕だった。
悲鳴を上げようとしても、呼吸ができず、血の気を失った小さな唇がはくはくと開閉する。
皆が瞬きをする間に、ルクレツィアは床に倒れていた。
彼女はまだ7歳。
細く、小さな少女の体に、陣を展開したホフレの拳が叩き込まれた瞬間、それを視認できたのは、駐隊長とホフレの二人だけだった。
べこりと歪な形に凹んだ胸部。
血だまりに倒れこんだ小さな体。
彼女の体を覆うようにホフレが精緻な黒い魔法陣を展開すると、血だまりも凹んだ右肺も、まるで何事もなかったかのように修復された。
急激に治療された体に心がついて行かず、ルクレツィアはよだれと涙と鼻水とあらゆる液体を漏らしながら、全身を痙攣させている。
「傷は治ったはずじゃ。さあ、立ちなされ。訓練はまだ始まったばかりじゃ」
ホフレの言葉に兵士たちが言葉にならないうめき声を上げる。
少女に駆け寄ろうとする駐隊長を押しとどめる様に、ホフレが口を開いた。
「これが、魔術師の体を作るということじゃ。ゆえに、魔術師に女性はおらぬ。訓練は体が完全に出来上がる前、幼少期から始めねばならん。可愛い娘に地獄の苦しみを味あわせるくらいなら、魔力を尊ぶ家系に嫁がせた方がよっぽどよい」
「わかっております。わかっておりますが、しかし、これは……あまりに……」
惨い。
駐隊長以外の兵たちは皆、口出しこそしないが、己の無力を嘆くかのように眉は垂れ下がり、唇を強くかみしめていた。
わかりやすいものは顔を真っ青にして、そむけている。
滲んだ視界の中で、兵士たちの顔を見上げるルクレツィアぎりりと唇をかみしめた。
痛いのは、苦しいのは、わたくしよ……!
なぜ、あなたがたがそのような顔をなさるの――ッ!?
嘘のように傷が癒えた今、彼女の大半を占めているのは、悲しみや恐怖ではない。
大口をたたいておきながら、人前で無様をさらすという屈辱だった。
「口は出さぬという約束じゃぞ。駐隊長殿。わしは魔術師じゃ……初めからできぬとわかっておることはせぬ!」
強い口調で言い切ったホフレの言葉がルクレツィアの心に火をつけた。
憐れんでもらう必要はない! 見下されるなど、冗談ではない!
わたくしは、ルクレツィア=ガブリーニ! 誇り高きガブリーニ公爵家の娘であり、ホフレ先生の教え子である!!
ぶるぶると震える手足を地面に叩きつけるようにして四つん這いになり、無理やり両手を地面から突き放す。
痛みへの恐怖はある。けれど、最も恐ろしいのは、父や師に見限られることだった。
全てを失うことの恐怖を、彼女は一度体感していた。
「せんせいの……おっしゃるとおりですわ。……このていど、どうということはございません」
声はとぎれとぎれで震えている。
膝も笑っていて立つこともままならない。
しかし彼女は笑って見せた。
涙とよだれでぐしゃぐしゃだが、目だけは爛々と輝いている、凄絶な笑みだった。
「よういわれましたな。では訓練を続けますぞい」
ホフレは少しだけ表情を和らげて、そうしてまた表情を引き締めると拳を握った。
ホフレの拳が振るわれるたびに、肉が爆ぜ、骨が砕かれ、破れた血管から血液が溢れる。
痛い、痛くない、痛い、痛くない、痛い、痛くない、痛い、痛くない、痛い、痛くない、いたい、いたくない、いたい、いたくない、いタい、いタくなイ――……。
激痛が走ったかと思えば、あっという間に去っていく。繰り返し、繰り返し。
何度繰り返されただろうか。もしかしたら100に近いかもしれない。
それだけ繰り返されれば、ルクレツィアにもホフレの陣の種類と魔力量を量ることができた。
否。
ルクレツィアの体はホフレの魔力によって壊され、作り替えられているのだ。
壊され、治されるたびに、ルクレツィアの体は魔力の気配に敏感になり、その流れや動きを感じずにはいられない。
肉体への魔力の通りも良くなっているようで、組織再生時の速度も次第に早くなってゆく。
しかし、どれだけ試みてもホフレの拳の速さに、ルクレツィアの陣が追い付かない。
止むことなく、繰り返される痛みと治療。ルクレツィアは気が狂いそうになった。
彼女の陣の展開速度がホフレの拳の速さに追いつく前に、誇りと意地、自らの意志の力だけで支えていた心が壊れてしまう、そんな気さえしていた。
もう何度目かもわからないが、ルクレツィアの顔が殴られ、眼球が破裂し、折れた歯が頬に突き刺さる。
地面に横たわり、治癒の陣に癒されながら彼女はなんとか状況を打開すべく、頭をひねった。
浮かんできた発想はあまりに単純で馬鹿らしいものだったが、今の彼女は藁にもすがる思いで立ち上がる。
「そう。一つでダメならば、たくさん用意すればよいのです」
呟く彼女の頭、左胸、胴体の三か所に陣が展開する。
どこにあたるかわからぬのならば、すべてカバーすればよいとばかりに、陣を展開するルクレツィアにホフレが苦笑する。
「それではこれまでと変わらん。なんのために、制御と速度の訓練をしておるのやら。いくら数を増やそうとも――」
ホフレの姿が消える。
「――無駄じゃッ!」
陣の砕ける音が続けざまに三度、そして四度目の拳が右胸に振るわれようとした時、ルクレツィアが陣を展開する。
そう、どこに拳が来るかわからず、展開が間に合わなければ、間に合うように誘導すればよいのだ。
ホフレの瞳が驚きに見開かれる。
焦り過ぎたせいか、ルクレツィアの込めた魔力は僅かに足りず、彼女は後方の壁へと叩きつけられた。
叩きつけられると同時に治癒の陣を展開し、ルクレツィアのそばによって無事を確認すると、ホフレは安堵の息を吐く。
「発想は素晴らしいが、何とも惜しかったのう。展開速度も徐々に上がっておるし、もう一息、頑張りなされ」
ルクレツィアはホフレの手を借りて、壁にもたれるようにして立ち上がると、小首を傾げた。
「あら、先生。今日の訓練は終了したのではなくて?」
「む?」
「だってわたくし、先生の陣を一つと言わず、三つも防いでみせたでしょう」
ルクレツィアは口端を持ち上げて、少女らしからぬ嫣然とした笑みを浮かべてみせる。
確かにホフレは一つでも陣を相殺してみせれば、訓練終了だといった。
そして、ルクレツィアは三度、相殺してみせた。
彼女の言葉の意味を理解したホフレは豪快に笑う。
「ふぉっふぉっふぉ!! げぶッ! ごほッ! いやいや、よう考えたのは認めるが、あくまでこれは制御と展開速度を上げるための訓練じゃ。知恵比べではないぞ。よって、訓練けいぞ――!?」
訓練継続。その言葉がホフレの口から紡がれようとした時、ルクレツィアの中で何かが弾けた。
ホフレが言い切るより早く、ルクレツィアは湧き上がる衝動のままに素早く身を乗り出し、ホフレの髭をむんずと掴む。
もともとあまり目つきの良くない彼女の目が完全に据わっていた。
「先生。いま……何とおっしゃいました……?」
「だから、訓練けいぞッ!?」
ホフレが言葉を発しようとするたび、ルクレツィアがつかんだ髭をぐいっと引っ張る。
「ええい! なにをする! 離さんか!!」
ホフレが左右に首を振っても、ルクレツィアはつかんだ髭を決して離さなかった。
彼がルクレツィアの小さな頭をぐりぐり押せば、ルクレツィアはさらに力を込めてホフレの髭を毟ろうとする。
その手を離せば世界が終るのだと言わんばかりに、彼女はホフレの髭に食らいついた。
「こ、これが魔術師の訓練と言うやつか……?」
「先ほどとはずいぶん赴きが違うようだが」
ざわめく兵士たち。
「あ、あの……お二人とも……」
駐隊長が割って入ろうとしたが、ホフレの肘鉄を脇に、ルクレツィアの頭突きを局部にくらって、あえなく撃沈した。
ぎゃー! と兵士たちの悲鳴が巻き起こる。
兵士たちの悲鳴も意に介さず、ホフレとルクレツィアは髪を掴み、頬を引っ張り、髭を毟って罵り合う。
「……もう、魔術なんて関係ないという体たらくじゃったがの。その執念深さと根性だけは認めてやろう。しかし、こうなったからには覚悟を決めよ!」
ルクレツィアに毟られた大切な髪の毛が、ひと房、ホフレの掌から儚くも零れ落ちる。
豪快に毟られたせいで、その白い後頭部の一部が遠目もわかるほど剥げてしまっていた。
兵士たちはかつての英雄の惨状を見ていられずそっと、瞳を伏せるのだった。
「望むところですわ!」
ルクレツィアは散っていった己の前髪たちを見下ろしながら、拳を握る。
可愛らしい公爵令嬢のまばらな前髪は、実に不釣り合いで滑稽であった。
しかし、彼女を笑う勇気のあるものはその場にいない。
魔術師二人に喧嘩を売るなど、狂気の沙汰だと、今日この時学んだのだ。
ただただ、二人を刺激しないように息を殺して状況を見守るのみ。
これまで受けてきたどんな訓練よりも緊迫感に満ちていた。
魔術訓練とはいったいなんだったのか。
いつの間にか肉弾戦になっていた二人の訓練は、兵士たちを巻き込んで激化の一歩を辿る。
こうして、ルクレツィアの最初の実践訓練は幕を閉じたのだった。