第七十五話 祖国の異変15
天井に描かれていた魔術陣は消え、学園長室の床からは以前と同じように金色の光があふれ始める。
古い本と、死臭、嗅ぎなれない薬草の匂いが立ち込める室内に残ったのは、ただ二人。
泡のような光が、ゆるゆると天井に上っていく中、二人の女性は見つめ合った。
「ルネッタ?」
名前に反応せず、黙り込んでいるルクレツィアに、女は再度問いかけた。
途端、彼女の中で渦を巻いていた感情が、綺麗に霧散する。
全身の筋肉が引き絞られていたらしく、原因不明の感情から解放されたと同時に、体まで軽くなったように感じた。
先ほどの激しい怒りはいったいなんだったのだろう。
訝しげに眉を寄せながらも、我に返ったルクレツィア。
彼女は鏡の中の自分に問いかけられているような状況に、戸惑いながらも口を開く。
「わたくしは、ルクレツィア。ルネッタではありません」
アルシエロの水精霊も彼女をルネッタと呼んだ。
いったいこれはどういう事だろう。
ルクレツィアは、女性の様子を注意深く伺った。
「何を言うておる。その姿、魂、魔力、気質まで、どこをどう取ってもルネッタじゃろう。……しかし、記憶はなくしておるようじゃの」
ルクレツィアに似てはいるが、やや低めで柔らかい声質の女は、しげしげと彼女を眺める。
無遠慮な視線ではあるが、案じている風でもあった。
彼女の態度には親しみが込められており、より一層ルクレツィアを困惑させる。
「わたくしは、生まれた時からルクレツィアです。あなたこそ、何を言っているのですか」
女性から感じる魔力はわずかだが、底の見えない。
敵か味方か、判断しかねて、ルクレツィアは一歩分距離を取った。
「では。生まれる前は? 覚えておらぬのか?」
「生まれるまえ? わたくしが知るわけないでしょう」
言いながら、ルクレツィアはびくりと肩を揺らした。
知らないはずの記憶。それが、彼女に破滅の未来を教えたのだ。
しかし、名前までは分からない。
自分とうり二つの女性や、水精霊なども記憶になかった。
「あなたは、誰なんですか?」
「わらわはルーナ。信仰と共に、名前も人々の記憶から消え去ったようじゃがの。かつては女神と呼ばれておった」
かつて、月の女神と呼ばれていた者が真名を名乗ると、大気に満ちた魔力がざわめいた。
魔力を帯びて静かに輝く髪が、風もないのにふわりと靡く。
「女神ッ!?」
ルネッタ、女神、水精霊。
薄々は察していたが、ルクレツィアは、驚きに言葉を失った。
つまり、女神を名乗る女性は、彼女のことを女神の第一子――ルネッタだと思い込んでいるらしい。
とんだ人違いである。彼女は神代の時代に去った、神話の人物である。
しかも、気性の荒く、恐ろしい逸話ばかり残っている人物。
彼女にとっては、はなはだ心外であった。
そんなルクレツィアの胸中も知らず、ルーナは言葉を紡ぐ。
「継承すべき記憶を封じたのは、普通の人生を歩むため、と予想は付く。しかし、寂しいものよのう。わらわだけが、お前を知っており、お前の表情はわらわのことなど知らぬと言っておる」
寂しげな紫の瞳。全てを見透かすような、瞳にルクレツィアの背筋が震えた。
「ルネッタとは……神話に出てくる、女神の娘のことですわよね?」
「そう。わらわの可愛い小さな月――おまえはシエルとの間に生まれた最初の子じゃ。愛しておったが、わらわの手が届かない地へと去ってしまった」
「その話は神話の一部として、知ってますが……彼女はどこへ?」
「わらわにもわからぬ。きっと、界を渡ったのだろう。わらわたちの手が届かぬ場所はそのくらいしかない」
「かい、ですか?」
「人には知覚できぬ、異なる世界。幾千、幾万とあるそれを、わらわたちは稀に知覚する」
かつてを思い出すように、ルーナは瞳を伏せた。
「ルネッタ、おまえは特別じゃ。わらわが人として死んだ場合、女神となるべく生まれた子。だからこそ、界を知覚し、渡ることができたのだろう」
「ルネッタは去ったのでしょう? 生まれ変わりだというのなら、なぜわたくしはここにいるのですか?」
もっともな問いかけに、ルーナは確信をもって答える。
「おまえの魂は、この世界と縁が深い。記憶を失い、抵抗をやめた時点で戻されたのだろう。在るべきものを在るべき場所に戻す、単純に歪みが正されただけじゃ」
「そう、ですか。わたくしはまだ、頭が混乱しているようです」
「理解せずとも良い。今のお前には信じがたいことばかりじゃろう。そういえば、ソール――太陽神はどうしておる? おまえが戻って、さぞ喜んだのではないか?」
古き友を思い出し、はっとしたように、ルーナが問う。
しかし、ルクレツィアはその答えを知らない。
知っているのは、カルロから聞いた話だけだ。
「わたくしも他から聞いただけなのですが、太陽神も姿を消したそうです」
想定外の言葉にルーナは目を見開いて、ぽかんと口を開けた。
「あやつはおまえの帰還を待ち続けると思うたがなあ。おまえを追って、界を渡ったじゃろうか。しかし、わらわたちは、この世界から離れられぬはず……」
太陽神と女神の娘の話は、神話の通りであったらしい。
遠い昔の話を、こうして当時の人物から聞くのは、何とも妙な心地であった。
小さいころに異なる記憶から破滅の未来を知らされ、魔術師と成り、国を逃げ出し、そして女神の復活に立ち会う。
まるで夢物語のような人生だと、ルクレツィアは他人事のように振り返る。
「……いいえ。己の魔力と肉体から竜という種族を作り、姿を消したと聞いています」
「ふむ。しかし、世界が滅びておらぬという事は、ソールの力を継承したものが残っているはずじゃ」
太陽神の力の継承者。その言葉に、ルクレツィアはカルロを思い浮かべた。
――彼女の、最愛の夫。
太陽神の肉体から、最後に生まれた竜。彼は神代の時代を越えて、現世に現れた幻想の生き物である。
太陽神の力を継承するというのなら、彼以上の存在はないだろう。
「それは、きっと……」
ためらいながらも、ルクレツィア慎重に言葉を発する。
もしかしたら、それはきっと、彼にとっても大切なことかもしれないから。
「きっと?」
緊張に唇を震わせながら、ルクレツィアは告げる。
「わたくしの、夫です」
「夫ォッ!?」
ルーナはカッと目を開いて身を乗り出すと、ルクレツィアの両肩を掴んだ。
まるで、愛娘の秘密の恋人を知った、父親のようである。
驚愕と僅かな怒り――母親の反応とは思えないそれに、ルクレツィアは思わず体を後ろへ反らした。
「だから、どうして、そんな反応をなさるんです!?」
「わ、悪かった」
ルクレツィアの両肩から手を離すと、ルーナは落ち着かないように視線を彷徨わせる。
「いや、しかしじゃな。水精霊以外に心を開かなかったルネッタが、まさか、ソールの想いを受け入れるとは!? 蘇ってみるものじゃのう」
戸惑いから喜びへ、分かりやすく変化するルーナへ、ルクレツィアは僅かにほほ笑む。
彼女と話していると、どうにも懐かしいような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
強大な力をもちつつも、無邪気で憎めない性格は、カルロに通じるものがある。
神々とは、こういったものなのだろうか。
「彼の名は、カルロ。ソールではありません」
「自由か。良い名だ。その名はきっとソールがつけたのだろう。記憶と立場に縛られず、自由に生きてゆけるようにと。賭けてもいいぞ」
自信たっぷりにふんぞり返るルーナ。
妙に子供じみた彼女の態度に引きずられて、忘れかけていたが、今は過去の話をしている場合ではなかった。
咳払いを一つして、ルクレツィアはルーナの目を見つめる。
「そうですか。しかし、大昔のことはいったん忘れてください。まずは、現世の問題をなんとかしないと」
真剣な瞳で言葉を向けてくるルクレツィアに、ルーナは困ったように頬を撫でた。
「それは、わらわもよう分かっておらぬ。ずっとうたたね状態にあって、先ほど目覚めたばかりじゃ」
「あなたが蘇ったという事は、死者は地に帰ったのでしょうか?」
「いいや。むしろ状況は悪化しておるじゃろうな。人ばかりでなく、もっと多くが戻ってくるぞ」
「人以外もですか!? それは大変なことになります。止める手立てを教えてください!」
「わらわなら狂った秩序を直せるが、人の殻を破り、神へと戻るには魔力足りぬ」
「わたくしの魔力も枯渇寸前です。いったいどうすれば……」
「人間一人の魔力では、どうにもならん。必要なのは信仰だ。わらわへの信仰と願いが、魔力となってこの身に溜まるのだ。そして、殻を破り、神の座へと押し戻される」
「信仰を復活させろというのですか? この異常事態で、無茶をおっしゃいますわね」
「そうか? 人は滅亡の瀬戸際にあるほど、神に頼るぞ。 ……本来ならば、わらわは夫と共に、人として眠りにつくはずであった。女神としての全てを、ルネッタに継承してな」
ルーナの強い紫の瞳がルクレツィアに向けられる。
その瞳は、彼女のことを責めている風でもあった。
あるいは、自分か、他の誰かを責めているのか。
「しかし、おまえは去った。だから、眠りは仮のものとなったのじゃ。おまえなくして、わらわが死ねば、世界が滅ぶ」
「……ルネッタを、恨んでいるのですか?」
意を決してルクレツィアが尋ねると、ルーナは静かに首を振った。
「いいや。夫と共に逝けなかったのは残念じゃが、恨んでなどおらぬよ。こうして再会できて、嬉しく思っておる」
口端を緩く持ち上げて、ルクレツィアを見つめる表情に偽りはないようだった。
慈愛さえ感じさせる視線に、なぜか気恥ずかしい気分になりながら、ルクレツィアは口を開く。
「信仰、とは祈ることで良いのですか?」
「ふむ。それでよい。願いだろうと感謝だろうと構わぬ。ここより海を渡った地からは、いくらか魔力が届いておるが、この調子だと月が一つ流れるまで溜まりきらぬ」
「わかりました。まずは王宮へと向かいましょう」
大勢の願い――信仰を求めるのならば、まずは王たちの協力が要るだろう。
方向性が決まったところで、二人は塔を下りることにした。
塔の入り口、扉の前にはアマーリエが立っていた。
「ルクレツィアさん! ごめんなさい。わたし、助けを呼びに行こうとしたのだけど……」
アマーリエは言い訳しながら、二人を振り返る。
「えっ……ルクレツィアさんが、二人!?」
彼女は驚きのあまり体をのけぞらせた。
その衝撃で、扉がわずかに開き、暗い塔の中に光がさす。
扉の先には、ふらふらと揺らめく死体と、それを押し倒して喰らう、朽ちた魔物の姿があった。
狼によく似たそれは、腸をむき出しにした魔物。
それは、喰らったものを腹から零れさせながらも、喰らうことをやめない。
まるで悪夢のような光景であった。
「まずい状況ですわね。わたくしも魔力がほとんど戻っておりません」
魔力もなく、素手であれとやりあうのは、無謀を通り越して自殺行為というものだろう。
「ちょっと待ってください! 説明は、ないんですか!?」
「察して下さい」
「ええっ!?」
アマーリエが忙しなく、ルクレツィアとルーナを見比べている。
しかし、説明している時間はない。
カルロを呼ぶこともできたが、きっと王都の外もこのような状況だろう。
呼ぶべきか、否か、ルクレツィアが悩んだところで、目の前の魔獣がはじけ飛んだ。
それは、彼女にとってなじみ深い、良く知った魔力である。
「ふむ。闇の魔力とは、珍しいの」
ルーナが呟く間にも、死体や魔物が凄い勢いで、ふき飛んでゆく。
「わわ、凄い! 物凄い力持ちなんですね!」
陣を紡いでから発動までが、早すぎて、とんでもない怪力で敵を圧倒しているように見えた。
拳に描かれた陣による、絶え間ない猛攻で、ひしゃげ、潰れ、動くことすらままならなくなってゆく、魔獣たち。
動きが早すぎて、謎の救い人の姿は視認できない。しかし、ルクレツィアにはそれが誰の仕業であるか、明白であった。




