第四話 魔術と体術1
――これはまだ、人と神との距離が近しいものであった頃のお話です。
世界には二つの神さまが居ました。
昼を司る太陽の神さまと夜を司る月の女神さまです。
太陽の神さまは人々に命を与え、それを育むために光を生み出しました。
月の女神さまは人々に終わりを与え、安らかな眠りに導くために闇を生み出しました。
やがて、人々は生を喜び、死を厭うようになりました。
月の女神さまは、いつしか死神と呼ばれ、不吉の象徴として扱われるようになったのです。
太陽の神様の周りにはたくさんの人々がいましたが、月の女神さまはいつも一人でした。
孤独な女神さまは、人々に厭われようとも、気にしません。
それが女神さまの役目だからです。
今日もとある人間が終わりを迎える時がやってきました。
女神さまが現れると人々はいつも彼女を追い払おうとあがきます。
しかしその日は違いました。
骨と皮ばかりになった老人のベッドに寄り添った少年は、女神さまの姿を見て涙を流します。
そして、お礼を言ったのです。
病に苦しみ抜いた唯一の家族に労わりの言葉をかけ、安らかな眠りを与えてくれた女神さまは、少年にしてみればとても優しい神さまでした。
死神と恐れられる女神さまにお礼を言ったのは少年が初めてで、少年は彼女にとって不思議な存在でした。
孤独な女神さまと孤独な少年。
いつしか、二人は恋に落ちました。
人に恋した愚かな女神と月を落とした愚かな少年は、世界中の人々から批難を受けました。
けれど太陽の神様だけは二人を祝福し、彼らが住む土地にたくさんの恵みを与えました。
大人になった青年と月の女神さまは恵み豊かな大地に、迫害や戦争によって行き場をなくした人々を受け入れ、彼らが心安らかにあるように尽力しました。
やがてそれは国となり、青年は王様になりました。
それが、レッチェアーノ王国。この国の始まりです。
ゆえに我ら貴族は、建国の祖の意志を継ぎ、国民が謂れなき差別に苦しむ事が無いよう、心安らかに仕事に従事できるよう、努めねばなりません。
与えられた生を終える、その時まで。
表紙はひび割れてほつれかけ、ページの隅は所々かけている古い革張りの本。
手荒く扱えばあっという間に塵とかしそうなそれを、少女はそっと閉じた。
「おや、随分と珍しい本が混じっておりましたなあ」
少女――ルクレツィアが机に置いた本を両手で取り上げると、ホフレはその背表紙を懐かしげに指でなぞった。
「この本は元々、古い友人の娘さんのものでしてな。今では廃れてしまった月の女神への信仰と、この国の始まりを説いた貴重な絵本じゃ。娘さんが亡くなった後に、本ばかり手元に置いておくのも辛かったらしくての。一緒に埋葬しようとしたんじゃが、これが最後の一冊になるかもしれない貴重な本じゃ。ゆえに、わしが預かることになった」
「そうでしたの。……とても、素敵なお話でしたわ」
「そうかそうか。本とは読まれてこそ真価を発揮するものですしのう。こうして紛れ込んだのはたまにはこうして外に出してやれ、と言うことかもしれませんわい」
などと言うやり取りを交わしながら、午前中はこれまで通り、淑女教育や学術に励んだ。
そうして、午後から魔術と体術の訓練を王都公爵家屋敷の裏庭で行うこととなった。
庭とはいっても開けた空き地に木々が植わっている程度で、屋敷内では珍しく閑散とした場所である。
兄たちが軍に所属する前、剣術や体術などの訓練の場として使っていたらしい。
今でも兄たちが屋敷に戻ったときは使用しているらしいが、この時期は遠征訓練に出ているらしく、屋敷にはいなかった。
午前の授業を精力的にこなして、ルクレツィアは地に足がつかぬといった様子で侍女を急かす。
そうして、着飾ったドレス姿から、簡素なシャツにズボンと言った動きやすい服装への着替えを済ませるのだった。
裏庭に現れた彼女は期待に目を輝かせて、ホフレを見やる。
ホフレはフリルのついた上品なシャツに、たっぷりとした下ばきを履いていて、常と変らず優雅な風情であった。
「ホフレ先生はいつもと変わりませんのね」
ルクレツィアの声色から伝わった不満に、ホフレは特徴的な笑い声をあげた後、張り出たお腹をさする。
「いやなに、わしは戦場でもこの出で立ちじゃて。お嬢さまの訓練を侮っておるわけではありませんぞ」
「あら。先生、戦場に出たことがありますの?」
「ふむ。昔の話じゃがな。お嬢さまのお父上と共に、何度か戦場を駆けたこともありますぞい」
「お父さまが?」
「そうじゃ。当時わしは軍の一部隊の隊長していてな。お嬢さまの父君はわしの部下じゃった。とても優秀じゃったが、己の力で何でも成し遂げようとするきらいがあっての。それでいて、本当に成し遂げてしまうのもだから、ほんに扱いの難しい部下でなぁ」
「まぁ、お父さまらしいですわね」
「どうにも危なっかしくての。一度だけ、説教したことがあるんじゃ」
「お父さまに説教を!? ホフレ先生って本当に凄い方でしたのね」
「まぁわしもまだまだ未熟者だったということじゃわのう。伯爵家の末弟が王兄叱りつけるなんぞ、本来はあってはならんこと。しかし、それから少しばかりの変化もありましてな。今ではこうして大事なお嬢さまの教育係に任命されたというわけじゃ」
「お父さまとホフレ先生は戦友ですのね。戦なんて無い方が良いですけれど、それでも、心を許せる方と巡り合えるのはとても羨ましいですわ」
「ふぉっふぉっふぉ。心配せずとも、お嬢さまもいつか巡りあえますわい。まずは己の身を守れるように力を付けませんとな」
話はこれで終わりとばかりに一つ頷いて、ホフレはルクレツィアに体の力を抜いて楽にするように言った。
「まずはお嬢さまの魔力を確認しようかの。両の肩に手を触れてもよいかな?」
「ええ」
ホフレがルクレツィアの両肩に触れると、触れた場所から全身が燃え上がる様に熱くなった。
不快な暑さではないが、ぐるぐると酩酊するような強い感覚に、彼女は立っているのもやっとといった様子である。
「これは……凄い魔力じゃ。さすがはアレクの娘。男じゃったらわしの後を継ぐ逸材となったろうに」
「せんせい?」
「ああ、すまなんだ。今からお嬢さまの魔力を使って、魔術を発動するから、その感覚をよく覚えておいてくだされ」
ホフレの言葉に頷くと、喉から熱の塊が吐き出されるような感覚がして、ルクレツィアは全身を震わせる。
ルクレツィアの口から吐き出された銀色の光は、するりと地に落ち、草花が絡み合うように美しい模様の陣を描いた。
綺麗な円を描いた陣が完成すると、赤い光と共に火柱が上がる。
火柱はしばらく燃え盛っていたがやがて収束して、後には何も残らなかった。
炎が消えてなくなると同時に、ルクレツィアの全身から力が抜けて、膝がかくんとおれる。
ホフレに支えてもらいながら、ルクレツィアはゆっくりと地面に座り込んだ。
これまで感じたことがない強い虚脱感にしばらく立てそうにない。
「これが魔術を使用するときの感覚と言うものじゃ。使った後の脱力感は訓練を行えばある程度慣れてくるが、使いすぎると昏倒することもあるから、努々気を付けられよ」
呆然と座り込むルクレツィアの耳には、ホフレの声が遠く聞こえる。
結局その日は、それ以上の訓練はできず、休むこととなった。
それから、淑女教育と読書、体力づくりの走り込みの最後に魔術の訓練を行うのが日常となった。
ようやく魔術を使用した後の脱力感に慣れてきたころ、ホフレはルクレツィアに一通りの魔術陣の組み方を教えてくれた。
「ふむ。お嬢さまの魔力は、大気中に満ちる自然の魔力との親和性が良い。転移や結界展開と言った、空間創造の魔術陣も向いてそうじゃ」
「先生。しんわせいってなんですの?」
「魔力の親和性とはいわゆる相性の様なものじゃ。空間創造の魔術陣や大規模な魔術陣など、術者の魔力だけでは発動が難しい場合は、大気中の魔力も陣に引き込んで発動させる手法を使うんですがの。魔力には相性があるようで、大気中の魔力と術者の魔力がうまく溶け合わなければ、陣は発動しないのじゃ。逆を言うと相性さえよければ、どんどん大気中の魔力を取り込むことができ、少ない魔力で大規模な陣を発動させることができることもある」
「ふうん。じゃあ、わたくしは少ない魔力で強い陣を使うことができますのね! これって凄いことなのでしょう?」
喜ぶルクレツィアにホフレは長いひげを撫でながら、悩ましげな声で応じた。
「自然の魔力を取り込むのは少しばかり時間がかかるゆえ、簡単な陣でしたら己の魔力で補った方が速いんじゃがの。もっとも、お嬢さまは肝心な陣の展開もまだまだ発動は遅いし、制御も今一つですがな。まぁそれはこれからの訓練でどうとでもなるわい。しかしながら、これ以上の訓練はこの屋敷ではちと厳しいの」
ホフレはしばし考えて、とある提案を行った。