第四十一話 アルシエロ2
手足に飾られた黄金の腕輪。
腕輪には薄い金の板がいくつも重ねられており、手足がしなやかに動くたびに涼しげな音を奏でた。
素肌が透けて見えるほど薄い衣まとった娘たちが、妖艶な笑みとともに舞い踊る。
彼女たちを彩るのは、自身の奏でる金属が重なり合う音と豊かな弦楽器の音のみ。
いくつもの魔道灯に照らされて、ひらりひらりと薄衣の中を泳ぐように舞う踊り子を囲みながら、一行は果実酒を煽る。
「アルシエロでは、月が見えないというのは本当でしたのね」
生地もしっかりとしていて、素肌を見せることを良しとしないレッチェアーノの衣服は、この地の気候に向かない。
ルクレツィアも目の前の娘たちほどではないが、青い薄衣を幾重にも重ねた通気性の良い衣装に着替え、酒宴に参加していた。
彼女の銀髪から零れ落ちる燐光が、薄衣に舞い降りて、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「そうだねえ、女神に見放された、世界の終りにある土地だからね」
隣に座るニコラが笑みを含んだ声音で、小さく相槌を打つ。
「そうしていると、本当に女神のようだ。月の女神の偶像はなぜか、世界中のどこを探しても残っていない。けれど、アルシエロには古い文書が残っているから、なんとなくその姿を想像できるんだ」
「銀の髪に、紫色の瞳の女性、ですわよね。レッチェアーノでは既に信仰が廃れていますが、有名な女神ですし、わたくしもそのくらいならば存じております。仰るように、神をまつる神殿どころか、偶像の一つもないのは不思議な気がしますね」
「そ。偶像については僕にも分からない。けれど、この国にとって彼の神は、魔力を封じて繁栄を奪った恐ろしき神であり、民の願いに応じて水乙女を与えた慈悲深き神だ。矛盾してるよね」
皮肉気な笑みと共に、すっと瞳を細めて遠くを見るような仕草をするニコラ。
「ニコラさま?」
「うん? いや、知人が言うには、この世界のどこかに女神の墓所があるらしいんだけどねえ。いったいどこにあるのかと思って」
「唐突ですね」
「その男が言うには、女神に許してもらったら、アルシエロにも太古の魔力や自然が帰ってくるらしい」
「……そうなんですか?」
「さて……僕にはわからない。神話を追いかけるより、することあるしね」
言って、酒杯に口を付ければ、ニコラの薄い唇が水気を含んで潤う。
唇を伝う酒を舌先で舐めるニコラの仕草に、ルクレツィアが見惚れていると、横合いからぬっと赤い果実が出てきた。
綺麗に向かれたそれは、瑞々しく、甘い果実の芳香を漂わせている。
「ルーシー、食べないのか?」
手の持ち主はもちろん、カルロ。
「食べます」
昼間に食べた果実の甘さを思い出して、ルクレツィアは即答した。
あれだけお腹いっぱい食べたのに、まだ入るとは。自分でも驚いたが、カルロが差し出す果実は、それほどまでに魅力的に見えたのだ。
「あら、素敵な御方。ご自身はお召し上がりにならないの? よろしかったらわたくしがむきましょう」
踊り子たちの中から、薄紅色の薄衣をまとった妖艶な美女が、カルロの前にひらりと腰を下ろす。
さながら、宙を舞っていた蝶が花に誘われて羽を休めるかのような、優美な足取り。
よくよく見れば、それは昼間に宮殿を案内してくれた女性であった。
「いや。いらない」
妙にきっぱりとした口調で断るカルロに踊り子が、眉尻を落す。
「つれない方……わたくしでは、ご不満でしょうか」
潤んだ瞳と震える唇、自身の魅力を知った上で、相手の心情に訴えかける美女。
これには、カルロもさぞ、心を揺らすことだろう。
親しい知人のやに下がった姿など見たくはない。けれど、見ずにはいられない。
恐る恐るルクレツィアが、隣のカルロを伺うと、彼と目があった。
「なんだ。ルーシー、足りなかったのか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
断りつつも受け取った果実を食む彼女を満足げに見て、カルロは美女へと視線を移す。
「俺たちには求愛行為に当たるから、受け取れない。それだけだ」
「え? では、お二人はその、恋人同士……?」
「どうしてそうなる?」
訝しげに片眉を上げるカルロに美女は小首を傾げた。
「だって、あなたは彼女に求愛しているのでしょう?」
そう、女性に言われて、カルロはまばたきを数回繰り返した後、考え込むように口を閉ざした。
「――メルファ」
唐突にニコラがの声が宴会場に響く。
決して大きな声ではないが、低く、冷たいそれは、美女の体を硬直させた。
「わきまえろ。ルーシーには婚約者がいる。それは、彼ではない」
信じられないものを見るように、凍りつき、震える美女に目もくれず、ニコラはルクレツィアに謝罪した。
「すまない。あれは、水乙女として甘やかされて育ってきたゆえ」
ちらりとニコラに視線を向けられて、メルファと呼ばれた美女が跪き、首を垂れる。
「どうか、お許しを」
メルファの豊かな黒髪が背から肩へと波打ちながら、流れた。
伏せられた瞼の落された影すら、哀れを誘う姿。
「それを決めるのはわたしではない」
素っ気なく言い放つニコラの言葉に、メルファの肩がびくりと震えた。
「婚約者ってどういう意味なんだ? あと、水乙女というのは?」
一気に冷えた酒宴の空気を読まずに、カルロが質問する。
「婚約者というのは、将来結婚することを約束した相手のことだね」
ニコラは気にした風もなく、口元に緩い笑みを湛えて答えた。
彼がゆるりとクッションにもたれると、奥深い森を連想させる、穏やかで仄かな甘みを含んだ香りが漂う。
「結婚って?」
結婚を知らないとは、一体どういう環境で育ったのか。
ニコラは少し訝しげに眉を上げたが、カルロの表情をみて、一つ息をつく。
カルロが本当に知らないことを、表情から察したらしい。
「共に生き、子を作り、子孫を継いでゆくための相手のことだ」
「えっ、じゃあ、ルーシーも?」
「あ。はい。わたくしにも、結婚を約束した相手がいます」
思わぬところで出てきた自分の名に、目を見開きながらもルクレツィアは頷いた。
「……そいつのことが好きなのか?」
それは彼女には難しい質問だった。
紳士的な婚約者に好意はある。けれど、それを愛とは言えない。
貴族社会の婚姻は、同じ人間ですら理解できないものが多いのに、カルロにどう説明すればよいのか。
ルクレツィアは考えながら、ゆっくと言葉を紡いだ。
「好きかどうかでは、ないのです。わたくし達の結婚は生まれた時から、決められた約束ですから」
彼女の言葉を咀嚼するように黙した後、静かに瞳を閉じて頷く。
「――そうか。結婚したら、ルーシーは今と何か変わる?」
「ええ。今のように冒険に出ることはできませんし、たとえ仲間であっても、異性と二人きりで会うのは難しくなるでしょう」
「それが人間たちの決まりか……」
カルロにしては珍しくしんみりと呟いて、それを振り払うかのように明るい口調に切り替えた。
「ルーシーが結婚したら、俺、どうしようかなー。世界の美味しいものを探して、旅に出るのもいいかも」
旅に出る。
カルロの言葉にルクレツィアは動揺した。
いつの間にか、カルロが隣にいるのが自然だと感じていた自分がいる。
自分を置いて、遠い空のかなたへ飛び去ってしまうカルロを想像すると、ルクレツィアの胸がつきりと痛んだ。
「もう食べないのか?」
「そういうわけではございません。……わたくしはいつの間にか、カルロと共に旅に出るのを当たり前のように思っていたようです。そのことに、少々驚いただけですの」
「――ああ。やはり」
苦く笑うルクレツィアの言葉を聞いて、カルロはゆるく瞳を伏せる。
口元には笑みを刻み、それでいて何かを決意したような、そんな表情だった。
黙り込む二人にニコラが酒を勧める。
「旅に出るとしても、拠点はいるだろう。ならば、我が国にするがよい。土地はいくらでもある。好きな荒野を選ぶといい」
「荒野か。静かそうで良いな。で、水乙女ってのは何のことだ?」
「清らかな水を呼ぶ乙女たちのことだよ。彼女たちが呼んだ水は、腐ることなく、どれほど時を経ようと澄み切っている。これに関しては、見てもらった方が早いだろう」
カルロの返事に気を良くしたニコラが軽く手を叩くと、中央がせり上がった大きな器が運ばれてくる。
巨大な貝殻のようにも見えるその器は、大人が三人ほど入れそうな大きさである。
その中央の台座にメルファが腰を掛け、口元で両手を組んだ。
彼女にとっては名誉挽回の大事な機会である。
ニコラの視線に一つ頷くと、メルファは緊張した面持ちで小さく息をつく。
ぽってりと赤い唇が薄く開き、そこから流れ出るのは、人には認識できない音の集合体。
心の澱を洗い流すかのように清涼で、酒に酔った頭も覚醒するほど鮮烈な旋律だった。
ほとんど魔力を感じない空間に、どこからか、魔力の波が寄ってくる。
それらの魔力は淡い水色の燐光を放ちながら、メルファの音に惹かれるように、彼女を取り囲んで渦巻く。
やがて、それは水となり、砂っぽく乾いた空気を洗い流す。
ぱしゃん。
水の弾ける音がして、器に大量の水が溢れた。
澄み渡った無垢なる水。
僅かに清らかな魔力を漂わせるそれを、侍従が杯にすくって三人の前に持ってきた。
「飲んでみると良い。レッチェアーノの水は風味豊かで美味しかったが、水乙女の水も柔らかく、清々しい」
ニコラはそう言って一口飲むと、二人を促した。
酒宴の参加者全員が、杯を手にして、水を飲んでいる姿を横目に口をつける。
一口含んで、口内にしみ渡るのを感じた時に初めて、自分の喉が渇いていたことを知るほどの清涼感。
喉を流れ落ちてゆく液体が、知らぬうちに体にたまった疲れを癒してくれるかのようだった。
「水と魔力がほとんどないこの地において、彼女たち……水乙女は、重要な存在でね。水乙女かどうかは、血筋に寄らず、その能力を発現するまで分からない。ゆえに、発現次第、国を挙げて庇護する対象となっている」
ニコラの言葉を受けて、メルファが台座の上で誇らしげに胸を張る。
「だからといって、他国からの客人に無礼をしてよいわけではない」
張った胸をみるみる縮ませて俯くメルファ。まるで大きな子供のようである。彼女の仕草を見ていると怒る気にはなれない。
ルクレツィアは小さく笑って、気にしていない事をニコラに伝えた。
「いえ。悪気はなかったようですし、わたくしは気にしておりません」
「そうか。ならよい」
非公式の訪問とはいえ、ルクレツィアはレッチェアーノの王家の血に連なるものだ。
知っていて、ただの冒険者として扱うわけにもいかない。
さりとて、他国の王族にするように、丁重に扱い過ぎれば怪しまれる。
結果、過分な心遣いを強いることになったニコラに、ルクレツィアは申し訳ない気持ちになった。
「お心遣い、感謝いたします」
「なに。我らの鉱脈を救うために訪れた大事な国賓だ。困りごとがあれば、遠慮なく申すがよい」
朗々たる声で言い、ニコラは杯を掲げた。
「勇敢なる冒険者たちに」
彼の言葉に従って、皆杯を掲げ、酒宴の賑やかさが徐々に戻ってくる。
メルファは台座から軽やかに飛び降りると、名残惜しげな表情で頭を垂れて、酒宴から退場した。
それから異国の酒と食事、踊りを楽しんだ一行は、明日に響かない程度で宴を辞することにした。
とびぬけて魔力の強いカルロとルクレツィアは、誘拐や襲撃を防ぐために、特別警備が厳しい居室をあてられている。
それゆえ、二人は早々にほろ酔い気味の三人と別れて、長い廊下を歩いていた。
「なあ、ルーシー」
ふと、カルロが足を止める。
暗闇の中で、カルロの髪がその意志を示すかのように赤く、燐光を放っていた。
「やっぱり、俺は納得できない」
いつになく、真剣な表情に、ルクレツィアの肩には力が入る。
「……なんのことですか」
「俺は、これからもルーシーと旅に出たいし、共に戦いたい! なぜ、好きでもない相手とツガイになる? 俺には、人間のことが、分からない」
自身の感情を真っ直ぐに伝えてくるカルロ。
彼の言うように、信頼できる仲間たちと……そして、カルロと一緒に歩んでゆくことができたら、どんなに素敵なことだろう。
けれど、ルクレツィアには貴族としての義務がある。
いつか解消される婚約と彼女は思い続けていたが、ここまで来たら実際に婚姻を結ぶ可能性が高い。
相手は王太子だ。彼によほどの落ち度がない限り、婚約を解消することは難しかった。
「カルロ……」
婚約者であるジュリオとは、互いの誕生日や年に数回行われる茶会で、何度か話した程度ではある。
しかし、彼はいつも紳士的な態度でルクレツィアに接してくれた。
ルクレツィア側から婚約解消を申し出たら、彼の評判にも傷がつくだろう。
もし、カルロの手を取るのならば、彼女を支え、信じてくれた多くの人々を裏切らなければならない。
ルクレツィアには、ただの"公爵令嬢"の地位と権力への、未練などはなかった。
彼女はそれよりもずっと素晴らしいものを、すでに得ている。
しかし、家族を――父親を、裏切って逃げ出すなどということは、公爵令嬢ルクレツィア=ガブリーニとしての彼女には、できなかった。
「それは、決められたことだからです」
大胆不敵で自由な冒険者、ルーシー。
誇り高い王兄の娘であるルクレツィア=ガブリーニ。
叶うなら、このまま、両方とも失いたくない。
「お前はそれでいいのか? 俺はちっとも良くないけどな! お前の行く道を邪魔するものが居れば、俺が焼き払ってやると言っているのに、何をそんなにためらうんだ」
ルクレツィアの中の願望を暴き出すように、カルロは言葉を紡ぎ続ける。
彼の言うとおりだ。自分は、令嬢よりも冒険者として生きてゆく方に魅力を感じていた。
しかし、彼女がこうして何不自由なく冒険者として旅ができるのは、多くの人の支援あってこそ。
それを彼女は痛いほどに理解していた。
「人はそう単純ではありません。わたくしには、支えてくれた大事な人達がいる。なにより、父を……家族を捨ててまであなたと一緒にいく事なんてできません!」
じわりと涙を浮かべ、沈痛な面持ちで俯くルクレツィア。
望みは決まっているはずなのに、何が彼女をそれほど苦しめるのか。
ならば、彼女の憂いを自分が振り払おう。
無意識に、カルロの口から言葉がついて出てきた。
「『家族』が、お前の邪魔をするのか?」
するりと紡がれる、平坦な声。
カルロは本気だ。
ルクレツィアの手が震え、背に冷たい汗が流れる。
「そうではないのです! わたくしの家族を害するというのなら、いくらあなたといえど、容赦はいたしませんわよ!」
肩で息をしながら、必死で威嚇する彼女に青年は困惑した。
竜は元来、自由で孤高の生き物だ。
その愛はツガイのみに向けられ、他のなにものにもとらわれず、自身の望むことを望むだけする。
自身とツガイの邪魔するものがあれば、たとえ仲間であろうと、容赦なく焼き払う。
人間であるルクレツィアにそれができないというのなら、代わりにカルロが滅ぼしてやろうというのに、なぜそのように怒るのか。
全く理解できなかった。
「……何をそんなに怒っているんだ?」
先ほど彼女を戦慄させた物騒な言葉なんて、彼にとってはなんでもない事のよう。
きょとんとした表情で、驚くカルロへ感情を叩きつけるように、ルクレツィアは言葉を吐き出した。
「どうしてわかってくれないのですか! 人間には、自身の望み以上に、大切なものだってあるのです!!」
悲痛な叫びだった。感情が嵐のように荒れ狂って制御できない。
カルロはルクレツィアのことを彼なりに、大事にしてくれている。
けれど、彼にとってそれ以外は些末なことらしい。
人間が大事にしているもののことを、竜である彼に、理解しろということの方が無理なのかもしれない。
彼女はぎゅっと唇をかみしめる。そうして、瞳から零れ落ちそうになる涙を堪えながら、踵を返した。
「――ルクレツィア」
初めて呼ばれた本名。
いかないでくれ、と、乞うような響きを含ませた声が、夜のしじまを震わせた。
声に応じる者はなく、それはやがて闇に溶けてゆく。
ただ、こつこつと、床を叩くルクレツィアの足音だけが、残された。
去りゆく小さな背中。呼ばれた真名に彼女が応じることは、ついぞなかった。




