第六十二話 祖国の異変2
アルシエロの宮殿から自宅へ戻ると、二人は急いで支度を始めた。
まずは、アルシエロの気候に適した衣服から、レッチェアーノのものに着替えて手早く手荷物を整える。
先に公爵家領地の様子をこっそり見に行く。
必要であれば領地の兵たちに助力した後、一度こちらに戻って、王都へ向かう算段だ。
保存食などは、数日分あれば問題ないだろう。
「なあ、ルクレツィア」
自ら仕立てた衣服を妻に手渡しながら、カルロが呼びかけた。
「なんですか?」
「いや、なんでもない。止めても無駄だし、俺も好きなようにする」
彼女よりやる気に満ち溢れているようにも見える夫に、ルクレツィアが恐る恐る問いかける。
「……何をするつもりなのでしょうか?」
「愛する嫁を全力で守り抜く、みたいな?」
「なぜ疑問形なのですか。それに、あなたが全力を出すと全て灰になるのでは?」
「うん、まあ、灰どころか塵ひとつ残らねーかもな。って、そうじゃなくて! 俺が一番に思うのはルクレツィアのことなんだ。だから、くれぐれも無茶しないでくれよ」
カルロなりに心配しての言葉だったらしい。
急な出来事のせいで焦燥感に駆られていたルクレツィアの緊張が、少し緩む。
「ルクレツィア?」
返事をしない彼女に、カルロが再度呼びかける。
向けられた眼差しはどこまでも優しい。
ルクレツィアは焦り、高ぶっていた気持ちが、安らいでゆくのを感じた。
まるで暖かい日差しを浴びるように、心地よい気分になる。
彼女は一旦、気持ちを落ち着けようと、目を閉じた。
そうして、深呼吸を繰り返し、ゆるりと微笑む。
「はい。無茶しないように気を付けます」
夢見るように煙る紫の瞳でカルロを見上げると、ルクレツィアは、ほう、と吐息を漏らす。
「強くて優しくて、器が大きくて、明るい太陽のような……あげていけば、きりがありませんわね。とにかく、カルロのような素晴らしい夫に愛されて、わたくしは本当に幸せ者です」
「えっ!? な、なんだよ、急にッ! 一体どうした!? えーっと、うん、まあ、なんだ……もっと言ってくれ!」
「では、遠慮なく。――愛しています。カルロ」
心の内より溢れる感情を丁寧に紡ぎだし、ルクレツィアは目の前に立つ夫を見上げる。
カルロをいちばんに愛している。それは偽りのない真実だ。
けれど、出来ることならば、彼女は自身の愛する全てを護りたかった。
戻ることを恐れて失えば、きっと後悔するから。
もっと早くにレッチェアーノの異変に気付けていたなら、彼女は誰に言われずとも戻ることを決めていただろう。
自身の欲深で身勝手な感情を自覚して、ルクレツィアは少し困ったような笑みを浮かべた。
「……レッチェアーノで何が起こっているのか、今のわたくしにはわかりませんが、放っておけばわたくしの大切な人たちが命を落とすかもしれません。ニコラさまのおっしゃるように、いずれこの、アルシエロにも危険が及ぶ可能性もあるでしょう。最悪の未来を想定すると、地上の生者が喰らいつくされ、死者にとって代わられる可能性もある、とわたくしは考えておりますの」
唐突な愛の告白に戸惑っていたカルロも、ルクレツィアの言葉を受けて、レッチェアーノの状況を覗き見た。
「まあ、人はたくさん死んでいるみたいだけどな。人の数が多すぎて、俺には細かいことはわからねーけど、ルクレツィアの父親たちは、まだ生きてるみたいだぞ」
過去や未来を除いて、カルロの瞳に見えないものはない。
彼の言葉に安堵の息を吐くと、ルクレツィアはすっと頭を下げた。
開け放たれた窓より、通り過ぎる風が、中庭の花の芳しき香りを運ぶ。
癖のない、真っ直ぐな銀髪が陽光に透け、さらりと流れた。
細く真白な首をさらして、彼女は言葉を続ける。
「愛する夫にご迷惑、およびご心配をおかけして心苦しく思いますけれど。どうか、わたくしのために、力を貸してください」
カルロはそんな彼女の前に跪いて、やんわりと顔を上げさせる。
そうして、彼女の澄んだ紫の瞳を愛おしげに見上げると、少しひざを浮かせて目元に口付た。
「さっきはびっくりして言いそびれちゃったけどな。……俺も、愛してる」
低く紡がれる愛の言葉が、ルクレツィアの耳朶と心を震わせる。
ふるり、と全身を揺らす彼女を受け止めて、カルロは目の前の赤色をやんわりと食んだ。
重なる唇に、ルクレツィアは息をつめる。
ふ、と息を零す間に、彼は自身の秘密を打ち明けるように囁いた。
「なあ。ルクレツィア。俺がどんなにおまえを愛しているか、分かってる?」
触れそうで、触れない唇。視線で追って、少し上向けば。
ルクレツィアの視界いっぱいに広がる、黄金色。
それは、出会った当初より、ルクレツィアの魅了してやまない色である。
「カルロ……」
その瞳がこのように自分に向けられる日が来るなど、あの時の彼女は想像だにしていなかった。
今、カルロの金の瞳は彼女だけを写している。
「人間の国なんて、あまり興味はないし。元来、護るより壊す方が得意なんだけど」
彼の瞳に映りこんだルクレツィアが、とろりと甘く揺れる。
「愛しい嫁さんの望みなら――俺は……故郷と言わず、世界だって救って見せるよ」
だから任せとけって。
そういって、彼はいつものように笑った。
「カルロッ!」
ルクレツィアは居てもたってもいられなくなって、カルロに思い切り抱き着いた。
抱き着きやすいように、カルロの体は自然と屈んで、彼女を抱き上げる。
カルロはどこまでも、ルクレツィアに甘い。
優しい、なんて言葉じゃ言い表せないほどに、ひたすらな愛情。
それを真っ直ぐに捧げられて、たくさんの感情が彼女の体の中を巡り、渦巻く。
喉が詰まったように、言葉は出てこなかった。
胸が痛くて、苦しくてたまらない。
けれど、同時に、これ以上ないくらいの幸せだった。
彼女は持て余す感情のままに。カルロの肩に顔をうずめた。
「正直に言いますわね。わたくし、レッチェアーノに戻るのが少し怖いのです。親しい友人が死んでいたら、と考えるだけでも辛いですし、わたくしが此度の呪いをかけたという噂もあるようですから」
珍しく弱音を吐くルクレツィアに、カルロは彼女を抱きしめて問いかけた。
「なら、止めるか?」
「……いいえ、」
「止めても、誰もルクレツィアを責めない。もし、そんなことするやつが居れば、俺が灰にしてやる」
カルロの言葉に励まされて、ルクレツィアはゆっくりと顔を上げた。
したくないことはしなくてもいいのだと。
誰がせめても自分が何とかするから大丈夫だと。
カルロに甘やかされると、なぜだかルクレツィアはやる気がわいてくる気がした。
「いいえ。その必要はありません」
不安なときに気遣われれば、素直に嬉しいが、それに甘えて諦める気分にはなれない。
逆に心が奮い立ち、困難に挑もうという気力が漲るのだ。
何とも可愛げのない妻だとルクレツィアも自覚してはいるが、今回もそうだった。
「本当に?」
それが強がりか本心かを見定めようと、カルロはルクレツィアの瞳を覗き込んだ。
「ええ。――カルロと、一緒ですから」
ルクレツィアはカルロと視線を合わせると、にっこりとほほ笑んだ。
彼とならばきっと大丈夫。
レッチェアーノで何が待っていようと、乗り越えてみせる。
実家と縁を切り、国を出た今となっては彼女を縛るものは何もないのだから。
「愛する夫と一緒だから、わたくしはレッチェアーノへ行くことを決めました」
罪人として追手がかかるというのならば、この手で返り討ちにしてみせよう。
そのくらいの覚悟はある。
世界が再びひっくり返ったあの日を思いだし、彼女はしばし瞳を閉じた。
――背を撫でるカルロの手は、温かく優しい。
彼女より少し高い体温。
陽だまりを思わせる彼の香りに身をゆだねた後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「カルロは温かな陽だまりの香りがします」
カルロからは、貴族男性のような香水の香りはしない。冒険者のように生臭い汗の香りもしない。
明朗で闊達な性格からは、意外なほど、暖かで眠気を誘う香りがする。
――プリマヴェーラの、木漏れ日のような香り。
「そうか? 自分じゃわかんねーし。匂いなあ。匂いと言えば、ルクレツィアは水気を含んだ花の匂いがするな」
夜露に濡れた花の香り。遠くまでは届かないが、すぐそばに寄れば、しっとりと仄かに香るのだ。
至上の美を兼ね備えた彼女の、淑やかな香りがカルロは大好きだった。
「花ですか? たしかに、自分では分からないものですわね」
「だろ?」
こんな至近距離で、お互いの匂いについて話し合うのが少しおかしくて、二人は小さく笑みこぼす。
「さあ。久方ぶりに、故郷へ帰ると致しましょうか」
「おう」
名残惜しげに体を離すと、二人は互いに手を重ね、しっかりとつないだ。
視線で互いの意志を確認すると、陣を紡いで転移を始める。
赤と銀の光が煌めいたのち、二人の姿は、あっという間にアルシエロから消え去った。




