第五十四話 旅立ち
一人の人間と一匹の竜。
寄り添う二つの影は、風を切って悠々と空を飛ぶ。
ルクレツィアにとっては初めての、大空。
上空からの景色には、胸の奥に溜まった鬱屈としたものを、吹き飛ばすほどの解放感があった。
二人の視界を遮るものはなく、冷たく澄んだ風が心地よい。
遥か上空から見下ろす、レッチェアーノは言葉にできないくらいに美しかった。
白亜の城を中心として、放射状に花開き、咲き乱れる麗しの――プリマヴェーラ。
目の覚めるような、紅葉の絨毯が敷き詰められた、黄昏の街――アウトゥンノ。
青い海と白い雲、数えきれないほどの帆船が立ち並ぶ、色鮮やかな極彩色の港――エスターテ。
白銀の山々が連なる、極寒の大地――インヴェルノ。
これまで辿ってきた道をさかのぼるように、彼らは空からレッチェアーノを一望する。
「――ごめんなさい」
インヴェルノを通り過ぎる時、ルクレツィアは小さな声で謝罪した。
初めての冒険で交わした約束はもう、守れそうにない。
脳裏に浮かぶ小さな戦友の姿に、こみ上がる罪悪感。
喉が詰まり、目頭が熱くなるのを感じて、ルクレツィアは目を閉じた。
彼女の様子に何かを察したのか、カルロはインヴェルノをゆるやかに旋回する。
せめて一言、戦友に別れを告げてから去りたかったが、彼女は逃亡者だ。
彼に迷惑をかけることはできない。
もしかしたら、彼は幼少時の他愛ない約束など忘れて、幸せに暮らしているかもしれないのだ。
それならそれでいい。
ただ、もし、彼が助けを必要とするときは、そしてそれを自分が知ることができたのならば。
かならず、助けに戻る。
深く長い深呼吸をして、ルクレツィアはカルロに声をかけた。
「お待たせいたしました」
「いいや。なんか、大事なことだったんだろ? 嫁さんが待てというなら、千年だって万年だって、待つのが竜だぜ」
機嫌よく鼻を鳴らして、彼は歌うように言葉をつづける。
「ルクレツィアは俺が知るどんなものより、強く、気高く、美しい。待つのは苦じゃないけど、いつまでも見ていたくなるから困るんだよなー」
「……ちょっと待ってください。一体どこのどなたが、いつの間に、カルロの妻になったというのかしら?」
「やっぱり、嫌か?」
「嫌とはいいませんけれど、あなたってば、色々段階を飛ばし過ぎです!」
強い口調とは裏腹に、ルクレツィアの顔に浮かぶのは清々しい笑顔。
相変わらずめちゃくちゃな竜に振り回されるのが、楽しくて仕方がないようだ。
カルロの大きな鱗は硬く滑らかだが、魚や蜥蜴のそれと違って、ほんのりと暖かい。
拍動するように、焔色の燐光を放ち、心地よい魔力に包まれているかのようだった。
「うん、涙も美しいけど、やっぱり笑顔が一番だよな! で、だ。俺は恐らくこの世界で最後の竜。つまり、最強だ。止められるのは嫁さんだけ。ルクレツィアの敵ならば、世界だって滅ぼしてみせるけど、どうする?」
「世界なんか滅ぼさなくてけっこうです! そんな事をすれば、わたくしに大事な家族や友人、ホフレ先生まで犠牲になってしまいますのよ!? いえ、まあ、先生は生き残ってそうですけれど」
「あー。はいはい。そういうと思ってた。だから、俺は何もしない。向こうからちょっかい出してこなけりゃな」
「ええ、ぜひそうしてくださいませ。ホフレ先生以外の人類が全滅した世界など、悪夢です。育てる筋肉が無くなって、先生もさぞがっかりなさることでしょう」
「ホフレ……。ああ、あの萎びた割に、元気なじーさんな」
「やはり、会っていたのですか?」
「おう。ルクレツィアを助けるために色々教えて貰ったんだけど、面白いじーさんだったぜ」
「あなたが人間に協力を頼むなんて、意外でした」
「そりゃあ、まあ。人間のことは人間に聞くのが一番だからな」
「ふふ。カルロも出会った時より、随分と変わりましたのね」
「当然だろう。愛する者のためならば、労を惜しまないのが竜なんだ」
「では、わたくしの居ない間にどんなことがあったのか、教えてくださいまし」
久しぶりの会話に、口元を綻ばせるルクレツィア。
カルロもルクレツィア奪還までの話を、彼女の望むままに聞かせてやった。
「そういや、伝言を頼まれたんだった。この手は離れども、心はいつも傍にある、ってさ」
「……お父さまですわね」
「おう。俺が竜って知って、驚いてたぞ」
「当然です。目に前に竜を名乗る人物が現れたら、誰だって驚きますもの」
ルクレツィアはくすりと笑うと目を閉じて、父の姿を思い浮かべた。ひとしきりの会話が済むと、カルロは思い切り高度を上げて飛翔する。
思いもよらない、突風がふわりと彼女の体を浮かした。
「カルロ……!?」
竜の背で長い銀髪を煽られながら、衝撃から我に帰ったルクレツィアが非難するように叫ぶ。
「ははは。驚いた? でも、気持ちいいだろ?」
「まったく、もう! そのまま飛ばされるかと思いましたのよ!?」
「大丈夫だって。ちゃーんと、結界をはってるから。ルクレツィアが飛ばされないよう、そして冷たい風に凍えないように、調節してるんだ」
捕まるところなどない、大きすぎる竜の背。
ちょこんと座っている自分が、飛ばされずに済んでいるのはなぜか。
ルクレツィアは得心がいった。
「風が通るのはなぜですか?」
「無風じゃ、空を飛ぶ楽しさが半減するだろ。そういや、エルモ達は連れて行かないのか?」
「ええ。彼らを逃亡者にするわけにはいきませんから。イレーネには軍に所属する弟もいますもの」
遠ざかるレッチェアーノの景色。
結局、身の潔白を証明できず、逃げ出してしまった事実にルクレツィアの胸が痛んだ。
ソフィアは二人が逃げ出したことも知らず、屋敷で彼女の帰りを待っているだろう。
戻ると言っておきながら、逃げたと知れば、失望するかもしれない。
「あー。なんだ。ほら、人間の物語には良くあるんだろ? ルクレツィアは悪い竜に攫われちゃったお姫さまなんだから、何も考える必要はねえよ」
悲しげに故郷を振り返る彼女に、カルロが声をかける。
彼なりの気遣いだ。
ルクレツィアは意識して、強気な口調で言い返す。
「あら。わたくし、大人しく攫われるほど、か弱くありませんわ」
「まあ、ルクレツィアなら自力で討伐して、勇ましく帰還しそうだよな。……させないねえけど。俺にできることだったら、なんだってする。だから、大人しく囚われていてくれ。頼むから」
うむむ、と唸りながら言葉を紡ぐも、不安になったらしい。カルロは後から後から言葉を継ぎ足してゆく。
そんな彼の言葉にルクレツィアは、つんと顎を逸らした。
「いまさら他者に頼り切って生きるなど、お断りです」
「……うん、まあ。そう言うんじゃないかと思ってた」
「私は攫われたのではなく、自らあなたについて行くことを決めたのです。抵抗するつもりならば、塔で対面した時にしてました。だから、これは私の意志なのです」
穏やかな口調で告げるルクレツィア。
嫌われてもいい。憎まれても仕方がない。愛する家族から引き離した自分を罵倒するかもしれない。
心の奥底で、覚悟をしていたカルロの緊張を、解きほぐすような温かな声だった。
「うん。ありがとう」
「どうしてあなたが礼をいうのですか。おかしなカルロ」
くすくすと笑う彼女を背に乗せて竜はどこまでも飛んでゆく。
「もうすぐ海が見えるぞ」
言ってすぐ、一面に広がる海。
遠くを望めば、空と海の境界線である、水平線が見えた。
「海!? 依頼でエスターテに行ったことはありますが、実は船に乗ったことがありませんの。見渡す限りの海原というのは、初めて目にする光景ですわ」
陸地が見えなくなるところまで飛ぶと、まるでこの世界には海とカルロと自分しかいないような錯覚を覚える。
空と海とカルロしか見えない世界で、聞こえるのは風と波の音だけ。
特別に目を引くものがあるわけではない。
けれど、この光景が、音が、降り注ぐ光が、ルクレツィアの胸を期待に高鳴らせる。
陽光に煌めく海に瞳を輝かせ、ルクレツィアはカルロに言った。
「ねえ、カルロ。お願いがあるのですが」
「おう。なんでも叶えてやる!」
「では遠慮なく」
一息おいて、ルクレツィアが望みを口にする。
「風よけの結界を切って下さいませ」
「ああ……うん? はあッ!?」
「結界を、切って下さい」
「いや、ちょっと待ってくれ。そんなことをしたら、海に落ちるし。海に落ちたら人間は死ぬんじゃねえの!?」
「そのくらいで死ぬような、わたくしではありません。……わたくしも、カルロの感じている風を感じてみたいのです」
自由に空を飛ぶ赤竜と同じように、自分も。
ルクレツィアの言葉に深くため息をつくと、カルロは結界を切った。
途端、風の壁に正面からぶつかって、彼女はきりもみしながら空へと打ち上げられる。
落下するかと思いきや、まさかの上昇。
雲を突き抜け、太陽へ向かう体を遮るものは何もない。
上昇はやがて緩やかになる。
仰向けに手足を広げた彼女に見えるのは、空の青だけ。
「すごい……」
照りつける太陽に目がくらんだその時、内臓がひっくり返るかのような、奇妙な浮遊感が彼女を襲った。
急激に、遠ざかる太陽と青い空。
僅かな抵抗感の後、水気を含んだ雲を抜け、海へ向かって落下する。
「ふふ。ふふふッ、あははははッ!」
くるりと体が宙返る。
遠かった海がどんどん近づいてくるにつれ、こみ上げてくる笑いを、ルクレツィアは堪えることができなかった。
今、彼女はどうしようもなく自由だった。
青く澄んだ海の底から近づく影など、気にもとめないほどに、浮かれている。
「ルーシーッ!!」
くん、と何かに引っ張られるような感触の後、ルクレツィアは再び空へ向かって昇っていく。
カルロがその爪先に、彼女のドレスの裾を引っ掛けて回収したのだ。
当然、中身は丸見えになる。
けれど、空中で自由奔放に振る舞った彼女は、今更そんなことは気にならないようだ。
大人しく、捕獲されて運ばれている。
波しぶきを上げながら、下から彼女を捕食しようとした魚は民家ほどの大きさだった。
つまり、ルクレツィアを簡単に丸呑みできるくらいの、巨大魚である。
たっぷりと魔力を持つ、ルクレツィアを諦められないらしく、まだ、彼らの真下に沿うように影が付いてきている。
カルロは肝が冷える思いがした。
「あーもう! びっくりした!! ルーシー。おまえ、何してんだよ! 危うく喰われるところだったんだぞ!?」
「その名で呼ばれるのは、随分とひさしぶりですわね」
「そっち!?」
「ねえ、カルロ。もう一度あれをやってみたいのですけれど」
「あれって……もしかして、今の自殺行為じゃねえよな?」
「死ぬつもりはありませんのよ。やろうと思えば、転移陣ですぐにカルロの背に戻れますし。次にあの魚が現れたら、自分で撃退してみせます。だから……ねえ、カルロ。もう一度、やらせてくださいませ」
甘えるように囁く声音。
抗いがたいおねだりに、竜はぐっと奥歯を噛みしめた。
「う、ぐ……もう一度だけだからな! その前に、あの魚、こんがり焼いとくか」
カルロが海中の影を睨むと、それを察したように影が去る。
「あっ、逃げられた!? それなら次こそは仕留めてやるッ!」
「ふふふ。ありがとうございます。カルロ」
そうしてルクレツィアは、もう一度空へと打ちあがった。
紺碧の海の上で、賑やかにじゃれ合う赤い巨竜と銀色の光。
陸地が見えるまで、彼らのやり取りは、何度となく繰り返されることとなるのだった。




