第六十八話 祖国の異変8
王都第一区画、ガブリーニ公爵邸。
屋敷の門の前では、ガブリーニ公爵とその妻が表に出て、指揮をとっている。
夜が明けなくなってから、人や魔術師の多い王宮に死者が殺到するようになった。
ゆえに、王宮と王宮にほど近いこの屋敷で、襲い来る死者を分散させることにしたのだ。
公爵家の敷地内にも死者が湧き出るため、部屋で休む時以外は、どこにいても変わらない。
自ら前へ出ての指揮は、そう判断してのことであった。
「お嬢さま」
闇の中から浮かび上がる、人物。
公爵家の執事であった。
好々爺然とした笑みを浮かべる老人は、執事服ではなく、独特の黒い装束に身を包んでいる。
「その呼び方も、懐かしいわね。じい」
暗闇に響く声。女性にしては少し低く、かすれた声だった。
余計な飾り気などない、実用重視の闇になじむ装束。
その衣装を纏った女性は、長い黒髪をきっちりとまとめ、両手に片刃の短刀を構えている。
――公爵夫人、クラリッサ。
普段の彼女を知るものが見れば、我が目を疑ったことだろう。
実年齢にそぐわぬほど、若々しく、清楚な雰囲気を持つ公爵夫人、クラリッサ=ガブリーニ。貴婦人の鏡とも言われた、淑やかな公爵夫人の面影はない。
彼女はドレスも装飾品も脱ぎ捨てて、夫の刃となるべく、かつての衣装を身にまとっていた。
二度とみることはないと思っていた、その姿に瞳を細め、老執事は頭を下げる。
「失礼致しました。つい昔の癖が出てしまいましたな。奥方さま、屋敷の護りは十全にございます」
クラリッサは鷹揚に頷いて、酷薄な笑みを浮かべた。
「よろしい。この屋敷はアレッサンドロさまと――わたくしの屋敷です。腐りかけの死体など、屋内に侵入させた日には……わかっておりますね」
見る者の背筋を凍らせるほど、冷たい微笑であったが、彼女を知る者にとっては大変心強い笑み。
老執事は彼女の笑みを見て、一つ頷く。
「重々承知しております。名誉の死を待つばかりの老いぼれを生かし、我が一族を救っていただいたご恩に報いてみせましょう」
まるでこれが最後だと言わんばかりの言葉に、クラリッサが眉を寄せる。
「じい。分かっているでしょう。おまえの死に場所はここではありません。恩を返したいというのなら、まだまだわたくしに尽くしてもらわねば」
冷たく、平坦な口調で言ってのけるクラリッサに、老執事がもっともらしく頷いた。
「ふむ、左様にございましたな。それが主命ならば、否とは言えますまい。では」
「ええ」
短いやり取りが済むと、老執事は再び闇の中へ消える。
一連のやり取りを横で聞いていたアレッサンドロが、己の妻へと視線を向ける。
「クラリッサ、無茶をするな」
困ったような声に、クラリッサは澄ました表情で答えた。
「大事ございません、旦那さま」
アレッサンドロはクラリッサが人を殺すことを嫌がる。
嫌がるというのは正確でないかもしれない。
ただ、血濡れた手を見て、悲しげな眼をするのだ。
その目を見るのが辛くて、その目を向けられるのが恐くて、かつてクラリッサは刃を手放した。
「すまない。お前に二度と刃をもたせないと誓ったのに」
きっとまた、悲しい目をしているのだろう。
あえて前を向いたまま、クラリッサは首を横に振った。
「いいえ。わたくしは、自ら望んで刃を取ったのです。出会った時よりも、この刃は鈍ったかもしれません」
手元の武器を見下ろし、クラリッサはゆるりと瞼をふせる。
「けれど、かつてわたくしはあなたの剣となるべく、誓いをたてました。この苦境にあって、戦うあなたをただ見ているだけなど、耐えられましょうか」
「……そうか。感謝する」
彼女が覚悟していたものよりも、やわらかな響きを含んだ声。
クラリッサはようやくアレッサンドロの顔を見上げた。
その目に映るのは、悲しみではなかった。
ただ真摯で誠実な心根を示すかのような瞳。
クラリッサは、アレッサンドロのその瞳に頬を染め、しばし見惚れた。
「あなたの喜びが、わたくしの喜びです。どうか存分に、使ってくださりませ」
見つめ合い、微笑み合うと公爵夫妻は兵たちと共に、刃をふるった。
公爵が両刃の剣で向かい来る死者を切り払えば、夫人が彼の背後に迫る敵の足を断つ。
両者の戦い方は対照的であったが、呼吸と連携は兵たちも息を飲むほどであった。
ガブリーニ公爵夫人クラリッサの噂話。
国の暗部を担っていた実家を、夫のために滅ぼしたという噂。
根も葉もない与太話とされていたそれは、真実だったのではないか。
そう思わせるほどの、凄まじい活躍ぶりであった。
「わたくしは、夢でも見ているのでしょうか」
両親を助けようと急ぎ公爵家に向かったルクレツィアは、ぽかんと口を開けていた。
「公爵閣下が強いのはまあ、分かります。けれど、夫人、強過ぎじゃあないですか?」
ダニーロの言葉に、ルクレツィアが頷く。
「……ここに、わたくしの助けは、必要ないようです」
「そう、です、ね」
衝撃さめやらず、ぎこちない会話を交わす二人。
意見が一致したところで、彼らは王宮に向かって、踵を返した。
なんだか、見てはいけないものを見てしまった気分であった。
後ろで彼女の名を叫ぶ、アレッサンドロの声が聞こえた気がするが、気のせいだろう。
呼び止めるというよりは、信じられないものを見た時の、驚愕の声のようであった。
単純に、ルクレツィアの帰還に驚いているのか、秘密にしていたクラリッサの姿を見られて驚いているのか。
それは彼女に分からなかったが、ルクレツィアは全て見なかったことにした。
その方が両親にとってもいいだろう。
ルクレツィアの帰還も知らなかったことにすれば、後で他の貴族たちにとやかく言われることもない。
「さて。気は進みませんが、王宮へ向かうとしましょうか」
「姉貴は元第二王女の依頼で王都に行ったと聞いています。リストスキー大将軍によると、王宮で第三王女の護衛をしているはずです」
「元第二王女って、たしか、ベルリンゲル侯爵家に嫁いだ方でしたか。第三王女はその方の、実の妹君と記憶しております」
「はい。第三王女のリゼルさまは側妃である母親の身分が低く、まだ幼い王女……って、そんなことはご存知ですよね?」
「ええ、まあ。部屋の場所はわかりますか?」
「すみません。僕は王宮に入ったことがないので、わかりません」
「そうですか」
王宮は広い。ルクレツィアも全貌を把握していなかった。
むやみやたらと歩き回って、彼女が原因だとの噂を信じている兵士と出会えば、面倒なことになるだろう。
しばし考えて、ルクレツィアは思い出した。
「そういえば、ジャン経由でイレーネに月の護り石の耳飾りを渡しているはずです」
「耳飾り、ですか?」
「わたくしの持つものと対になっているのです。長く身に着けていたので覚えていますし、陣で捜索するのは比較的たやすいかと思います」
言いながら、ルクレツィアは魔力捜索の陣で王宮を覆い、起動させた。
白銀の光が地を走り、王宮をひとなめする。
「ありました。中には人間も死者も入り乱れているようです。転移陣は使えないので、慎重に中へと入りましょう」
「姉貴は無事なんですか!?」
「死んではいないようですが……イレーネの周りに、数人の人間の反応があり、忙しなく動いているようです。恐らく交戦中ですわね、急ぎましょう」
「はい!」
ルクレツィアは城門を固める兵士たちに見つからぬよう、最小限の魔力で陣を紡いだ。
陣を使って足元から突風をふき上げる。
空中に打ち上げられるようにして、城門を飛び越えた二人。
陣の発動時に、白銀の光が散乱したが、交戦中である城門前の兵士たちは気づかなかったようだ。
あちらもあちらで、もっと派手な魔力光が散乱しているためだろう。
危なげなく壁の内側に着地すると、二人は視線を交わした。
「城の兵士や魔術師との戦闘はなるべく避けましょう」
「見つかったらどうするんですか?」
「……魔術で殴り飛ばして気絶させます」
「あっはい」
二人は城壁沿いの、木々が密集している場所に身を隠し、周囲に人影がない事を確認して駆けだした。
慎重にといっても、城内を徘徊する死者と出会えば、交戦は避けられない。
二人は兵士と死体を警戒しながら、長い回廊を走り抜け、階段をいくつも駆け上がった。
合間に、襲い来る死者を撃退してゆく。
足を潰さない限りどこまでも追ってくる死者は、しぶとく、一撃で沈黙させるのも難しい。
素手で襲い来る腐りかけの死体は、城の兵士達よりはずっと弱いだろう。
けれど、恐れも痛覚ももたぬ敵というのは、実に厄介である。
「本当に、キリがないですわね」
「こちらの体力の方が先につきそうです!」
幸いにして、二人が兵士とかち合うことはなかった。
しかし、いったいどこからそんなに湧いてくるのか、死者の猛攻は緩まない。
目的の場所にたどり着くころには、ダニーロの息も上がっていた。
「兵士と一人も出くわさないなんて、おかしくないですか?」
「生きた人間は一階に多かったようでした。おそらく、城内の地面から死者が現れており、人員もそちらに集中しているのでしょう」
「じゃあなんで、姉貴たちは交戦中なんですか!?」
「わかりません。兵の包囲網を抜けた死者かもしれませんね」
ルクレツィアの読みは当たっていたようだ。
絵画や置物、見栄え重視の豪華な燭台などが飾られている区画。
明らかに高貴な身分の者が住まうような区画を抜けると、石床を蹴る靴音と争い合う人の声が聞こえた。
「イレーネ! 邪魔しないでください! 兄上を探しに行かねばなりません!!」
幼い少女特有の甲高い声が、二人の耳を打つ。
おそらく、王族の居室の一つであろう、堅牢な扉は開かれていた。
ちょうど扉の境目あたりで、数人の男女が言い争っているようだった。
辺りを徘徊する死者は、彼らに向かって集まりつつある。
それゆえ、ルクレツィアたちには、この周辺の敵が少なく感じられていたようだ。
「王女さま、アタシらはあなたさまの姉君に依頼されたんです。御身の安全が最優先事項です」
丁寧な言葉づかいではあるが、やや気怠そうな口調の主――イレーネだった。
王族相手に、不本意な仕事であると隠しもしない態度は、ある意味彼女らしい。
イレーネが手にした短刀で、王女に向かってゆるゆると歩み寄る死体の首を刎ねれば、ジャンが手足と正確に切り落とした。
ふわりと灰色の髪が舞い、奥にある彼女の瞳が見開かれる。
「ふん。これは面白くなってきた」
硬質な弧を描く唇から、犬歯をのぞかせて彼女は笑う。
「どちらも、会うのは久方ぶりだ。それで、何をしに来た?」
にやにやと面白がるような表情と声。
四肢を切断されても蠢く、腐った死体を踵でぐりぐりと踏みつけながら、イレーネが問いかけた。




