第六十四話 祖国の異変4
石造りの屋敷の中に入ってまず感じたのは、こもった湿気と、饐えた臭いである。
部屋と言わず廊下まで溢れかえる人々。
彼らは皆一様に、怯えた目で、身を寄せ合っている。
諸悪の根源と噂されているルクレツィアが現れたことで、騒ぐ人々もいた。
彼らは、新たに救出された人々と兵士たちによって宥められている。
「思ったよりも、状況は悪いようですわね。駐隊長、必要なものはありますか?」
「まずは水、それから食料、清潔な布類、薬品、何もかもが足りてないというのが現状です」
駐隊長の言葉を受けて、二人は一度アルシエロに戻り、備蓄していた食料や水、清潔な衣類や布を運び込んだ。
水はアルシエロの水乙女の水だ。
樽に詰められた栓を抜けば、涼やかな水の音がして、よどんだ空気を浄化してくれるようだった。
事実、水乙女の水には、浄化と鎮静の作用がある。飲めば少しは気も休まるだろう。
カルロは屋敷の庭で、土から大鍋を作り、料理を披露していた。
「俺が作るのは嫁さんのためなんだけど、残りはくれてやるよ」
自分の背丈よりも大きな土鍋に腰かけたカルロ。
彼は自らの魔力で水を呼び、鍋を満たした。
そして、運び込んだ食材を魔力で一気に切り刻むと、鍋に放り込んだ。
塩やら香草やらを豪快に放り込んで、鍋と中の食材に魔力で熱を通せば、たちどころに食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。
香草と肉の油、煮崩れた野菜の香りに、見守る兵士たちもごくりとつばをのんだ。
「カルロの作る料理はとっても美味しいから楽しみです」
煮え立つ土鍋の上で楽しそうに料理をするカルロを見上げ、ルクレツィアは微笑んだ。
全部魔力任せなので、一見すると料理しているように見えない。
けれど、ルクレツィアには見慣れた光景だった。
「器がたくさん要るな」
カルロが呟くと土の地面が焔色に輝き、次から次へと素焼きの土器が出来上がる。
できあがったのは、器と、匙が一組ずつ。どれも形がまちまちで、愛嬌がある。
形よく、大きな右手で彼が手招くと、土器は空中に躍り上がった。
「ま、魔術師ってなんでもありなんですねえ……」
ダニーロの言葉に、ルクレツィアは微笑んだ。
「いいえ。彼は特別です」
二人の目の前に浮いた土器を、ルクレツィアが指先で撫でた。土に魔力をそそいで性質を変化させ、練り上げるなど、人間にはできない器用な魔力の使い方である。荒野に城を築くくらいなので、きっと彼にとっては呼吸するくらい自然なことなのだろう。
カルロの左手が翻り、出来上がった肉と野菜の煮込みが宙を流れ、土器へと次々に注がれる。
「よし。完成!」
出来上がった煮込みを二つ取ると、一つを彼女に手渡して、残りは寄ってきた人間たちに配られた。
見慣れぬ技で造られた食べ物を警戒するも、空腹に耐えかねた人々は、徐々にそれに口をつける。
過酷な環境が人々の神経がすり減らし、警戒心と猜疑心を煽っているようだった。
中には苛立ち紛れに地面に叩きつけようとする輩もいたが、ルクレツィアが陣を紡いでそれを阻止する。
「不安なのは、分からなくもないですが。カルロの作った料理を粗末にすることは許しません。……こんなに美味しいのに」
ふわりと風にすくいあげられた器を手に取って、彼女はそれに視線を落した。
肉の油で白濁した、煮込みスープ。
形は残っているものの、口に含んだ瞬間、野菜が溶けて甘みが広がる。
肉は脂身多めであるが、香草が臭みを消して、濃厚であるのに癖がない。
まだ口を付けていない器をダニーロに渡すと、ルクレツィアがはしばし食事に集中した。
「空腹が満たされたあとは、身を清める必要がありますわね。カルロ、湯を沸かしてくれますか?」
「湯なんかどうするんだ?」
「身を清めるための、ふき布を作るのです」
「ふうん?」
「温かな布で体を拭えば、少しは気持ちも和らぐでしょう」
「そんなもんか」
「ええ」
食事が終え、もう一つ鍋を用意してから、カルロが湯を沸かす。
その大鍋に大量の布きれを入れて、魔術でざっと絞ると、出来立ての温かなふき布を兵士たちが配ってゆく。
全てが終わるまでに、随分と時間がかかった。
「月のない暗闇。本当に夜が明けることがないのですね」
ひと心地着いてから、ルクレツィアが自室から外を眺めた。
公爵家の家族の私室は、屋敷の最上階にある。だから常ならば、屋敷一帯を見回せる。
けれど、今、硝子窓の外に広がるのは闇ばかりだ。
「空から月が消え、夜は明けず、死者が蘇る。似たような状況はアウトゥンノで一度、経験済みですが……これだけの規模だと、何処から手を付けてよいのか」
途方に暮れるルクレツィアに、ダニーロも深い溜息を吐いた。
「僕たちにもよく分かっていないんです。数日前、だと思うのですが、急にリストスキー大将軍閣下が、王都に呼び出されました。その三日後に、王都への人の出入りが禁じられたと聞いています」
「数日前? 随分と急に始まったのですね。前触れはなかったのですか?」
「夜が明けなくなってからは日にちの感覚があやふやで。……すいません。予兆のようなものはなかったように思います」
「そうですか」
外を覗けば、手にした蝋燭の明かりに照らされたルクレツィアの顔が、ガラス窓に浮かび上がる。
闇に浮かぶ彼女は、眉を寄せ、厳しい表情をしていた。
「領地に動く死者が現れたのは、いつごろですか?」
「王都への人の出入りが禁じられた、翌日のことだったかと。酒場で酒を飲んだ帰り、土の中から現れた何かに、襲われたとの声が多数寄せられまして。同僚が見回りをしていたら、どう見ても死んでいる人間が動いていると言うので、騒ぎになりました」
当時の騒ぎを思い出すように、ダニーロは身震いした。
彼も兵士だ。魔物ならば何度か見たことはあるし、実際に戦った経験もある。
けれど、何度倒しても向かってくる、腐りかけの動く死体というのは、初めてだった。
急所もなく、何度でも起き上がってくる死体どものなかには、死んだはずの知人の面影を残したものすらいた。
何度思い返しても、おぞましい経験である。
「それで?」
「死体どもは動きこそ鈍いですが、とんでもない馬鹿力で、人間に気づくと執拗に食らいついてきます。あれらは、夜に現れ、夜が明けると去るようでした。ですから、夜は出歩かないようにと、民たちに命じました」
「でも、夜が明けなくなったのですね」
「そうなんです! まさか夜が明けなくなるとは知らず、我々は夜明けを待ち続けました。そして、いっこうに明けない空に痺れを切らして、住人達の救出に向かったというわけです」
「わかりました。一度、王都へ行って、ホフレ先生に話を聞く必要がありそうですわね」
思案気にルクレツィアは長椅子に腰をかけた。
最上階には、彼らとダニーロ以外は居ない。
駐隊長は、下で兵士たちに指示を出している。
屋敷内は人で溢れているのに、ルクレツィアがすんなり自室の入れたのは、最上階付近は立ち入り禁止になっているためだ。
屋敷の最上階には、公爵家の人々の自室や公爵の執務室などがある。
公爵の執務室には国の機密にかかわる書類が保管されているし、それぞれの部屋には、高価な調度品や個人的な品も置いてあった。
公爵一家と使用人たちが王都に居る今、その区域に入れるものはいない。
いくら非常時とはいえ、駐隊長の権限では、部屋に踏み入ることができないからである。
「少し目を離した間に、またたくさんわいて来たな」
外は暗く、ルクレツィアには見えないが、カルロの目にはたくさんの動く死体たちが見えているらしい。
彼の目は見たいものを見ることができる。
壁も距離もお構いなしに、いつでもどこでも、見たいものを見ることができるのだ。
彼女にとっては、羨ましいくらい便利な瞳だった。
「そんなにいるのですか……?」
「うん。全部ふっ飛ばさないと、ここから出れないだろうな」
窓の外の暗闇を見ながらカルロが言った。
「そうですか。早く王都へ向かいたいですが、領地の住人を見捨てるわけにもまいりません。兵たちにもしばし休養が必要でしょうし」
「そうしていただけると我々としても助かります。お嬢さまたちが来るまでは、みな殺気立っていて、ようやく落ち着いたんです」
一刻も早く王都に向かいたかったが、ルクレツィアは逸る心を抑え込むように深呼吸した。
「ん? あれは生きてる人間のようだな。はは、元気だなー。あいつら。すごい勢いでこっちに向かって来るぞ」
「どうしたんですか。カルロ」
「生きている人間の集団が、こっちに向かってきているんだ」
「もしかして、イレーネたちですか?」
「いいや、俺はしらねーな。でも、昔のルクレツィアの文様が入ったハンカチをもっているぞ」
「昔の私の文様?」
「そ。よくハンカチや装飾品についてた文様だ」
「えっ? うそでしょう。そんな、まさか……!?」
その言葉にピンときて、ルクレツィアは脇目も振らず駆けだした。
転移魔術陣を使うことすら忘れて、無我夢中で走る。
人気のない最上階を駆け下りて、ちょうど屋敷の玄関真上の窓から飛び降りた。
銀光が閃き、上向きの強い風が吹く。
危なげなく風にのってふわりと地面に降りると、彼女は鉄門へと一直線に走りこんだ。
「ルクレツィアさま!?」
ただ事ではない様子に、兵たちにも緊張が走る。
鉄の門の向こう側では、何かが激しくぶつかるような、音がした。
「おーい! 開けてくれー!! 付近の化け物どもはあらかた退けた。今のうちに、早く中に入れてくれないか!」
少し低くはあるが、聞き覚えのある声。
ルクレツィアは兵たちに頷いた。
「開門を」
「はっ!」
重々しい音を立てて扉が開くと、そこには屈強な男たちがひしめいていた。
自分より背丈の大きい、筋肉質な男たちを見上げ、少し視線を下げる。
すると、他よりは少し線が細く、色白の美男子が立っていた。
雪国の陽光のように、淡い金髪。
日差しをうけて輝く、結氷湖を思い起こさせる瞳。
柔らく微笑む彼は、ルクレツィアにとって初めての友人であり、戦友であった。
「――ひさしぶりだね、ルーシー」
「リナルド!?」
「うん。インヴェルノは受けた恩義を忘れない。友の苦境とあらば、必ず駆けつける。今度は、ぼくらが君を助ける番だ!」
記憶のそれと変わらぬ、穏やかな表情で彼はそう言った。




